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真っ白な床、真っ白な壁。
そこに不気味に立っている花嫁。
少しずつ、少しずつ、私との距離を縮めてくる。
来ないで。
そう叫んでも変わらない。
逃げようとしても動けない。
少しずつ、しかし確実ににじり寄ってくる花嫁。
花嫁がわたしの顔を覗き込んだ。
漆喰で塗られたようにのっぺりとした顔には絵に書いたような生気のない目。
わたしの顔に近づくと、花嫁は口をぱっくりと開けて笑った。
真っ白な空間に浮かぶ、真っ赤な三日月型の口。
どこからか聞こえてくる笑い声。
花嫁の着ている真っ白なドレスが、急に淡い水色のドレスに変色した。
そう、式場で見たあのドレスだ。
それはわたしのドレスよ。
返して、返して!
久しぶりに夢を見た。
あの夢だ。
せっかく幸せの余韻に浸っていたのに、台無しだ。
わたしが幸せになる事を邪魔するようにあの花嫁は現れる。
そんなにわたしが幸福に過ごすことはいけないことなのか、許されないことなのか。
誰かに問い詰めたい。
この幸せを壊さないでよ!
隣で寝息を立てている友希哉を見た。
柔らかい頬、長い睫毛。
わたしは彼の顔に触れた。
せっかく近づいた幸せへの道、絶対誰にも邪魔はさせない。
「あれ、真由子さん、何かいい事あったの?」
会社で事務用品の注文をしていると、今田さんが話しかけてきた。
気付かぬうちに土曜日の楽しかった気持ちを振りまいていたのかもしれない。
「中嶋君から聞いちゃった。真由子さん、そろそろなんでしょ?」
今度は内藤さんが笑顔で話しかけてくれた。
「実は式場見にいったんですよ」
「どこ?」
「ジューンパレス仙台です。もうあそこに決めるつもりです。ドレスもお気に入りのを見つけちゃいました」
三人で話していると、ネットサーフィンをしていた吉川が機嫌悪そうに立ち上がり、マグカップを持って給湯室へ向かった。
彼女が歩く前には友希哉が歩いていた。
自分の大事な人と嫌いな人が接触するのではないかと、何となく不安になる。
余計な考えを取り払おうと頭を振った。
仕事を進めていると、こめかみに締め付けられるような違和感を感じ始めた。
それはすぐに脈を打つような痛みに変化していった。
そういえば月のものがそろそろだったかもしれない。
頭痛の薬はポーチに入れていたはずだ。
わたしはデスクから立ち上がって化粧室へ向かった。
人前だと何故か薬をうまく飲めないので、化粧室で飲むようにしている。
向かう途中で武田さんが声をかけてくれた。
武田さんはわたしの顔色が悪いのを見て心配で追いかけて来てくれたらしい。
「真由子さん、大丈夫?顔色良くないよ」
「うん、ちょっと頭痛くって」
「偏頭痛?」
「うん、たぶん生理が近いんだと思う」
「薬は?」
「持ってるから大丈夫、心配かけてごめんね。ありがとう」
化粧室に着いたわたしは、ポーチから薬を取り出し、錠剤を口に含み、蛇口から出る水を手で汲んで飲んだ。
水の付いた手をこめかみにあてて頭を冷やし、頭痛を和らげる。
一瞬だけ感じた冷たさに癒されたが、痛みはすぐに波のように押し寄せてくる。
溜息を吐きながらハンカチで手を拭いていると、吉川が機嫌良さそうに化粧室に入ってきた。
「あー、友希哉さんって面白い人だなー」
吉川は聞こえよがしに呟いた。
やっぱり友希哉と話していたらしい。
わたしは胸焼けのような不快感を抱いた。
とはいっても、動揺するとこの女は面白がるから、聞こえなかったふりをした。
「ねえ、真由子ちゃん、ナプキン持ってない?」
わたしが頭痛で苦しんでいることは気にしていないように、吉川は馴れ馴れしく話しかけてきた。
甘ったるい声がいちいち癇に障る。
「あるけど」
わたしは素気なく答えた。
「急に生理来ちゃってさあ。一個ちょうだい」
始まった。
吉川のちょうだい攻撃。
昔から人に物をねだり、断ると「ケチ」と言って周囲に悪口を言いふらすのだ。
ナプキンをあげるくらい、どうということはないが、相手が吉川だとどうしても渋ってしまう。
しかし、ケチケチしていると噂されるのも癪なので一つだけ渡すことにした。
「はい」
吉川は渡したナプキンを見て眉間にシワを寄せた。
何か言いたそうな顔で、ナプキンとわたしの顔を交互に見る。
安物のナプキンを使っているのがおかしいのだろうか?
