紅の呪い師

Ryuren

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第二話

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 目が覚める。ぼんやりと開いていく瞼から、どことなく見覚えのある天井が覗いた。なるほど、俺は殴られているうちに気を失って、そして今は自分の部屋に寝かされているのだと気付く。横を向いた。真っ直ぐに飛び込んできたのが、龍翠の顔だった。それを見て、俺は身体中のあちこちに響いている痛みをつかの間忘れた。ほんの、つかの間だが。すぐに、たまらないほどの羞恥心が俺を襲ってくる。俺は先ほど、顔を殴られたのだ。きっと酷い顔をしているに違いない。
「よかった」
 静かな、龍翠の声が聞こえた。俺はどうしようもなくて、自分の顔を両手で触れて確かめてみた。自分のものでは無いかのように、膨れ上がっている。……痛い。
「見るな」
「え」
「俺を、見るな」
「なにを言っておられるのです」 
 情けなくなった。自分は、顔がすべてだと言ってよかった。それなのに、よりによってこんな顔を、龍翠に見られなくてはならないのか。痛みなんかより、そっちの方が何倍も辛かった。
「出ていけ」
「彪林殿」
「早く。お前の手当など、必要ない」
「私は」
 龍翠の言葉を待たずに、俺は頭から布団を被った。自分でも、何をしているのかがよく分からなかった。俺は自ら用心棒たちに「殴れ」と言ったのだ。このくらい、どうってことない。どうってことは、ないのに。
 ただ、たまらなく自分が情けなかった。
「彪林殿。申し訳ございません」
「……」
「私が、あんな失敗さえしなければ」
「教えろ」
「は……」
「あの時、お前は何を見ていたのだ。教えろ」
 布団に潜り込んだまま、俺は喋った。口元が腫れて、上手く喋れない。布団の外にいる龍翠には、尚更くぐもった声に聞こえただろう。龍翠は、しばらくの間黙っていた。
「客の中に、誰か知り合いでもいたのか」
「……」
「答えろ。頼む、答えてくれ」
「私は、失礼させていただきます。彪林殿」
「待て」
「その事は、お忘れになってください」
「俺の言うことが、聞けないのか」
「お願いです」
 そう言った龍翠の声が、震えていた。何やら、慌ただしい音が聞える。言い終わってすぐに、龍翠は部屋を飛び出して行ったようだった。
 もやもやした心の内が晴れないまま、俺は布団から顔を出した。吸った新鮮な空気が、鼻につん、とくる。
 しばらくして、部屋に誰かが入ってきた。「ご飯です」と言って。龍翠の声ではなかった。


 一ヶ月も経てば、怪我もほとんど癒えていた。龍翠を庇い、自分の顔が使いものにならなくなったことを紅隆様に叱られはしたが、別にどうってことはなかった。俺は前と同じように、自分の犬に稽古をつけたりしていた。他の芸人達は、龍翠の失敗などまるでもう忘れているかのようだった。俺が龍翠の代わりに、殴られたことも。何も変わらない、以前と同じ。ただ変わったのは、龍翠と俺との関係──それから、龍翠自身だった。
 龍翠は、俺をなるべく避けるようになった。いや、俺だけじゃなくて、他の芸人達との関わりも極力控えるようにしていた。何故かは、わからない。だから俺も何かある度に龍翠を呼びつけるようなことはしなかったし、身の回りの世話もさせなくなった。怖くなったんだと思う。誰が。……龍翠が。
 妖艶な雰囲気を称えた笑みが、不気味なものになっている。茶色の大きな瞳には、一筋の光すらも見えない。他の芸人は果たしてその変化に気づいているのか、それともただ単に俺だけがそう思っているのか。見当がつかなかった。
  それから、龍翠は興行の度に派手な化粧をするようになった。ただの化粧ではない。もとの端正な面立ちが分からなくなるくらいに、顔中に色とりどりの模様を描き込むようになったのだ。それはまるで──そう、一言で言えば“化け物”。あまりにも気味の悪い化粧なので、他の芸人が龍翠にやめるよう促したが、龍翠は「紅隆様が何も言わないから」と言って結局やめなかったらしい。しかし、客の評判はとてつもなく良かった。見た目は化け物のようだが、素顔は美女。そういう印象の差異が、客の心を惹き付けたのかもしれない。俺は、そんな龍翠のことを少しこわいと感じるようになった。理由は、何か。奴の変化があまりにも急だったからなのか、もしくは──いや、やっぱりわからなかった。どことなく、わかりたくない気がしていた。

