2 / 5
2.召喚
しおりを挟む
「おおい、見習い。どこにいるんだ!」
カゲリのどなり声が、部屋の外から聞こえた。ツカは、しかしそれには気を向けず、四つん這いのまま自分の仕事を続けた。
やがて、足音が聞こえ、それが扉の向こうで止まった。そして扉を開こうとして、取っ手ががちゃがちゃと音を立てた。
「ここにいるんだな。」
カゲリは苛立ちの込もった声を上げた。取っ手を動かそうともがいているが、それは少しも動かなかった。それから、先輩は扉を、がんっと乱暴に叩き、苦痛の呻き声を上げた。ツカは、思わず笑いを零した。
「お前、閉ざしの術だけじゃなくて、防御術までかけたのか。まさか、昨日からずっとそこにいるのか。そこでなにしてやがるんだ。」
カゲリはいかりを通り越して、呆れたように言った。
カゲリの言う通り、ツカは師が旅に出て、少しばかり片付けをした後から、ほとんどまる一日中、この呼び出しの間に籠もっていた。もっとも、ツカには時間があやふやで、本当のところいまが昼なのか夜なのかも分からなかった。この作業場には、窓が一つもなく、時間を示すようなものはなにもなかったからだ。ツカの手元を照らす、蝋燭の火から作り出した呪術の灯明の他は、光源すらもどこにもなかった。
ツカはなお無視して、自分の作業を続けた。カゲリはまた声を荒げた。
「とっとと開けろ。でなきゃ、無理やりぶち破ってやるぞ。」
そうして、カゲリはなにやらぶつぶつと呪文を唱えはじめた。さすがに無視できず、ツカはようやく顔を上げ、扉に向いた。
「待てよ。こっちの仕事が終わったら、開けるから。邪魔しないでくれ。」
「なにをやってやがるんだ。おい、答えろ。」
カゲリが叫んだが、ツカはまた無視した。そして最後の仕上げを済ますと、立ち上がって、扉に向けて言った。
「開け。お前たちの仕事は終わった。」
ツカの術が解け、扉を閉ざしていた力が去った。すると、カゲリが勢いよく扉を開いた。扉が壁に当たって、がんっと音を立てた。カゲリは顔を真っ赤にし、いかり心頭といった様子だった。
「お前、なにをして――」
と言いかけて、カゲリはツカの立つ床を見ると、ぎょっとして目を見開いた。その表情を見て、ツカは会心の笑みを浮かべた。
この呼び出しの間には、扉のある手前の壁際に並んだ戸棚を除けば、調度品の類はなかった。だが、石の床には、大きな円が一つ描かれていた。それは両腕を広げた幅よりも二回りほど広く、太い線は彫り込まれ、白い顔料でしっかりと色がつけてあった。
この部屋は召喚の術、つまり隠り世からなにかしらのものを現し世へと引き出す術のために用意された部屋だった。それはもう一方の、占術をはじめとする知識の術を使うための、書き出しの間と対になっていた。書き出しの間が対象を調べることに、呼び出しの間は対象を呼び出すことに使われているのだ。
師のアマミズは、この呼び出しの間を、隠り世から有用な元素的物質を引き出す実験のためにのみ使っていた。それは、現し世と隠り世の狭間にある危険な領域に行かずとも、純粋な元素の結晶を取り出すようにすることが目的だった。それはいまのところ経済的な面では成功していなかったが――術のために費やされる術者の精力と元素が、引き出された元素的物質の量にまったく見合わなかった――、それを実現する方法を探ることが、師の研究だった。
しかし本来は一つしか円のない部屋に、もう一つの円が描かれていた。それは両腕を広げた幅ほどの広さで、線は彫られてはおらず、ただ顔料で描かれているだけだった。
新しく描かれた小さな円の中には、ツカが自信たっぷりに笑みを浮かべながら立っており、もう一方の大きな円には、両手に一抱えほどの土塊が置いてあった。呼び出しの間にもともとあった円と、ツカが描き、自身がそこに立つ円と、大小二つの円、これらを秘術師が見れば、いったい見習いがなにをしようとしているのか、一目ではっきりと知れた。
