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第五十九話
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どうして、ここにいるのだろう。考えても、よくわからなかった。こんなことは、はじめてである。ただ、呂江に連れられて外へ出た。呂江は、月が綺麗だから散歩でもしようと言っただけで、ほかには何も語らなかった。
きっと、何か意味はあるはずだ。呂江の意味深長な言動は昔からだが、今度ばかりは何か違うという気がした。宮中を出て、呂江は思ったよりも遠くへと赴いた。一頭の馬に、二人で乗る。自分は、ひとりでは馬には乗れない。男が二人で大丈夫なのかと聞くと、お前は小柄だからいいと言われた。
「何か、気難しい顔をしておられますね」
言って、呂江が黙る。ただの散歩ではない。馬に乗る前の呂江の表情が、そう言っていた。
「じき、わかる」
「そうですか」
何がと詳しく聞いたところで、同じだった。どうしても気になるという、もどかしさもある。だが、大人しく月を眺めていることにした。
「田旭」
「はい」
「練というのは、どういう娘だったのだ?」
呂江が、唐突に聞いてきた。それは、前にも話したような気がする。もう一度話せ、ということなのだろう。
「食いしん坊で、活発で、怠け者でした。ちょっと偉そうで、自由奔放で、茶色の大きな瞳をしていて」
「お前と、似ているようで似ていないな」
「どこがです?」
「いや」
呂江が、後ろで含み笑いを漏らした。思い出が、少しずつ蘇ってくる。活発、か。練の祖母が、病で倒れる前の話だ。
どうして、あんな別れ方をしてしまったのだろう。未だ、夢のようにも思える。しかし、夢ではないのだ。俺はたしかに幼少期を練と過ごして、突然、練は消えてしまった。自分の中の何かが、大きく欠けたようだった。母上が、もっと注意深く見ておくべきだったといつも嘆いていた。練の家族、そして借金がどうという話は、母上からやがて聞いた。練は、きっと金を稼ぐためにひとりで出ていったのだ、と。どれだけ激昂しても、探しても、練は見つからなかった。科挙に向けて、ひたすら勉強するしかなかった。科挙に通って、偉い身分になれば、練を探すのも容易になるかもしれない。一度思うと、それしか考えられなくなった。そしてそれは、今も、だ。
死ぬ思いで勉強をしたら、科挙には通った。呂江という男の、部下として働くようになった。何故かは知らないが、自分の名は瞬く間に開封中に広まった。時には仕事を放ったらかして、練を探しに行った。褒美目当てで、練と称した違う女が連れてこられることも何度もあった。すべてを強く跳ね返して、結局今に至る。いないのだ。練は、見つからない。
探しに行く度に、開封のある旅芸人の芸を見ていた。芸人は、嫌いだった。それなのに、どうしても立ち止まって見てしまう。彪林という男が、芸をしていた。ああ、幼い頃に練と見たことがある。たしかに、あの時と何ら腕前は変わりない。それでも、嫌悪感だけが湧いてきた。龍翠という女は、特にだ。吐き気がするほどに気持ちが悪いのに、やはりどうしても──あの歌声が、頭から離れない。
考えて、ため息をつく。きちんと仕事をしないと、解任だけでは済まないだろう。わかっていても、やめられないのだ。先が、見えなかった。練がいない未来など、もはやただの真暗闇だった。
「下りるぞ」
開封の、外れの方。田畑と、時々小さな森林も見られる。かなり、宮中からは遠い。何故わざわざこんなところにと、考えても無駄なことだった。言われた通りに、馬から下りる。
「生ぬるい風だな」
呂江が、呟く。乾いてはいるが、たしかに生ぬるかった。少々、不気味ささえも感じる。
「気持ちのいい、夜ではないです」
「ほう。わかるのか」
多少、呂江のことばに驚いた。だとしたら、ますますただの散歩ではないはずだ。そろそろ教えてくれても、いいだろうと思う。
「予感がした。だから、お前を連れて出た」
「……どうして、俺を」
