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第2話 恐怖の7時間会議
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社畜生活の初日、俺は目覚ましが鳴るより少し早く目を覚ました。
新しい土地の朝は、音が違った。東京で住んでいた部屋なら、朝方までどこかで車の音がしていたし、隣の生活音も壁越しにぼんやり聞こえてきた。でも、この安アパートの朝は妙に静かで、その静けさが逆に落ち着かなかった。天井の染みを見上げながら、俺はしばらく布団の中で固まっていた。
今日から働く。
そう頭では分かっているのに、実感は薄かった。大学に行くのでも、単発のバイトに行くのでもない。これから毎日通う職場へ向かう。自分で決めたことのはずなのに、他人の人生を借りているみたいな感覚があった。
顔を洗って、買ったばかりの安いワイシャツに袖を通した。鏡に映る自分は、急ごしらえの社会人だった。髪型も、表情も、立ち姿も、何もかもが学生のままで、ただ服装だけが無理やり大人の形をしていた。ネクタイを締めながら、これで本当に大丈夫なのかと思った。でも、もう行くしかなかった。
会社までは歩いて通える距離だった。節約のために選んだ物件だから、それだけは都合がよかった。朝の冷たい空気の中を歩きながら、俺は自分に言い聞かせていた。最初は分からなくて当然だ、優しい先輩たちに教われば何とかなる、事務補佐なんだから、書類整理とかデータ入力とか、そういう仕事から始まるはずだ、と。
事務補佐。
その言葉から俺が想像していたのは、せいぜい伝票の整理、簡単な会計補助、電話の取次ぎ、書類のファイリング、その程度の仕事だった。社会経験のない大学生が、急に現場の最前線に放り込まれるとは思っていなかったし、むしろ思えなかった。会社だって一応は人を雇う以上、段階というものがあるはずだと、勝手に信じていた。
会社に着くと、すでにほとんどの人かが出社していた。みんな当たり前の顔でパソコンを立ち上げ、電話に出て、何かの資料をめくっていた。この前の面接で見たときと同じように、挨拶をすると返してくれる人たちは感じがよかった。俺は少しだけ安心した。
「おはようございます」
まだ声が硬い。自分でも分かるくらい緊張していた。
「おはよう。早いね」
先輩のひとり、佐藤さんがそう言ってくれて、席を案内してくれた。年齢は三十前後だろうか。穏やかな表情をしていた。その人は俺に簡単な説明をしながら、「今日はまず会議に出てもらうから」と言った。
会議。
その言葉を聞いたとき、俺は少しだけ首をかしげた。入社初日から会議に出るものなのか。いや、朝礼みたいなものかもしれない。業務説明の延長みたいなものだろう。そんなふうに勝手に解釈した。
「事務補佐でも、うちの仕事全体を知らないと始まらないからね」
佐藤さんはそう付け加えた。
なるほど、そういうことかと思った。確かに、事務をやるにしても会社が何をしているか分からないと困る。会社見学のときにもなんとなく聞いたが、この会社は建設系の業務をしていて、とある機械を建物に設置する仕事をしているらしかった。詳しい構造までは分からない。ただ、建物の設備に関わる製品で、施工や提案や保守が必要な分野だということだけは、ぼんやり理解していた。
会議室に入ると、思っていたよりもずっと重い空気が漂っていた。
長机が並び、前方にはプロジェクターとスクリーンが用意されている。営業会議、と書かれた資料が配られ、俺は末席に座らされた。周囲の先輩たちはノートパソコンや分厚いファイルを開いていて、朝の時点でもう戦闘態勢だった。俺だけが新品のノートを開いて、何を書けばいいかも分からずに座っていた。
部長が入ってくると、空気がさらに締まった。
昨日の面接で話した、あの部長だった。体格がよく、声も通る。あの面接では人当たりのいい笑顔を見せていたはずだったが、会議室に入ってきたときの顔は別人みたいに硬かった。俺は無意識に背筋を伸ばした。
