紅の呪い師

Ryuren

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第三話

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「彪林。お前、今日は調子が優れなかったのかい」
 白藍が言う。やはり、皆気付いていたのだ。先程、高延亮にも同じようなことを言われた。幸い紅隆様には何も言われなかったが、俺の一瞬の戸惑いに気付いていないとは思えなかった。
「……ええ。少し」
「あの日の龍翠と似たような、固まり方だったね。お前は何も、最後の礼を忘れることなどは無いだろうに」
「……」
 龍翠と、同じ。心に引っかかっていたものが、微妙に動いたような心地がする。
「言ってご覧。何か思うことがあるのだろう」
「……実は」
「うん」
 白藍になら、言ってもいいような気がしていた。こんなことを話すような仲ではなかったはずだ。自分もつくづく変わったな、と嫌でも実感する。
「──客の中に、思わず惹き付けられてしまうような……美男がいたのです」
「美男?」
 白藍が一瞬だけ、呆気に取られたような顔をする。そしてすぐに、声を上げて笑いはじめた。
「美男、だと。お前まさか」
「違います。あれは……男の、普通の男の俺であっても、はっとさせられるような、そんな綺麗な顔の男で」
「ふうん。まあいいや、もっと詳しく」
「……その男の顔を見ていると、頭が真っ白になってしまって」
「へえ」
「見事な着物を着ていました。おそらく、宮中の者でないかと」
「宮中、か」
 白藍が、少し考える表情をしてみせる。それから、静かな声で言った。
「田旭(でんきょく)、という男じゃないのかい、それは」
「いえ、名前までは……。白藍殿、ご存知なのですか?」
「噂でちょいとばかり聞いたことがあるんだ。宮中で働く文官に、とんでもない美男子がいるとね。しかも、まだ随分と若いんだと」
「田旭」
 沈黙が、続く。頭の中に、あの男の顔が浮かんできた。もしかしたら、自分より……美男かもしれない。ふと、何かもやもやしたものが心の内に広がってきた。
 白藍に茶を飲ませてやったあと、俺は静かに部屋を出た。



 一週間経った。あと、ひと月は開封府に滞在することになりそうだ。興行のない日は、稽古の合間に買い物に出ることを許されている。俺も夕方になってから、少し市場に出てみようと思った。
 ここは、夕方でも昼でも夜でも多くの人で賑わっている。開封府は、こんなにも人や物で満ち溢れているのだ。各地を旅する芸人にとって、貧しい里や村とどうしても比べてしまっては、複雑な思いに駆られる時がある。自分の両親は、今頃村で元気にやっているのだろうか。考えて、やめた。あそこも、貧しい村だったのだ。役人に税をむしり取られ、病に倒れ、餓死しているかもしれない。自分がいたら、少しは違っただろうか。ああ、やめようと言っているのに。どうしても、考えてしまう。
 ──突然、体に強い衝撃が走った。
「おい、ウスノロ」
 すれ違った図体のでかい男と、肩をぶつけてしまった。思わず苦い顔をしそうになって、慌てて唇を引き締める。男は、ものすごい力で俺の腕を強く掴んだ。
「申し訳ございません。前を見ておらずに……」
 微笑もうとして、顔が引き攣った。これは、女にしか効かないやり方だ。掴まれた腕に、更に力が加わる。
「笑うな。調子に乗りやがって」
「……申し訳……」
 周りの人の視線が、肌に突き刺さってくる。腕が、痛い。このまま折られてしまっても、おかしくはない腕力だと思った。それは、まずい。犬芸人、腕を使い物にならなくしては芸など出来ない。
「腕を、離していただけないでしょうか」
「ああ、離してやるよ。お前のその顔を、一発ぶん殴ってからな」
 拳が、振り上げられた。すん、と腹の底が冷たくなる。嫌だ。殴られる時の痛みなど、俺はもう充分に味わっている。が、どうしようもなかった。暴れようとするも、体はなかなか動かない。
 ぎゅ、と固く目を瞑った。
「お待ちください」
 美しい、声が聞えた。目を開くと、すぐ前に小柄な少女がいた。
「……なんだ、この女」
 龍翠だった。後ろ姿だけで、顔は見えない。龍翠は何も言わずに男の手をとり、中に何かを握らせる。素早い、動作だった。
「これに免じて、どうか」
「……おい。これで黙ると思ってんのか」
「ひれ伏せましょうか。頭を踏みつけるなりなんなり、お好きになさってください」
「やれるもんなら。なあ、ウスノロ。お前より歳下の女が、こう言っているが?」
「やるのは、私です」
「──ほう」
「龍翠」
 地面に座りこもうとした龍翠を、慌てて抱き抱えた。先程解かれた腕が、じんと痛む。もう、無理だ。恥ずかしさで、消えてしまいそうだった。周りに集っている人達のざわつきが、高まる。
「……申し訳ございません、俺が、俺が悪かったのです」
 震える声で、そう言った。こんな、失態。演戯をしている時の俺は、どこに行ったのだ。
「黙れ。いい気味だな、有名一座の芸人も所詮、顔が綺麗なだけのウスノロの集まりなのか」
 男が嘲笑う。顔が、綺麗なだけ。かっ、と頬が熱くなるのを感じた。腹の底から何かが、くつくつと溢れ出してきそうになる。
「彪林殿。離してください」
「うるさい、どうしてお前がそんなことをする必要がある」
「ウスノロ、だから貴様がやれと言っているのだ。早くしろ」
 体が、固まって動かなくなる。残り少ない自尊心を、これ以上ずたずたにされたくはない。こんなことなら、拠点から動くんじゃなかった。そんなことを思っても、もう、後の祭りだ。