「何?」
わたしは怒り気味に聞く。
「いや、なんでもないよぉ」
馬鹿にしたような笑い顔をこちらに向け、礼も言わずに個室へ入っていった。
使わずにゴミ箱に入れた方がまだマシだったと感じずにはいられなかった。
デスクに戻った後、先程の吉川の態度から、何か胸騒ぎを感じた。
この胸騒ぎは最近感じたいものと似ている。
そうだ、あの花嫁だ。
あの夢の中の花嫁と対峙した感覚と同じだ。
夢でも現実でも悩まされなければならない、自分の境遇を憂いた。
「ごめん、今日帰り遅くなる」
帰る時、友希哉がわたしのことを呼び止めて言った。
職場でプライベートの話をすることは珍しいので少し驚いたが、よっぽど切羽詰まっているのだろう。
わたしは了承した。
友希哉に対して不満はないが、遠くでわたし達のことを眺めていた吉川がいやらしい笑みを浮かべていたのが気になった。
友希哉が帰ってきたのは十一時過ぎだった。
わたしはご飯も食べずに彼を待っていたが、彼は帰ってきて早々に寝ると言い出した。
「ご飯は?」
「いい。食欲ない」
よっぽど疲れたのだろうか、口数が少ない。
荷物を置くと早々にシャワーを浴びに行ってしまった。
わたしも食欲がなくなってしまい仕方なく夕食を片付ける。
シャワーを浴び終え、ドライヤーで髪を乾かしていた友希哉に、何があったのか聞いてみたが、「なんでもない」といって流された。
「なんでもなくないでしょ!? そんなに黙っているなんて。何があったか話してよ!」
「そんなに大声出さないでよ。うるさいな」
「なによ、その言い草。人が心配しているのが分からないの? 話せば楽になるかもしれないでしょ? 友希哉の力になりたいの」
「ちょっと混乱してるんだ。一人で考えさせて」
「……分かった」
友希哉はそう言って一人で布団に入ってしまった。
友希哉は明らかに思い詰めていた。
朝はこんな顔をしていなかったから、会社で何かあったのだろう。
でも、友希哉がこんなに疲弊するようなトラブルがあったら、あの狭いオフィスであれば皆にすぐ広まるはずだ。
仕事以外のことだったら……?