会議が始まり、最初の先輩が前に立ってプレゼンを始めた。営業先への提案内容、競合製品との比較、施工上の問題点、導入コスト、今後の改善案。飛び交う言葉のほとんどが初めて聞くものばかりで、俺は必死にメモを取った。いや、正確には、分からない単語を片っ端から書き写すことしかできなかった。
そして、そのプレゼンの途中で、俺は奇妙なものを見た。
部長が寝ていた。
最初は気のせいかと思った。目を閉じて考え事でもしているのかもしれない、と。でも違った。明らかに寝ている。首が少しずつ後ろへいき、ついには頭が椅子の背もたれのさらに後ろに落ちそうなくらい反っていた。会議室の前方で先輩が必死に説明しているのに、その真正面で部長が居眠りしているのだ。
俺は思わず視線を横に走らせた。
他の先輩たちは、誰も驚いていなかった。見慣れた光景なのか、淡々と資料を見ている。プレゼンしている先輩も、一瞬も動揺を見せない。まるで、部長が寝ることが最初から会議の一部であるかのようだった。
どういうことだ。
あまりの異様さに、プレゼンの内容よりそちらが気になってしまう。寝てるのか? 本当に? でもあんな堂々と? いや、こんな重要そうな会議で? 俺の頭の中はそれでいっぱいになった。
ところがもっと理解不能だったのは、そのあとだ。
先輩のプレゼンが終わった瞬間、部長がぱっと目を開けた。
本当に「ぱっと」だった。今まで深い眠りに落ちていたように見えたのに、急にスイッチが入ったみたいに目を見開き、姿勢を戻し、まっすぐ前を見た。そして次の瞬間には、プレゼン内容の核心を突くような質問を立て続けに始めた。
「この比較表、競合の耐久年数の前提が甘いな。どの資料を根拠にしてる?」
「施工時間が短縮できると言うなら、現場の人数変動も含めて出さないと説得力がないだろう」
「営業先が管理会社なら、コストだけじゃなく保守の手離れも押さえろ」
鋭い。しかも的確だった。
さっきまで寝ていた人間とは思えない。というか、普通に考えれば話を聞いていなかったはずなのに、質問が全部本筋を外していない。むしろ、会議室の誰よりも内容を把握しているように見えた。
この人はどうなっているんだ。
俺は本気でそう思った。寝ているふりなのか、本当に一瞬だけ意識が飛んでいて、それでも要点だけ拾っているのか。どちらにしても異常だった。少なくとも、俺が知っている「まともな会議」の範囲には入っていない。
部長の質問は長かった。質問というより、半分は詰問、半分は講義だった。先輩が答えるたびに、新しい論点が増え、数字の精度を求められ、現場の仮定を崩され、営業トークの甘さを指摘される。プレゼンは十五分ほどで終わっていたのに、その後のやり取りは二時間近く続いた。
俺は途中から、自分が営業会議ではなく、一方的なディベートの場に放り込まれたような気分になっていた。
最初の先輩が終わっただけで、もう昼が近かった。
息をつく暇もなく、次の先輩の発表が始まった。内容は別案件だったが、構図は同じだった。プレゼン中、部長はまた寝る。首が落ちる。頭が反る。見ているこっちが不安になるくらい寝る。だが発表が終わると、また突然目を覚まし、容赦なく核心を突く。
会議室の時間感覚がだんだんおかしくなっていく。
俺はもう、何が普通で何が異常なのか分からなくなっていた。緊張もあるし、言葉も分からない。資料の数字を追うだけで精一杯だ。それでも、この会社はたぶん俺が思っていた「事務の職場」ではない、ということだけははっきりしてきた。
そして、二人目の先輩への質問が一段落したころ、突然、部長がこちらを見た。
「で、新人」
心臓が跳ねた。
視線が一斉に俺に集まる。逃げ場がない。
「この製品について、改善点は思いつくか?」
一瞬、何を聞かれたのか理解できなかった。
改善点?
俺が?
入社一日目で?
さっきから飛び交っている専門用語の半分も分からず、プレゼンの流れさえろくに追えていない人間に?