「やめよ。見苦しい」
 突然、低い声が辺りに響いた。
「こ、これは……」
 図体のでかい男が、戸惑ったような様子を見せた。声の主の方を見る。背の高い、男だった。この間見た綺麗な顔の男と、似たような着物を着ている。
「何を、肩をぶつけたくらいで。ここは、開封府だ。妓楼の女が自らの体を売るのと同じように、顔を売って生計を立てている者もいる。妬いて、いちいちつまらぬ事で口を出すでない」
 宮中で働く者だと、確信した。それも、かなり上級の。しかし、何かしっくりこない。俺は別に、顔を売って儲けているわけではない。芸をしながら、稼いでいるのだ。そう言ってやりたかったが、やめた。一応、俺はこの男に助けられたのである。
 図体のでかい男は顔を歪め、やがて口ごもりながらそそくさと逃げていった。
「龍翠と言ったな」
 宮中の男が、龍翠の方に近寄る。それからやはり素早い動作で、手に何かを握らせた。
「あの男にどのくらいの額をやったかは、知らぬが」
「……こんな、二倍どころの量ではないじゃありませんか。お返しします」
「黙って受け取れ。それから、簡単に自分の頭を踏ませようとするでない。もっと自分の体を大切にしろ」
「……しかし……」
 男が、踵を返した。龍翠が、ありがとうございますと言って慌てて頭を下げる。集っていた人達が、何やらひそひそと話しながら少しずつ散っていった。
 龍翠が、振り返る。そこではじめて、俺は龍翠の顔を見た。

 頬に、なかったはずの赤い刺青が施されてあった。
「龍翠、お前、それ……」
 龍翠は、暗い色の瞳でじっと俺を見つめてきた。それから低い声で、
「行きましょう」
 と言った。



