ELYSIUM

久保 ちはろ

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Part 14-1

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 広過ぎず狭過ぎず、の病室には、驚く程何も無かった。
 壁も床も薄いクリーム色で、ただ一つ大きな窓だけが外の風景をくり抜いていた。それは壁に掛かった絵のようにも見えた。
 有吉の目の前に浮かぶ足の無いベッドーーその上で水色の病衣を着せられた金目が規則正しい寝息を立てていた。
 病衣の色が顔に反射しているのか、顔が青白く見えた。
 有吉は窓から入る光が強すぎると感じ、窓の方へ行くと、壁のボタンに触れてガラスのコントラストを調節した。
 すぐに外光は弱くなった。
 東棟の二階は、フロア全体が治療室として使われていた。
 ほかに患者がいるのか、と疑う程、フロア全体に音が無かった。治験もここで行われているとミケシュが話していた。
 ユランからここへ運び込まれて三日経つが、金目は眠ったままだ。
 金目の体にはチューブを射込まれることも無く、一日二回、栄養剤のピルを一つ、シスターに口の中に押し込まれた。水分は、体に張られた大きめの湿布から体内に十分に吸収されるらしい。
 それから、時間が来ると体位が変えられる。
 体はアンドロイドが清潔に保っていると、シスターが有吉に説明してくれた。
「それ、喉に詰まることは無いんですか?」
 朝、ピルの投与に来たシスターに有吉は尋ねた。
「大丈夫よ。舌と下顎の間に入れるから」
 髪をアップにした彼女は、病室には不釣り合いな優雅な笑みを浮かべて答えた。彼女はきっと、子供の頃からずっとそうやって人に微笑んできたのだろう。そして、大抵の人はそれを見て、心和ませたに違いない。
 だが、その笑みで有吉の心が晴れることも無かったし、不愉快になることも無かった。
 シスターが出て行くと、有吉は白いブランケットから出ている金目の手を、そっと握った。
 それは、しっとりとしていたが、冷たかった。
 有吉は一週間、休暇を与えられていた。それでも大抵は病室を訪ね、金目の隣に座っていた。他にやることが思いつかなかったし、そうしたかったからだ。
 ただ、それが彼女の眠りを覚ます助けになるとも思わなかったが。
「有吉……」
 いつの間にかみちるが、病室の入り口に立っていた。
 彼女は静かに隣に来た。
「有吉、食事まだでしょ。お昼食べに行きなよ」
「ああ」
 有吉はみちるを見上げた。相手の表情には、気遣いの裏に微かな苛立ちが宿っている。
「今度はあんたが倒れちゃうよ。……それと、長官が呼んでた」
(ああ、ここはパルス使用禁止領域だから電源切ってたんだ……)
「わかった」
「私も少しここにいるから。まあ、あんたが戻るまでいるか分からないけれど」
 有吉は頷き、重い腰を上げた。
「あ、もし金目が目覚めたら……」
「大丈夫、すぐに知らせるよ」
 みちるは有吉の言葉を遮り、言った。
「悪いな」
 有吉は、今まで彼が座っていた椅子に腰掛けた、みちるの肩を軽く叩いた。
「あんたのせいじゃ、無いわよ」
 みちるは真っすぐに有吉の目を見た。
「ああ……」
 有吉は病室を後にした。
 空腹は感じない。長官室に向かって階段を上った。

 エステノレス長官の部屋に入る前に、ドアの横で網膜を読ませると、簡単にドアがスライドした。
「失礼します」
 相変わらずだだっ広い部屋だ。
 遅い午後の光がたっぷりと射込んでいたが、自動調節されているのだろう、熱くはなかった。
 エステノレスはテーブルの上で手を組み、有吉を見ていた。
「よく来てくれた」
 彼は席を立って、乳白色に輝く机の向こうから有吉に歩み寄った。
 いつも座っているので分からなかったが、目の高さは有吉と殆ど変わらないか、少し低いくらいだった。
 それよりも、彼の着ている服はここの長官服なのか、例の奥方の趣味なのか、見る度に何か一言コメントしたくなる。
 今日はまるでマタドールのような腰丈のジャケット、それもロイヤルブルーの地に、金糸で袖口や身ごろを縁取ってあり、全体においてはもう、身ごろの地が見えないくらい美しい刺繍がふんだんに施されてあった。ジャケットと同じ色のパンツはさすがに七分丈ではなく、フルレングスだったが、サイドにはやはり金糸でラインが一本、下まで走っている。
 しかし、不思議なくらい似合っていた。
 有吉は「とても良くお似合いです」と、思わず称美の言葉を漏らしそうにさえなった。
 彼は彼なりの親しみを口の端に見せていたが、有吉にはこの男が一体何を考えているのかわからない。もしかしたら何も考えていないのかもしれない。
「こんな堅苦しい所で話は何だから、こちらへ来たまえ」
 彼は有吉を隣の部屋へ促した。
 正面の壁だけが一面ガラス張りで、景色が一望千里だった。森の向こうにぼんやりとアカルディルの影が見える。
 全体に曲線の目立つ猫足のソファと、真ん中に小さなテーブルを挟んでソファと揃いのアームチェアがあるだけの部屋。
 有吉は、勧められるままにソファにかけた。座り心地は抜群によかったが、どうも居心地の悪い部屋だった。
 それとも状況が違えば、もっと寛げたのか。
「タバコ、吸う?」
 向かいに、脚を組んで座ったエステノレスはオレに聞いた。
「いえ、今はいいです。で、オレを呼び出したのは……」
「あの時の話を全て聞かせて欲しい。君が見たことを全て。変な脚色もいらないが、何か欠けてもいけない。それによって獅子王をどうするか決めることになるだろうし。そろそろいいだろう。事の直後は気が動転してちゃんと話になるかどうか疑わしかったし、少し時間が経った今なら、きちんと頭の中で映像が浮かぶんじゃないかな」
 彼は指の先で自分の頭をとんとん、と指した。
「獅子王は、どうなったんですか」
「すぐに捕まったよ。まあ、逃げ切れるものじゃないってヤツも分かってたんだろう。今、個室に閉じ込めてあるけどね」
 彼は一瞬目を細めた。
 罪を犯した者が入る個室が何を意味するかくらい、有吉にも分かる。
「ああ、君はどういうタイプ?」
「は?」
「いや、話をするのに、こちらが随時質問していった方が話し易いのか、それともこう、独り語りでいいのか」
「ああ……独りで語らせてもらいます」
 有吉はソファの背もたれに体を預け、姿勢を楽にした。話が長くなりそうだ。
 軽く目を瞑った。頭の中のスクリーン上に、バラバラになった映像が次から次へと連続して映し出された。それをただ、言葉にして紡ぎ出した。初めはゆっくりと。
 有吉は、獅子王がトカゲを追っていた所から話し出した。
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