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第二十三話
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白藍殿の部屋に、初めて入った。戸を叩き、返ってきた返事は、清々しいくらいに凛としていた。
「あんたが、龍翠だね」
手足が、ない。いや、それは知っている。白藍殿の芸は、今までに何度も見たことがあるのだ。しかし、それはいつも遠目であって、こんなに間近に彼女の体を見たのは初めてだった。──それは、ともかく。
「白藍殿。こうして喋るのは、初めてですね」
この女は、一体なんなのだ。胸の内が、ざわついた。紅隆を目前にした時と同じような寒気が、背筋を走っていく。それに気づいたのか、白藍殿がちょっと眉間に皺を寄せた。
「……龍翠」
慌てて、姿勢を立て直す。一旦、私は咳払いをして心を鎮めた。
「はい、失礼しました。少し緊張してしまって」
「──そうかい。で、あたしになんの用だい?」
「女としての仕草や、作法を教えていただきたいのです。私には華がない、といつも彪林殿に言われるので」
言うと、白藍殿が含み笑いを漏らした。
「そんなことを聞いてくる娘は、はじめてだね。しかも、手足のないあたしに、仕草だと」
「すみません」
「どれ、龍翠。ちょっと笑ってご覧」
笑った。つもりだった。
「……硬いね。目が笑ってない」
「残念ながら、生憎と元からで」
「そこが問題なんだよ。元から、で済ませちゃいけないんだ」
白藍殿が、にこりと笑う。自然で、春の風が息吹いたような笑い方だった。これに私が近づけるのか、と聊か不安な気持ちになる。
「まず、自分に自信を持ちな。自分がこの世で一番美しい、絶対人気のある芸人になれる、そう思うんだ。私なんか、と思うのは良くないね」
聞きながら、それこそ無理だ、とどうしても思いそうになる。が、寸前で止めた。
「まあ、せめてもの目標があればいい。例えば、自分もこうなりたいと思えるような人を、見つけるとか」
「……そうですね」
しばらくの間、私は考える。
「なら、白藍殿を目標にしても、よろしいでしょうか」
「あたしを?」
白藍が、声を上げて笑った。
「うん、悪い気はしない。頑張るといいさ。そうだ、彪林をも惚れさせるくらいの覚悟でいきな。あたしはあんな気障な男、惚れさせようとは思わないが」
「……それは、私も同じです」
また、白藍殿が笑う。笑い声も、どこまでも透き通って凛としていた。
「冗談だよ。仕草なんかは、観察だね。他の少女がやってるような仕草を、真似すりゃいい。彪林にさ、甘えたような声を出しながら、こう、擦り寄って……」
顔を顰めそうになったのを、私は苦笑でごまかす。そろそろ、例の彪林殿との稽古の時間が近づいてきた。あと少しの間言葉を交わして、私は部屋を出ていこうとした。
「龍翠、あんたの成長を、楽しみにしてるよ。彪林はわけのわからないやつだが、あんたなら耐えられると信じてる」
「ありがとうございます、白藍殿」
部屋を、出た。
はぁ、と息をつく。その場にへたり込みそうになるも、辛うじて私は歩いた。白藍。本当に、あの女は、なんだったのだ。黒い影が、なぜここまでも白藍殿に反応するのか。
知るべきことは、紅隆ひとりのことだけではない。それにはじめて、気がついた。
*
紅隆には、息子がいた。名を紅成と言って、私よりも二つ歳下らしい。まだ手妻の修行中で、張引の弟子なのだそうだが、そもそも人前に出るのを好まないのだという。先輩の芸人たちが、やはり芸人としての華がなく不安だ、と言っているのを聞いた。私と同じだ……と若干親近感がわくも、実際に会ってみると、とてもそんなものではなかった。とにかく、性格が悪い。使用人たちが、互いに紅成様の世話役を押し付けあっているほどだ。だからといって、何故私が時々それを押し付けられるのか、本当に意味がわからなかった。
