ジュンケツノハナヨメ

かないみのる

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 友希哉と別れてからの記憶はあまり無かった。


 何となく会社に行き、何となく仕事をし、何となく帰ってきて寝るという味気ない日々を過ごした。


 菅野や佐藤麻美の嫌がらせは相変わらずだが、なにより苦痛だったのは吉川の惚気話だった。



「あたしが仕事を辞めちゃうとなると、すごく迷惑がかかると思って、申し訳ないんですぅ。でも、女は家庭に入って旦那さんを支えることが一番の幸せじゃないですかぁ」



 吉川が聞いてもいない話を今田さんと内藤さんに話し始めた。



「そんなこと気にしなくていいから、引き継ぎの準備して」



 今田さんがそっけなく返す。



「結婚式の準備も着々と進めてるんです。式場はグランドビルのあそこにしたんですよぉ」


「そこって……」



 内藤さんが気まずそうに聞いた。



「えへへ、わかりました? 実は元カノさんと予約してたところ、そのまま使う予定なんです。キャンセルして予約し直すのも勿体無いし、いい式場だし」



 わざとらしく、こちらに確実に聞こえる声でそういった。



「真由子ちゃんも来てくれるよね? 職場の人を一人だけ呼ばないのも変だし」



 わたしは黙っていた。


 言い返すのは案外気力が必要だ。


 今のわたしにはそんな力は残っていない。


 仕事に集中しようとパソコンの画面をぼーっと眺めるが、何をするべきか忘れてしまっていた。


 頭が働かない。



「吉川さん、私語はいいから仕事してくれる?」



 今田さんがピシャリと言った。


 吉川に対しては容赦がない。



「ええ!? どうしてですか? 真由子ちゃんの時は聞いてたじゃないですか! どうしてあたしの話は聞いてくれないんですかぁ? 差別?」


「どうでもいいから最後くらいは真面目に働いてよね」


「ひどい! 友希哉さん! あたし、また意地悪されました! きっとあたし達のこと僻んでるんですぅ」
 


 離れた席にいる友希哉に聞こえるような大声で叫んだ。


 フロア全体に聞こえる声だったため、数名が顔を顰めていた。


 友希哉は気まずそうに下を向いていた。



 吐き気が止まらない。


 胃腸が弱っているのか、トイレで嘔吐した。


 唾液と涙でぐしゃぐしゃになった顔を洗い、化粧室を出ると、最悪な気分に追い打ちをかけるように菅野が待っていた。



「最愛の男性に裏切られた気分はどうだい?」



 菅野が気持ち悪い笑顔で話しかけてきた。


 浅黒い顔が愉快そうに歪む。


 無視をして歩いたが、菅野は着いてきた。



「中嶋君も結局はそういう男だったんだ。平気で浮気して乗り換える。男なんてみんなそんなものなのに、それを信じたりして、君も馬鹿だな」



 わたしは立ち止まり、菅野を睨みつけた。


 何か文句を言いたいが言葉が出ない。



「結婚式には出てあげろよ。吉川さんは大事な友達なんだろう?」



 そう言って菅野は手をヒラヒラと振って立ち去った。


 わたしはなすすべもなく立ちすくんでいた。


 気づいたらまた涙が溢れていた。


 慌てて化粧室へ戻る。


 まともに仕事ができていないなんて、こんなんじゃダメだ。


 早く立ち直らないと。



「今月の給料に交通費含まれてないんだけど」



 今度は佐藤麻美だ。


 いつものように自分のミスでこちらを攻めてくる。


 金切り声が頭に響く。



「第三営業日までに申請しないと今月分の給与で払われないと再三説明しました」



 度重なるストレスによる疲れが出て、弱々しい声になってしまう。


 それが佐藤麻美を増長させた。

「あたしたち営業は忙しいの。あなた達がスケジュール管理をもっとするべきよ」



 佐藤麻美は腕時計を指差す。


 派手な装飾の付いたネイルが目障りだ。



「わたし達管理部は専属秘書じゃありません」


「仕事ができないくせに口ばっかり達者ね。そんなだから彼氏に逃げられるのよ」



 まただ。