吉川麻里奈の事が頭をよぎった。
友希哉は今日確実に吉川と話している。
それが原因だとしたら、あの女のことだ、間違いなくわたしも関係している。
不安は一瞬でわたしの頭をいっぱいにした。考えすぎかもしれない。
昔から物事をネガティブに捉え、余計な心配をしてしまうのはわたしの悪い癖だ。
明日になったら友希哉も元気になっているかもしれない。
わたしもさっさと寝よう。
シャワーを急いで浴びて友希哉の隣に横になったが、相変わらず目は冴えたままだった。
最初は思い過ごしだと思ったが、この不安は数日間続くことになった。
「今日も帰り遅いの?」
先に仕事を終え帰宅していたわたしは、電話で友希哉を問い詰めた。
最近残業続きで帰りが遅く、夕食を一緒に取ることができなくなっていた。
今まではこんなに長く残業が続くなんてことなかったのに。
「ごめん、大型案件が受注になりそうで」
「どんな案件? 管理部では聞いてないけど」
わたしの口調も刺々しくなってしまう。吉川麻里奈との関係もあり、苛立ちが積もってしまったのだ。
「まだ一部の人にしかいってないんだよ。とにかく今日も先にご飯食べてて」
友希哉との軽い言い争いは、わたしを一層不安にさせた。
そしてその不安は吉川麻里奈によっていっそう強いものに変えられてしまった。
「中嶋さんって」
翌朝会社に行くと、吉川がニヤニヤしながら話しかけてきた。
「首筋のあたりに薄めのホクロがあるんだね」
わたしが不快になることを分かっていて友希哉の話をしている。
「だからなに?」
わたしは素気なく言い返した。
こちらが感情的になったらこいつの思うツボだ。
はらわたが煮えくりかえりそうになるのをグッと堪える。
「いや、真由子ちゃんも知ってるのかなって思って」
「みんな知ってるでしょ。ワイシャツの上の、見えるところにあるんだから」
友希哉は相変わらずわたしを避けるように残業をして帰ってくる。
今日は電話でなく、直接問い詰める事にした。
「ねえ、友希哉。吉川さんといつも何を話しているの?」
帰ってきて着替えを始めた友希哉にそう投げかけた。
「ん? いつのこと?」
友希哉はとぼけた声を出す。
それがわたしの神経を逆撫でする。
「いつって言うか、最近吉川さんとよく話してない?」
「そんなことないよ」
「今日もお昼一緒に行ってなかった?」
「マユ、見てたの? 悩みがあるっていうから相談に乗ってただけだよ」
「そんなの嘘に決まってるじゃん。あんなに自分勝手な人間が、相談するほど思い悩むわけないよ」
おそらく吉川はわたしの彼氏にちょっかいを出して優越感に浸っているのだろう。
一刻もはやく吉川との交流をやめさせたい。
「一応彼女にも悩みがあるんだよ」
「友希哉はわたしが吉川さんのこと嫌いなの知ってるのに、わざわざ仲良くするの?なんで?」
「ちょっと束縛キツい。俺そういうの苦手」
それから歯車が狂ったように、友希哉との関係は悪化していった。
友希哉の両親に会う日の前々日のことだった。
「ごめん、両親に会ってもらうの、ちょっと延期してもいい?」
友希哉は申し訳無さそうに言ってきた。
「え?どうして?」
せっかくワンピースをクリーニングに出したのに。
それに延期したら、手土産として買っていたバームクーヘンも賞味期限が来てしまう。
「ちょっと両親に用事ができて」
わたしはかなり動揺した。
両親に会ってしまえばお互いの仲はより強いものになると思っていたからだ。
問い詰めたかったが、喧嘩ばかりしているのも嫌だったので、黙って頷いた。
友希哉とのすれ違いが増えるのに比例して、吉川からの嫌がらせも増えていった。
「真由子ちゃん、友希哉さんの両親とまだ会ってないのー?」
わたしは舌打ちをした。
そんな事までなぜ知っているのか。友希哉がバラしたのか。
「友希哉さん、本当に真由子ちゃんと結婚する気あるのかな?」
吉川は一人でケラケラ笑っている。
グロスで下品に光る唇が不快だ。
「そういえば、友希哉さん、真由子ちゃんの事、重いって言ってたよ」
友希哉と関係がうまくいっていないせいか、受け流すことができない。