頭が真っ白になった。ノートに書いた文字が急に意味のない線に見える。何か言わなきゃいけない。でも、何を言えばいいのかまったく分からない。黙れば終わる気がした。ここで何も答えられなければ、「使えない」と判断されるかもしれない。そんな恐怖だけが先に立った。
「えっと……」
情けない声が出た。
「その……導入、後の、メンテナンス、というか……使う側の、分かりやすさとか……」
自分でも何を言っているのか分からなかった。単語をつなぎ合わせているだけだった。改善点でも何でもない。会議室の空気が数秒止まった気がした。
部長は俺をじっと見たあと、「ふん」とだけ言った。
「まあ、最初だからそんなもんか」
助かったのか、見逃されたのか、それとも切り捨てられたのか、そのときの俺には判断がつかなかった。ただ、全身に嫌な汗をかいていることだけは分かった。
隣の佐藤さんが小さく「大丈夫」と囁いてくれたのが、せめてもの救いだった。
だが会議は終わらない。
三人目の先輩が前に立ち、また別の案件について話し始める。製品の仕様変更案、施工先ごとの問題、価格調整、現場との連携、顧客の反応。話題が切り替わるたびに、俺の理解はどんどん追いつかなくなっていく。それでも部長の質問だけは容赦なく続いた。細かい数値、過去の事例、営業トークの組み立て方、失注理由の分析。プレゼンする先輩たちもすごかったが、それ以上に、これが毎回行われているらしいことのほうが恐ろしかった。
気づけば会議は七時間に及んでいた。
七時間。
講義でもない。研修でもない。営業会議だ。しかも、その大半は部長の質問の時間だった。質問という名の詰め、確認という名の追及、指導という名の圧力。俺は座っていただけなのに、終わる頃には体力が抜けていた。頭の中が熱を持って、耳鳴りみたいなものまでしていた。
これがこの会社の普通なのか。
初日の時点では、まだ断定はできなかった。たまたま今日は特別な日なのかもしれない。月に一回の長い会議なのかもしれない。そう思おうとした。でも、会議室から出ていく先輩たちの疲れきった顔を見たとき、その希望は少しずつしぼんでいった。
会議が終わったあと、ようやく先輩たちが俺のレクチャーを始めてくれた。
「本当はもっと早く説明したかったんだけどね」
佐藤さんが苦笑いしながら言った。
「うちは、まず全体を見てもらう感じだから」
全体というには、あまりにも濃すぎる洗礼だった。
先輩たちは優しかった。事務補佐といっても、単純な雑務だけではなく、見積もりの補助、請求関係の入力、施工に関する書類整理、部材の確認、営業資料の修正、時には電話対応や現場との連絡もあることを、一つ一つ丁寧に説明してくれた。俺が理解できていないことに気づくと、言い換えてくれたり、資料を見せてくれたりもした。
ただ、その優しさとは別に、ひとつ気づいてしまうことがあった。
先輩たち、めちゃくちゃ残業してないか。
時計はとっくに定時を過ぎているのに、誰も帰る気配がない。というより、会議で丸一日つぶれたあとに、そこからようやく自分の仕事を始めているように見えた。デスクに戻った瞬間、全員が当たり前の顔でパソコンに向かい、電話をかけ、メールを送り、書類を修正している。さっきまで七時間の会議をしていた人たちとは思えない。いや、思えないというより、思いたくなかった。
これ、いつ終わるんだ。
口には出せなかったが、心の中では何度もそうつぶやいていた。
午後八時近くになって、先輩のひとりが俺のほうを見た。
「今日は初日だし、もう上がっていいよ」
その言葉を聞いた瞬間、安心より先に、「もう八時なのか」という感覚が来た。
朝から出てきて、ほとんど会議で座っていただけで、気づけば夜になっている。普通の会社の初日というのは、もっとこう、書類を書いたり、社内案内を受けたり、挨拶回りをしたりするものじゃないのか。俺の知っている“初出勤”のイメージとは、あまりにも違いすぎた。
「ありがとうございます」
俺はそう言って頭を下げた。