 佐藤麻美からもこんな事を言われなければならないなんて。


 職場恋愛だったからみんな知っていると理解していたが、何かにつけて友希哉とのことを言われるとは思っていなかった。


 これから先、わたしはずっと吉川に彼氏を奪われた女としてレッテルを貼られるのだろうか。

 私の人生、もう何もかも終わりなのかな。



 ある時、わたしは自分の体調の変化に気づいた。


 そろそろ生理が来ると言うのに来ない。


 そして何より吐き気が止まらない。



 トイレで嘔吐しながら考えた。


 生理が来なくて吐き気がする。


 これはきっとーー妊娠だ。


 吐き気は悪阻に違いない。


 相手は間違いなく友希哉。


 友希哉との子どもの命が私の中で芽生えたのだ。


 現在の技術では100パーセントの避妊など不可能だと言うし、できていてもおかしくない。



 わたしは喜んだ。


 わたしと友希哉を繋ぐ希望が、今私のお腹の中で育っている。


 いてもたってもいられず、仕事帰りに友希哉のアパートへ向かった。


 今日彼は有給休暇を取っていた。


 一刻も早く伝えたい。


 きっと子どもができたと知ったら、子ども好きな友希哉は私の元に戻ってきてくれる。


 そう信じて疑わなかった。


 小さなアパートの二階の角部屋。


 インターホンを鳴らすとパーカーを着た友希哉が扉を開けて出てきた。



「あ、マユ……子さん、どうしたの?」


「ねえ、友希哉、聞いて。わたし、子どもが出来たみたい」



 単刀直入に伝えた。


 友希哉は呆気に取られていた。



「え?」


「だから、友希哉との子どもができたの」


「それ、本当に?」



 友希哉は明らかに困惑していた。


 喜んでくれると思っていたのに、想像と違う反応でわたしは焦った。



「検査したの?」


「まだだけど、自分の身体の変化くらい分かるよ」


「たぶんできてないんじゃないかな」



 歯切れ悪そうに友希哉は言った。


 何か言いたいことがあるような雰囲気だ。


 その曖昧な態度が私を苛立たせた。



「なんでそんなこと言うの? 友希哉に何が分かるの?」



 わたしは彼の襟元に縋りつこうとしたが、後ろから吉川麻里奈がいやらしい笑みを浮かべながら出てきた。


わたし達の話を背後で聞いていたようだ。



「友希哉、下がっていて」


「何? わたしは今友希哉と話しているの。あなたは関係ないでしょ」



 吉川はわたしの言葉を無視して友希哉を下がらせた。


 あのニヤニヤとした腹立たしい笑みを浮かべている。


 友希哉を寝取った余裕からか、立ち居振る舞いが堂々としていて私をイラつかせる。


 わたしは吉川を睨みつけた。


 少しの沈黙の後、先に吉川が口を開いた。



「かわいそうだけど、それは真由子ちゃんの妄想だよ」



 あまりに唐突な言葉に、わたしは面食らった。



「は? 違うに決まってるでしょ!」



 どいつもこいつもなんでそんな事をいうのか。


 馬鹿にするのもいい加減にしてほしい。


 わたしの身体のことは私が一番わかっている。



 次の瞬間、吉川は信じられない言葉を放った。



「子どもができたのはあたしの方」


「は?」


「あたし、妊娠したんだあ、友希哉との子。きちんと検査薬を試して、産婦人科に行って確かめたの」


「嘘だよ! 妊娠したのはわたし!」



 わたし達はお互いに譲らない。


 吉川は自分のお腹を大事そうに摩った。


 次に吉川が放った言葉は、わたしを地獄に突き落とすようなものだった。



「だって、知らないのかもしれないけど、真由子ちゃん、子宮、無いよ」



 わたしは言葉を発することができなかった。


 吉川の言っているのか理解できなかった。


 出まかせを言うのも良い加減にして欲しい。



「小学校の頃、真由子ちゃん、先生が女子みんなを集めて生理の話をした時にいなかったもんね。クラスの子も、真由子ちゃんとたまに生理の話すると、話噛み合わないときがあるって言ってたし、先生も真由子ちゃんには生理の話するなってしつこかったもん」