わたしは黙ってその場から離れた。
オフィスの外へ出て、建物の裏で涙を流した。
そして、ついに友希哉から衝撃的発言を受けた。
それは簡単にわたしの人生をぶち壊した。
「ごめん。別れて欲しい」
頭を殴られた様な気持ちだった。
むしろ、殴られた方がマシだったかもしれない。
わたしはひどく取り乱した。
「なんで? 結婚するって言ったじゃん!」
「だからごめんって」
「ごめんで済む問題じゃないでしょ!? 結婚式場だって押えたのに」
先日わたしが説得して、友希哉は渋々といった様子だったが、あの結婚式場で式を上げる事に決めたのだ。
予約の前金も支払ってしまっている。いまさらキャンセルをするなんて、お金をドブに捨てる様なものだ。
「それはこっちでなんとかするから。キャンセル料は俺が全部払う」
「今更になって別れようなんて、はいそうですか、で受け入れられるわけないでしょ!? 何が不満なの?」
「他に好きな人ができた」
今度の衝撃は先ほどよりダメージが大きかった。
ずっと不安に思っていたことが現実になってしまったらしい。
一瞬頭が真っ白になった後、涙が込み上げてきた。
「もしかして、吉川さん?」
わたしは震える声で聞いた。
喉がつまりそうだった。
友希哉は答えない。
沈黙が肯定の証だった。
友希哉の態度に怒りが込み上げてきた。
わたしは怒りのあまり、強い口調で友希哉を問い詰めた。
「吉川さんのどこがいいの?」
友希哉は今までにない剣幕のわたしにたじろいでいた。
そして言いづらそうに答えた。
「頼ってくれるからかな。彼女には俺がいないとダメなんだよ。マユは俺がいなくても一人で生きていけるでしょ? そういうの、可愛げがないと言うか、男としてはつまらないというか」
全身の力が抜けた。
わたしが友希哉との将来を思って耐え忍んできた事は、逆に関係を悪化させていたらしい。
「友希哉は騙されてるよ。吉川さんの本性を知らないだけ。あの女だけはやめてほしい」
「そんなこと言うなんて失礼だよ。マユのそういうところが前々から良くないと思ってた」
それからわたし達はお互いに石を投げるように罵倒し合った。
涙や鼻水を飛ばしながら、友希哉に怒りをぶつける。
わたしの言葉を、友希哉は何事もないかの様に受け流していた。
もう何を言っても彼には届かないようだ。
「友希哉は馬鹿だよ。簡単に騙されて。彼女をいじめている人間と仲良くなって浮気するなんて、信じられない」
嗚咽を堪え、しぼり出すような声で言った。
「なんとでも言えば? もうマユには関係ないから。俺、出て行くね」
そう言って友希哉は大きなカバンを持って出ていった。
借りっぱなしだった彼のアパートへと帰ったのだろう。
前からこっそり準備していたのか、部屋を眺めると、友希哉の私物は無くなっていた。
なんで気づかなかったんだろう。
それくらいわたしの注意力は散漫になっていたのか。
歩み始めたと思われたわたし達の人生はここで途絶えた。
友希哉という色を失った部屋で、わたしは立ち尽くすことしかできなかった。
そこに不気味に立っている花嫁。
少しずつ、少しずつ、私との距離を縮めてくる。
来ないで。
そう叫んでも変わらない。
逃げようとしても動けない。
少しずつ、しかし確実ににじり寄ってくる花嫁。
花嫁がわたしの顔を覗き込んだ。
漆喰で塗られたようにのっぺりとした顔には絵に書いたような生気のない目。
わたしの顔に近づくと、花嫁は口をぱっくりと開けて笑った。
真っ白な空間に浮かぶ、真っ赤な三日月型の口。
どこからか聞こえてくる笑い声。
花嫁の着ている真っ白なドレスが、急に淡い水色のドレスに変色した。
そう、式場で見たあのドレスだ。
それはわたしのドレスよ。
返して、返して!
久しぶりに夢を見た。
あの夢だ。
せっかく幸せの余韻に浸っていたのに、台無しだ。
わたしが幸せになる事を邪魔するようにあの花嫁は現れる。
そんなにわたしが幸福に過ごすことはいけないことなのか、許されないことなのか。
誰かに問い詰めたい。
この幸せを壊さないでよ!
