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しおりを挟む一日の講義が全部終わり、忘れ物を取りに地域教育学部棟の教室へ向かっていると、どこからともなくピアノの音が聞こえてきた。
どこかで聞いたことのある曲だ。
地域教育学部棟にはピアノがある教室が何か所かある。
俺が本日最後に授業を受けていた教室にも確かピアノがあったっけ。
その教室に近づけば近づくほどピアノの音が大きくなる。
俺は目的の教室の前にたどり着き、ピアノの音がこの教室から発せられていることを確信した。
誰かがいると知り、教室に入るのをためらった。
どんな人が何人いるかが分からないので、ひょっとしたらウェーイ軍団が仲良くピアノを囲んで楽しんでいるところかもしれない。
そんなところに邪魔する勇気は俺にない。
しかし、こともあろうに忘れたのが財布と携帯電話という貴重品の中の貴重品のため、諦めて帰るわけにもいかない。
俺は中にいる人に気づかれないようにそっと扉を開けた。
ピアノを弾く後姿が見える。黒髪のミディアムボブ。
女の子だ。
あの後ろ姿は───
彼女は軽やかに軽快な三拍子の曲を刻む。
聴いているだけで明るくなれるような曲。
小学校の時によく行内放送で流れていた曲だ。
俺はしばらくピアノに聴き入っていた。
曲が終わると、女の子が椅子から立ち上がろうと振り返った。俺と目が合う。
「あれ?橘君、いたの?いつから?」
ピアノを弾いていたのは藤谷さんだった。
「ごめん、ついさっき来たばっかりなんだ。そんなに長くいたわけじゃないよ」
俺は覗きをしたような罪悪感を抱いた。
ピアノを弾いている姿を後ろから眺めていたのだから、隠れてないとはいえ覗きと言えば覗きかもしれない。
気持ち悪がられたか?
「ずっと一人だと思ってたから、油断してたー。変なことしてなかった?独り言を言ったりとか」
「言ってなかったと思うよ。ごめん、忘れ物を取りに来たんだけど、ちょっと聴き入っちゃって」
俺は後頭部をかきながら言った。
「藤谷さん、ピアノ弾けるんだね」
話しながら忘れ物を回収する。
財布も携帯電話も無事だった。
一安心。
「お母さんがピアノの先生で、小さい時から習ってたんだ。その割にはあんまりうまくないんだけどねー」
「そんな、めちゃくちゃうまかったじゃん」
正直なところ、ピアノが上手が下手かは俺には判断できないのだが、藤谷さんのピアノは聴いていて嫌にならなかった。
むしろずっと聴いていたい、聴きながら眠りたいと思えるような音だった。
鼓膜をそよ風のように優しく振るわせ、軽やかなリズムが脳に届くような心地よい音色だ。
「ありがと」
藤谷さんははにかんだ笑顔を見せた。
「さっきの曲、何て名前だっけ?」
「エーデルワイスだよ」
「そうだ、エーデルワイスだ!小学校の時によく放送で流れてた」
「そう、音楽の授業で習うよね。わたしのお母さん、この曲が大好きで、この曲を聴くとすごく嬉しそうにするの。お母さんがお父さんとけんかして機嫌が悪くなっても、わたしがこの曲を弾くとすぐに直るの。だから、わたしも嬉しくなって、ピアノを見るとついついこの曲を弾いちゃうんだー」
「この曲がすごく好きなんだね。ところでエーデルワイスって、何?」
知っているような口ぶりで話していたが、そもそもエーデルワイスなんて見たこともない。
「花の名前だよ。白い花」
「そうなんだ。藤谷さん、白い花好きなの?」
俺はピアノ椅子の脇に置いてあった藤谷さんの鞄についているバッグチャームを見る。
金のチェーンに、白い花のモチーフがついている。
藤谷さんは鞄を持ち上げてチャームに触れる。
「エーデルワイスの花の実物は見たことないんだけど、白い花は好きだよ。マーガレットとか、白百合とか。自然界の中で、あんなに白さを保ってるなんて、すごいなって思う。土とかで汚れそうなのにね」
俺はその時何故か藤谷さんに自分を受け入れてもらえたような気がした。
白い花が好き、つまりサンカヨウも好き、つまりサンカヨウのような俺の事も好きになってくれるのではないか。
理路整然としているようでぶっ飛んだ思考回路が俺の中を駆けめぐった。
数理科学科とは思えないこじつけ方である。
「俺も好きだよ」
俺は気持ちを抑えられずつい口走ってしまった。藤谷さんは面食らったようにキョトンとしていた。
その顔が幼い子どものようで可愛らしかった。
いや、そんな事を考えている場合ではない。俺は恥ずかしさのあまり、全身が熱くなった。
「あ、えっと、白い花のこと」