 人目のつかない、路地裏。俺は近くにあった店で饅頭を二つ買い、龍翠にひとつを手渡した。置かれてあった木箱の上に、二人で腰を下ろす。
「これだから、ここは嫌いです」
 龍翠が饅頭を一口食べ、飲み込んでから言った。確かに、前にここに来た時も龍翠はどことなく調子が悪かった。いや、確かその時に龍翠は歌詞を忘れてしまったのだ。
「ここで一人前の芸が出来る芸人が、本物だろ」
 自分で言いながら、微かな違和感を覚える。一人前、か。一人前の芸人は、ごろつきとぶつかったくらいであんな情けない態度はとらない。
「成程、人が多い分、銭も手に入ります。しかし、面倒な人間は嫌いです」
「あの日の失敗から、開封がこわくなったか」
「……お忘れになってくださいと、言ったはずですが」
 龍翠は眉間に皺を寄せ、勢いよく饅頭にかぶりついた。よくもそんなに、と思うほどの量を頬張っている。
「ひとつ、聞いていいか。俺、お前があの日見たものがなんとなく分かった気がするんだが」
 龍翠の口の動きが、止まった。
「俺もこの間、見た。とんでもない美男子だった」
「……」
「惚れたか」
 言いながら、やるせない気持ちに襲われる。そっけなく言ったつもりが、表情は自分でもわかるくらいに冷たくなっていた。
「……まさか」
「やはり、見たのだな」
「ええ、見ましたよ。田旭というのでしょう」
 龍翠の声音も、やはり冷たい。田旭。名を、知っている。しかし、白藍に聞いて知ったとはどうしても思えなかった。
「男の俺でも、心を奪われそうになった。女が見たら、尚更だろうな」
「……確かに、顔は綺麗ですが」
「が、何だ」
「私たちを、蔑んだような目で見ていた。それが許せなかった」
 怒っている。そんな龍翠に少し、驚いた。
「……お前も、見たのだろう?この間もあの男が見物していったところを」
「開封府に来たら、必ずいます。あの目でちょっとばかり芸を見てから、颯爽と立ち去るのです」
「嫌いか?」
「……はい」
 その言葉を聞いて、安堵している自分がいる。素直に、認めた。しかし、心の内はまだ晴れない。
「惚れてもいないのに、あそこまで動揺するものなのだな」
「……」
「あれがきっかけで、あんな化粧をするようになったのだろう。その刺青は、どうした」
「……これは」
「なぜ、刺青なのだ」
「化粧の手間を、省く為に」
「簡単には消えないというのに。わざわざ痛みにも耐えてまで」
「あのくらい、どうってこと」
 龍翠の饅頭は、もうなくなっていた。対して自分のものは、少しも減っていない。龍翠がいかにも落ち着かない様子で、足をふらふらと揺らしている。
「……俺は、お前のことが知りたい」
 自分の口が、勝手に動く。勝手に。
「……何故?私のことなど」
「知りたい。この際、全部俺に話してみろよ」
「何を」
「どうやって自分がここに来たか。親はどうしたか、とか。この仕事をどう思っているかとか、先輩をどう思っているかとか、俺のことが──好きか、嫌いか」
「何故、知る必要があるのです」
「……好きな女のことを知りたがって、何が悪い!」
 気付かぬうちに、怒鳴ってしまっていた。無性に、泣きたくなってくる。龍翠が、目をこれでもかというくらいに見開いた。
 心臓が、ばくばくと鳴っている。自分が何を言っているのか、分からなくなる。口が、また動く。
「知りたい。だから教えろ、俺の言うことが聞けないのか」
「それは」
「教える、と言え。早く。言え。言ってみろ」
「ちょっと」
「何だ。俺のことが、嫌いか。そうか、あんな理不尽な稽古をつけたのだものな」
「黙ってください」
「何だと」
 龍翠の着物の襟を、強く掴んだ。そのまま、体を揺さぶる。龍翠がぐぅ、と苦しそうな呻き声をあげた。もう、何もかもどうでも良くなってきた。俺は先ほどの、腹いせをしたいだけなのかもしれない。こいつに出会ってから、俺は自分が自分でなくなるような、そんな思いを何度してきただろうか。
「苦、しい」
「俺の心は、もっと苦しい」
「……」
 龍翠の眼の光が、一瞬だけ強くなった。頬の刺青が、龍翠の表情とともに時々燃えるように動く。
 襟を掴んだ手に、力を込めた。


「龍翠、彪林!何をしている」
 張引の、怒鳴り声。熱いものが、すうっと引いていくような心地がした。襟から、手を離す。張引と、紅成様も一緒だった。二人が、路地裏に入ってくる。紅成様の目が、つかの間俺を睨んだように見えた。生意気な目だ、と思った。
「まったく、こんな所で喧嘩などとはな」
 張引が、皺の多い顔をしかめてみせる。幸い、会話の内容までは聞かれていなかったようだった。
「これから戻ります。白藍殿から頼まれた買い物も、終えたことですし」
 龍翠が、何事も無かったかのようにそう言った。ちくり、と胸が痛んだ。先ほどの自分が言ったことは、一体なんだったのだ。怒りが込み上げてきそうになるのを、俺は必死に抑えた。
「行くぞ」
 張引がちょっとだけ俺の方に目をくれ、踵を返す。……まったく、最悪な気分だ。かつてないくらいに。
灰色に淀んだ空を、俺はじっと睨んだ。




「なぜ、助けたのです」
「気に食わなかったか?」
「あなたは、あの芸人どものことが嫌いではなかったのですか?」
「芸人に非は無かろう」
「しかし。銀まであの女に与えるなどと」
「つべこべ言うな。うるさいぞ」
「……」
「田旭」
「はい」
「龍翠という女は、何か違う」
「何か?」
「ああ。興味深い人物だな」
「呂江様が、そう言われるほどの?」
「実際に接してみれば、わかる」
「……へえ」
「お前は、化け物と言っていたがな」
「そうですね」
「興味は、ないか?」
「正直、どうでもいいです」
「……そうか。お前は別のことで、頭がいっぱいだものな」

呂江の言葉には、何も返さなかった。雨の匂いが辺りに漂いはじめているのを、田旭は知らず知らずのうちに感じていた。
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