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第十七話
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喬が寝静まった頃に、赫連定が口を開いた。辺りは、もう真暗闇である。不安げに揺れる小さな灯火が、赫連定の薄い色の肌を橙に染めあげていた。
「しかし、本当に安心したよ。喬と仲良くなってくれたみたいでね。君たちが出ていった時から、喧嘩して帰ってくるんじゃないかと心配だったんだ」
白い布で覆われた顔から覗く唇に、薄らと笑みが浮かんだ。
「……はい。おかげで、喬のことが少しだけわかったような気がします」
「そうかい。まあ、わかろうと焦るのは良くないことだよ。喬のことを理解したいのであれば、ゆっくり時間をかけた方がいい」
「仰る通りです」
赫連定が、少しだけ顔をあげる。白い布から、片目がちらりと垣間見えた。
「そうだ。じゃあ、君が喬に言葉を教えてくれないかな」
「……言葉、を?」
私も、赫連定の片目を見つめ返す。
「ああ。本当は僕が教えてあげるべきなんだけど、喬とはついつい心の中で会話してしまうんだ。言葉なんかいらない、そんな間柄になってしまってね……僕はなるべく声に出して話しかけようとしているが、喬は必要なこと以外声に出さなくなってしまった。言ったことは理解しているんだろうけど、自分じゃ喋れないんだ」
「……」
「お願いしても、いいかな?」
「はい。頑張ります」
そんなに肩の力を入れなくてもいい、と赫連定が苦笑する。私も、合わせて少し笑った。灯火が、微かに揺らいだ。
しばらくの、沈黙。
「さて、本題に入ろうか」
赫連定が、軽く咳払いをする。空気が張り詰めたような感じが、肌にやんわりと突き刺さってくる。胸の中の黒い影が、身じろぎをしたようだった。
「君とはじめて会ったときから、ただならぬ気配は全身で感じたよ。なんというか……物凄かったね。ああ、とんでもない子が来てしまったなあって」
赫連定が、唇に指を当てた。じっくりと、言葉を選んでいるように私には見えた。
「……黒い、影のようなもの。君の周りから、渦巻くようにして……溢れ出ていた、と言ったらいいのかな。今でも、時々それが見えるよ。さっきも、そうだった」
私は、ただ黙って頷く。
「まあ、まず、君の祖母上の話をしようか。小娥は、ご健勝だったのかな?」
小娥。祖母の名だ。聞いて、ぼんやりとあの穏やかな顔が浮かんできた。
「いえ。晩年は病にかかり、そして死にました」
「──そうか。死ぬ間際に、黒い影を託されたのだな」
「はい。龍翠、という名と共に」
赫連定が、黙り込む。それから、龍翠、と小さな声で呟いた。
改めて、実感する。あの日から、もう一月以上も経っているのだ。そしてようやく、私はすべてを知ることができる。そう思うと、なんだかいてもたってもいられなくなった。
「病か。小娥は、病だったのか」
「ええ。……わたしは、何も知らないのです、赫連定殿。その祖母からは、結局何も伝えられないまま、影と名前を託されました。知りたいのです。父や、母のこと。借金のこと。それを知るために、わたしは開封の暮らしを捨ててここへやって来ました」
言いながら、何故か解き放たれたような気分になる。ここへ来てから、こんなに長く喋ったのは、はじめてのことだった。
「赫連定殿。祖母は、あなたに全てを教えてもらえと言ったのです。教えてください。すべて、一から」
頬が、熱みを帯びてくる。赫連定の目の前に、身を乗り出した。赫連定が、戸惑ったように私の肩に手を置く。それから、落ち着いて、と手で仕草をした。
「小娥が、僕の家に転がり込んで来た日。もう、十年以上も前になるかな」
「……」
赫連定の目が、空虚を見つめている。薄い色の目の、その静かな光を見ていると、紅潮した肌がだんだん元に戻っていくような──そんな感覚を、おぼえた。
*
「赫連定様。あなたが、赫連定様でいらっしゃいますか」
家から少し離れたところで、一人の憔悴した老婆が地に膝をついていた。一目見て、僕は彼女が呪い師だとわかった。自分と同じ呪い師に会うのは、何十年ぶりのことだろうか。そんなことを思いながら、僕は気圧されていた。やはり、老婆の身体中からはこれでもかというくらいに、異様な黒い影が立ち上っていたのだ。僕は老婆に肩を貸して、家の中に招き入れた。作った粥を食べさせながら、僕は老婆にいろいろなことを聞いた。老婆は自らを小娥と名乗り、ここに来たいきさつを少しずつ話してくれた。