「……お前、精霊を呼び出す気なのか。」
カゲリが、恐れながら言った。
「そうだ。お前に見せたいもんがあるからな。」
ツカは笑いながら答えた。カゲリの恐れの表情は、見ていて心がすっとした。
二つの円は、精霊の呼び出しのための装置だった。もともと広間に描かれていた円は精霊を閉じ込めるための檻であり、もう一方は、万が一精霊が円を出てしまった場合に術者を守る呪的な防壁だった。新しく描いた小円は、顔料にツカ自身の血が少量混ぜられており、もともとある大円にも、血を混ぜた水が上塗りしてあった。術者の血は、生命、精神、霊魂に関わる術を使うにあたって、最も手っ取り早い材料だった。血の他の材料は、この召喚の間にはじめから備わっていた。
ツカは両手を広げ、呪文を唱えた。その意識は自分の足下の円に向けられていた。
「お前は高き塔、堅固なる壁、我が血より鍛えられた霊なる剣。お前の全き防備を越えうる者はおらず、試みる者あらば刃により血を流さん。お前は高き塔――」
詠唱しながら、ツカは左の手首に走った切り傷を絞り、血を足下に滴らせた。血は床に落ちるや、煙となって消えた。秘術師は、あたりを生ぬるい風が流れたように感じた。術の成功した証拠だった。ツカの立つ円は、今や呪的な防壁となっていた。
ツカが振り返ると、カゲリは歯ぎしりし、美しい顔立ちをいかりに歪ませていた。だがツカに近づいてこようとはしなかった。ツカの作った防壁を、術者以外の者が越えようとすれば、その魂に傷を負うことになるだろうことを、カゲリはもちろん知っていたからだ。
二人は重苦しく沈黙し、見つめ合っていた。やがて、カゲリが押し殺した声で言った。
「止めろ。術を解け。いまなら、まだ、師匠には黙っておいてやる。降霊術がどれだけ危険なものか、分かっているだろう。」
ツカはにやっと笑った。
「知ってるさ。だからやるんだ。――ああ、解呪しようなんてするなよ、怪我するぜ。そのくらいの防御は施してるんだ。」
カゲリはしばし黙った後、大円に置かれた土塊を指して言った。
「大地の精霊を呼び出すつもりか。なにをさせる気なんだ。」
ツカはそれには答えず、ひりひりと切り傷が痛む手首を掲げ、小さな声で呪文を唱えた。肉もまた、大地の領分の一つだった。地の魔術師たるツカは、自分でつけた傷を、たやすく閉じてしまった。それから、ほんの軽いめまいを覚えながら、カゲリの問いに答えた。
「呼び出すのは大地の精霊じゃない。それで目的だけど、とくにない。呼んだら、すぐに送還するさ。」
ツカは自信ありげに笑ったが、しかし冷や汗がこめかみを伝っていた。カゲリはツカの答えに目を見開いた。
「霊鬼を呼び出すつもりなのか!」
カゲリは叫んだ。
「五大の精霊だって危険なんだ。それなのに、想念の精霊だと。止めろ。愚かなことをするな。お前みたいなガキには早すぎる。」
「おれを子ども扱いするな!」
ツカはどなり返し、足を踏み鳴らした。カゲリは嘲った。
「お前は子どもだ、ツカ。お前は幼すぎる。そしてそれ以上に愚かだ。目的もないのに降霊術を使うだと。ばかばかしい上に、危険だ。」
「降霊術くらいなんだってんだ。お前に見せてやる。お前みたいな放蕩者なんかより、おれのほうが上なんだ!」
ツカは大円に向き直った。そして目を瞑り、大きく息を吸って吐くと、呼び出しの術をはじめた。
「血肉の主よ。」
ツカは名を呼びながら、仰ぎ見た。
「血肉の主よ。煮えたぎる血よ。飢え渇く肉よ。淫らなる汚泥よ。たぶらかす鬼よ。淫欲の悪魔よ――」
ツカは無数の名を唱え上げた。それらは、昨日手に取った『精霊の書』に記されていた、ある精霊に属する名前だった。若い秘術師はこれまでにも、この書物を読んで研究していた。いまだ降霊術を実際に使ったことはなかったが、もう十分に学んでいた。それでも恐れは少しは残っていたが、術を使うことができるという確信はあった。