隣で寝息を立てている友希哉を見た。
柔らかい頬、長い睫毛。
わたしは彼の顔に触れた。
せっかく近づいた幸せへの道、絶対誰にも邪魔はさせない。
「あれ、真由子さん、何かいい事あったの?」
会社で事務用品の注文をしていると、今田さんが話しかけてきた。
気付かぬうちに土曜日の楽しかった気持ちを振りまいていたのかもしれない。
「中嶋君から聞いちゃった。真由子さん、そろそろなんでしょ?」
今度は内藤さんが笑顔で話しかけてくれた。
「実は式場見にいったんですよ」
「どこ?」
「ジューンパレス仙台です。もうあそこに決めるつもりです。ドレスもお気に入りのを見つけちゃいました」
三人で話していると、ネットサーフィンをしていた吉川が機嫌悪そうに立ち上がり、マグカップを持って給湯室へ向かった。
彼女が歩く前には友希哉が歩いていた。
自分の大事な人と嫌いな人が接触するのではないかと、何となく不安になる。
余計な考えを取り払おうと頭を振った。
仕事を進めていると、こめかみに締め付けられるような違和感を感じ始めた。
それはすぐに脈を打つような痛みに変化していった。
そういえば月のものがそろそろだったかもしれない。
頭痛の薬はポーチに入れていたはずだ。
わたしはデスクから立ち上がって化粧室へ向かった。
人前だと何故か薬をうまく飲めないので、化粧室で飲むようにしている。
向かう途中で武田さんが声をかけてくれた。
武田さんはわたしの顔色が悪いのを見て心配で追いかけて来てくれたらしい。
「真由子さん、大丈夫?顔色良くないよ」
「うん、ちょっと頭痛くって」
「偏頭痛?」
「うん、たぶん生理が近いんだと思う」
「薬は?」
「持ってるから大丈夫、心配かけてごめんね。ありがとう」
化粧室に着いたわたしは、ポーチから薬を取り出し、錠剤を口に含み、蛇口から出る水を手で汲んで飲んだ。
水の付いた手をこめかみにあてて頭を冷やし、頭痛を和らげる。
一瞬だけ感じた冷たさに癒されたが、痛みはすぐに波のように押し寄せてくる。
溜息を吐きながらハンカチで手を拭いていると、吉川が機嫌良さそうに化粧室に入ってきた。
「あー、友希哉さんって面白い人だなー」
吉川は聞こえよがしに呟いた。
やっぱり友希哉と話していたらしい。
わたしは胸焼けのような不快感を抱いた。
とはいっても、動揺するとこの女は面白がるから、聞こえなかったふりをした。
「ねえ、真由子ちゃん、ナプキン持ってない?」
わたしが頭痛で苦しんでいることは気にしていないように、吉川は馴れ馴れしく話しかけてきた。
甘ったるい声がいちいち癇に障る。
「あるけど」
わたしは素気なく答えた。
「急に生理来ちゃってさあ。一個ちょうだい」
始まった。
吉川のちょうだい攻撃。
昔から人に物をねだり、断ると「ケチ」と言って周囲に悪口を言いふらすのだ。
ナプキンをあげるくらい、どうということはないが、相手が吉川だとどうしても渋ってしまう。
しかし、ケチケチしていると噂されるのも癪なので一つだけ渡すことにした。
「はい」
吉川は渡したナプキンを見て眉間にシワを寄せた。
何か言いたそうな顔で、ナプキンとわたしの顔を交互に見る。
安物のナプキンを使っているのがおかしいのだろうか?
「何?」
わたしは怒り気味に聞く。
「いや、なんでもないよぉ」
馬鹿にしたような笑い顔をこちらに向け、礼も言わずに個室へ入っていった。
使わずにゴミ箱に入れた方がまだマシだったと感じずにはいられなかった。
デスクに戻った後、先程の吉川の態度から、何か胸騒ぎを感じた。
この胸騒ぎは最近感じたいものと似ている。
そうだ、あの花嫁だ。
あの夢の中の花嫁と対峙した感覚と同じだ。
夢でも現実でも悩まされなければならない、自分の境遇を憂いた。
「ごめん、今日帰り遅くなる」
帰る時、友希哉がわたしのことを呼び止めて言った。
職場でプライベートの話をすることは珍しいので少し驚いたが、よっぽど切羽詰まっているのだろう。
わたしは了承した。
友希哉に対して不満はないが、遠くでわたし達のことを眺めていた吉川がいやらしい笑みを浮かべていたのが気になった。
友希哉が帰ってきたのは十一時過ぎだった。
わたしはご飯も食べずに彼を待っていたが、彼は帰ってきて早々に寝ると言い出した。
「ご飯は?」
「いい。食欲ない」
よっぽど疲れたのだろうか、口数が少ない。
荷物を置くと早々にシャワーを浴びに行ってしまった。
わたしも食欲がなくなってしまい仕方なく夕食を片付ける。
シャワーを浴び終え、ドライヤーで髪を乾かしていた友希哉に、何があったのか聞いてみたが、「なんでもない」といって流された。
「なんでもなくないでしょ!? そんなに黙っているなんて。何があったか話してよ!」
「そんなに大声出さないでよ。うるさいな」
「なによ、その言い草。人が心配しているのが分からないの? 話せば楽になるかもしれないでしょ? 友希哉の力になりたいの」
「ちょっと混乱してるんだ。一人で考えさせて」
「……分かった」
友希哉はそう言って一人で布団に入ってしまった。
友希哉は明らかに思い詰めていた。
朝はこんな顔をしていなかったから、会社で何かあったのだろう。
でも、友希哉がこんなに疲弊するようなトラブルがあったら、あの狭いオフィスであれば皆にすぐ広まるはずだ。
仕事以外のことだったら……?
吉川麻里奈の事が頭をよぎった。
友希哉は今日確実に吉川と話している。
それが原因だとしたら、あの女のことだ、間違いなくわたしも関係している。
不安は一瞬でわたしの頭をいっぱいにした。考えすぎかもしれない。
昔から物事をネガティブに捉え、余計な心配をしてしまうのはわたしの悪い癖だ。
明日になったら友希哉も元気になっているかもしれない。
わたしもさっさと寝よう。
シャワーを急いで浴びて友希哉の隣に横になったが、相変わらず目は冴えたままだった。
最初は思い過ごしだと思ったが、この不安は数日間続くことになった。
「今日も帰り遅いの?」
先に仕事を終え帰宅していたわたしは、電話で友希哉を問い詰めた。
最近残業続きで帰りが遅く、夕食を一緒に取ることができなくなっていた。
今まではこんなに長く残業が続くなんてことなかったのに。
「ごめん、大型案件が受注になりそうで」
「どんな案件? 管理部では聞いてないけど」
わたしの口調も刺々しくなってしまう。吉川麻里奈との関係もあり、苛立ちが積もってしまったのだ。
「まだ一部の人にしかいってないんだよ。とにかく今日も先にご飯食べてて」
友希哉との軽い言い争いは、わたしを一層不安にさせた。
そしてその不安は吉川麻里奈によっていっそう強いものに変えられてしまった。
「中嶋さんって」
翌朝会社に行くと、吉川がニヤニヤしながら話しかけてきた。
「首筋のあたりに薄めのホクロがあるんだね」
わたしが不快になることを分かっていて友希哉の話をしている。
「だからなに?」
わたしは素気なく言い返した。
こちらが感情的になったらこいつの思うツボだ。
はらわたが煮えくりかえりそうになるのをグッと堪える。
「いや、真由子ちゃんも知ってるのかなって思って」
「みんな知ってるでしょ。ワイシャツの上の、見えるところにあるんだから」
友希哉は相変わらずわたしを避けるように残業をして帰ってくる。
今日は電話でなく、直接問い詰める事にした。
「ねえ、友希哉。吉川さんといつも何を話しているの?」
帰ってきて着替えを始めた友希哉にそう投げかけた。
「ん? いつのこと?」
友希哉はとぼけた声を出す。
それがわたしの神経を逆撫でする。
「いつって言うか、最近吉川さんとよく話してない?」
「そんなことないよ」
「今日もお昼一緒に行ってなかった?」
「マユ、見てたの? 悩みがあるっていうから相談に乗ってただけだよ」
「そんなの嘘に決まってるじゃん。あんなに自分勝手な人間が、相談するほど思い悩むわけないよ」
おそらく吉川はわたしの彼氏にちょっかいを出して優越感に浸っているのだろう。
一刻もはやく吉川との交流をやめさせたい。
「一応彼女にも悩みがあるんだよ」
「友希哉はわたしが吉川さんのこと嫌いなの知ってるのに、わざわざ仲良くするの?なんで?」
「ちょっと束縛キツい。俺そういうの苦手」
それから歯車が狂ったように、友希哉との関係は悪化していった。
友希哉の両親に会う日の前々日のことだった。
「ごめん、両親に会ってもらうの、ちょっと延期してもいい?」
友希哉は申し訳無さそうに言ってきた。
「え?どうして?」
せっかくワンピースをクリーニングに出したのに。
それに延期したら、手土産として買っていたバームクーヘンも賞味期限が来てしまう。
「ちょっと両親に用事ができて」
わたしはかなり動揺した。
両親に会ってしまえばお互いの仲はより強いものになると思っていたからだ。
問い詰めたかったが、喧嘩ばかりしているのも嫌だったので、黙って頷いた。