「こんな身ですが、生き残った呪い師たちとは、時々ひっそりと連絡を取ることがありました。そんな中で、柊麗という山に住む──赫連定様の呪いの腕は、格別だと聞いておりました。誰もあなたにお会いしたことがないと言うので、半ば幻のようなものだと思っていましたが……」
驚いた。自分がまさか、同族の間でそんなふうに言われているとは思ってもいなかったのだ。小娥はしばらく黙ってから、また口を開いた。
「息子の。息子の怨念を、取り除いて欲しいのです。この身に巣食う、黒い影──あなたにも、見えていなさるでしょう」
そこでようやく、僕は理解した。黒い影の、正体を。怨念だ、と。何故。何に対しての怨みか。取り除けるかはさておいて、僕はそのことについて詳しく教えてくれと頼んだ。
「紅隆という、旅芸人を率いる男が、ある日息子のもとにやってきました。息子の呪いの力を使い、興行で儲けようとしていたのです。息子がその誘いを断り、紅隆を追い出すと、営んでいた薬屋がめっきり売れなくなってしまって」
相槌を打ちながら、僕は小娥の話を聞いていた。──その薬の売れ行きが悪くなり、いよいよ危なくなってきたところに、ひとりの金貸しが息子のもとにやってきたのだという。美しい妻を娶らせる、という条件で、息子はあっさりその男から金を借りた。娶った妻は、本当にとてもつもなく美しかったのだそうだ。
「息子の妻は、裁縫が得意でした。息子は薬屋をやめ、仕立て屋を営み、生計を立てていたのです。妻は気性もよく、穏やかで、非の打ち所のない女性でした。息子は、とことん妻に惚れこんでいました。それはそれはもう、見ているこっちまで幸せな気分になるくらいに。妻の膨らんだ腹をさすりながら、男か女か、名は何にしようかと笑う息子を見ていると、前までの不況など嘘のように思えました。こんな日が、ずっと続いてくれればいいのに。そう、思っていた頃に」
その時流した小娥の涙を、僕ははっきりと覚えている。
「……息子の妻が、死んだのです。出産の際に。娘だけが無事で、悲しげな産声だけが辺りに響いていました。その時から、息子は変りました。魂が抜けたようになって、酒に溺れ、博打ばかりをやるようになったのです。妻を娶らせてくれた例の金貸しから、膨大な借金をしました。ある日、ふらりと息子はどこかに行ったきり、帰ってきませんでした。一週間ほど経った頃に、ある男が息子の亡骸を運んできて……男は、自らを、紅隆と名乗りました」
小娥の体が、震えだした。その背中から、黒い影が渦巻くようにして溢れ出てきたのを、僕はしっかりと目で捉えていた。
「息子の亡骸にしがみついて、私は泣きました。声が枯れるまで、泣きました。その亡骸に触れていると、体の中に何かが入っていくような感じがしました。黒い、影です。息子の、怨念です。紅隆が、笑って言いました。哀れな息子だな、こやつの残した借金は、おまえひとりで俺に返さねばならぬのだぞ……と。私はその時、はじめてすべてを察しました。薬の売れ行きを悪くしたのは、紅隆。金貸しを仕向けたのも、紅隆。美しい女を妻にと娶らせたのも、紅隆。そして、その妻を殺したのも、息子を殺したのも──」
その時、僕は言った。なぜ、そのすべてが紅隆の仕業だとわかるのか、と。小娥は、半ば叫ぶように言った。
「わからないのです。でも、私ではない何かが、そう言っているのです。赫連定様。この黒い影を抱え込んでいると、私はおかしくなります。誰かを傷つけたくて、いてもたってもいられなくなるような、そんな気になってしまうのです。憎い。紅隆が、憎くて憎くてたまらない。私から息子を奪った挙句、この老いぼれた体を虐げまでする、紅隆が。このままでは、唯一の心の支えの、孫も育てられません。こわいのです。孫に手を出してしまったら、それから、私が孫に触れることで、この黒い影が孫に取り憑いてしまわないか、と」
赫連定様、と小娥がむせび泣いた。僕は、戸惑った。いくら腕がいいと言われたところで、怨念を取り除くなどそんなことはできない。僕は、正直に言った。申し訳ないが、僕にはどうすることもできない。あなたを守るのは、無理かもしれない。けれど、お孫さんを守ることなら、できるかもしれない。その怨念を鎮めるには、どうすべきか。それを考えることもできる。少しだけでもいいのなら、僕はあなたの力になろう。