ツカの唱える名を聞いて、カゲリは恐れに喘ぎ、身を引いた。だがツカはそれに気づかなかった。術者の意識は、どこか深いところへと向かっていた。とはいえそれは大地の下方でもなければ、空の向こうでもなく、四方のいずれでもなかった。それは常人には到達できない、呪術師と精霊だけが知る、隠れたところだった。
隠り世の深みへと降りて行きながら、ツカは無数の声を聞いた。しかしそれは虚ろで、どれも意味をなさなかった。隠り世には時がない。無数の声は、これまでに発せられた、そしてこれから発せられる、すべての声の、ほんの一部だった。
ツカは、それらの声には意識を向けなかった。声に引きずられてはいけない。ただ霊鬼の名を呼びながら、降りていった。
長い下降の末、やがて、ツカは霊鬼の名を呼ぶ、他の者の声を聞いた。これこそ、ツカが求めていたものだった。呪術師はそちらに少し気を傾けた。すると、降りるにしたがって、同じ精霊の無数の名を呼ぶ声は少しずつ増えていった。これまで霊鬼を呼んできた、そしてこれから霊鬼を呼ぶであろう、無数の呪術師たちの声の残響であり、兆しだった。ツカはその鳴り響く声に導かれ、旅を続けた。
声とともに降りていくと、突然、ツカは生暖かい湿り気に包まれるような感覚を覚えた。そしてすぐ近くに、大きな力を持った精霊が現れた。ツカは笑った。そして呪術師たちは――その残響と兆しは――、様々な文言で、しかしその意図するところは同じ、一つの命令を下した。
「来い。」
ツカは精霊を捕まえた。そして、自分の肉体へと繋がる魂の靭帯を辿って、速やかに現し世へと舞い上がった。無数の声が甲高く泣き喚くのが聞こえた。
呪術師は目を開けた。すると、両手を上げて見えないなにかを捕まえ、それを大円の中央にある土塊に向けた。そうしながら、呪文を唱えた。
「私はお前を縛る。かつてなされた呪いとこれからなされる呪いによって、私はお前を縛る。隠り世の深みに眠っていた者よ、私はお前を縛る。私の許しがあるまで、この世に縛られ、捕らわれ、繋ぎ止められるべし――」
ツカはそれから、長い詠唱を続けた。額からは汗が流れていた。大円の内にある土塊が、もぞもぞと動き出した。そして、それは水を染み出させ、濡れて黒っぽくなった――いや、それは水ではなかった、液体には違いなかったけれども。それは血だった。土塊は、ツカの作った呪術の灯明の黄色い光に照らされる中、赤黒い色に染まっていった。
やがて、赤黒い土塊は、濡れ濡れと照りはじめた。そしていつのまにか、土塊は、鮮血色の脈打つ肉塊へと変わっていた。そこでようやく、ツカは詠唱を止め、額の汗を拭った。頭がずきずきと痛み、熱感がひどかった。だが、とにかく降霊に成功したのだ。
カゲリのどなり声が、部屋の外から聞こえた。ツカは、しかしそれには気を向けず、四つん這いのまま自分の仕事を続けた。
やがて、足音が聞こえ、それが扉の向こうで止まった。そして扉を開こうとして、取っ手ががちゃがちゃと音を立てた。
「ここにいるんだな。」
カゲリは苛立ちの込もった声を上げた。取っ手を動かそうともがいているが、それは少しも動かなかった。それから、先輩は扉を、がんっと乱暴に叩き、苦痛の呻き声を上げた。ツカは、思わず笑いを零した。
「お前、閉ざしの術だけじゃなくて、防御術までかけたのか。まさか、昨日からずっとそこにいるのか。そこでなにしてやがるんだ。」
カゲリはいかりを通り越して、呆れたように言った。
カゲリの言う通り、ツカは師が旅に出て、少しばかり片付けをした後から、ほとんどまる一日中、この呼び出しの間に籠もっていた。もっとも、ツカには時間があやふやで、本当のところいまが昼なのか夜なのかも分からなかった。この作業場には、窓が一つもなく、時間を示すようなものはなにもなかったからだ。ツカの手元を照らす、蝋燭の火から作り出した呪術の灯明の他は、光源すらもどこにもなかった。
