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第3話 偽りのタイムカード
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ブラック企業で働き始めて、まだ数日しか経っていなかった。
数日しか経っていないのに、俺の中ではもう一週間も二週間も働いたような疲労感があった。朝起きて会社へ向かい、長い会議や見慣れない業務に放り込まれ、夜になってアパートへ戻る。布団に倒れ込むころには、頭の芯がじんじんしていた。それでも翌朝になると、また会社へ行くしかない。生活のリズムが整ったというより、ただ逃げ道のないベルトコンベアに乗せられている感じだった。
俺は「研修中」という扱いだった。
ただ、その研修という言葉から普通の人が想像するようなものでは決してなかった。研修用の資料がきちんと用意されているわけでもなければ、カリキュラムがあるわけでもない。会議室で座学を受ける時間もなければ、段階を追って仕事を覚えていく仕組みもない。
人手が足りない。
それが、この会社の研修の正体だった。
要するに、先輩のやっていることを横で見て、見よう見まねで覚えろ、というだけだった。忙しい先輩たちは自分の仕事を抱えているから、当然、俺のためだけに時間を割けるわけではない。分からないことがあればその場で聞く。空気を読んで邪魔にならないタイミングを見計らう。教えてもらったらすぐメモを取る。そして次からは自分でやる。できなければ、また聞く。その繰り返しだった。
でも、平社員の先輩たちはみんな優しかった。
初日にいろいろ教えてくれた佐藤さんも、その一人だ。背は高くないが動きがてきぱきしていて、何を頼まれても「はい」とすぐ返事をする人だった。どこか疲れた顔をしているのに、話しかけるとちゃんと笑ってくれる。俺が分からないことを聞くと、手を止めて説明してくれたし、「最初はみんなそんなもんだよ」と何度も言ってくれた。
佐藤さんだけじゃない。他の平社員の先輩たちも、口調は穏やかだった。資料の置き場所、見積書の作り方、施工に関する用語、電話の取り次ぎ方。どれも断片的ではあったけれど、みんな自分なりに俺へ教えようとしてくれていた。少なくとも、現場で一緒に働く人たちが露骨に冷たいということはなかった。
課長や次長も、思っていたほど怖い人たちではなかった。
もちろん気軽に雑談できる相手ではなかったし、仕事の話になると厳しい表情も見せる。でも、理不尽に怒鳴るわけではない。質問すれば答えてくれるし、俺が新人であることも理解していた。少なくとも、俺がこの会社に来る前に漠然と想像していた「上司=常に怒鳴る怖い人」という単純な図式ではなかった。
数日働いて、なんとなく見えてきたことがある。
この部署では、部長が絶対的な存在だった。
課長も次長もいる。先輩たちもそれぞれ仕事を回している。表面的には普通の組織に見える。でも、実際には部長の意向がすべてを決めているようだった。誰もそれを言葉にはしない。けれど、会議での空気、部長の一言で変わる先輩たちの表情、メールや連絡の優先順位、そういった細かいものを見ていると分かるのだ。
課長や次長が管理しているように見えても、その上にもっと強い圧力が乗っている。
……この部署は、部長に支配されている。
研修が始まって数日後、俺は業務に必要な最低限の準備をするように言われた。
メールアドレス、社内連絡、slackのアカウント。今どきの会社なら、入社時に会社支給のノートパソコンと携帯電話を受け取り、必要なソフトや権限があらかじめ設定されているのだろう。少なくとも、俺はそういうものだと思っていた。
だが、この会社にはそれがなかった。
パソコンも支給されない。携帯も支給されない。
最初にそれを知ったとき、俺は思わず聞き返してしまった。
「会社のパソコンって……ないんですか?」
佐藤さんは苦笑いしながら、「ないんだよね」と言った。
「みんな自前だったり、昔から使ってるやつだったり。まあ、うちはそういう感じ」
そういう感じ、で済ませていい話なのか、それは。
