紅の呪い師

Ryuren

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第六十五話

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 月明かりに照らされた道は、明るい。まるで、自分を行くべきところへ導いているかのようだった。馬を軽く走らせながら、俺は時々空を見上げる。いくつもの星が、ちらちらと瞬いていた。
「ようやく、この時が」
 口角が、自然と動く。実に愉快だった。愉快で、たまらなかった。口元を引き締めないと、思わず声をあげて笑ってしまいそうになる。
 ──ようやく。ああ、どれだけの歳月がかかったことだろう。
 いろいろなことがあった。半ばそれに身を任せるように生きていたが、結果こんなにも上手くいくとは思わなかった。見える。自分の周りに、いくつもの糸が絡み、渦巻いているのが。呪いの力が織り成し、紡ぐ縁。どこかで、目にしたことがあるような言葉だ。なんて美しい、渦なのだろうか。人間の醜い色を帯びて、それはますます魅力的に輝きを増す。そして、最後に最も美しい、そう……あれが解き放たれるのを、この目で見られるのだ。

 実に、愉快だった。もう一度、空を見上げる。少しくらいなら、いいだろう。大きな声で、笑った。妖しく蠢く空に、その声がいっぱいに響いた。気分が、更に高揚した。



「ばか、また泣いてやがるのか。もっと腹が減るぞ」
 拳で、呂江《りょこう》の頭を軽く殴る。しゃがみこんだ呂江が、ひっくと一度しゃくりあげてから、肩を震わせた。腕を掴んで、立たせる。仕方なく、懐から一粒木の実を取り出した。顔を上げさせて、それを無理やり呂江の口の中に入れる。
「ちゃんと噛めよ。限界まで噛むんだ。どろどろになって、味が全くしなくなって、もう水だってなった時に、やっと飲むこむ」
「うん」
 ぐしゃぐしゃになった顔を、呂江が土にまみれた掌で拭った。口の中の小さな木の実を、もの惜しそうにゆっくりと咀嚼している。
「動かないところ、ないか?」
「大丈夫。ぜんぶ動く。でも、痛い」
「痛いは、なしだ。言うなっていったろ」
「ごめん」
 また、呂江の体に新しい痣が増えていた。大した肉もないくせに、いくつかの部分は大きく膨れ上がっている。口の端からは、血が一筋流れ出していた。
「今日は、料理屋のくそ親父に、うさぎを何羽奪われたんだ?」
「ぜんぶだよ。持ってくるのが遅いからって、耳のひとつも残していっちゃくれなかった」
「その上、殴られたのか。くそ以下だな」
 舌打ちをする。ふと、辺りを見回した。誰かひとりでも、大人に聞かれていたらまずい。殴られるだけじゃなくて、殺されるかもしれないのだ。少し声を低めよう、と呂江に合図をした。
「紅隆が、俺たち用にとっておいたうさぎが一羽。料理屋に渡したのは、五羽……か」
「あと二羽くらい、とっとけばよかったな」
「駄目だよ。さすがにばれる」
 話しながら、俺たちは村のはずれの小さな小屋に向った。雨風もまともにしのげない、作りが雑な小屋だ。俺たち子どもが二人で、ぎりぎり入るという広さしかない。寝ても窮屈だったが、寒い夜はそれがよかった。夏は、交代でどちらかが外で寝た。今は、秋だ。そろそろ、夜が冷たくなってくる。
「なあ、紅隆」
「ん」
「料理屋の親父、最近更に意地悪になったよな」
「……」
「紅隆」
「なんだ?」
「いや。やっぱり、なんでもない」
「そうか」
 ──紅隆という名が、ある。あるくせに、自分には生まれた時から親がいなかった。気づけば、呂江と一緒にこの村の奴隷になっていた。村人に虐げられながら、時々餌をもらって、それでも足りなければ自分たちで山へ行って、食料を調達する。汚い水も飲んだ。つらい仕事をした。それでも、呂江がいたから今まで生きてきたのだ。大きくなったら、自分たちだけで早くここを出ていこう。そう約束して、毎日を耐えてきた。

「次から、獲物を届けるのが遅れそうになったら、俺が行く」
 干し肉をしゃぶりながら、呂江が顔を上げる。
「え……」
「俺は、お前よりもちょっと体力がある。それに、我慢強い」
「それは、悪いよ。大丈夫だよ、俺、もう泣いたりしないから」
「ばーか。前もそう言ってたじゃねえか」
「今度は、本当だから。ねえ、今まで通り交代ごうたいでやろう」
 黙って、隠しておいた兎を取り出す。刃物で、捌いた。小屋の中は薄暗い。それでも、大人に見つからないためには、こうして中でやるしかなかった。鼻をつくような匂いが、中に満ちていく。
「紅隆。俺たち、いくつだっけ」
「わかんね」
「仕立て屋のとこの息子さ、十五になったからって、妓楼に行ったらしいぜ。妓楼って、大人が行くところだろう?」
「だから、なんだ」
「俺たちも、十五になったらここを出られる?」
「さあ。いいと思ったら、出られるんじゃないか?」
「今は、まだなのかな」
 ちら、と俺は呂江の目をみた。暗がりでも、呂江の目はよく光っていた。
「お前、ここにおっかさんがいるんだろ。置いてってもいいんなら、いいが」
 呂江が、俯く。──親がいるのは、呂江だけだ。俺も、干し肉の切れ端を口にくわえた。刃物を動かす手は、止めなかった。呂江が、微かに顔を上げた。
「……なあ。干し肉、ちょっと母ちゃんにあげてきていいかな」
 しばらくの、沈黙。こくり、と俺は頷いた。実は、あまり行きたい場所ではない。それでも、呂江ひとりで行かせるのは危険だろう。捌き終わったうさぎを、きちんと整えた。夜は、もうだいぶ更けている。戸を開けると、微かに冷たい空気が流れ込んできた。
「出るぞ」
 呂江が、ゆっくりと立ち上がった。干し肉を、大事そうに手に抱えている。