そう言うと、小娥は涙にまみれた顔を更にくしゃくしゃにさせた。その背中に、黒い影は見えなかった。
数日の間、僕は小娥と考えた。まるで医者になった気分で、僕は小娥の黒い影に触れていろいろ確かめてみた。影から、何かを読み取ろうとした。けれど、結局なにも分からなかった。小娥は、我が身がどうなってもかまわないと言った。それよりずっと心配なのは孫のことで、孫に黒い影を背負わせるということだけはしたくないと言った。諦めて、僕はお孫さんを守る方法を考えた。
「怨念が鎮まらぬ限り、黒い影は生者の体を求める。僕はそう見ています。だから、もしあなたがお孫さんに触れれば、黒い影はお孫さんの体に移ってしまう。こういうものは、若い体を好むのですよ」
小娥が、絶望的な顔をした。
「だから、新しい名前を与えましょう。名は呪いの中でも格段と強い呪いです。怨念を近づけさせない、そんな名前……練、はいかがでしょうか」
小娥は、練、と口の中で繰り返した。
「名に、特別な呪いをかけておきます。しかし、いつまでもお孫さんを守ってくれるわけではありません。せいぜい、あなたが生きている間……」
「そんな。では、私が死んだあとは、どうすればよいのですか」
「──仕方がありません。悲しいことですが、お孫さんはその黒い影を背負って生きていかなければならないと思います」
小娥が、俯いた。僕は申し訳なくて、何度も小娥に謝った。小娥は首を振ったが、やはりその素振りはとても悲しそうだった。
「それと……もうひとつ、お約束しましょう。もしあなたが死んでしまった時、お孫さんには僕がすべてを伝えます。いつになるかはわかりませんが、お孫さんのことはすべて僕に任せてください。ただ、何にも囚われない無垢な時間を、少しだけでもお孫さんに生きさせてあげてください」
小娥が、顔をあげた。それからゆっくり、頷いた。すべてを受け入れましょう、と小娥は静かな声で言った。
小娥は、ここに来た時よりもずっと晴れやかな顔をしていた。そして別れ際に、
「これでようやく、龍翠──練と面と向かって目を合わせられます。練を預かって貰っていた御近所様に、胸を張って『孫を返してください』と言えます」
と言った。僕は、小娥の後ろ姿が見えなくなるまで、ずっと外で見送っていた。肌寒い、秋の朝のことだった。
「しかし、本当に安心したよ。喬と仲良くなってくれたみたいでね。君たちが出ていった時から、喧嘩して帰ってくるんじゃないかと心配だったんだ」
白い布で覆われた顔から覗く唇に、薄らと笑みが浮かんだ。
「……はい。おかげで、喬のことが少しだけわかったような気がします」
「そうかい。まあ、わかろうと焦るのは良くないことだよ。喬のことを理解したいのであれば、ゆっくり時間をかけた方がいい」
「仰る通りです」
赫連定が、少しだけ顔をあげる。白い布から、片目がちらりと垣間見えた。
「そうだ。じゃあ、君が喬に言葉を教えてくれないかな」
「……言葉、を?」
私も、赫連定の片目を見つめ返す。
「ああ。本当は僕が教えてあげるべきなんだけど、喬とはついつい心の中で会話してしまうんだ。言葉なんかいらない、そんな間柄になってしまってね……僕はなるべく声に出して話しかけようとしているが、喬は必要なこと以外声に出さなくなってしまった。言ったことは理解しているんだろうけど、自分じゃ喋れないんだ」
「……」
「お願いしても、いいかな?」
「はい。頑張ります」
そんなに肩の力を入れなくてもいい、と赫連定が苦笑する。私も、合わせて少し笑った。灯火が、微かに揺らいだ。
しばらくの、沈黙。
「さて、本題に入ろうか」
赫連定が、軽く咳払いをする。空気が張り詰めたような感じが、肌にやんわりと突き刺さってくる。胸の中の黒い影が、身じろぎをしたようだった。
「君とはじめて会ったときから、ただならぬ気配は全身で感じたよ。なんというか……物凄かったね。ああ、とんでもない子が来てしまったなあって」
赫連定が、唇に指を当てた。じっくりと、言葉を選んでいるように私には見えた。
「……黒い、影のようなもの。君の周りから、渦巻くようにして……溢れ出ていた、と言ったらいいのかな。今でも、時々それが見えるよ。さっきも、そうだった」
私は、ただ黙って頷く。
「まあ、まず、君の祖母上の話をしようか。小娥は、ご健勝だったのかな?」
小娥。祖母の名だ。聞いて、ぼんやりとあの穏やかな顔が浮かんできた。