「失礼します、紅成様……」
「出ていけ。お前に会う気分じゃない」
「お茶を、お持ちしたのですが……」
「要らん。なんだ、とうとう使用人にまで成り下がったのか。一緒に来た女どもに、負けたのだな。俺の予想通りだ」
「いえ、そういうわけでは……」
「早く、出ていけ」
「失礼しました……」
それだけだった。紅成様の部屋に入った使用人は、とことん嫌味を言われて帰ってくるらしい。慣れればまだましに思えてくるが、やはり腹立たしさは込み上げてくるのだという。性悪は彪林殿だけでいい、と私は思った。廊下ですれ違う度にも、紅成様はこっちを睨みつけたり、ひどい時には蹴ったりもしてくる。そんな紅成様に、誰も何も言わないのか。さすがに腹が立ったので、一度かっとなって紅成様を蹴り返したことがある。
「……おい、待て」
「すみません、足が滑りました」
「貴様、この俺を、蹴るだと。出来損ないのくせに」
「ええ、出来損ないなので、ついつい蹴ってしまうのです。残念なことに」
「龍翠、俺はお前を許さない。父上に、クビにしてもらうからな」
父上。紅成様が、紅隆と一緒にいるのを、まだ一度も見たことがない。
「できるものなら」
「なんだと」
紅成様が、私の着物の襟を掴んで、押し倒そうとしてきた。が、想像以上に力が貧弱だ、と思う。つい、笑ってしまった。それを見た紅成様が、顔を怒りで赤黒くして叫ぶ。叫びながら、少し強い力で私は突き放された。
「許さないからな。お前は、お前だけは絶対に、許さない。父上に、絶対にクビにしてもらう。覚悟しとけよ、俺は──」
「所詮、父親が紅隆様というだけでしょう、あなたは」
「……!」
拳が、飛んでくる。かわした。反動で、紅成様がよろける。笑いそうになるのを、今度はぐっと堪えた。
「笑えよ、愚図。笑え、笑いたければ……」
紅成様が、床にへたり込んで、下を向く。背中が、小刻みに震えていた。泣いている、ようだった。驚いた。急に少し、罪悪感が湧きあがってくる。
「……すみません、言いすぎました……」
真面目な顔になって、私も紅成様のそばにしゃがみ込む。肩に手を置きそうになって、やめた。
どうしようと悩んでいるうちに、紅成様は走ってどこかに行ってしまった。遅れて、後悔の波がざっと押し寄せてきた。大人気ないことをしてしまった、と。
*
さすがは、旅芸人だった。各地を渡り歩いては、数日ほど村に滞在し、また別の村へと移動していく。大きな城郭だと、ひと月ほど滞在することもあった。行きたくないと思っていた開封府には、今のところまだ行っていない。でも行く予定はあり、今は少しずつそこに近づいているのだと言われた。そこに行くまでに、歌うたいの女を一人でも完璧に仕上げておけ、と紅隆は言ったらしい。
旅をするのは、楽しかった。開封にいれば確実に見られなかったものが、見えてくるのだ。厳しい稽古に耐えるのも、もうそれほど苦ではなくなってきた。自分なりに修行も詰んで、だいぶ女らしくなったと実感できるようになって──とにかく、いろいろなことが少しずつ変わりはじめてきた。彪林殿は相変わらず。少女たちは、私と目を合わせることもなくなり。先輩の芸人たちの、私を見る目も変わった。以前は蔑んだような目で見られていたのが、感心の目で見られるようになったのだ。
楽しい。そう、思いはじめてきている。歌うこと、喋ること、綺麗な着物を着たり、化粧をすること。ちょっとした表情の動きで、彪林殿をたじろがせることもできる。彪林殿を、越えてやる。いつしか彪林殿に抱いた思いも、今や完全に別のもので塗り替えられていた。寂しい、とは感じなかった。むしろ、こっちの方がずっと心地がいい。自分が、一番だ。誰よりも、自分が優れている。厳しい稽古に耐えた私は、誰よりも強い。そう、思い込むことができるようになった。自分は変わった、と思った。
