紅の呪い師

Ryuren

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第十六話

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 赫連定は、私の手当をしながら何度も何度も謝った。僕のせいだ、もっと早く行ってあげれば、君を行かせてしまったのが悪かった……と、かわいそうになるくらいに謝った。それに私は、もういいです、謝らないでください、わたしは大丈夫です……と返すことしかできかった。その度に、赫連定はまた申し訳なさそうな顔をした。それを見て、またまたこっちまで申し訳ない気持ちになった。
「喬は、その王凌という子に髪飾りをとられたらしいんです。それで怒っていたのかと」
「……髪飾り、か」
「何か、思い入れがあるのでしょうか?」
 赫連定が、悲しそうに微笑んだ。
「喬が、ここに来たばかりのころだったかな。僕が昔、開封に行って買ってきたものを喬にあげたことがあるんだ。あんなに大切に持っていてくれてたなんて、今はじめて気付いたよ」
「……」
 この二人の間には、何か特別な繋がりがある。喬が人間を嫌う理由はやはりわからないけれど、それだけは理解した。私なんかが入っちゃいけないような、それほどに尊い繋がり。ふと、兄者のことを思い出した。未だ大事にしまってある、白い貝殻。兄者も、大切に持っていてくれているだろうか。あんな別れ方をしてしまったのが、途端に申し訳なくなってくる。目に涙が滲んできたのを、私はそっと掌で拭った。



「れん」
 驚いた。喬が、私の袖を引いてそう言ったのだ。
「なに?」
「ん」
 喬は、大きな籠を背負っていた。それを見た赫連定が、にっこりと笑う。
「一緒に山菜と薬草を採りに行こう、と言ってるんだよ」
「わたしに?」
「ああ。行ってきなさい」 
 口を開けたまま、私は喬を見る。喬の目が、清々しいくらいに真っ直ぐに私を見つめ返してきた。
「……うん」
  眩しすぎて、逆にこちらの方が目を逸らしてしまう。喬が、私の袖をまた引っ張った。早く、とでも言うかのように。
 軽い足取りで、私は喬について行った。自分の頬が、ほんのりと紅潮しているのに気が付いた。

 日差しが、まだ強い。深い緑色をした木の葉や土の色も、ときどき木漏れ日に照らされて黄金色に輝いていた。喬はやはり、けもの道のように狭い道を早足で歩く。ふいに立ち止まっては、地面に生えている草を少し摘んでいたりした。その動作は機敏で、どんな草なのか確かめるのも私には難しかった。
「……喬、何してるの」
 驚いた。時々、喬は採ったばかりの草を口に入れて咀嚼していたのだ。さすがにそれは、と思う。喬は私の言ったことには耳も傾けずに、ただ変わらず足を早めているだけだった。

 ふと、喬が足を止めた。一つの木を、見上げているようだった。
「れん」
  喬が一度振り返って、今度は木の上を指さした。緑に茂った葉の中に、時々紫色の実のようなものがちらりと見えた。
「わあ」
 ──すももの木、のようだった。開封にいたころに、何度か食べたことがある。喬が木にちょっと登って、実を二つほど採ってきた。
「ん」
 「くれるの?」
 差し出されたひとつを、私は受け取った。喬は黙って、もうひとつの実を齧っていた。
 思い切って、実を口の中に入れる。
 驚いた。開封で食べたものよりも、ずっと美味しいのだ。みずみずしくて、口の中でほどよい酸味の果汁が広がっては、飲み込むのも惜しくなってくるほどに。あっと言う間に、ひとつを平らげた。喬はいつの間にか、籠の中にいくつかの実を入れていた。
「喬、すごいよ。これ、とっても美味しい」
  木に登っていた喬が振り返って、私の目を少しだけ見た。すぐに、別の実に手を伸ばす。私も、木に登った。毛虫がいないかちょっとばかり案じたが、喬はそんなこと塵ほども気にしていないようだった。

 十個あまりを採ったところで、喬が木を降りた。口の周りを果汁で濡らしたまま、私も木を降りる。喬がそれを確認すると、やはりまた早足で歩き出した。慌てて、それについていく。
 気分が、久々に高揚していた。本当に、久々だった。


 喬が摘んだ草を、真似して私も摘んだ。時々、違いがよくわからないものがあったが、喬は私が間違った草を採ると、手ぶりで違うと教えてくれた。そうしていると、だんだんなんとなく違いもわかるようになってきた。薬草なのか、それとも山菜なのかはやはりわからないが、籠が少しずついっぱいになっていくのを見るのは楽しかった。
 手が、土で汚れてきた。着物も汗で濡れはじめて、そろそろ疲労も感じてくる頃。喬はそれでも平然と歩いていたが、さすがに暑いのか下ろしていた髪を綺麗に括りあげた。白いうなじが、顕になる。見てると、ますます男だか女だかわからなくなった。
「……ん」
 喬が、急に小走りになった。待って、と言いかけてやめる。もう、私は走るどころか声をあげる気力すらなかった。
 ふと、喬が振り返って、手招きをした。
「なに?」
 なんとなく、耳をすましてみる。微かに、水の流れる音が聞えた。
「川があるの?」
 途端に、嬉しくなった。私は小走りで、喬のところに行く。下を見下ろすと、そこには確かに小さな川があった。
「すごい……って喬、ちょっと!」
 いきなり、喬が着物を脱ぎ始めた。驚愕して、私はそれを見る。喬は構わずに、着物を脱ぐと川の中に入っていった。また、喬が手招きをする。