ツカはなお無視して、自分の作業を続けた。カゲリはまた声を荒げた。
「とっとと開けろ。でなきゃ、無理やりぶち破ってやるぞ。」
そうして、カゲリはなにやらぶつぶつと呪文を唱えはじめた。さすがに無視できず、ツカはようやく顔を上げ、扉に向いた。
「待てよ。こっちの仕事が終わったら、開けるから。邪魔しないでくれ。」
「なにをやってやがるんだ。おい、答えろ。」
カゲリが叫んだが、ツカはまた無視した。そして最後の仕上げを済ますと、立ち上がって、扉に向けて言った。
「開け。お前たちの仕事は終わった。」
ツカの術が解け、扉を閉ざしていた力が去った。すると、カゲリが勢いよく扉を開いた。扉が壁に当たって、がんっと音を立てた。カゲリは顔を真っ赤にし、いかり心頭といった様子だった。
「お前、なにをして――」
と言いかけて、カゲリはツカの立つ床を見ると、ぎょっとして目を見開いた。その表情を見て、ツカは会心の笑みを浮かべた。
この呼び出しの間には、扉のある手前の壁際に並んだ戸棚を除けば、調度品の類はなかった。だが、石の床には、大きな円が一つ描かれていた。それは両腕を広げた幅よりも二回りほど広く、太い線は彫り込まれ、白い顔料でしっかりと色がつけてあった。
この部屋は召喚の術、つまり隠り世からなにかしらのものを現し世へと引き出す術のために用意された部屋だった。それはもう一方の、占術をはじめとする知識の術を使うための、書き出しの間と対になっていた。書き出しの間が対象を調べることに、呼び出しの間は対象を呼び出すことに使われているのだ。
師のアマミズは、この呼び出しの間を、隠り世から有用な元素的物質を引き出す実験のためにのみ使っていた。それは、現し世と隠り世の狭間にある危険な領域に行かずとも、純粋な元素の結晶を取り出すようにすることが目的だった。それはいまのところ経済的な面では成功していなかったが――術のために費やされる術者の精力と元素が、引き出された元素的物質の量にまったく見合わなかった――、それを実現する方法を探ることが、師の研究だった。
しかし本来は一つしか円のない部屋に、もう一つの円が描かれていた。それは両腕を広げた幅ほどの広さで、線は彫られてはおらず、ただ顔料で描かれているだけだった。
新しく描かれた小さな円の中には、ツカが自信たっぷりに笑みを浮かべながら立っており、もう一方の大きな円には、両手に一抱えほどの土塊が置いてあった。呼び出しの間にもともとあった円と、ツカが描き、自身がそこに立つ円と、大小二つの円、これらを秘術師が見れば、いったい見習いがなにをしようとしているのか、一目ではっきりと知れた。
「……お前、精霊を呼び出す気なのか。」
カゲリが、恐れながら言った。
「そうだ。お前に見せたいもんがあるからな。」
ツカは笑いながら答えた。カゲリの恐れの表情は、見ていて心がすっとした。
二つの円は、精霊の呼び出しのための装置だった。もともと広間に描かれていた円は精霊を閉じ込めるための檻であり、もう一方は、万が一精霊が円を出てしまった場合に術者を守る呪的な防壁だった。新しく描いた小円は、顔料にツカ自身の血が少量混ぜられており、もともとある大円にも、血を混ぜた水が上塗りしてあった。術者の血は、生命、精神、霊魂に関わる術を使うにあたって、最も手っ取り早い材料だった。血の他の材料は、この召喚の間にはじめから備わっていた。
ツカは両手を広げ、呪文を唱えた。その意識は自分の足下の円に向けられていた。
「お前は高き塔、堅固なる壁、我が血より鍛えられた霊なる剣。お前の全き防備を越えうる者はおらず、試みる者あらば刃により血を流さん。お前は高き塔――」