「久しぶり。元気にしてた?」
三匹の犬たちが、私のもとへ尻尾を振りながら寄ってくる。彪林殿の目を盗んで、時々こうして犬と触れ合うのが、楽しみだった。犬は人間と違って、どこまでも純情だ。それから、たぶん……純粋だったころの私を知っていてくれる、唯一の生きものでもある。
「龍翠」
声。驚いて、後ろを振り返る。──鄭義殿、だった。
「あ、どうも」
「ここの近くの森の奥に、滝があった。見に行かないか」
そう言いながらも、鄭義殿の表情は冷たいものだった。
「……意外ですね。鄭義殿がそんな事を言うとは」
「話したいことがある」
少し不審に思いながら、私は鄭義殿について行った。近ごろは、田舎の村を巡ることが多い。どちらかというと、のどかな村の方が私は好きだった。空気が、どこまでも澄んでいる。自分の心まで澄み渡っていくような、そんな感覚になるのだ。
山道に入り、しばらく歩いた。柊麗のことを思い出して、ふと懐かしく思う。自分は、なんの為に呪いの修行を積んでいたのだろうか。一瞬考えたが、ぱっと思い浮かばなかったので、やめた。
水の音が、近づいてくる。木々を抜けると、小さいが確かに滝があった。
「わあ、綺麗ですね」
思わず、笑みをこぼしてしまう。鄭義殿が、目を見開いてこちらを凝視しているのに気がついた。不思議に思って、私は鄭義殿を見つめ返す。
「……お前、変わったな」
「あんなに、稽古を積みましたもの。変わって当然です」
鄭義殿は、何も言わずに近くの岩に腰掛けた。私も、その隣に座る。
「……」
「話とは、なんですか?」
「いつ言うべきか、迷っていた。いや、聞くと言った方が正しいのかな」
「はい?」
「……お前、どうしてこの一座に入ろうと思った?」
低い、低い声だった。思わず、黙り込んでしまいそうになる。が、怪しまれないように、私はすぐに聞き返した。
「なぜそのようなことを、今?」
「何か別の目的があるんだろう。思いつきで芸人になろう、と思ったとかいうお前の嘘など、最初からとうに気付いていた」
「……何の話を」
しているのだ。その言葉が出てこず、結局最後まで言えなかった。こいつは何者だ、とはじめて思う。私が呪い師であることを、知っているのか。
「話してみろ。本当のことを」
「……知りません。もう、忘れました。自分がなぜ、芸人になろうと思ったのかすらも」
言うと、鄭義殿は少し笑ったようだった。
「そうだな。そのようだ。お前はいかにも、芸人になることを楽しんでいるように見える。愚かだ、所詮その程度なのか」
「……先程から何を、ふわついたことばかり。まずあなたが知っていることを、話したらどうなのですか」
怒り気味に、そう言う。鄭義殿がまた、含み笑いを漏らした。
「──正直に言うと、俺も自分が何をしたいのかがわからない。俺が口を出すべきことではないと、わかってはいるのだがな。珍しく、自分の立ち位置に悩んだ。お前のことが本当に好きならば、俺はお前を助けるつもりでいた。でも今、芸人になることに夢中になっているお前を見て、どうでもよくなった」
何を言っているのだ。本気で、怒りそうになった。辛うじて、震える拳を握りしめる。
「だから、もういい。この話をしたことは、忘れてくれ」
「待ってください。逃げるのですか、散々意味のわからないことまで言っておいて。ちゃんと説明をしてくれるまで、帰しません」
「憤るな。ただ俺は、お前がここへ来た本当の目的を知りたくなっただけだ。まあ、その目的を忘れているようなら、どうでもいいことだがな」
忘れて、いない。言い返そうとして、言葉に詰まる。
──私の、目的は。……紅隆を……。
「それとも、あれか。一人前の芸人になってから、目的を果たす。そういうことなのかな」
「……私は……」