「生理の話なんてするもんじゃないでしょ、はしたない。そもそもそれが、子宮がない理由にはならないじゃない!」


「じゃあ真由子ちゃん、生理ってどんなものか知ってる?」


「当たり前でしょ? 大人になると、月に一度くらいの頻度で体調が悪くなるんでしょ? 頭痛がしたり腹痛がしたり、あと下着が汚れやすくなったり」


「違うよ」


「え?」


「この間ナプキンもらった時、おかしいと思ったんだよね。あれ、生理用ナプキンじゃなくて、下着を汚れないようにするために下着に貼るシート」



 一度に多くの情報を出されて、わたしの思考は停止しかけた。


 吉川は何を言っているのだろう。


 玄関先でこんな言い争いをしていたらご近所さんから不審な目で見られているのではないかとわたしは心配する。



「本当の生理は、女性器から血が大量に出てくるんだよお。女が妊娠するための準備。真由子ちゃん、そうなったことある?」


 わたしは答えられなかった。


 身体から血が出てくるなんて、そんなおぞましいことがあるはずない。



「まあ、妊娠してるわけないのよ。子宮がないんだから。友希哉にとって子どもは結婚の条件。あなたがどう足掻いても、あなたと友希哉は結婚できないの。子どものできないあなたとはね。友希哉の子どもはあたしのお腹にいる。だからもう友希哉に近づかないで。ね、元カノさん?」



 帰り道、わたしは茫然自失で母に電話をかけた。


 2コール目で母は出た。


 いつもと何も変わらない母の声が電話の向こうから聞こえてくる。



「ねえ、お母さん、わたしには子宮がないの?」


「どうしたの急に!?」


「答えて」


「誰かに何か言われたの?」


「生理って、体調が悪くなるだけじゃないの? 出血するの? 血尿とは別なの?」


「何があったの?」



 お母さんは声を荒らげた。


 困惑を隠せない様子だ。


 わたしは無視して続けた。



「答えて。子宮がないのは本当なの?赤ちゃん、産めないの?」 
 


 声が震える。


 答えを聞くのが怖かった。嘘だと言ってーー。



「ごめんね、ずっと黙っていて。あなた、小さい頃に入院してたのは覚えてる?」



 わたしは働かない頭で過去を反芻した。


 幼い頃の記憶。


 病室、白いベッド、点滴。



「覚えてるよ。何回も注射打ったし」


「……卵巣がんだったのよ」


「卵巣がん……?」


「右の卵巣が腫れてね、切除する手術をしたの。本当は右側だけを切除するはずだったんだけど、手術をしたのが慣れていない若い先生でね、医療ミスで別の場所に傷をつけて、結局全部摘出することになったの」


「じゃあ、赤ちゃん産めないの?」



 母はひたすら謝った。


 わたしが欲しいのはそんな言葉じゃない。


 涙がボロボロと溢れ出てくる。



「真由子、ごめんね、お母さんが悪いの。あなたがショックを受ける姿を見たくなくて、伝えるのが怖かった。だから伝えなくて済むように、恋愛や結婚からあなたを遠ざけようとしていたの」



 お母さんは電話の向こうで泣いていた。


 わたしは鼻声で相槌を打った。



「ううん、お母さんの事は恨んで無いよ。教えてくれてありがとう」


 お母さんはその後も謝ったが、もう何も耳に入らなかった。


 スマホが手から滑り落ちた。


 拾う気力もない。


 人通りのない歩道の片隅でわたしは泣き崩れた。
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