「──、」

 思わず、目を逸らしてしまう。……いや、違う。なにか違和感を覚えて、私はもう一度喬の体を見た。声が、喉につっかかって出なくなる。たしかに、その白い上半身は私と同じくらい大人の女の体をしていたが……股間には、正真正銘の──男のものが、付いていたのだ。
「れん?」 
 呼びかけられ、はっとする。喬がもう一度、手招きをした。私は、混乱した。川に入ってこい、と言われている。男なのか、女なのかもわからない、喬に。曖昧に答えを濁していた赫連定の言ったことが、今更になってよくわかった。いや、そんなことはどうでもいい。私は、喬の僅かに膨らんだ胸を見た。思わず凝視してしまうほどに、それはきれいな形をしていた。
「……」
 思い切って、自分も着物を脱ぐ。深く考えるのは、やめよう。喬は、自分と同じ女だと思うことにした。汗で湿った肌が空気に晒され、心地がよくなる。恐る恐る、川に足を踏み入れた。その足を引っ込めそうになるくらい水は冷たかったが、慣れればどうってことはなかった。喬のいるところまで、ゆっくり足を進める。思ったよりも、深かった。腰の辺りまで浸かると、さすがに冷たすぎると思いはじめてきた。喬は、私が近くに来るのを確認すると、いきなり水の中に潜った。どこに行ったと探しているうちに、自分の足を強く掴まれる。次の瞬間、私は勢いよく水中へと引きずり込まれた。
「……!?」
  死ぬ、と思った。ごぼごぼ、と気泡をでたらめに吐き出しながら、私は辛うじて空気中に顔を出す。喬の顔が、目の前にあった。私が「わあ!」と驚くと、喬は白い歯を見せてけらけらと笑った。

 ……笑った。はじめて、喬が笑った。

 つられて、私も笑う。仕返しにと、喬の顔に水をかけた。喬は両手でそれを受け止めて、今度は二倍もの強さにして返してきた。よけようとして、足がすべる。また水中に沈んで、次に起き上がった時には、喬は大声で笑っていた。喬の肩を掴んで、今度は一緒に水の中に飛びこむ。水中でもがきながら、私と喬の体が触れ合った。不思議だった。柔らかい肌はどう考えても女のものなのに、自分の太ももには喬の男根がしっかりと当たっている。不思議で不思議で、それでも不思議と──何故か、それが心地よかった。

 川遊びは、日が暮れるまで続いた。
 
 岸にあがる。改めて、喬の体をよく見た。白いと思っていた肌に、無数の傷跡があるのに気がついた。はっとして、思わずそれに見入る。喬はなんでもないように、乾かしてあった着物を整えていた。
「……喬」
 なんとなく、声をかけてしまった。喬が、こちらをちらりと見る。それから、私の着物を指さした。着ないのか、と言っているようだった。
「──うん、ありがとう」
  気になった。傷跡は、残酷なくらいにたくさんあったのだ。深いものから、浅いものまで。喬の体の不思議さにとらわれすぎて、全く気づかなかった。何か、見てはいけないものを見てしまったような……そんな気分に、駆られる。
「れん」
 呼びかけられる。喬は既に、着物を着こんでしまっていた。
「……帰ろうか」
 私が言ったことを、どれだけ理解しているかはわからない。それでも、喬が頷いたように私には見えた。

 空が、橙色に染まりかけている。



 喬は、迷うことなく帰り道を辿っていった。家に着くと、赫連定がとてもいい笑顔で出迎えてくれた。おつかれさま、夕餉の支度はもうできてるよ、と赫連定が言う。鍋の、いい香りがした。喬は嬉嬉として、籠の中の草や実をひとつひとつ赫連定に見せていた。
「なかなか、良いのをたくさん採ってきたね」
 赫連定の薄い色の唇に、微笑みが浮かぶ。喬が鍋の具を取り分けて、私に差し出した。嬉しかった。前までなら、喬は自分の分を食べ終わるとすぐに自分の部屋に戻って行ってしまっていたのだ。それが、今では私の目をきちんと見て、ご飯まで取り分けてくれている。ふと、目頭が熱くなった。私は小さな声で、ありがとう、と呟いた。
 赫連定の作った鍋が、いつもより美味しく感じる。心のこもった、暖かい食事ができること。その幸せを感じたのは、いつぶりだろうかと思う。……一瞬だけ、思った。すぐに、胸の辺りがざわざわするような、そんな感覚に襲われる。
「……うっ」
 咳き込んだ。気分が、悪い。吐き気がした。胸の中で、何かが渦巻いているような不快感──あの、黒い影か。あの時と、同じ。
「練?」
 激しく咳き込んでいる私の背に、赫連定の掌が触れる。体の中が、だんだんじわりと熱を帯びてきたようになる。その熱は、悲しいと感じるくらいに、ちらちらと燃え上がっていた。
「れん」
 今度は、喬の掌が触れる。しばらくの間、私はうずくまってただ息を荒らげていた。そうしていると、少しずつ鎮まっていくような感じがしてきた。
「もう、大丈夫です。すみません」
「──そうか。なら、よかった。もう少し落ち着いてから、続きを食べなさい」
 赫連定の掌が、優しく私の背を撫でた。顔をあげて、喬を見る。喬は心配そうな目で、私の顔を覗き込んでいた。
「ありがとうございます。ありがとう、喬」
 少し冷めかかった鍋を、もう一度口に入れる。どことなく、落ち着いた気分になった。

「練。もうそろそろ、君のことを話しておこうと思う」

 赫連定が、低い声でそう言った。黒い影が、また渦巻いたような心地がした。
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