紅隆を殺すために、ここへ来た。でも、それをこの男に言ってはいけない。信用ならない男に、絶対に喋ってはいけないのだ。
「──それとも、どうだ。取り引きをしないか」
鄭義殿が、皮肉な笑みを浮かべる。
「取り引き」
「ああ。俺がなぜ、お前のことをここまで怪しんでいるのか。それを教える代わりに、お前がここへ来た本当の理由を、教えろ」
なんだ。どうでも良くなったと言いながら、結局知りたいのかと思う。この男は、もしかすると私を怒らせたいだけなのかもしれない。
「言ったはずです。理由など忘れた、と」
「お前、嘘が下手なのだな。それじゃあむしろ、何か目的があって来たと言っているようなものだぞ」
「では先に、こちらから聞いてよろしいでしょうか。先程あなたは、『お前のことが本当に好きならば、俺はお前を助けるつもりでいた』と言いましたよね。その意味を、教えていただきたいのですが」
話の内容にそぐわない音が、辺りに響いている。鳥のさえずり、川のせせらぎ。私はそれを、ぼんやりと遠くに聞いていた。
「──仮にお前が、ここへ来た目的を俺に正直に話したとする。そうすれば俺は、お前にとって最も都合のいい味方になってやろう、という話だ。俺が知っていることは、ぜんぶ話す。命をかけてでも、協力してやる」
「なぜ……」
息が、詰まった。頭の中が、だんだん混乱しはじめてくる。構わずに、鄭義殿は喋った。
「お前のことが、好きだからだ。はじめて会った時から、これはと思っていた。何か膨大な気を感じる、とな。俺にとってのお前は、この世で一番興味深い存在だ」
鄭義殿が、にやりと笑う。私は口を半開きにして、その顔を見ていた。しばらくの間、沈黙がその場に流れる。
「……」
「まあ、今すぐにというわけでもない。気が変わったら、いつでも言えよ。──そろそろ彪林が、お前を待っていることだろう。早く行ってやらないと、拗ねるぞ」
そう言って、鄭義殿は去っていった。私は動くこともできずに、その後姿をただ見つめていた。
「あんたが、龍翠だね」
手足が、ない。いや、それは知っている。白藍殿の芸は、今までに何度も見たことがあるのだ。しかし、それはいつも遠目であって、こんなに間近に彼女の体を見たのは初めてだった。──それは、ともかく。
「白藍殿。こうして喋るのは、初めてですね」
この女は、一体なんなのだ。胸の内が、ざわついた。紅隆を目前にした時と同じような寒気が、背筋を走っていく。それに気づいたのか、白藍殿がちょっと眉間に皺を寄せた。
「……龍翠」
慌てて、姿勢を立て直す。一旦、私は咳払いをして心を鎮めた。
「はい、失礼しました。少し緊張してしまって」
「──そうかい。で、あたしになんの用だい?」
「女としての仕草や、作法を教えていただきたいのです。私には華がない、といつも彪林殿に言われるので」
言うと、白藍殿が含み笑いを漏らした。
「そんなことを聞いてくる娘は、はじめてだね。しかも、手足のないあたしに、仕草だと」
「すみません」
「どれ、龍翠。ちょっと笑ってご覧」
笑った。つもりだった。
「……硬いね。目が笑ってない」
「残念ながら、生憎と元からで」
「そこが問題なんだよ。元から、で済ませちゃいけないんだ」
白藍殿が、にこりと笑う。自然で、春の風が息吹いたような笑い方だった。これに私が近づけるのか、と聊か不安な気持ちになる。
「まず、自分に自信を持ちな。自分がこの世で一番美しい、絶対人気のある芸人になれる、そう思うんだ。私なんか、と思うのは良くないね」
聞きながら、それこそ無理だ、とどうしても思いそうになる。が、寸前で止めた。
「まあ、せめてもの目標があればいい。例えば、自分もこうなりたいと思えるような人を、見つけるとか」
「……そうですね」
しばらくの間、私は考える。
「なら、白藍殿を目標にしても、よろしいでしょうか」
「あたしを?」
