紅の呪い師

Ryuren

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第六十話

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 世界のすべてを、冷ややかに見ていたつもりだった。いや、世界はなんて冷ややかなものなのだろう、となんとなく感じていたのだと思う。幼い頃から自分には、常人に見えないものが見えるらしかった。呪いの力というものを、見極める目だ。しかし、見えるのはそれだけで、それ以外はすべて『無』に等しかった。気づけば親を亡くした李順とともに、旅芸人の一座にいた。芸もせず、用心棒とも使用人ともならなかった俺は、ただ歩き回らされ、地味な仕事をしていた。紅隆の、欲望のために。時々、早く呪い師を見つけてこい、と理不尽に叱られることがある。適当に、聞き流していた。見つからないものは、見つからないのだから。それにどう反論したところで、また変わらないのも知っていた。

 一座の人間には、自分たちをよく気味悪がられた。多分、俺のことだけなのかもしれなかったが。李順は、まだまともだった。そんな年頃でもないのに、しつこく自分について回ってくるのには、時々鬱陶しいと思ったものの。唯一の、弟のような存在だった。元気に走り回っている李順が、いつも眩しく自分の目に映った。
 南宮水晶、扈珀、紅隆、そして白藍。あの辺りの人間は、自分が見てもどこか不気味だった。あれが大人なのだろうと思っていたが、関わるのだけはいつも避けようとしていた。自分は、言われた仕事だけをしていればいい。何も知らなくてもいい。そう考えると、むしろ芸人よりも楽すぎるような気がした。一生こうして生きるのだと、無意識のうちに受け入れてもいた。



 そんな世界が、途端に色づきはじめた瞬間がある。もう、何年前のことになるだろうか。
 芸人の素質がありそうな人間を、探していた時だった。その時は珍しく一人で仕事をしていたのだが、一人というのはやはり気楽でよかった。適当に街を歩いていると、いかにも目立たない路地裏から、何やら不穏な気配が滲み出ているのを感じた。ふと気になって、路地裏に足を踏み入れる。
 数人の男に囲まれた少年が、地面に倒れていた。
「連れていくぞ」
 男が言うと、他の人間が黙って少年を担いだ。ぼろぼろの布切れのようになった少年が、微かに呻き声を上げる。何故か、体が動いた。こんな光景は、珍しいものではない。それでも、少年の体から薄ら放たれる謎の違和感が、放っておくなと言っていた。
「待て」
 声を、かける。男たちが一斉に振り返って、俺を睨んだ。
「なんだ、お前」
「そいつを、どうする気だ」
「若造には、関係ねえな」
 しばらくの、沈黙。睨むとは違う、真っ直ぐな眼差しで、俺は男から目を逸らさずにいた。舌打ちをして、男のひとりが喋る。
「こいつはな、近所で食料を盗んで回る、盗人集団のひとりなんだよ。こいつを捕まえて、仲間の居場所を聞き出そうとしてんだ」
「……」
「行くぞ」
「待て」
 口が、勝手に動いている。こんなにも、少年の体から何かを感じるとは。『変なもの』かと思ったが、それとはまた違う気がした。
「この銀をやる。だから、そいつを俺にくれないか?」
「……はあ?」
 紅隆から貰って、ずっと使ってこなかった銀を、はじめて差し出した。男の目の色が、変わる。盗っ人ひとりと、価値は大きく違うはずだ。男たちが、黙り込んだ。
「──ほらよ」
 少年が、地面に投げ捨てられる。地に落ちた衝撃で、少年が大きな声をあげた。その姿を横目に、銀を投げる。男たちがそれを拾って、一瞥をくれてから、路地裏から出ていった。

「おい」
 かがみ込んで、少年の上体を起こす。体に触れて、更に違和感が募った。痩せていて、軽すぎる。相当幼い、少年なのだろう。
 長い髪をかきわけ、顔をよく見た。汚れているが、目鼻立ちは整っている。しばらく見つめていると、途端にその目が、かっと開いた。
「触るな」
 言って、少年が飛ぶように起き上がり、後ろに一歩下がった。さすが、盗人である。しかしその目は、微かに怯えたような色をしていた。
「……お前は」
 目を細めて、少年の体を見る。乱れた薄い着物の、胸元の部分がはだけていた。──そこには、僅かだが、膨らみのようなものがあった。
「あっ」
 視線に気づいたのか、少年らしきものが、慌ててその部分を隠す。確信した。同時に、関心も薄れていく。違和感の正体は、これだったのだ。女の、盗人。珍しいが、それだけのこと。ため息をついて、首を振る。銀を無駄にしたと、俺は呆れて立ち上がった。
「どこへ行く」
 女が、刺すような声音で言った。確かに、女の声だ。
「……」
 黙って行くのもと思い、懐の中にあった饅頭をひとつ投げる。ちらりとこちらを窺ってから、女がそれに飛びついた。そのまま、踵を返す。与えた銀のことは忘れよう、と思った。