先輩たちは「お疲れ」「また明日ね」と声をかけてくれた。その口調は優しかった。でもその後ろで、誰ひとり帰る準備をしていない現実が、やけに重く見えた。
外に出ると、もう空は真っ暗だった。朝に見た会社の建物が、別の顔をしていた。仕事を終えた開放感なんてなかった。ただ、長い何かから一時的に解放されたような、そんな感覚だけがあった。
アパートまでの道を歩きながら、俺は会議室の光景を何度も思い出していた。
部長が寝ていたこと。
なのに、起きた瞬間に誰よりも鋭かったこと。
入社初日の俺に改善点を聞いてきたこと。
七時間も会議が続いたこと。
そのあとにようやく通常業務が始まったこと。
ひとつひとつが、じわじわ不安になって胸の中に沈んでいく。
部屋に戻ると、狭い一室の冷たさがいつもより身にしみた。スーツを脱ぐだけでどっと疲れが出た。飯を作る気力もなく、コンビニで買ったおにぎりを半分だけ食べて、俺はそのまま床に近い布団へ倒れ込んだ。
体は横になっているのに、頭の中だけがまだ会議室に残っていた。
あれがこれから毎日続くのか。
俺は本当にこの会社でやっていけるのか。
そもそも、事務補佐って何なんだ。
不安は次から次へと浮かんできた。でも、それ以上に自分に言い聞かせる声もあった。
初日だからだ。
まだ何も分かっていないだけだ。
みんな優しかったじゃないか。
きっと慣れれば大丈夫だ。
そうやって必死に自分を落ち着かせようとした。
けれど、今になって思えば、初日はちゃんと異常だった。
優しい人がいることと、まともな職場であることは違う。
仕事を教えてくれることと、働き方が健全であることも違う。
あのとき俺は、その違いをまだ知らなかった。
だから、不安を抱えたままでも、「まあ、こんなものかもしれない」と無理やり納得しようとしていた。
布団の上で横になり、薄い天井を見上げながら、俺は長い会議の残響を頭の中で反芻していた。部長の低い声、先輩たちの張りつめた表情、プロジェクターの白い光。目を閉じても消えない。
社会人の初日って、こんなに息が詰まるものなのか。
答えの出ない問いを抱えたまま、俺はいつの間にか眠りに落ちていた。
新しい土地の朝は、音が違った。東京で住んでいた部屋なら、朝方までどこかで車の音がしていたし、隣の生活音も壁越しにぼんやり聞こえてきた。でも、この安アパートの朝は妙に静かで、その静けさが逆に落ち着かなかった。天井の染みを見上げながら、俺はしばらく布団の中で固まっていた。
今日から働く。
そう頭では分かっているのに、実感は薄かった。大学に行くのでも、単発のバイトに行くのでもない。これから毎日通う職場へ向かう。自分で決めたことのはずなのに、他人の人生を借りているみたいな感覚があった。
顔を洗って、買ったばかりの安いワイシャツに袖を通した。鏡に映る自分は、急ごしらえの社会人だった。髪型も、表情も、立ち姿も、何もかもが学生のままで、ただ服装だけが無理やり大人の形をしていた。ネクタイを締めながら、これで本当に大丈夫なのかと思った。でも、もう行くしかなかった。
会社までは歩いて通える距離だった。節約のために選んだ物件だから、それだけは都合がよかった。朝の冷たい空気の中を歩きながら、俺は自分に言い聞かせていた。最初は分からなくて当然だ、優しい先輩たちに教われば何とかなる、事務補佐なんだから、書類整理とかデータ入力とか、そういう仕事から始まるはずだ、と。
事務補佐。
その言葉から俺が想像していたのは、せいぜい伝票の整理、簡単な会計補助、電話の取次ぎ、書類のファイリング、その程度の仕事だった。社会経験のない大学生が、急に現場の最前線に放り込まれるとは思っていなかったし、むしろ思えなかった。会社だって一応は人を雇う以上、段階というものがあるはずだと、勝手に信じていた。
会社に着くと、すでにほとんどの人かが出社していた。みんな当たり前の顔でパソコンを立ち上げ、電話に出て、何かの資料をめくっていた。この前の面接で見たときと同じように、挨拶をすると返してくれる人たちは感じがよかった。俺は少しだけ安心した。
「おはようございます」