呂江は、答えなかった。呂江の勘は、けして侮れない。呪術師の類ではないか、と宮中の人間に噂されるほどだ。呪術師。──本当に不思議な力を使う人間を、俺はひとりしか知らない。
ゆっくりと歩き出す、呂江についていく。何か目的があって歩いているようにも、それとも適当に足を進めているようにも見えた。
人気は、少ない。それなのに、ところどころに立っている木陰には、かならず何かが潜んでいるような気がした。
生ぬるい風。微かに、鉄の嫌な匂いが混じっているように感じる。
「……練」
ふと、声に出してしまった。何故かは、わからない。不意に、呼びたくなったのだ。
「練」
いる。いる、ような気がする。
「呂江様」
振り返る。呂江が、いなくなっていた。何故。いや、自分が呂江から離れているのだ。足が、勝手に動いている。心臓が、暴れはじめた。
「練」
風に乗って、予感だけが流れてくる。気、だ。気配がしている。それは、懐かしくも不穏で、どこか悲しさを帯びていた。
「兄者」
声が、聞えた。確かに。叫んだ。兄者。兄者、と、答えた。
「練!」
夢中になって、ただ声のした方へ駆ける。体中から、何かが溢れてはち切れそうだった。練が、いるのだ。すぐ、そこに。夢ではない。
「──れ……」
いた。少女が、そこに。
目の前に、血みどろになった少女が、立っていた。
*
「練……?」
少女が、微笑む。それから、はっきりとした声で、
「兄者」
と言った。
──頬に、紅い刺青。月明かりに照らされて、それは妖しく、ちらちらと燃え上がっていた。
見覚えがある。いや、あるはずだ。まさか。そんな、はずは、……。
「嘘だ」
「ごめんね」
少女の目から、涙が溢れ出してくる。震える足で、俺はそっと近づいた。嘘だ。練、なのか。本当に。
「本当に」
「ごめんね……」
少女──練の顔が、ぐにゃりと歪んで、やがて俯いた。肩が、震えはじめる。それから、大きな声をあげて、嗚咽した。
「ごめん」
たまらなくなって、俺は練の体を強く抱きしめた。心臓が、破裂しそうだった。何故、謝るのだ。謝るのは、俺の方なのに。どうして。
言葉が、出てこない。ただ涙と、うめき声が溢れるだけだ。練の体が、腕の中で大きく震えている。
何故、気づかなかったのだろう。あんなに近くにいたのに。それどころか、俺は、練の心を抉った。許されない、ことをした。
「ごめんね。わたしの本当の名前、龍翠っていうの」
龍翠。龍翠、ああ、俺は、何て愚かな──。
「わたしは、兄者が望むわたしじゃ、なくなってしまった」
何を、望むというのだ。練は、練なのに。それでも、練をこんな風にしてしまったのは、自分であるということ。紛れもない、事実だった。何て愚かな、人間なのだろう。
「俺は、この世で一番、愚かな人間だ」
更に、涙が溢れ出してくる。咽び泣いた。泣くことしか、できなかった。
練を抱く腕に、更に力を込める。練。そして、龍翠の記憶が、巡っていく。白い、貝殻。震える手で、差し出された。それを、俺は。
「これ……」
練が、自分に抱きついたまま、ひとつの小袋を目の前に差し出してきた。
「何だ」
「銀。兄者の母上に、返して。借金、代わりに返してもらったから」
何を、言っているのだ。
「いるかよ、こんなもん」
小袋を、奪って投げ捨てた。練の肩を掴んで、揺さぶる。
「俺は、お前を連れていく。お前がいなくちゃだめなんだ」
「それは」
「お願いだ。俺はお前に、許されないことをしてしまった。だから、償わせてくれ。俺はどうなってもいい、ただ、お前を幸せにしたい」
「兄者」
「これから、一生離さないって約束する。お前を、絶対に辛い目にはあわせない。今までのことは、何も話さなくてもいい。ぜんぶ綺麗に忘れるくらい、幸せにしてやる。だから」
「駄目なんだよ」
練が、叫んだ。
「……え」
「出来ないんだよ。わたしにはもうできない。わたしは、わたしではない」
「なんで」
「お願い、兄者。殺せって言って。紅隆を、殺せ、って」
声が、出なかった。わけが、わからない。また、泣きたくなった。どうして。どうして、駄目なのか。殺せ、って一体、何のことなのか。
「言ってくれたら、わたしは」