でも、その場では深く突っ込めなかった。俺には会社用に使える私物のパソコンなんて、大学でレポートを書くために使っていたノートパソコンしかなかった。就職のために買い替える余裕もない。結局、大学生活の延長のようなそのパソコンを、そのまま会社へ持っていくしかなかった。
講義室で使っていたパソコンを、営業資料と見積書と社内連絡に使う。
それだけでも妙な感じだった。学生だった生活の名残を引きずったまま、無理やり社会人の机に座っているようだ。
メールの設定を終え、slackを開いたとき、さらに妙なものが目に入った。
部長からのメッセージの時刻が、午前三時になっていた。
最初は見間違いかと思った。夜中の三時。いや、朝方と言ったほうが近い時間だ。通知欄を遡ると、それが一度や二度ではないことが分かった。午前一時台、二時台、三時台。部長の名前が何度も並んでいて、そのたびに指示や確認事項や、誰かへの返信が飛んでいる。
俺は思わず隣にいた佐藤さんに画面を見せた。
「これ……部長、夜中に送ってるんですか?」
佐藤さんは一瞬だけ画面をのぞき込み、何でもないことみたいに笑った。
「ああ、いつものことだよ」
「いつものこと?」
「うん。あの人、ほんとにいつ寝てるのかわからないんだよね」
冗談めかした口調だった。けれど、そこには半分本気の諦めが混じっていた。
俺はつい、この前の会議を思い出した。プレゼン中は寝ているのに、終わった瞬間に目を覚まして核心を突く、あの奇妙な姿。あれは居眠りをしていたというより、本当に慢性的に睡眠がおかしくなっている人の動きだったのかもしれない。だとしたら余計に怖かった。そんな人間が部署全体を仕切っているという事実が、ぞっとするほど重かった。
「返信って、すぐしなきゃいけないんですか」
俺がそう聞くと、佐藤さんは少しだけ言葉を選ぶような顔をした。
「まあ……寝てる時間なら朝でもいいけど、気づいたら早めに返したほうがいいかな」
「みんな、そうしてるんですか」
「そうだね」
そう言ってから、佐藤さんは小さく付け足した。
「慣れるよ」
慣れる。
その言葉が、そのときは妙に気持ち悪かった。
人間はたいていのことに慣れる。つらいことにも、不自然なことにも、理不尽なことにも。だからこそ怖いのだと、そのときの俺はまだはっきり理解していなかった。ただ、その一言に、この会社の空気が凝縮されている気がした。
数日後、俺は直属の上司だという事務の神田さんに会いに行った。
神田さんは、俺が想像していた「事務のベテラン」とは少し違っていた。もっと固い人を想像していたのだが、実際に会ってみると、笑顔がやわらかくて、話し方にも丸みがあった。年齢は母と同じくらいか、少し下くらいだろうか。優しいお母さん、という表現がいちばん近い。初対面の俺にもすぐ打ち解けるような雰囲気を出してくれて、それだけでかなり気持ちが楽になった。
「若い人が入ってきてくれてよかったわ」
神田さんはそう言って笑った。
「うち、事務って言っても意外と力仕事あるのよ。書類だけじゃなくて、荷物運んだり、資材動かしたり、いろいろあるから。助かるわあ」
その言い方にも悪意はなかった。むしろ歓迎してくれているのが伝わってきた。でも、その言葉を聞いた瞬間、俺はまた少しだけ、自分が聞いていた仕事内容とのずれを感じていた。
事務補佐、のはずだった。
もちろん、雑用や補助があるのは分かる。けれど、力仕事ができそうでよかった、という歓迎のされ方は、少なくとも俺が想像していた事務職の入り口ではなかった。
神田さんは本当に優しかった。書類の保管ルールや電話の取り方、部署内で誰に何を聞けばいいかも丁寧に教えてくれた。俺が緊張しているのを見て、「焦らなくて大丈夫よ」と声をかけてもくれた。その笑顔には救われた。
ただ、神田さんの優しさとは別に、会社のルールそのものは厳しかった。
いや、厳しいというより、異様だった。
その象徴がタイムカードだ。
会社には一応、タイムカードが置いてあった。見た目だけなら普通だ。出社したら打刻し、退社するときにも打刻する。誰が見てもそういう使い方をするものだと思う。俺も当然そうだと思っていた。
最初の数回は、新入社員として「こうやって押すんだよ」という説明を受けた。カードを差し込む位置や、印字の確認の仕方まで教わった。俺は何の疑いもなく、それを覚えた。出勤したら押し、帰るときに押す。その当たり前の流れを研修されているのだと。