 少しの間歩いていると、何だか後ろに人の気配があるような気がした。振り返るが、何もない。近くにあった物陰に、わざと入り込んでみた。
「誰だ。出てこい」
 ぴくり、と何かが動いた。影、だった。迷ったように、その影が現れる。
「……」
 先ほどの、女だった。
「何か、俺に用か?」
 女が、俺を睨んだ。鋭い、目付きだった。
「そっちこそ、俺に何の用だ。俺を、村の野郎どもから買ったと思ったら、饅頭ひとつ投げて、逃げやがる」
 女らしくもない、言葉遣い。辛うじて羞恥心があるのみで、あとは根っからの盗人なのだろう、と思った。
「興味深いやつだと思って、買った。しかし、期待を裏切られた。だから捨てた」
「はあ?」
「もう、いい。命を助けてもらったと思って、とっとと去れ」
 早足で、物陰を出る。だが尚も、女は執拗についてきた。鬱陶しくなって、何か良い訳を探し始める。女、か。盗人としては勿体ない、悪くない顔をしていた。

 女は、未だ自分を追ってくる。一刻ほど歩き回ったあと、また物陰に入って、俺は聞いた。
「何故、ついてくる?」
「……」
「飯は、もうやらんぞ」
「……」
 女は黙ったまま、何も答えない。仕方なく、ひとつ提案してみようと思った。先ほど、歩きながら考えていたことだ。
「なあ。お前に少しの、機会を与えてやろうか」
 女の目が、動いた。
「一週間だ。一週間、お前を俺の金でこの村の宿屋に入れておく。一日二食、ちゃんした寝台と、湯浴み付きだ」
「──飯」
 女が、一歩俺に近づいてきた。警戒は未だ解いていないが、表情は僅かに輝いている。
「しかし、条件がある。一週間でお前は、綺麗な言葉遣いと仕草を覚えるのだ。高貴な娘と同じように、な」
「……はあ?」
「一週間経って、良い女になって、それを俺が認めれば、お前は俺に一生ついてきてもかまわん。いい食事も、寝床にも困ることはない」
「ほんとう、か?」
「ああ。信じるか信じないかは、お前の自由だが」
 女が、考える素振りを見せた。やはり、整った顔立ちだった。綺麗な姿での顔を、見てみたい。そういう好奇心が、多少ある。だから、もしかすると──それが見られたら、あっさり捨てるかもしれなかった。
 ここまで変な銭の使い方が、他にあるだろうか。
「女になれば、いいんだよな?」
「高貴な、だ」
「それだけ、なんだな?」
「ああ」
「簡単じゃねえかよ」
 女が、笑った。黙って、俺は上着を一枚脱いで、女の頭から被せた。顔を隠したまま、女の手を引く。されるがままに、女は歩いていた。握っている腕は、あまりにも細すぎた。
 適当な宿屋に入れ、女に湯浴みをさせる。女将に一週間分の料金を渡して、とんだ厄介者だが暴れたら追い出してもらってかまわない、と俺は頭を下げた。

 しばらくの間、待った。

 女が、ぎこちない様子で部屋で待っていた。着物は新しいものに着替えたようで、髪も整えられている。やはり、自分の目に狂いはなかった。感心したように、俺は女の顔を眺める。
「そこら辺の妓楼で一番の女より、綺麗じゃないか」
 女の表情は、動かなかった。目を見開いて、俺の顔を凝視しているだけだ。
 すぐに、夕餉が運ばれてきた。女将が部屋を出ていった途端に、貪るように女が手づかみで食べ始める。これが一週間でなおるのか、と半信半疑だった。いや、自分が教えてやらなければならないのだ。
「……お前、名前は?」
料理を綺麗に食べ終わり、指まで舐めている女が、呟くように聞いてきた。
「鄭義だ」
「ふうん」
「お前は?」
「……ない。仲間からは、狗《コウ 》って呼ばれてた」
 女が、ちょっと指を噛んだ。窺うようにして、先ほどから自分をちらちらと見ている。
 名無し、か。名前は、無いよりもあった方がいい。
「お前、いつから盗人を?」
「わかんねえ。生まれた時からだよ、たぶん。気づいたら、仲間の盗人と一緒に盗みやってたし」
「仲間が、いたのだろう。捨ててきて良かったのか」
 女が、あからさまに嫌そうな顔をした。食べたものをすべて吐き出しそうなくらい、酷い表情だった。
「ふん、あんなやつら。捨てられて当然だ、馬鹿野郎。前はそんなことなかったのに、最近になって俺の着物を、無理やり脱がそうとしてくんだ。嫌なふうに、にやにや笑いながらだよ。気持ち悪い」
「着物を?」
「ああ。だから逃げてきた。なんでって聞いたら、お前は女だから、だと。男と同じように、育ってきたのに」
 目を、伏せる。女が穢れていないということに、俺は聊かほっとした。
「……名前、か」
 しばらくの間、考えていた。姓。一番身近な、人間。そして、昔見聞したことのある名を……。