「何を……」
「わたしの心に、もう未練などない」
頬の刺青が、動いた。何か、大きなものを抱えている。目で、わかった。ああ、あの無邪気な目が、こんなにも暗くなってしまったのだ。俺の知らないところで、こんなにも。
「ちゃんと、兄者には話さなくちゃいけない。わたしのこと、ぜんぶ」
俯きながら、練が呟いた。震える手で、その顔を上げさせる。じっと、見つめた。たしかに、練の顔だ。──それでも。どこか、違う。
「わかった」
言うと、練が微かに微笑んだ。昔の面影が、ちょっとだけ蘇った。
「久しぶりに、ふたりで歩こう」
頷く。練の頬にこびり付いていた血を、俺は指先でそっと拭った。
*
自分の家に帰りたい、と練が言った。案外、それは近くだった。今はもう、自分の屋敷の使用人が使っている。もう寝ついたのか、明かりはない。それでも、人が住んでいるということに、練は些か安心したらしかった。家も、新しい家族と幸せに暮らしているのだ、と。
次に、俺の屋敷の前に行った。中に入るかと聞くと、もう遅いから駄目だと言った。
「でも、母上にお前の顔を見せてやらなきゃ」
「ううん。こんな顔、見せられないよ」
言って、練が頬の刺青に手をやる。痛みに耐えてまで、どうして刺青を入れたのか。理由は、何故か聞けなかった。
「のんびりしていられないんだ。早く、行こう」
無理に、視界からこの景色を振り払おうとするかのように、練が踵を返した。固く繋いだ手は、簡単に離れそうにはなかった。少しでも緩めれば、練はまたどこかに消えてしまいそうな気がする。それが、どうしてもこわかった。
ただ、歩いた。話すことは、何もなかった。時々手を握り直したり、抱き合ったり、額をくっつけあったりするだけだ。月明かりが、練の顔を一層妖しく照らした。
夢なのかもしれない。そう、思いはじめてきた。俺は、永遠に覚めない夢を見ているような気がする。だとしたら、哀れなものだ。練は、本当に生きているのか。もしかしたら、既に死んでいるのではないか。そう考えると、胸が苦しくなった。いや、生きているはずだ。こうして握っている手からは、しっかりと熱が伝わってくる。生きている、人間の熱さだった。
「お前、生きてるんだな」
「うん。生きてるんだよ」
練が、不思議そうに自分の掌を見つめて、呟いた。
*
「──紅隆という人が、わたしの父と母を殺したんだって。だからわたしが、復讐を果たしにきた。紅隆は、旅芸人の一座を率いていた」
近くにあった、川の傍。練の目を真っ直ぐ見ながら、俺は黙って話を聞いていた。
「自分を押し殺して、わたしは復讐をしなくちゃならなかったの。紅隆を殺さなければ、この身に巣食う黒い影は晴れない」
「黒い、影?」
「呪い師が強い怨念を抱いたまま死ぬと、それは黒い影となり生き人の胸に巣食う。復讐を、果たすまで」
「……」
「ばあさまが死んだ時、わたしは本当の名前とともに、黒い影をばあさまから授かった。父の怨念だった。それを晴らすことが出来きずに死ねば、また別の生き人に乗り移り、同じ苦しみを抱えることになる。これを果たせるのは、わたししかいないんだ」
何も、言えなかった。言うことも出来なければ、自分には何も出来さえしない。そう考えると、つらくなった。
「今まで、頑張ってたんだよ。ある山で修行を重ねたり、旅芸人の一座に入って、稽古を積んだり。紅隆についても、調べた。殺すべきではない人まで、殺してしまった」
それが、その血だろうか。いや、きっと自分の想像には遠く及ばないことを、練は今までにやってきたのだ。それに対して、自分は。何をやっていたのだろう。
「俺は、お前のことだけを想ってたよ」
「うん、知ってたよ。だから、つらかったの」
「でも」
「いいよ、もう。こうして会えたのが、本当によかった。これで、決心がやっとつく」
「……紅隆を、殺す決心か?」
練が、頷いた。
「兄者とこうして会えて、本当によかった」
言って、練が自分の肩に寄りかかってくる。その体を、また強く抱いた。このまま、連れ去ってしまいたい。怨念なんか、紅隆なんかぜんぶ放り投げて、どこか二人だけの世界に行ってしまいたい。そう思えるのは、きっと自分だけなのだ。だとしても。絶対に、この腕は離したくなかった。