白藍が、声を上げて笑った。
「うん、悪い気はしない。頑張るといいさ。そうだ、彪林をも惚れさせるくらいの覚悟でいきな。あたしはあんな気障な男、惚れさせようとは思わないが」
「……それは、私も同じです」
また、白藍殿が笑う。笑い声も、どこまでも透き通って凛としていた。
「冗談だよ。仕草なんかは、観察だね。他の少女がやってるような仕草を、真似すりゃいい。彪林にさ、甘えたような声を出しながら、こう、擦り寄って……」
顔を顰めそうになったのを、私は苦笑でごまかす。そろそろ、例の彪林殿との稽古の時間が近づいてきた。あと少しの間言葉を交わして、私は部屋を出ていこうとした。
「龍翠、あんたの成長を、楽しみにしてるよ。彪林はわけのわからないやつだが、あんたなら耐えられると信じてる」
「ありがとうございます、白藍殿」
部屋を、出た。
はぁ、と息をつく。その場にへたり込みそうになるも、辛うじて私は歩いた。白藍。本当に、あの女は、なんだったのだ。黒い影が、なぜここまでも白藍殿に反応するのか。
知るべきことは、紅隆ひとりのことだけではない。それにはじめて、気がついた。
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紅隆には、息子がいた。名を紅成と言って、私よりも二つ歳下らしい。まだ手妻の修行中で、張引の弟子なのだそうだが、そもそも人前に出るのを好まないのだという。先輩の芸人たちが、やはり芸人としての華がなく不安だ、と言っているのを聞いた。私と同じだ……と若干親近感がわくも、実際に会ってみると、とてもそんなものではなかった。とにかく、性格が悪い。使用人たちが、互いに紅成様の世話役を押し付けあっているほどだ。だからといって、何故私が時々それを押し付けられるのか、本当に意味がわからなかった。
「失礼します、紅成様……」
「出ていけ。お前に会う気分じゃない」
「お茶を、お持ちしたのですが……」
「要らん。なんだ、とうとう使用人にまで成り下がったのか。一緒に来た女どもに、負けたのだな。俺の予想通りだ」
「いえ、そういうわけでは……」
「早く、出ていけ」
「失礼しました……」
それだけだった。紅成様の部屋に入った使用人は、とことん嫌味を言われて帰ってくるらしい。慣れればまだましに思えてくるが、やはり腹立たしさは込み上げてくるのだという。性悪は彪林殿だけでいい、と私は思った。廊下ですれ違う度にも、紅成様はこっちを睨みつけたり、ひどい時には蹴ったりもしてくる。そんな紅成様に、誰も何も言わないのか。さすがに腹が立ったので、一度かっとなって紅成様を蹴り返したことがある。
「……おい、待て」
「すみません、足が滑りました」
「貴様、この俺を、蹴るだと。出来損ないのくせに」
「ええ、出来損ないなので、ついつい蹴ってしまうのです。残念なことに」
「龍翠、俺はお前を許さない。父上に、クビにしてもらうからな」
父上。紅成様が、紅隆と一緒にいるのを、まだ一度も見たことがない。
「できるものなら」
「なんだと」
紅成様が、私の着物の襟を掴んで、押し倒そうとしてきた。が、想像以上に力が貧弱だ、と思う。つい、笑ってしまった。それを見た紅成様が、顔を怒りで赤黒くして叫ぶ。叫びながら、少し強い力で私は突き放された。
「許さないからな。お前は、お前だけは絶対に、許さない。父上に、絶対にクビにしてもらう。覚悟しとけよ、俺は──」
「所詮、父親が紅隆様というだけでしょう、あなたは」
「……!」
拳が、飛んでくる。かわした。反動で、紅成様がよろける。笑いそうになるのを、今度はぐっと堪えた。
「笑えよ、愚図。笑え、笑いたければ……」
紅成様が、床にへたり込んで、下を向く。背中が、小刻みに震えていた。泣いている、ようだった。驚いた。急に少し、罪悪感が湧きあがってくる。