友希哉とのすれ違いが増えるのに比例して、吉川からの嫌がらせも増えていった。
「真由子ちゃん、友希哉さんの両親とまだ会ってないのー?」
わたしは舌打ちをした。
そんな事までなぜ知っているのか。友希哉がバラしたのか。
「友希哉さん、本当に真由子ちゃんと結婚する気あるのかな?」
吉川は一人でケラケラ笑っている。
グロスで下品に光る唇が不快だ。
「そういえば、友希哉さん、真由子ちゃんの事、重いって言ってたよ」
友希哉と関係がうまくいっていないせいか、受け流すことができない。
わたしは黙ってその場から離れた。
オフィスの外へ出て、建物の裏で涙を流した。
そして、ついに友希哉から衝撃的発言を受けた。
それは簡単にわたしの人生をぶち壊した。
「ごめん。別れて欲しい」
頭を殴られた様な気持ちだった。
むしろ、殴られた方がマシだったかもしれない。
わたしはひどく取り乱した。
「なんで? 結婚するって言ったじゃん!」
「だからごめんって」
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先日わたしが説得して、友希哉は渋々といった様子だったが、あの結婚式場で式を上げる事に決めたのだ。
予約の前金も支払ってしまっている。いまさらキャンセルをするなんて、お金をドブに捨てる様なものだ。
「それはこっちでなんとかするから。キャンセル料は俺が全部払う」
「今更になって別れようなんて、はいそうですか、で受け入れられるわけないでしょ!? 何が不満なの?」
「他に好きな人ができた」
今度の衝撃は先ほどよりダメージが大きかった。
ずっと不安に思っていたことが現実になってしまったらしい。
一瞬頭が真っ白になった後、涙が込み上げてきた。
「もしかして、吉川さん?」
わたしは震える声で聞いた。
喉がつまりそうだった。
友希哉は答えない。
沈黙が肯定の証だった。
友希哉の態度に怒りが込み上げてきた。
わたしは怒りのあまり、強い口調で友希哉を問い詰めた。
「吉川さんのどこがいいの?」
友希哉は今までにない剣幕のわたしにたじろいでいた。
そして言いづらそうに答えた。
「頼ってくれるからかな。彼女には俺がいないとダメなんだよ。マユは俺がいなくても一人で生きていけるでしょ? そういうの、可愛げがないと言うか、男としてはつまらないというか」
全身の力が抜けた。
わたしが友希哉との将来を思って耐え忍んできた事は、逆に関係を悪化させていたらしい。
「友希哉は騙されてるよ。吉川さんの本性を知らないだけ。あの女だけはやめてほしい」
「そんなこと言うなんて失礼だよ。マユのそういうところが前々から良くないと思ってた」
それからわたし達はお互いに石を投げるように罵倒し合った。
涙や鼻水を飛ばしながら、友希哉に怒りをぶつける。
わたしの言葉を、友希哉は何事もないかの様に受け流していた。
もう何を言っても彼には届かないようだ。
「友希哉は馬鹿だよ。簡単に騙されて。彼女をいじめている人間と仲良くなって浮気するなんて、信じられない」
嗚咽を堪え、しぼり出すような声で言った。
「なんとでも言えば? もうマユには関係ないから。俺、出て行くね」
そう言って友希哉は大きなカバンを持って出ていった。
借りっぱなしだった彼のアパートへと帰ったのだろう。
前からこっそり準備していたのか、部屋を眺めると、友希哉の私物は無くなっていた。
なんで気づかなかったんだろう。
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