ところが、そのあとに言われたことが理解できなかった。
「最初だけ覚えてもらえばいいから、あとは委任ね」
委任。
その意味がすぐには分からなかった。
説明を聞いて、俺は一瞬、耳を疑った。要するに、社員はタイムカードを自分で押さない。神田さんに預けておいて、定時の時刻にまとめて押してもらうのだという。自分がまだ仕事をしていようと、会社に残っていようと関係ない。タイムカード上は、定時で帰ったことになる。
俺はぽかんとしてしまった。
「えっと……でも、残っていた場合は……」
そう言いかけたところで、神田さんは当然のことのように答えた。
「残業代は出ないから。まあ、うちはそういう形なのよね……」
うちはそういう形。
タイムカードは労働時間を記録するためのものじゃない。会社にとって都合のいい“定時退社”を記録するためのものに過ぎなかった。
脱法、という言い方をしていいのかは分からない。でも少なくとも、表向きには整って見える。タイムカードはある。打刻の説明もする。形式は揃える。だが実態としては、最初から最後まで残業代を払わない仕組みができあがっている。
定額で、働かせ放題。
あの長い会議。夜八時でも誰も帰らない先輩たち。深夜三時に飛んでくる部長のメッセージ。支給されないパソコンと携帯。そして、自分で押さないタイムカード。
この会社、おかしいんじゃないか。
俺はようやく、そう考え始めた。
もちろん、その時点ではまだ「ブラック企業」という言葉を自分の現実に当てはめることには抵抗があった。だって周りの人たちは優しいのだ。佐藤さんも、神田さんも、他の先輩たちも、俺を怒鳴りつけたりはしない。課長や次長だって、少なくとも理不尽な鬼ではない。
だからこそ余計にややこしかった。
優しい人が多い職場なのに、働き方だけが明らかにおかしい。
人間関係が悪いわけじゃない。むしろ、人はいい。けれど、その「人のよさ」が、この異常な仕組みを支える潤滑油になっているようにも見えた。みんな文句を言わずに回している。新人の俺にも親切にしてくれる。だけど、その親切の裏で、誰もが長時間働き、夜中まで連絡を返し、タイムカードを他人に預けている。
それは優しい職場じゃなくて、壊れた職場に優しい人たちが閉じ込められている状態なんじゃないか。
その考えが浮かんだとき、背中が少し寒くなった。
研修という名前で過ごしていたその数日は、仕事を覚える時間であると同時に、この会社の異常さを少しずつ理解していく時間でもあったのだと思う。最初は、「初日だから分からないだけだ」と自分に言い聞かせていた。次に、「業界ってこういうものなのかもしれない」と思おうとした。だが、タイムカードの話を聞いたあたりから、さすがに無理が出てきた。
普通じゃない。
たぶん、これは普通じゃない。
その夜、アパートに戻った俺は、大学で使っていたノートパソコンを机に置いたまま、しばらく眺めていた。講義ノートやレポートのファイルが残ったそのパソコンに、会社のメールとslackが並んでいる。大学生だった自分と、社畜になり始めている自分が、一台の画面の中で重なっていた。
ほんの数日前まで、俺は学生だった。
将来に不安はあっても、少なくとも労働時間を偽装されるような世界にはいなかった。夜中の三時に上司から連絡が来る生活も、自分のパソコンを会社に差し出す生活も、定時で帰ったことにされながら働き続ける生活も、想像したことすらなかった。
でも、今の俺はもうその中にいる。
俺はそのとき、まだ会社を辞めるなんて発想すら現実的には持てていなかった。金が必要だった。父のことがあった。母のこともあった。働かなければならない、という思いが何より先にあった。だから違和感に気づいても、すぐには逃げられない。
でも、気づいてしまった以上、もう元には戻れない。
この職場はおかしい。
その感覚だけが、胸の底にじわじわ沈んでいった。
研修という名の数日間を終えたころ、俺はまだ仕事の全体なんてほとんど分かっていなかった。見積書の流れも、製品の仕様も、現場との連携も、何もかも中途半端だった。ただひとつだけ、妙にはっきり分かったことがあった。