それが許されないのならば、この時よ、永遠に。
目を閉じた。手の中にある練は、昔と変わりないくらい、暖かかった。
きっと、何か意味はあるはずだ。呂江の意味深長な言動は昔からだが、今度ばかりは何か違うという気がした。宮中を出て、呂江は思ったよりも遠くへと赴いた。一頭の馬に、二人で乗る。自分は、ひとりでは馬には乗れない。男が二人で大丈夫なのかと聞くと、お前は小柄だからいいと言われた。
「何か、気難しい顔をしておられますね」
言って、呂江が黙る。ただの散歩ではない。馬に乗る前の呂江の表情が、そう言っていた。
「じき、わかる」
「そうですか」
何がと詳しく聞いたところで、同じだった。どうしても気になるという、もどかしさもある。だが、大人しく月を眺めていることにした。
「田旭」
「はい」
「練というのは、どういう娘だったのだ?」
呂江が、唐突に聞いてきた。それは、前にも話したような気がする。もう一度話せ、ということなのだろう。
「食いしん坊で、活発で、怠け者でした。ちょっと偉そうで、自由奔放で、茶色の大きな瞳をしていて」
「お前と、似ているようで似ていないな」
「どこがです?」
「いや」
呂江が、後ろで含み笑いを漏らした。思い出が、少しずつ蘇ってくる。活発、か。練の祖母が、病で倒れる前の話だ。
どうして、あんな別れ方をしてしまったのだろう。未だ、夢のようにも思える。しかし、夢ではないのだ。俺はたしかに幼少期を練と過ごして、突然、練は消えてしまった。自分の中の何かが、大きく欠けたようだった。母上が、もっと注意深く見ておくべきだったといつも嘆いていた。練の家族、そして借金がどうという話は、母上からやがて聞いた。練は、きっと金を稼ぐためにひとりで出ていったのだ、と。どれだけ激昂しても、探しても、練は見つからなかった。科挙に向けて、ひたすら勉強するしかなかった。科挙に通って、偉い身分になれば、練を探すのも容易になるかもしれない。一度思うと、それしか考えられなくなった。そしてそれは、今も、だ。
死ぬ思いで勉強をしたら、科挙には通った。呂江という男の、部下として働くようになった。何故かは知らないが、自分の名は瞬く間に開封中に広まった。時には仕事を放ったらかして、練を探しに行った。褒美目当てで、練と称した違う女が連れてこられることも何度もあった。すべてを強く跳ね返して、結局今に至る。いないのだ。練は、見つからない。
探しに行く度に、開封のある旅芸人の芸を見ていた。芸人は、嫌いだった。それなのに、どうしても立ち止まって見てしまう。彪林という男が、芸をしていた。ああ、幼い頃に練と見たことがある。たしかに、あの時と何ら腕前は変わりない。それでも、嫌悪感だけが湧いてきた。龍翠という女は、特にだ。吐き気がするほどに気持ちが悪いのに、やはりどうしても──あの歌声が、頭から離れない。
考えて、ため息をつく。きちんと仕事をしないと、解任だけでは済まないだろう。わかっていても、やめられないのだ。先が、見えなかった。練がいない未来など、もはやただの真暗闇だった。
「下りるぞ」
開封の、外れの方。田畑と、時々小さな森林も見られる。かなり、宮中からは遠い。何故わざわざこんなところにと、考えても無駄なことだった。言われた通りに、馬から下りる。
「生ぬるい風だな」
呂江が、呟く。乾いてはいるが、たしかに生ぬるかった。少々、不気味ささえも感じる。
「気持ちのいい、夜ではないです」
「ほう。わかるのか」
多少、呂江のことばに驚いた。だとしたら、ますますただの散歩ではないはずだ。そろそろ教えてくれても、いいだろうと思う。
「予感がした。だから、お前を連れて出た」
「……どうして、俺を」
呂江は、答えなかった。呂江の勘は、けして侮れない。呪術師の類ではないか、と宮中の人間に噂されるほどだ。呪術師。──本当に不思議な力を使う人間を、俺はひとりしか知らない。
ゆっくりと歩き出す、呂江についていく。何か目的があって歩いているようにも、それとも適当に足を進めているようにも見えた。