「久しぶりだな。相変わらず、賑やかなこった」
 開封府。ここ最近はそこそこの田舎で興行をしてきたものだから、開封のような大きな城郭に来ると自然と胸が高鳴ってくる。今の自分にもっとも相応しいところが、ここだと思えてくるのだ。
「やっぱり俺は、開封府だ」
「何をかっこつけたようにほざいてる、彪林」 
「だって、高延亮殿もそうは思いませんか。私はあんな田舎などより」
「そうか、お前はそういや田舎生まれだったな」
「……」
 それだけは、言って欲しくなかった。田舎で暮らしていた頃のことは、嫌でも思い出したくない。草の匂い、虫の飛び回る音、埃っぽい土。すべてが、鬱陶しいと感じて仕方なかったのだ、あの頃は。第一そんなものが似合うわけがない、この俺に。俺の皮膚が虫さされで赤く腫れるなんてこと、あっていいはずがない。土で汚れていいはずがない。それよりも、綺麗な着物を着て、こんな城郭を風を切るように歩く。それこそが、俺なのだ。俺のあるべき、本当の姿なのだ。これだけは、今までに信じて疑ったことはなかった。
──俺よりも少し先を歩く、龍翠の方をちらりと見る。人混みに押されそうになりながら、龍翠は辛うじて前についていこうとしていた。
「しかし、人が多いな、ここは」
 高延亮に話しかけられて、俺はふと龍翠の方に寄ろうとした脚を止めた。
「道ぐらい開けろ、とでも言いたくなりますね」
「まあ、俺たちみたいなのを妬んで嫌ってるやつもそれなりにいるからな。城郭が大きくなれば大きくなるほど、そういう人間も増えてくる」
「不細工の分際で」
「それは言い過ぎだと思うぞ、彪林」
 高延亮が、苦笑する。俺も笑ったが、反省はしていなかった。俺は、俺の思うことを言っただけだ。だから、道を開けろ。化粧の濃い女が、俺にわざとらしくぶつかってきた。顔を歪めそうになるのを堪えながら、俺は微笑し、
「すみません」 
 と言った。直ぐに、目を逸らす。女の顔を、見ようとも思わなかった。

 拠点の近くに、ちょっとした広場がある。一通りの準備を終えてから、新人の芸人が客の呼び込みをし始めた。やはり、人が多いだけあって集まってくる客もなかなかのものだった。
「いいぞ、龍翠」
「はい」
 客の前に出てきた龍翠は、やはり……化け物のようだった。思わず俺は、龍翠から目を逸らしてしまう。
「さあさあ皆さま、御注目くださいませ。紅一座の演戯、只今より幕開けしますよ」
 普段の大人しい、静かな口調とは似ても似つかない龍翠の声。集まっていた客の話し声が、少しずつ小さくなっていく。俺は出番が来るまで、端っこで待機する事となっていた。犬達は尻尾を振りながら、俺の近くでじっと座っている。
「さて、わたくしがこの演戯の舞台回し、知る人ぞ知る紅一座の小丑、紅龍翠にございます。東京開封府の皆さま、初めましての方は初めまして」
 ……小丑(※ピエロ)、だと。小丑と言ったのか。初めて聞いた、言葉だった。はっとして、また龍翠の顔を見る。派手な着物に、派手な化粧、それから派手に結い上げられた髪。……小丑、か。なるほど、とうとうお前はそうなってしまったのか。そうなろうと、決めてしまったのか。
「それでは早速参りましょう。まずは私の方から、ひとつ小噺をば」 
 龍翠がいかにも大袈裟に、咳払いをした。目を逸らしたくなる反面、龍翠の隙のない仕草にはやはりどこか惹き付けられるものがある。目を、逸らしたい。こんな龍翠は、見たくない。俺が見たいのは、あの頃の……。
「──ひどくけちん坊なことで有名な国子監の博士が、鶏を一羽殺し、大根といっしょに料理して、二十人あまりの学生を屋敷に招待しました。
殺された鶏は冥土に行き、役人にこう訴えました。
『鶏を殺して料理して、それを客に振る舞うことは、誰しもがやることだと思います。しかし、たった一羽の鶏を二十人あまりもの客にふるまうとは、あまりにもけちではありませんか』
 それを聞いた役人が、言いました。
『いくらなんでも、そのようなしみったれたことをする者があるとは思われぬ。嘘であろう』
『嘘ではございません。一緒に料理された大根が、証言してくれるでしょう』
さっそく大根を呼び出してみると、大根の言うには、
『鶏の言うことは、嘘です。あの日に料理されたのは、間違いなくわたくしだけでした。鶏の肉のかけらさえ、ひとつも見なかったと思います』」
 いくつかの笑い声が、あちこちで起きる。話の内容は大して面白くもないのだが、おそらく人はこの……抑揚のありすぎる、独特な喋り方に惹かれたのだろう。龍翠はいつ、こんな喋り方を身につけたのか。俺にはさっぱりわからなかった。ただ、何度聴いてもぞくりとする。それが感動を意味するものなのか、気味悪さを意味するものなのかも、やはりわからなかった。
「ありがとうございました。次は、我らの誇る芸犬達による演戯です。紅彪林率いる芸犬の曲芸を、ご覧あれ」
 立ち上がった。ここで俺は、龍翠のことを一度忘れなければならない。忘れろ。そう念じると、俺の頭の中は一瞬で別のものに満たされていった。
……そう、俺は、犬芸人──紅彪林。知る人ぞ知る、紅一座の犬芸人。俺は、城郭の匂いしか知らぬ男。草の匂いも虫の音も、今では遠い夢の中。
「では彪林殿、まずはご紹介を」
「ええ」
 微笑みかける。ずらりと並ぶ、輝きのない顔たちに。身なりばかりに手をかけた、腐った開封の人間たちに。次第に優越感が湧き上がってくるのを、俺は快く感じていた。