「……すみません、言いすぎました……」
真面目な顔になって、私も紅成様のそばにしゃがみ込む。肩に手を置きそうになって、やめた。
どうしようと悩んでいるうちに、紅成様は走ってどこかに行ってしまった。遅れて、後悔の波がざっと押し寄せてきた。大人気ないことをしてしまった、と。
*
さすがは、旅芸人だった。各地を渡り歩いては、数日ほど村に滞在し、また別の村へと移動していく。大きな城郭だと、ひと月ほど滞在することもあった。行きたくないと思っていた開封府には、今のところまだ行っていない。でも行く予定はあり、今は少しずつそこに近づいているのだと言われた。そこに行くまでに、歌うたいの女を一人でも完璧に仕上げておけ、と紅隆は言ったらしい。
旅をするのは、楽しかった。開封にいれば確実に見られなかったものが、見えてくるのだ。厳しい稽古に耐えるのも、もうそれほど苦ではなくなってきた。自分なりに修行も詰んで、だいぶ女らしくなったと実感できるようになって──とにかく、いろいろなことが少しずつ変わりはじめてきた。彪林殿は相変わらず。少女たちは、私と目を合わせることもなくなり。先輩の芸人たちの、私を見る目も変わった。以前は蔑んだような目で見られていたのが、感心の目で見られるようになったのだ。
楽しい。そう、思いはじめてきている。歌うこと、喋ること、綺麗な着物を着たり、化粧をすること。ちょっとした表情の動きで、彪林殿をたじろがせることもできる。彪林殿を、越えてやる。いつしか彪林殿に抱いた思いも、今や完全に別のもので塗り替えられていた。寂しい、とは感じなかった。むしろ、こっちの方がずっと心地がいい。自分が、一番だ。誰よりも、自分が優れている。厳しい稽古に耐えた私は、誰よりも強い。そう、思い込むことができるようになった。自分は変わった、と思った。
「久しぶり。元気にしてた?」
三匹の犬たちが、私のもとへ尻尾を振りながら寄ってくる。彪林殿の目を盗んで、時々こうして犬と触れ合うのが、楽しみだった。犬は人間と違って、どこまでも純情だ。それから、たぶん……純粋だったころの私を知っていてくれる、唯一の生きものでもある。
「龍翠」
声。驚いて、後ろを振り返る。──鄭義殿、だった。
「あ、どうも」
「ここの近くの森の奥に、滝があった。見に行かないか」
そう言いながらも、鄭義殿の表情は冷たいものだった。
「……意外ですね。鄭義殿がそんな事を言うとは」
「話したいことがある」
少し不審に思いながら、私は鄭義殿について行った。近ごろは、田舎の村を巡ることが多い。どちらかというと、のどかな村の方が私は好きだった。空気が、どこまでも澄んでいる。自分の心まで澄み渡っていくような、そんな感覚になるのだ。
山道に入り、しばらく歩いた。柊麗のことを思い出して、ふと懐かしく思う。自分は、なんの為に呪いの修行を積んでいたのだろうか。一瞬考えたが、ぱっと思い浮かばなかったので、やめた。
水の音が、近づいてくる。木々を抜けると、小さいが確かに滝があった。
「わあ、綺麗ですね」
思わず、笑みをこぼしてしまう。鄭義殿が、目を見開いてこちらを凝視しているのに気がついた。不思議に思って、私は鄭義殿を見つめ返す。
「……お前、変わったな」
「あんなに、稽古を積みましたもの。変わって当然です」
鄭義殿は、何も言わずに近くの岩に腰掛けた。私も、その隣に座る。
「……」
「話とは、なんですか?」
「いつ言うべきか、迷っていた。いや、聞くと言った方が正しいのかな」
「はい?」
「……お前、どうしてこの一座に入ろうと思った?」
低い、低い声だった。思わず、黙り込んでしまいそうになる。が、怪しまれないように、私はすぐに聞き返した。
「なぜそのようなことを、今?」
「何か別の目的があるんだろう。思いつきで芸人になろう、と思ったとかいうお前の嘘など、最初からとうに気付いていた」