人気は、少ない。それなのに、ところどころに立っている木陰には、かならず何かが潜んでいるような気がした。
生ぬるい風。微かに、鉄の嫌な匂いが混じっているように感じる。
「……練」
ふと、声に出してしまった。何故かは、わからない。不意に、呼びたくなったのだ。
「練」
いる。いる、ような気がする。
「呂江様」
振り返る。呂江が、いなくなっていた。何故。いや、自分が呂江から離れているのだ。足が、勝手に動いている。心臓が、暴れはじめた。
「練」
風に乗って、予感だけが流れてくる。気、だ。気配がしている。それは、懐かしくも不穏で、どこか悲しさを帯びていた。
「兄者」
声が、聞えた。確かに。叫んだ。兄者。兄者、と、答えた。
「練!」
夢中になって、ただ声のした方へ駆ける。体中から、何かが溢れてはち切れそうだった。練が、いるのだ。すぐ、そこに。夢ではない。
「──れ……」
いた。少女が、そこに。
目の前に、血みどろになった少女が、立っていた。
*
「練……?」
少女が、微笑む。それから、はっきりとした声で、
「兄者」
と言った。
──頬に、紅い刺青。月明かりに照らされて、それは妖しく、ちらちらと燃え上がっていた。
見覚えがある。いや、あるはずだ。まさか。そんな、はずは、……。
「嘘だ」
「ごめんね」
少女の目から、涙が溢れ出してくる。震える足で、俺はそっと近づいた。嘘だ。練、なのか。本当に。
「本当に」
「ごめんね……」
少女──練の顔が、ぐにゃりと歪んで、やがて俯いた。肩が、震えはじめる。それから、大きな声をあげて、嗚咽した。
「ごめん」
たまらなくなって、俺は練の体を強く抱きしめた。心臓が、破裂しそうだった。何故、謝るのだ。謝るのは、俺の方なのに。どうして。
言葉が、出てこない。ただ涙と、うめき声が溢れるだけだ。練の体が、腕の中で大きく震えている。
何故、気づかなかったのだろう。あんなに近くにいたのに。それどころか、俺は、練の心を抉った。許されない、ことをした。
「ごめんね。わたしの本当の名前、龍翠っていうの」
龍翠。龍翠、ああ、俺は、何て愚かな──。
「わたしは、兄者が望むわたしじゃ、なくなってしまった」
何を、望むというのだ。練は、練なのに。それでも、練をこんな風にしてしまったのは、自分であるということ。紛れもない、事実だった。何て愚かな、人間なのだろう。
「俺は、この世で一番、愚かな人間だ」
更に、涙が溢れ出してくる。咽び泣いた。泣くことしか、できなかった。
練を抱く腕に、更に力を込める。練。そして、龍翠の記憶が、巡っていく。白い、貝殻。震える手で、差し出された。それを、俺は。
「これ……」
練が、自分に抱きついたまま、ひとつの小袋を目の前に差し出してきた。
「何だ」
「銀。兄者の母上に、返して。借金、代わりに返してもらったから」
何を、言っているのだ。
「いるかよ、こんなもん」
小袋を、奪って投げ捨てた。練の肩を掴んで、揺さぶる。
「俺は、お前を連れていく。お前がいなくちゃだめなんだ」
「それは」
「お願いだ。俺はお前に、許されないことをしてしまった。だから、償わせてくれ。俺はどうなってもいい、ただ、お前を幸せにしたい」
「兄者」
「これから、一生離さないって約束する。お前を、絶対に辛い目にはあわせない。今までのことは、何も話さなくてもいい。ぜんぶ綺麗に忘れるくらい、幸せにしてやる。だから」
「駄目なんだよ」
練が、叫んだ。
「……え」
「出来ないんだよ。わたしにはもうできない。わたしは、わたしではない」
「なんで」
「お願い、兄者。殺せって言って。紅隆を、殺せ、って」
声が、出なかった。わけが、わからない。また、泣きたくなった。どうして。どうして、駄目なのか。殺せ、って一体、何のことなのか。
「言ってくれたら、わたしは」
「何を……」
「わたしの心に、もう未練などない」
頬の刺青が、動いた。何か、大きなものを抱えている。目で、わかった。ああ、あの無邪気な目が、こんなにも暗くなってしまったのだ。俺の知らないところで、こんなにも。