「李玲玉」

 なんとなく、付けた。深い意味は、なかった。
「?」
「お前の名は、李玲玉だ。いいな」
「──李玲玉」
「そうだ」
 俯きながら、玲玉が何度か、自分の名前を口の中で繰り返す。我ながら、響は悪くないと思った。
「……ふうん。まあ、なんでもいいけどよ」
 玲玉が、ごろりと寝転がる。しつけは、明日からがいいかもしれない。もし一週間で、それなりの女になったとすれば。
 一座に入れてみるのもいい、と考えていた。どっちにしろ、紅隆の前に今の状態では出せない。村を離れるまで、あと一週間。そのうちにどうにかすれば、玲玉の運命は変わる。大きな、分かれ道だった。

 それにしても、やはり綺麗な顔をしている。思わず、ずっと眺めてしまいそうになるくらいだ。すぐにはっとして、俺はいつも床に目をやるのだった。



 それから、俺は毎日玲玉のもとへ通った。簡単な仕草と言葉遣いを教えてから、俺は帰るようにしていた。玲玉は、それこそ必死だった。眉間に皺を寄せながら、懸命に箸を使うのに夢中になっている。それを見るのが、ちょっとだけ好きになった。宿屋の女将とは意気投合したようで、裁縫や家事なども教わっているようだった。

 俺が宿屋に行くと、玲玉はすぐに入口まで走ってきて、自分に飛びついてくる。はじめてのことで、困惑した。お前はやはりまだ犬だと言って、よそを向く。玲玉が自分の手を引いて、身につけたばかりの仕事をこなしてみせた。
「これは、わたくしの、刺繍です」
 ぎこちないが、驚く程に口調は正されている。玲玉が、嬉嬉としてひとつの着物を広げてみせた。小さな花が、端の方に控えめに刺繍されていた。いかにも褒めてほしそうに、玲玉が自分を見ている。「綺麗だな」と、言ってやった。玲玉が、途端に顔を綻ばせた。

 玲玉のもとへいくのが、いつしか楽しみになっていた。

 一週間経つまでの、日数をしっかり数えているのだという。残り二日となれば、玲玉は夜眠りもせず、手先を動かす練習をしているようだった。そんなに焦らなくても、ここでお前を雇って生活させてやるから大丈夫だ、と女将が言ったそうだが、何がなんでも俺についていきたいと言ったらしい。何故と聞いても、玲玉は答えなかった。あんたのことを相当慕っているのだろう、と女将は言った。慕うということがどういうことか、自分にはよくわからなかったが、どうしてかそれが少し、嬉しかった。

「鄭義様」
  玲玉が、しとやかな仕草で挨拶をした。一瞬、本当にあの玲玉なのかと疑った。多少、たじろいでしまう。
「今日で、七日目になります」
 俺の手を取って、玲玉が囁いた。一体どこで、こんなことを覚えたのだろう。胸が、微かにときめくような感覚。なんと答えたらいいかわからずに、俺は黙っていた。
「外を、歩いてみませんか。梅が美しい、と聞きました」
 言われるがままに、外へ出る。夕暮れに、近かった。人は、そこそこ多い。少しだけ混乱した頭で、俺は適当に屋台で飴を買い、玲玉に手渡した。玲玉が、幼い子どものように喜んだ。
 小さな林のそばに、梅の木が立ち並んでいる。仄かな香りが、そっと鼻をついてきた。甘い、それでいてどこかつん、とくるような。玲玉が、飴を口に含みながら、自分の袖を握っている。はじめて会った時の、怯えたような目が一瞬思い出された。自分が、この女を救った。そう考えると、胸の中がはち切れそうな、喜びに似た感情が溢れてきた。
「私は、しあわせです。鄭義様」
 梅の枝に手を伸ばし、花に触れながら玲玉が言う。目頭が、不意に熱くなった。
「あの日から、男という生きものがこわくて、憎らしくなったはずなのに。鄭義様だけは、違いました。私を、嫌な目で見なかった。あなたのその目に、私は惹かれたのです。そして私に、短いながらも、こんなに素晴らしい時間を与えてくださった」
 玲玉の手が、自分の腕に伸びてきた。絡めるようにして、その手をつなぐ。熱かった。すべてが溶けてしまいそうなくらい、熱かった。
「俺のおかげではない。ぜんぶ、お前が努力して、掴んだ幸せだろう」
「鄭義様がいたから、私は頑張れたのです。このお方に、一生ついていきたい、と」
 手に、力が込められる。玲玉の瞳の奥を、じっと見つめた。
「私を、連れて行ってくださりますか?」
 玲玉の顔が、ぐっと近づいた。目が、微かに潤んでいた。厭と、言えるはずがない。絶対に、言えない。
「当たり前だろう」
 一瞬の、間。玲玉が、深く息を吸った。それから、潤んだ瞳から、ぼろぼろと涙を零しはじめた。
「──おい」
 戸惑う。思わず、肩に触れてしまった。次に、玲玉が勢いよく、自分の胸に飛び込んでくる。心臓が、ぎゅうと縮まったような音がした。
 胸の中で、玲玉が嗚咽していた。背中に、腕が回される。頭が、くらくらとした。震える手で、玲玉の体を抱く。暖かかった。この温もりは、自分のものなのだ。信じられずに、それでも尚、実感している。この熱を、熱すぎるほどに。

 目を、閉じた。

 世界が、確かに色づいていた。
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