「……何の話を」
しているのだ。その言葉が出てこず、結局最後まで言えなかった。こいつは何者だ、とはじめて思う。私が呪い師であることを、知っているのか。
「話してみろ。本当のことを」
「……知りません。もう、忘れました。自分がなぜ、芸人になろうと思ったのかすらも」
言うと、鄭義殿は少し笑ったようだった。
「そうだな。そのようだ。お前はいかにも、芸人になることを楽しんでいるように見える。愚かだ、所詮その程度なのか」
「……先程から何を、ふわついたことばかり。まずあなたが知っていることを、話したらどうなのですか」
怒り気味に、そう言う。鄭義殿がまた、含み笑いを漏らした。
「──正直に言うと、俺も自分が何をしたいのかがわからない。俺が口を出すべきことではないと、わかってはいるのだがな。珍しく、自分の立ち位置に悩んだ。お前のことが本当に好きならば、俺はお前を助けるつもりでいた。でも今、芸人になることに夢中になっているお前を見て、どうでもよくなった」
何を言っているのだ。本気で、怒りそうになった。辛うじて、震える拳を握りしめる。
「だから、もういい。この話をしたことは、忘れてくれ」
「待ってください。逃げるのですか、散々意味のわからないことまで言っておいて。ちゃんと説明をしてくれるまで、帰しません」
「憤るな。ただ俺は、お前がここへ来た本当の目的を知りたくなっただけだ。まあ、その目的を忘れているようなら、どうでもいいことだがな」
忘れて、いない。言い返そうとして、言葉に詰まる。
──私の、目的は。……紅隆を……。
「それとも、あれか。一人前の芸人になってから、目的を果たす。そういうことなのかな」
「……私は……」
紅隆を殺すために、ここへ来た。でも、それをこの男に言ってはいけない。信用ならない男に、絶対に喋ってはいけないのだ。
「──それとも、どうだ。取り引きをしないか」
鄭義殿が、皮肉な笑みを浮かべる。
「取り引き」
「ああ。俺がなぜ、お前のことをここまで怪しんでいるのか。それを教える代わりに、お前がここへ来た本当の理由を、教えろ」
なんだ。どうでも良くなったと言いながら、結局知りたいのかと思う。この男は、もしかすると私を怒らせたいだけなのかもしれない。
「言ったはずです。理由など忘れた、と」
「お前、嘘が下手なのだな。それじゃあむしろ、何か目的があって来たと言っているようなものだぞ」
「では先に、こちらから聞いてよろしいでしょうか。先程あなたは、『お前のことが本当に好きならば、俺はお前を助けるつもりでいた』と言いましたよね。その意味を、教えていただきたいのですが」
話の内容にそぐわない音が、辺りに響いている。鳥のさえずり、川のせせらぎ。私はそれを、ぼんやりと遠くに聞いていた。
「──仮にお前が、ここへ来た目的を俺に正直に話したとする。そうすれば俺は、お前にとって最も都合のいい味方になってやろう、という話だ。俺が知っていることは、ぜんぶ話す。命をかけてでも、協力してやる」
「なぜ……」
息が、詰まった。頭の中が、だんだん混乱しはじめてくる。構わずに、鄭義殿は喋った。
「お前のことが、好きだからだ。はじめて会った時から、これはと思っていた。何か膨大な気を感じる、とな。俺にとってのお前は、この世で一番興味深い存在だ」
鄭義殿が、にやりと笑う。私は口を半開きにして、その顔を見ていた。しばらくの間、沈黙がその場に流れる。
「……」
「まあ、今すぐにというわけでもない。気が変わったら、いつでも言えよ。──そろそろ彪林が、お前を待っていることだろう。早く行ってやらないと、拗ねるぞ」
そう言って、鄭義殿は去っていった。私は動くこともできずに、その後姿をただ見つめていた。
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