「いえ。晩年は病にかかり、そして死にました」
「──そうか。死ぬ間際に、黒い影を託されたのだな」
「はい。龍翠、という名と共に」
赫連定が、黙り込む。それから、龍翠、と小さな声で呟いた。
改めて、実感する。あの日から、もう一月以上も経っているのだ。そしてようやく、私はすべてを知ることができる。そう思うと、なんだかいてもたってもいられなくなった。
「病か。小娥は、病だったのか」
「ええ。……わたしは、何も知らないのです、赫連定殿。その祖母からは、結局何も伝えられないまま、影と名前を託されました。知りたいのです。父や、母のこと。借金のこと。それを知るために、わたしは開封の暮らしを捨ててここへやって来ました」
言いながら、何故か解き放たれたような気分になる。ここへ来てから、こんなに長く喋ったのは、はじめてのことだった。
「赫連定殿。祖母は、あなたに全てを教えてもらえと言ったのです。教えてください。すべて、一から」
頬が、熱みを帯びてくる。赫連定の目の前に、身を乗り出した。赫連定が、戸惑ったように私の肩に手を置く。それから、落ち着いて、と手で仕草をした。
「小娥が、僕の家に転がり込んで来た日。もう、十年以上も前になるかな」
「……」
赫連定の目が、空虚を見つめている。薄い色の目の、その静かな光を見ていると、紅潮した肌がだんだん元に戻っていくような──そんな感覚を、おぼえた。
*
「赫連定様。あなたが、赫連定様でいらっしゃいますか」
家から少し離れたところで、一人の憔悴した老婆が地に膝をついていた。一目見て、僕は彼女が呪い師だとわかった。自分と同じ呪い師に会うのは、何十年ぶりのことだろうか。そんなことを思いながら、僕は気圧されていた。やはり、老婆の身体中からはこれでもかというくらいに、異様な黒い影が立ち上っていたのだ。僕は老婆に肩を貸して、家の中に招き入れた。作った粥を食べさせながら、僕は老婆にいろいろなことを聞いた。老婆は自らを小娥と名乗り、ここに来たいきさつを少しずつ話してくれた。
「こんな身ですが、生き残った呪い師たちとは、時々ひっそりと連絡を取ることがありました。そんな中で、柊麗という山に住む──赫連定様の呪いの腕は、格別だと聞いておりました。誰もあなたにお会いしたことがないと言うので、半ば幻のようなものだと思っていましたが……」
驚いた。自分がまさか、同族の間でそんなふうに言われているとは思ってもいなかったのだ。小娥はしばらく黙ってから、また口を開いた。
「息子の。息子の怨念を、取り除いて欲しいのです。この身に巣食う、黒い影──あなたにも、見えていなさるでしょう」
そこでようやく、僕は理解した。黒い影の、正体を。怨念だ、と。何故。何に対しての怨みか。取り除けるかはさておいて、僕はそのことについて詳しく教えてくれと頼んだ。
「紅隆という、旅芸人を率いる男が、ある日息子のもとにやってきました。息子の呪いの力を使い、興行で儲けようとしていたのです。息子がその誘いを断り、紅隆を追い出すと、営んでいた薬屋がめっきり売れなくなってしまって」
相槌を打ちながら、僕は小娥の話を聞いていた。──その薬の売れ行きが悪くなり、いよいよ危なくなってきたところに、ひとりの金貸しが息子のもとにやってきたのだという。美しい妻を娶らせる、という条件で、息子はあっさりその男から金を借りた。娶った妻は、本当にとてもつもなく美しかったのだそうだ。
「息子の妻は、裁縫が得意でした。息子は薬屋をやめ、仕立て屋を営み、生計を立てていたのです。妻は気性もよく、穏やかで、非の打ち所のない女性でした。息子は、とことん妻に惚れこんでいました。それはそれはもう、見ているこっちまで幸せな気分になるくらいに。妻の膨らんだ腹をさすりながら、男か女か、名は何にしようかと笑う息子を見ていると、前までの不況など嘘のように思えました。こんな日が、ずっと続いてくれればいいのに。そう、思っていた頃に」
その時流した小娥の涙を、僕ははっきりと覚えている。
「……息子の妻が、死んだのです。出産の際に。娘だけが無事で、悲しげな産声だけが辺りに響いていました。その時から、息子は変りました。魂が抜けたようになって、酒に溺れ、博打ばかりをやるようになったのです。妻を娶らせてくれた例の金貸しから、膨大な借金をしました。ある日、ふらりと息子はどこかに行ったきり、帰ってきませんでした。一週間ほど経った頃に、ある男が息子の亡骸を運んできて……男は、自らを、紅隆と名乗りました」