まだ声が硬い。自分でも分かるくらい緊張していた。
「おはよう。早いね」
先輩のひとり、佐藤さんがそう言ってくれて、席を案内してくれた。年齢は三十前後だろうか。穏やかな表情をしていた。その人は俺に簡単な説明をしながら、「今日はまず会議に出てもらうから」と言った。
会議。
その言葉を聞いたとき、俺は少しだけ首をかしげた。入社初日から会議に出るものなのか。いや、朝礼みたいなものかもしれない。業務説明の延長みたいなものだろう。そんなふうに勝手に解釈した。
「事務補佐でも、うちの仕事全体を知らないと始まらないからね」
佐藤さんはそう付け加えた。
なるほど、そういうことかと思った。確かに、事務をやるにしても会社が何をしているか分からないと困る。会社見学のときにもなんとなく聞いたが、この会社は建設系の業務をしていて、とある機械を建物に設置する仕事をしているらしかった。詳しい構造までは分からない。ただ、建物の設備に関わる製品で、施工や提案や保守が必要な分野だということだけは、ぼんやり理解していた。
会議室に入ると、思っていたよりもずっと重い空気が漂っていた。
長机が並び、前方にはプロジェクターとスクリーンが用意されている。営業会議、と書かれた資料が配られ、俺は末席に座らされた。周囲の先輩たちはノートパソコンや分厚いファイルを開いていて、朝の時点でもう戦闘態勢だった。俺だけが新品のノートを開いて、何を書けばいいかも分からずに座っていた。
部長が入ってくると、空気がさらに締まった。
昨日の面接で話した、あの部長だった。体格がよく、声も通る。あの面接では人当たりのいい笑顔を見せていたはずだったが、会議室に入ってきたときの顔は別人みたいに硬かった。俺は無意識に背筋を伸ばした。
会議が始まり、最初の先輩が前に立ってプレゼンを始めた。営業先への提案内容、競合製品との比較、施工上の問題点、導入コスト、今後の改善案。飛び交う言葉のほとんどが初めて聞くものばかりで、俺は必死にメモを取った。いや、正確には、分からない単語を片っ端から書き写すことしかできなかった。
そして、そのプレゼンの途中で、俺は奇妙なものを見た。
部長が寝ていた。
最初は気のせいかと思った。目を閉じて考え事でもしているのかもしれない、と。でも違った。明らかに寝ている。首が少しずつ後ろへいき、ついには頭が椅子の背もたれのさらに後ろに落ちそうなくらい反っていた。会議室の前方で先輩が必死に説明しているのに、その真正面で部長が居眠りしているのだ。
俺は思わず視線を横に走らせた。
他の先輩たちは、誰も驚いていなかった。見慣れた光景なのか、淡々と資料を見ている。プレゼンしている先輩も、一瞬も動揺を見せない。まるで、部長が寝ることが最初から会議の一部であるかのようだった。
どういうことだ。
あまりの異様さに、プレゼンの内容よりそちらが気になってしまう。寝てるのか? 本当に? でもあんな堂々と? いや、こんな重要そうな会議で? 俺の頭の中はそれでいっぱいになった。
ところがもっと理解不能だったのは、そのあとだ。
先輩のプレゼンが終わった瞬間、部長がぱっと目を開けた。
本当に「ぱっと」だった。今まで深い眠りに落ちていたように見えたのに、急にスイッチが入ったみたいに目を見開き、姿勢を戻し、まっすぐ前を見た。そして次の瞬間には、プレゼン内容の核心を突くような質問を立て続けに始めた。
「この比較表、競合の耐久年数の前提が甘いな。どの資料を根拠にしてる?」
「施工時間が短縮できると言うなら、現場の人数変動も含めて出さないと説得力がないだろう」
「営業先が管理会社なら、コストだけじゃなく保守の手離れも押さえろ」
鋭い。しかも的確だった。
さっきまで寝ていた人間とは思えない。というか、普通に考えれば話を聞いていなかったはずなのに、質問が全部本筋を外していない。むしろ、会議室の誰よりも内容を把握しているように見えた。
この人はどうなっているんだ。
俺は本気でそう思った。寝ているふりなのか、本当に一瞬だけ意識が飛んでいて、それでも要点だけ拾っているのか。どちらにしても異常だった。少なくとも、俺が知っている「まともな会議」の範囲には入っていない。