「あ、うん」
俺たちの間を微妙な沈黙が流れた。
「なんの花が好きなの?」
沈黙を先に破ったのは藤谷さんだった。
「一番はサンカヨウの花かな」
「さんかよう?」
藤谷さんは首を傾げた。
ああ、なんて可愛らしいんだ。
「あまり有名じゃないから知らないかもね。白い小さな花で、水気を帯びると花びらが透明になるんだよ」
「透明になるの?そんな花がこの世界にあるの?」
藤谷さんは今度は目を丸くした。
普段はあんなに無表情なのに、話すとこんなに無邪気にコロコロと表情を変えるのか。
「うちにいっぱいあるよ」
そう、母親が次から次へと買って来るのだ。
俺がこんな体質になったのは、絶対に母親のせいだ。
「そうなんだ。珍しいね、そんな花が家にいっぱいあるなんて」
「母親が好きみたいで」
そのおかげで俺は人生を左右するような強烈な被害を被っている。
「透明になる花かあ。見てみたいなー」
「透明になるには、長時間、雨とか朝露で静かに濡れなければならないっていう、けっこう厳しい条件が付いてるから、なかなか見れないんだけどね」
「そうなんだ。でも、透明じゃなくてもいいから、見てみたいな」
「花が咲いたら、鉢植えを持ってきてあげるよ」
俺はここがチャンスとばかりに会う約束を取り付けた。
「本当?ありがとう。いつごろ咲く?」
「開花時期がだいたい五月から七月だから、来年だね」
「そっかー。じゃあまだまだだね」
俺は少し焦った。
サンカヨウを口実に、藤谷さんと会う約束をしたのはいいが、半年以上も先である。
その間に、藤谷さんに他の男が、特に恭平なんかがアプローチして、うまくいってしまったらどうなるだろうか。
サンカヨウを見せる約束すら果たせなくなってしまうかもしれない。
そんなのは、絶対にいやだ。
「サンカヨウが咲くのはまだ先だけど、よければ、サンカヨウを見せるのとは別に、俺と会ってくれないかな?」
「二人で?」
「あ、うん。いやなら、無理しなくていいよ」
情けないことに俺の声は震えて上擦った。
女の子をデートに誘ったようなものだ。
生まれて初めての経験、断られたらどうしようかという不安で頭がいっぱいだった。
背中を汗が伝うのがわかった。
俺の頭にはまた別の不安が浮かんだ。
やばい、汗だくになりそう。
こんなところで透明になったら藤谷さんにトラウマを植え付けてしまう。
色々と俺のメンタルがグロッキーな事になっているから早く返事をくれ!
藤谷さんは目を細めて笑った。
「いいよ」
「いいの?」
嬉しさと緊張のあまりまた声が上ずってしまった。
「うん」
「二人でもいいの?」
「もちろん」
「俺と?」
「他に誰がいるの?」
藤谷さんは口元に手を当てて笑った。
「ありがとう」
俺の顔には自然と笑みが溢れた。
藤谷さんと二人で会えるなんて、夢のようだ。
今ここで二人で話している事自体夢のようなのに、さらに夢の中に入ったら、夢の無限ループに入ってしまうのではないか。
藤谷さんは腕時計を確認し、「あ、ごめんね、もう帰らないと。ピアノのレッスンがあるんだった。お母さんに怒られちゃう」と、慌ててカバンを持って教室の扉に向かった。
「橘君、ありがとう、楽しかった!」
藤谷さんは扉の前で振り返って言った。
「こちらこそ、ごめんね、こんな時間まで付き合わせて」
「ううん。じゃあ、また」
一度教室を出ようとしたが、もう一度振り返った。
「橘君、私の連絡先、メモ書いてる時間がないから今覚えて!」
「え、あ、うん」
藤谷さんは、携帯電話の番号と思しき11個の数字を叫ぶように言った。
円周率よりよっぽど覚えるのが楽だ。
俺は心の中で二回ほど繰り返し、手を上げて覚えたことをアピールした。
「ありがとう。じゃあ、連絡してね」
「うん。絶対連絡するから」
「絶対だよ!」
藤谷さんはそう言うと、少し恥ずかしそうな顔をした。
そして、小走りで教室を出ていった。
俺は藤谷さんが去ったのを見届けて、慌てて自分の携帯電話の電話帳に藤谷さんの電話番号を登録した。
ついさっきまで藤谷さんが自分のすぐそばにいたことを改めて理解し、また急に身体が熱くなった。
残暑のせいかもしれないが、身体が汗ばんで、服が湿っている。
この程度であれば問題はないが油断は禁物だ。急いで家に帰ろう。
藤谷さんと過ごした数分間を反芻する。
やはり、藤谷さんと話すと心が躍る。
あの笑顔をずっと見ていたい。
俺の頭は藤谷さんでいっぱいだった。
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