この会社は、人をいくらでも働かせる会社だ。
そして俺は、その仕組みの中へ、もう片足どころか両足を踏み入れてしまっていたのだった。
数日しか経っていないのに、俺の中ではもう一週間も二週間も働いたような疲労感があった。朝起きて会社へ向かい、長い会議や見慣れない業務に放り込まれ、夜になってアパートへ戻る。布団に倒れ込むころには、頭の芯がじんじんしていた。それでも翌朝になると、また会社へ行くしかない。生活のリズムが整ったというより、ただ逃げ道のないベルトコンベアに乗せられている感じだった。
俺は「研修中」という扱いだった。
ただ、その研修という言葉から普通の人が想像するようなものでは決してなかった。研修用の資料がきちんと用意されているわけでもなければ、カリキュラムがあるわけでもない。会議室で座学を受ける時間もなければ、段階を追って仕事を覚えていく仕組みもない。
人手が足りない。
それが、この会社の研修の正体だった。
要するに、先輩のやっていることを横で見て、見よう見まねで覚えろ、というだけだった。忙しい先輩たちは自分の仕事を抱えているから、当然、俺のためだけに時間を割けるわけではない。分からないことがあればその場で聞く。空気を読んで邪魔にならないタイミングを見計らう。教えてもらったらすぐメモを取る。そして次からは自分でやる。できなければ、また聞く。その繰り返しだった。
でも、平社員の先輩たちはみんな優しかった。
初日にいろいろ教えてくれた佐藤さんも、その一人だ。背は高くないが動きがてきぱきしていて、何を頼まれても「はい」とすぐ返事をする人だった。どこか疲れた顔をしているのに、話しかけるとちゃんと笑ってくれる。俺が分からないことを聞くと、手を止めて説明してくれたし、「最初はみんなそんなもんだよ」と何度も言ってくれた。
佐藤さんだけじゃない。他の平社員の先輩たちも、口調は穏やかだった。資料の置き場所、見積書の作り方、施工に関する用語、電話の取り次ぎ方。どれも断片的ではあったけれど、みんな自分なりに俺へ教えようとしてくれていた。少なくとも、現場で一緒に働く人たちが露骨に冷たいということはなかった。
課長や次長も、思っていたほど怖い人たちではなかった。
もちろん気軽に雑談できる相手ではなかったし、仕事の話になると厳しい表情も見せる。でも、理不尽に怒鳴るわけではない。質問すれば答えてくれるし、俺が新人であることも理解していた。少なくとも、俺がこの会社に来る前に漠然と想像していた「上司=常に怒鳴る怖い人」という単純な図式ではなかった。
数日働いて、なんとなく見えてきたことがある。
この部署では、部長が絶対的な存在だった。
課長も次長もいる。先輩たちもそれぞれ仕事を回している。表面的には普通の組織に見える。でも、実際には部長の意向がすべてを決めているようだった。誰もそれを言葉にはしない。けれど、会議での空気、部長の一言で変わる先輩たちの表情、メールや連絡の優先順位、そういった細かいものを見ていると分かるのだ。
課長や次長が管理しているように見えても、その上にもっと強い圧力が乗っている。
……この部署は、部長に支配されている。
研修が始まって数日後、俺は業務に必要な最低限の準備をするように言われた。
メールアドレス、社内連絡、slackのアカウント。今どきの会社なら、入社時に会社支給のノートパソコンと携帯電話を受け取り、必要なソフトや権限があらかじめ設定されているのだろう。少なくとも、俺はそういうものだと思っていた。
だが、この会社にはそれがなかった。
パソコンも支給されない。携帯も支給されない。
最初にそれを知ったとき、俺は思わず聞き返してしまった。
「会社のパソコンって……ないんですか?」
佐藤さんは苦笑いしながら、「ないんだよね」と言った。
「みんな自前だったり、昔から使ってるやつだったり。まあ、うちはそういう感じ」
そういう感じ、で済ませていい話なのか、それは。
でも、その場では深く突っ込めなかった。俺には会社用に使える私物のパソコンなんて、大学でレポートを書くために使っていたノートパソコンしかなかった。就職のために買い替える余裕もない。結局、大学生活の延長のようなそのパソコンを、そのまま会社へ持っていくしかなかった。