部長の質問は長かった。質問というより、半分は詰問、半分は講義だった。先輩が答えるたびに、新しい論点が増え、数字の精度を求められ、現場の仮定を崩され、営業トークの甘さを指摘される。プレゼンは十五分ほどで終わっていたのに、その後のやり取りは二時間近く続いた。
俺は途中から、自分が営業会議ではなく、一方的なディベートの場に放り込まれたような気分になっていた。
最初の先輩が終わっただけで、もう昼が近かった。
息をつく暇もなく、次の先輩の発表が始まった。内容は別案件だったが、構図は同じだった。プレゼン中、部長はまた寝る。首が落ちる。頭が反る。見ているこっちが不安になるくらい寝る。だが発表が終わると、また突然目を覚まし、容赦なく核心を突く。
会議室の時間感覚がだんだんおかしくなっていく。
俺はもう、何が普通で何が異常なのか分からなくなっていた。緊張もあるし、言葉も分からない。資料の数字を追うだけで精一杯だ。それでも、この会社はたぶん俺が思っていた「事務の職場」ではない、ということだけははっきりしてきた。
そして、二人目の先輩への質問が一段落したころ、突然、部長がこちらを見た。
「で、新人」
心臓が跳ねた。
視線が一斉に俺に集まる。逃げ場がない。
「この製品について、改善点は思いつくか?」
一瞬、何を聞かれたのか理解できなかった。
改善点?
俺が?
入社一日目で?
さっきから飛び交っている専門用語の半分も分からず、プレゼンの流れさえろくに追えていない人間に?
頭が真っ白になった。ノートに書いた文字が急に意味のない線に見える。何か言わなきゃいけない。でも、何を言えばいいのかまったく分からない。黙れば終わる気がした。ここで何も答えられなければ、「使えない」と判断されるかもしれない。そんな恐怖だけが先に立った。
「えっと……」
情けない声が出た。
「その……導入、後の、メンテナンス、というか……使う側の、分かりやすさとか……」
自分でも何を言っているのか分からなかった。単語をつなぎ合わせているだけだった。改善点でも何でもない。会議室の空気が数秒止まった気がした。
部長は俺をじっと見たあと、「ふん」とだけ言った。
「まあ、最初だからそんなもんか」
助かったのか、見逃されたのか、それとも切り捨てられたのか、そのときの俺には判断がつかなかった。ただ、全身に嫌な汗をかいていることだけは分かった。
隣の佐藤さんが小さく「大丈夫」と囁いてくれたのが、せめてもの救いだった。
だが会議は終わらない。
三人目の先輩が前に立ち、また別の案件について話し始める。製品の仕様変更案、施工先ごとの問題、価格調整、現場との連携、顧客の反応。話題が切り替わるたびに、俺の理解はどんどん追いつかなくなっていく。それでも部長の質問だけは容赦なく続いた。細かい数値、過去の事例、営業トークの組み立て方、失注理由の分析。プレゼンする先輩たちもすごかったが、それ以上に、これが毎回行われているらしいことのほうが恐ろしかった。
気づけば会議は七時間に及んでいた。
七時間。
講義でもない。研修でもない。営業会議だ。しかも、その大半は部長の質問の時間だった。質問という名の詰め、確認という名の追及、指導という名の圧力。俺は座っていただけなのに、終わる頃には体力が抜けていた。頭の中が熱を持って、耳鳴りみたいなものまでしていた。
これがこの会社の普通なのか。
初日の時点では、まだ断定はできなかった。たまたま今日は特別な日なのかもしれない。月に一回の長い会議なのかもしれない。そう思おうとした。でも、会議室から出ていく先輩たちの疲れきった顔を見たとき、その希望は少しずつしぼんでいった。
会議が終わったあと、ようやく先輩たちが俺のレクチャーを始めてくれた。
「本当はもっと早く説明したかったんだけどね」
佐藤さんが苦笑いしながら言った。
「うちは、まず全体を見てもらう感じだから」
全体というには、あまりにも濃すぎる洗礼だった。