「ちゃんと、兄者には話さなくちゃいけない。わたしのこと、ぜんぶ」
俯きながら、練が呟いた。震える手で、その顔を上げさせる。じっと、見つめた。たしかに、練の顔だ。──それでも。どこか、違う。
「わかった」
言うと、練が微かに微笑んだ。昔の面影が、ちょっとだけ蘇った。
「久しぶりに、ふたりで歩こう」
頷く。練の頬にこびり付いていた血を、俺は指先でそっと拭った。
*
自分の家に帰りたい、と練が言った。案外、それは近くだった。今はもう、自分の屋敷の使用人が使っている。もう寝ついたのか、明かりはない。それでも、人が住んでいるということに、練は些か安心したらしかった。家も、新しい家族と幸せに暮らしているのだ、と。
次に、俺の屋敷の前に行った。中に入るかと聞くと、もう遅いから駄目だと言った。
「でも、母上にお前の顔を見せてやらなきゃ」
「ううん。こんな顔、見せられないよ」
言って、練が頬の刺青に手をやる。痛みに耐えてまで、どうして刺青を入れたのか。理由は、何故か聞けなかった。
「のんびりしていられないんだ。早く、行こう」
無理に、視界からこの景色を振り払おうとするかのように、練が踵を返した。固く繋いだ手は、簡単に離れそうにはなかった。少しでも緩めれば、練はまたどこかに消えてしまいそうな気がする。それが、どうしてもこわかった。
ただ、歩いた。話すことは、何もなかった。時々手を握り直したり、抱き合ったり、額をくっつけあったりするだけだ。月明かりが、練の顔を一層妖しく照らした。
夢なのかもしれない。そう、思いはじめてきた。俺は、永遠に覚めない夢を見ているような気がする。だとしたら、哀れなものだ。練は、本当に生きているのか。もしかしたら、既に死んでいるのではないか。そう考えると、胸が苦しくなった。いや、生きているはずだ。こうして握っている手からは、しっかりと熱が伝わってくる。生きている、人間の熱さだった。
「お前、生きてるんだな」
「うん。生きてるんだよ」
練が、不思議そうに自分の掌を見つめて、呟いた。
*
「──紅隆という人が、わたしの父と母を殺したんだって。だからわたしが、復讐を果たしにきた。紅隆は、旅芸人の一座を率いていた」
近くにあった、川の傍。練の目を真っ直ぐ見ながら、俺は黙って話を聞いていた。
「自分を押し殺して、わたしは復讐をしなくちゃならなかったの。紅隆を殺さなければ、この身に巣食う黒い影は晴れない」
「黒い、影?」
「呪い師が強い怨念を抱いたまま死ぬと、それは黒い影となり生き人の胸に巣食う。復讐を、果たすまで」
「……」
「ばあさまが死んだ時、わたしは本当の名前とともに、黒い影をばあさまから授かった。父の怨念だった。それを晴らすことが出来きずに死ねば、また別の生き人に乗り移り、同じ苦しみを抱えることになる。これを果たせるのは、わたししかいないんだ」
何も、言えなかった。言うことも出来なければ、自分には何も出来さえしない。そう考えると、つらくなった。
「今まで、頑張ってたんだよ。ある山で修行を重ねたり、旅芸人の一座に入って、稽古を積んだり。紅隆についても、調べた。殺すべきではない人まで、殺してしまった」
それが、その血だろうか。いや、きっと自分の想像には遠く及ばないことを、練は今までにやってきたのだ。それに対して、自分は。何をやっていたのだろう。
「俺は、お前のことだけを想ってたよ」
「うん、知ってたよ。だから、つらかったの」
「でも」
「いいよ、もう。こうして会えたのが、本当によかった。これで、決心がやっとつく」
「……紅隆を、殺す決心か?」
練が、頷いた。
「兄者とこうして会えて、本当によかった」
言って、練が自分の肩に寄りかかってくる。その体を、また強く抱いた。このまま、連れ去ってしまいたい。怨念なんか、紅隆なんかぜんぶ放り投げて、どこか二人だけの世界に行ってしまいたい。そう思えるのは、きっと自分だけなのだ。だとしても。絶対に、この腕は離したくなかった。
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