講義室で使っていたパソコンを、営業資料と見積書と社内連絡に使う。
それだけでも妙な感じだった。学生だった生活の名残を引きずったまま、無理やり社会人の机に座っているようだ。
メールの設定を終え、slackを開いたとき、さらに妙なものが目に入った。
部長からのメッセージの時刻が、午前三時になっていた。
最初は見間違いかと思った。夜中の三時。いや、朝方と言ったほうが近い時間だ。通知欄を遡ると、それが一度や二度ではないことが分かった。午前一時台、二時台、三時台。部長の名前が何度も並んでいて、そのたびに指示や確認事項や、誰かへの返信が飛んでいる。
俺は思わず隣にいた佐藤さんに画面を見せた。
「これ……部長、夜中に送ってるんですか?」
佐藤さんは一瞬だけ画面をのぞき込み、何でもないことみたいに笑った。
「ああ、いつものことだよ」
「いつものこと?」
「うん。あの人、ほんとにいつ寝てるのかわからないんだよね」
冗談めかした口調だった。けれど、そこには半分本気の諦めが混じっていた。
俺はつい、この前の会議を思い出した。プレゼン中は寝ているのに、終わった瞬間に目を覚まして核心を突く、あの奇妙な姿。あれは居眠りをしていたというより、本当に慢性的に睡眠がおかしくなっている人の動きだったのかもしれない。だとしたら余計に怖かった。そんな人間が部署全体を仕切っているという事実が、ぞっとするほど重かった。
「返信って、すぐしなきゃいけないんですか」
俺がそう聞くと、佐藤さんは少しだけ言葉を選ぶような顔をした。
「まあ……寝てる時間なら朝でもいいけど、気づいたら早めに返したほうがいいかな」
「みんな、そうしてるんですか」
「そうだね」
そう言ってから、佐藤さんは小さく付け足した。
「慣れるよ」
慣れる。
その言葉が、そのときは妙に気持ち悪かった。
人間はたいていのことに慣れる。つらいことにも、不自然なことにも、理不尽なことにも。だからこそ怖いのだと、そのときの俺はまだはっきり理解していなかった。ただ、その一言に、この会社の空気が凝縮されている気がした。
数日後、俺は直属の上司だという事務の神田さんに会いに行った。
神田さんは、俺が想像していた「事務のベテラン」とは少し違っていた。もっと固い人を想像していたのだが、実際に会ってみると、笑顔がやわらかくて、話し方にも丸みがあった。年齢は母と同じくらいか、少し下くらいだろうか。優しいお母さん、という表現がいちばん近い。初対面の俺にもすぐ打ち解けるような雰囲気を出してくれて、それだけでかなり気持ちが楽になった。
「若い人が入ってきてくれてよかったわ」
神田さんはそう言って笑った。
「うち、事務って言っても意外と力仕事あるのよ。書類だけじゃなくて、荷物運んだり、資材動かしたり、いろいろあるから。助かるわあ」
その言い方にも悪意はなかった。むしろ歓迎してくれているのが伝わってきた。でも、その言葉を聞いた瞬間、俺はまた少しだけ、自分が聞いていた仕事内容とのずれを感じていた。
事務補佐、のはずだった。
もちろん、雑用や補助があるのは分かる。けれど、力仕事ができそうでよかった、という歓迎のされ方は、少なくとも俺が想像していた事務職の入り口ではなかった。
神田さんは本当に優しかった。書類の保管ルールや電話の取り方、部署内で誰に何を聞けばいいかも丁寧に教えてくれた。俺が緊張しているのを見て、「焦らなくて大丈夫よ」と声をかけてもくれた。その笑顔には救われた。
ただ、神田さんの優しさとは別に、会社のルールそのものは厳しかった。
いや、厳しいというより、異様だった。
その象徴がタイムカードだ。
会社には一応、タイムカードが置いてあった。見た目だけなら普通だ。出社したら打刻し、退社するときにも打刻する。誰が見てもそういう使い方をするものだと思う。俺も当然そうだと思っていた。
最初の数回は、新入社員として「こうやって押すんだよ」という説明を受けた。カードを差し込む位置や、印字の確認の仕方まで教わった。俺は何の疑いもなく、それを覚えた。出勤したら押し、帰るときに押す。その当たり前の流れを研修されているのだと。