小娥の体が、震えだした。その背中から、黒い影が渦巻くようにして溢れ出てきたのを、僕はしっかりと目で捉えていた。
「息子の亡骸にしがみついて、私は泣きました。声が枯れるまで、泣きました。その亡骸に触れていると、体の中に何かが入っていくような感じがしました。黒い、影です。息子の、怨念です。紅隆が、笑って言いました。哀れな息子だな、こやつの残した借金は、おまえひとりで俺に返さねばならぬのだぞ……と。私はその時、はじめてすべてを察しました。薬の売れ行きを悪くしたのは、紅隆。金貸しを仕向けたのも、紅隆。美しい女を妻にと娶らせたのも、紅隆。そして、その妻を殺したのも、息子を殺したのも──」
その時、僕は言った。なぜ、そのすべてが紅隆の仕業だとわかるのか、と。小娥は、半ば叫ぶように言った。
「わからないのです。でも、私ではない何かが、そう言っているのです。赫連定様。この黒い影を抱え込んでいると、私はおかしくなります。誰かを傷つけたくて、いてもたってもいられなくなるような、そんな気になってしまうのです。憎い。紅隆が、憎くて憎くてたまらない。私から息子を奪った挙句、この老いぼれた体を虐げまでする、紅隆が。このままでは、唯一の心の支えの、孫も育てられません。こわいのです。孫に手を出してしまったら、それから、私が孫に触れることで、この黒い影が孫に取り憑いてしまわないか、と」
赫連定様、と小娥がむせび泣いた。僕は、戸惑った。いくら腕がいいと言われたところで、怨念を取り除くなどそんなことはできない。僕は、正直に言った。申し訳ないが、僕にはどうすることもできない。あなたを守るのは、無理かもしれない。けれど、お孫さんを守ることなら、できるかもしれない。その怨念を鎮めるには、どうすべきか。それを考えることもできる。少しだけでもいいのなら、僕はあなたの力になろう。
そう言うと、小娥は涙にまみれた顔を更にくしゃくしゃにさせた。その背中に、黒い影は見えなかった。
数日の間、僕は小娥と考えた。まるで医者になった気分で、僕は小娥の黒い影に触れていろいろ確かめてみた。影から、何かを読み取ろうとした。けれど、結局なにも分からなかった。小娥は、我が身がどうなってもかまわないと言った。それよりずっと心配なのは孫のことで、孫に黒い影を背負わせるということだけはしたくないと言った。諦めて、僕はお孫さんを守る方法を考えた。
「怨念が鎮まらぬ限り、黒い影は生者の体を求める。僕はそう見ています。だから、もしあなたがお孫さんに触れれば、黒い影はお孫さんの体に移ってしまう。こういうものは、若い体を好むのですよ」
小娥が、絶望的な顔をした。
「だから、新しい名前を与えましょう。名は呪いの中でも格段と強い呪いです。怨念を近づけさせない、そんな名前……練、はいかがでしょうか」
小娥は、練、と口の中で繰り返した。
「名に、特別な呪いをかけておきます。しかし、いつまでもお孫さんを守ってくれるわけではありません。せいぜい、あなたが生きている間……」
「そんな。では、私が死んだあとは、どうすればよいのですか」
「──仕方がありません。悲しいことですが、お孫さんはその黒い影を背負って生きていかなければならないと思います」
小娥が、俯いた。僕は申し訳なくて、何度も小娥に謝った。小娥は首を振ったが、やはりその素振りはとても悲しそうだった。
「それと……もうひとつ、お約束しましょう。もしあなたが死んでしまった時、お孫さんには僕がすべてを伝えます。いつになるかはわかりませんが、お孫さんのことはすべて僕に任せてください。ただ、何にも囚われない無垢な時間を、少しだけでもお孫さんに生きさせてあげてください」
小娥が、顔をあげた。それからゆっくり、頷いた。すべてを受け入れましょう、と小娥は静かな声で言った。
小娥は、ここに来た時よりもずっと晴れやかな顔をしていた。そして別れ際に、
「これでようやく、龍翠──練と面と向かって目を合わせられます。練を預かって貰っていた御近所様に、胸を張って『孫を返してください』と言えます」
と言った。僕は、小娥の後ろ姿が見えなくなるまで、ずっと外で見送っていた。肌寒い、秋の朝のことだった。
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