 小屋から少し離れた場所に、草が不自然に生い茂っているところがある。長い草をかき分けていくと、その奥に洞穴があるのだ。小さなものだが、奥は深い。村人たちが掘ったもので、その中に呂江の母はいた。こっそり取ってきた松明を掲げ、静かにそこに入る。中は、明かりがあっても、暗かった。

 奥の方から、微かにうめき声が聞えてくる。呂江が走って、「俺だよ」とささやいた。うめき声が、それを聞いてすぐに収まった。駆け出した呂江の後ろを、ゆっくりと歩く。鉄格子が、見えてきた。少しそこから離れた場所で、俺は立ち止まって見ていた。
「母ちゃん。ほんの少しだけど、食べ物を持ってきた」
 穴の中は、悪臭に満ちていた。呂江の母の糞便を掃除するのも、僅かな餌をやりに行くのも、俺たちの仕事だ。しかし、その時には見張りがいるから、食べ物を渡すこともできない。鉄格子の中で、何か塊が機敏に動いて、呂江から干し肉を奪い取った。また、うなり声が響く。
「今日のご飯、少なかったもの。足りなかったでしょう」
 優しい声で、呂江が話しかける。黙って、俺は立ったままでいた。干し肉を懸命に食べている塊を、呂江はずっと見守っていた。

 村は、豊かだ。小さくて、他の村からかなり離れたところにありながらも、食べ物で満ち溢れている。そして、銀もだ。着物も。道楽も。村人たちの、笑顔も。
 それがなぜ、こんな風な扱いを受けているものがいるのか。答えは、はっきりしていた。

 呂江の母は、この村で唯一の呪い師だった。

 村人は、呂江の母をここに閉じこめて、母に呪いを使わせることで豊かな暮らしを得ている。
 最初は、何も虐げることもなく、普通に扱っていたらしい。ところが、途中から母が頻繁に呪いを使うことを拒んだ。使いすぎで死ぬのを、恐れたからだ。欲深い人間たちは、母をこんなところに閉じこめて、自分たちが完全に支配できるような状況を作り上げた。何故かはわからないが、それから扱いは酷くなっていくばかりだった。呪い師の子がもっと欲しくて、その母にひとり子を産ませた。それが呂江だ。しかし、母は村人の隙を見て、赤子である呂江から呪いの力を抜き取った。自分のような目にあってほしくない、という理由で、だろう。普通の人間となった呂江は、ある程度育ってから、村の奴隷にされた。俺が一緒に奴隷になった理由は、少し村人から聞いたことがある。自分の両親が生前に、呂江の母を酷く扱うことに反対していたのだという。村人の嫌う夫婦の子など、誰も世話はしたくない。そういうわけらしい。別に、事情を気にしたところで、どうしようもなかった。俺は、呂江と一緒に生きていくことだけを考える。これからの、ことを。それだけで、いいのだった。

「またね。また、来るからね」
 呂江が、立ち上がる。鉄格子から、震える手が伸びてきた。その手を少し握ってから、呂江が振り払うようにこちらへ向かってくる。
「早く、出よう。見つかる前に」
 頷いた。後ろから、「江」と呼ぶ声が響いてくる。呂江が、俯いたまま歩き出した。

 持っている呪いの力を捨てられるなら、呂江の母もそうすればいいのに、と言ったことがある。呂江は、悲しそうに笑って首を振った。確かに、力を捨てれば村人は困るだろう。それでも母は、呪いを使うことで辛うじて生きている今の状況に、縋っているのだと。誰だって、死はこわい。呪いを使っている限り、母は生きられるのだ。そして、母にはまだ、自分がいる。呂江は、静かにそう語った。その目には、やはり複雑な色が浮かんでいた。

 小屋に戻ると、何も言わずに二人で横になった。目を、閉じる。母を連れて逃げられれば、どれほどいいだろうと思った。しかし、今の自分たちには、鍵を見つけ出す力も、鉄格子をこじ開ける力もない。どうしようもない、子どもなのだ。せめて、腹いっぱいになるくらいの食い物があれば。力をつければ、何もかも上手くいくのかもしれなかった。

 隣から、呂江の寝息が聞えてくる。それを聞いているうちに、自分の意識もまた、ぼんやりと遠くなっていった。
 あまりにも空腹で、いつもこのまま死んでしまうのではないかと思えるような──そんな闇への、溶け方だった。
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