ところが、そのあとに言われたことが理解できなかった。
「最初だけ覚えてもらえばいいから、あとは委任ね」
委任。
その意味がすぐには分からなかった。
説明を聞いて、俺は一瞬、耳を疑った。要するに、社員はタイムカードを自分で押さない。神田さんに預けておいて、定時の時刻にまとめて押してもらうのだという。自分がまだ仕事をしていようと、会社に残っていようと関係ない。タイムカード上は、定時で帰ったことになる。
俺はぽかんとしてしまった。
「えっと……でも、残っていた場合は……」
そう言いかけたところで、神田さんは当然のことのように答えた。
「残業代は出ないから。まあ、うちはそういう形なのよね……」
うちはそういう形。
タイムカードは労働時間を記録するためのものじゃない。会社にとって都合のいい“定時退社”を記録するためのものに過ぎなかった。
脱法、という言い方をしていいのかは分からない。でも少なくとも、表向きには整って見える。タイムカードはある。打刻の説明もする。形式は揃える。だが実態としては、最初から最後まで残業代を払わない仕組みができあがっている。
定額で、働かせ放題。
あの長い会議。夜八時でも誰も帰らない先輩たち。深夜三時に飛んでくる部長のメッセージ。支給されないパソコンと携帯。そして、自分で押さないタイムカード。
この会社、おかしいんじゃないか。
俺はようやく、そう考え始めた。
もちろん、その時点ではまだ「ブラック企業」という言葉を自分の現実に当てはめることには抵抗があった。だって周りの人たちは優しいのだ。佐藤さんも、神田さんも、他の先輩たちも、俺を怒鳴りつけたりはしない。課長や次長だって、少なくとも理不尽な鬼ではない。
だからこそ余計にややこしかった。
優しい人が多い職場なのに、働き方だけが明らかにおかしい。
人間関係が悪いわけじゃない。むしろ、人はいい。けれど、その「人のよさ」が、この異常な仕組みを支える潤滑油になっているようにも見えた。みんな文句を言わずに回している。新人の俺にも親切にしてくれる。だけど、その親切の裏で、誰もが長時間働き、夜中まで連絡を返し、タイムカードを他人に預けている。
それは優しい職場じゃなくて、壊れた職場に優しい人たちが閉じ込められている状態なんじゃないか。
その考えが浮かんだとき、背中が少し寒くなった。
研修という名前で過ごしていたその数日は、仕事を覚える時間であると同時に、この会社の異常さを少しずつ理解していく時間でもあったのだと思う。最初は、「初日だから分からないだけだ」と自分に言い聞かせていた。次に、「業界ってこういうものなのかもしれない」と思おうとした。だが、タイムカードの話を聞いたあたりから、さすがに無理が出てきた。
普通じゃない。
たぶん、これは普通じゃない。
その夜、アパートに戻った俺は、大学で使っていたノートパソコンを机に置いたまま、しばらく眺めていた。講義ノートやレポートのファイルが残ったそのパソコンに、会社のメールとslackが並んでいる。大学生だった自分と、社畜になり始めている自分が、一台の画面の中で重なっていた。
ほんの数日前まで、俺は学生だった。
将来に不安はあっても、少なくとも労働時間を偽装されるような世界にはいなかった。夜中の三時に上司から連絡が来る生活も、自分のパソコンを会社に差し出す生活も、定時で帰ったことにされながら働き続ける生活も、想像したことすらなかった。
でも、今の俺はもうその中にいる。
俺はそのとき、まだ会社を辞めるなんて発想すら現実的には持てていなかった。金が必要だった。父のことがあった。母のこともあった。働かなければならない、という思いが何より先にあった。だから違和感に気づいても、すぐには逃げられない。
でも、気づいてしまった以上、もう元には戻れない。
この職場はおかしい。
その感覚だけが、胸の底にじわじわ沈んでいった。
研修という名の数日間を終えたころ、俺はまだ仕事の全体なんてほとんど分かっていなかった。見積書の流れも、製品の仕様も、現場との連携も、何もかも中途半端だった。ただひとつだけ、妙にはっきり分かったことがあった。
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