先輩たちは優しかった。事務補佐といっても、単純な雑務だけではなく、見積もりの補助、請求関係の入力、施工に関する書類整理、部材の確認、営業資料の修正、時には電話対応や現場との連絡もあることを、一つ一つ丁寧に説明してくれた。俺が理解できていないことに気づくと、言い換えてくれたり、資料を見せてくれたりもした。
ただ、その優しさとは別に、ひとつ気づいてしまうことがあった。
先輩たち、めちゃくちゃ残業してないか。
時計はとっくに定時を過ぎているのに、誰も帰る気配がない。というより、会議で丸一日つぶれたあとに、そこからようやく自分の仕事を始めているように見えた。デスクに戻った瞬間、全員が当たり前の顔でパソコンに向かい、電話をかけ、メールを送り、書類を修正している。さっきまで七時間の会議をしていた人たちとは思えない。いや、思えないというより、思いたくなかった。
これ、いつ終わるんだ。
口には出せなかったが、心の中では何度もそうつぶやいていた。
午後八時近くになって、先輩のひとりが俺のほうを見た。
「今日は初日だし、もう上がっていいよ」
その言葉を聞いた瞬間、安心より先に、「もう八時なのか」という感覚が来た。
朝から出てきて、ほとんど会議で座っていただけで、気づけば夜になっている。普通の会社の初日というのは、もっとこう、書類を書いたり、社内案内を受けたり、挨拶回りをしたりするものじゃないのか。俺の知っている“初出勤”のイメージとは、あまりにも違いすぎた。
「ありがとうございます」
俺はそう言って頭を下げた。
先輩たちは「お疲れ」「また明日ね」と声をかけてくれた。その口調は優しかった。でもその後ろで、誰ひとり帰る準備をしていない現実が、やけに重く見えた。
外に出ると、もう空は真っ暗だった。朝に見た会社の建物が、別の顔をしていた。仕事を終えた開放感なんてなかった。ただ、長い何かから一時的に解放されたような、そんな感覚だけがあった。
アパートまでの道を歩きながら、俺は会議室の光景を何度も思い出していた。
部長が寝ていたこと。
なのに、起きた瞬間に誰よりも鋭かったこと。
入社初日の俺に改善点を聞いてきたこと。
七時間も会議が続いたこと。
そのあとにようやく通常業務が始まったこと。
ひとつひとつが、じわじわ不安になって胸の中に沈んでいく。
部屋に戻ると、狭い一室の冷たさがいつもより身にしみた。スーツを脱ぐだけでどっと疲れが出た。飯を作る気力もなく、コンビニで買ったおにぎりを半分だけ食べて、俺はそのまま床に近い布団へ倒れ込んだ。
体は横になっているのに、頭の中だけがまだ会議室に残っていた。
あれがこれから毎日続くのか。
俺は本当にこの会社でやっていけるのか。
そもそも、事務補佐って何なんだ。
不安は次から次へと浮かんできた。でも、それ以上に自分に言い聞かせる声もあった。
初日だからだ。
まだ何も分かっていないだけだ。
みんな優しかったじゃないか。
きっと慣れれば大丈夫だ。
そうやって必死に自分を落ち着かせようとした。
けれど、今になって思えば、初日はちゃんと異常だった。
優しい人がいることと、まともな職場であることは違う。
仕事を教えてくれることと、働き方が健全であることも違う。
あのとき俺は、その違いをまだ知らなかった。
だから、不安を抱えたままでも、「まあ、こんなものかもしれない」と無理やり納得しようとしていた。
布団の上で横になり、薄い天井を見上げながら、俺は長い会議の残響を頭の中で反芻していた。部長の低い声、先輩たちの張りつめた表情、プロジェクターの白い光。目を閉じても消えない。
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心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。
【新作】1分で読める! SFショートショート
Grisly
ファンタジー
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