 ちょうど人の体ひとつ入るくらいの、輪を宙に投げる。その中を、犬が鮮やかにくぐり抜ける。続けて、ふたつ、みっつ。手のひらほどの大きさの、手毬。また投げる。くわえる。繰り返す。流れるように、繰り返されていく。犬と心がひとつにならないと、出来ない技だった。歓声が沸きあがる。
「黒龍、青蘭、劉譲、そうだ──よし、いいぞ」
 犬たちの名前を呼びながら、自分もまた優越感に浸る。一瞬の隙も見せることなく、次から次へと芸を進めていった。歓声が止むことはなく、いつまでも自分の耳にこだましていた。

「紅彪林の犬芸、これにて」
 一通り終えて、最後にそう言い放つ。
 また、俺は客の顔を眺める。ちょっとだけ口角をあげて、微笑んだ。そして一礼……しようとした、ところだった。
 信じられないくらいに、綺麗な顔をした男が奥の方に立っていた。歳は、俺よりも少し下といったところか。まだ、若い。しかし、身なりは驚くほどにきちんとしていた。俺は、頭を下げることが出来なかった。男の俺でも惚れ惚れするような整った顔立ち、一度目を逸らすと消えてしまいそうに思えたからだ。
「……」
ぞくり、とした。男は、涼やかな瞳でこちらをじっと見つめている。この、感覚は。もしや、龍翠も──。
「わん」
犬が、吠えた。弾かれたように、俺は頭を下げる。額には、冷たい汗が滲んでいた。顔を上げる。男の姿は、もう見えなかった。
「お見事、彪林殿。皆さま、もう一度彼に盛大な拍手を」
そう言った龍翠の声が、どことなく乾いているように感じられた。







「またか。あんなものを見て、何が面白いというのだ」
「別に、面白いと思って見ているわけではありません。ただ、くだらないなと」
「ふっ、見くびっているのだな、あの一座を」
「紅彪林。あれは、顔が甘いだけの男ですね。芸の中身など、大したことはない。自分に酔っているという雰囲気ばかりが、鼻につく」
「……ほう。なら、白藍はどうだ」
「やはり、芋虫の身体に綺麗な顔が付いただけでしょう」
「お前、なかなかに性悪だな」
「今更ですか」
「高延亮は?」
「いつか足を滑らせて、死ぬでしょうね」
「張引」
「それは、認めましょう。なかなかの熟練者と見えます」
「何様のつもりだ、お前は」
「あんなことをしながら、顔で稼いでいる。情けない奴らですよ。全員、妓楼に売られてしまえばいいのに」
「男も、か?」
「男色の野郎どもなら、ここには腐るほどいます」
「そっちの方が、売れるかもな」
「綺麗な顔をした奴らが、汚い男に貪られる。想像だけでも、悪くは無いです」 
「……お前、自分の顔を見て……」
「今、何と?」
「何も。ああ、そういや、龍翠ってのはどうだ?」
「龍翠」
「そうだ」


「化け物です、あれは」
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