詠唱しながら、ツカは左の手首に走った切り傷を絞り、血を足下に滴らせた。血は床に落ちるや、煙となって消えた。秘術師は、あたりを生ぬるい風が流れたように感じた。術の成功した証拠だった。ツカの立つ円は、今や呪的な防壁となっていた。
ツカが振り返ると、カゲリは歯ぎしりし、美しい顔立ちをいかりに歪ませていた。だがツカに近づいてこようとはしなかった。ツカの作った防壁を、術者以外の者が越えようとすれば、その魂に傷を負うことになるだろうことを、カゲリはもちろん知っていたからだ。
二人は重苦しく沈黙し、見つめ合っていた。やがて、カゲリが押し殺した声で言った。
「止めろ。術を解け。いまなら、まだ、師匠には黙っておいてやる。降霊術がどれだけ危険なものか、分かっているだろう。」
ツカはにやっと笑った。
「知ってるさ。だからやるんだ。――ああ、解呪しようなんてするなよ、怪我するぜ。そのくらいの防御は施してるんだ。」
カゲリはしばし黙った後、大円に置かれた土塊を指して言った。
「大地の精霊を呼び出すつもりか。なにをさせる気なんだ。」
ツカはそれには答えず、ひりひりと切り傷が痛む手首を掲げ、小さな声で呪文を唱えた。肉もまた、大地の領分の一つだった。地の魔術師たるツカは、自分でつけた傷を、たやすく閉じてしまった。それから、ほんの軽いめまいを覚えながら、カゲリの問いに答えた。
「呼び出すのは大地の精霊じゃない。それで目的だけど、とくにない。呼んだら、すぐに送還するさ。」
ツカは自信ありげに笑ったが、しかし冷や汗がこめかみを伝っていた。カゲリはツカの答えに目を見開いた。
「霊鬼を呼び出すつもりなのか!」
カゲリは叫んだ。
「五大の精霊だって危険なんだ。それなのに、想念の精霊だと。止めろ。愚かなことをするな。お前みたいなガキには早すぎる。」
「おれを子ども扱いするな!」
ツカはどなり返し、足を踏み鳴らした。カゲリは嘲った。
「お前は子どもだ、ツカ。お前は幼すぎる。そしてそれ以上に愚かだ。目的もないのに降霊術を使うだと。ばかばかしい上に、危険だ。」
「降霊術くらいなんだってんだ。お前に見せてやる。お前みたいな放蕩者なんかより、おれのほうが上なんだ!」
ツカは大円に向き直った。そして目を瞑り、大きく息を吸って吐くと、呼び出しの術をはじめた。
「血肉の主よ。」
ツカは名を呼びながら、仰ぎ見た。
「血肉の主よ。煮えたぎる血よ。飢え渇く肉よ。淫らなる汚泥よ。たぶらかす鬼よ。淫欲の悪魔よ――」
ツカは無数の名を唱え上げた。それらは、昨日手に取った『精霊の書』に記されていた、ある精霊に属する名前だった。若い秘術師はこれまでにも、この書物を読んで研究していた。いまだ降霊術を実際に使ったことはなかったが、もう十分に学んでいた。それでも恐れは少しは残っていたが、術を使うことができるという確信はあった。
ツカの唱える名を聞いて、カゲリは恐れに喘ぎ、身を引いた。だがツカはそれに気づかなかった。術者の意識は、どこか深いところへと向かっていた。とはいえそれは大地の下方でもなければ、空の向こうでもなく、四方のいずれでもなかった。それは常人には到達できない、呪術師と精霊だけが知る、隠れたところだった。
隠り世の深みへと降りて行きながら、ツカは無数の声を聞いた。しかしそれは虚ろで、どれも意味をなさなかった。隠り世には時がない。無数の声は、これまでに発せられた、そしてこれから発せられる、すべての声の、ほんの一部だった。
ツカは、それらの声には意識を向けなかった。声に引きずられてはいけない。ただ霊鬼の名を呼びながら、降りていった。
長い下降の末、やがて、ツカは霊鬼の名を呼ぶ、他の者の声を聞いた。これこそ、ツカが求めていたものだった。呪術師はそちらに少し気を傾けた。すると、降りるにしたがって、同じ精霊の無数の名を呼ぶ声は少しずつ増えていった。これまで霊鬼を呼んできた、そしてこれから霊鬼を呼ぶであろう、無数の呪術師たちの声の残響であり、兆しだった。ツカはその鳴り響く声に導かれ、旅を続けた。
声とともに降りていくと、突然、ツカは生暖かい湿り気に包まれるような感覚を覚えた。そしてすぐ近くに、大きな力を持った精霊が現れた。ツカは笑った。そして呪術師たちは――その残響と兆しは――、様々な文言で、しかしその意図するところは同じ、一つの命令を下した。
「来い。」
ツカは精霊を捕まえた。そして、自分の肉体へと繋がる魂の靭帯を辿って、速やかに現し世へと舞い上がった。無数の声が甲高く泣き喚くのが聞こえた。
呪術師は目を開けた。すると、両手を上げて見えないなにかを捕まえ、それを大円の中央にある土塊に向けた。そうしながら、呪文を唱えた。
「私はお前を縛る。かつてなされた呪いとこれからなされる呪いによって、私はお前を縛る。隠り世の深みに眠っていた者よ、私はお前を縛る。私の許しがあるまで、この世に縛られ、捕らわれ、繋ぎ止められるべし――」
ツカはそれから、長い詠唱を続けた。額からは汗が流れていた。大円の内にある土塊が、もぞもぞと動き出した。そして、それは水を染み出させ、濡れて黒っぽくなった――いや、それは水ではなかった、液体には違いなかったけれども。それは血だった。土塊は、ツカの作った呪術の灯明の黄色い光に照らされる中、赤黒い色に染まっていった。
やがて、赤黒い土塊は、濡れ濡れと照りはじめた。そしていつのまにか、土塊は、鮮血色の脈打つ肉塊へと変わっていた。そこでようやく、ツカは詠唱を止め、額の汗を拭った。頭がずきずきと痛み、熱感がひどかった。だが、とにかく降霊に成功したのだ。
0
あなたにおすすめの小説
邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ
零
BL
鍛えられた肉体、高潔な魂――
それは選ばれし“供物”の条件。
山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。
見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。
誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。
心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
番を拒み続けるΩと、執着を隠しきれないαが同じ学園で再会したら逃げ場がなくなった話 ――優等生αの過保護な束縛は恋か支配か
雪兎
BL
第二性が存在する世界。
Ωであることを隠し、平穏な学園生活を送ろうと決めていた転校生・湊。
しかし入学初日、彼の前に現れたのは――
幼い頃に「番になろう」と言ってきた幼馴染のα・蓮だった。
成績優秀、容姿端麗、生徒から絶大な信頼を集める完璧なα。
だが湊だけが知っている。
彼が異常なほど執着深いことを。
「大丈夫、全部管理してあげる」
「君が困らないようにしてるだけだよ」
座席、時間割、交友関係、体調管理。
いつの間にか整えられていく環境。
逃げ場のない距離。
番を拒みたいΩと、手放す気のないα。
これは保護か、それとも束縛か。
閉じた学園の中で、二人の関係は静かに歪み始める――。
執着
紅林
BL
聖緋帝国の華族、瀬川凛は引っ込み思案で特に目立つこともない平凡な伯爵家の三男坊。だが、彼の婚約者は違った。帝室の血を引く高貴な公爵家の生まれであり帝国陸軍の将校として目覚しい活躍をしている男だった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる