ELYSIUM

久保 ちはろ

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Part 15

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 まどかが通されたのは、長官室の隣続きの部屋で、壁の一面が全てガラス張りだった。
 趣のある豪華な応接セット。なんとなくアンティーク調らしいソファは、とても座り心地が良かった。
 部屋に満ちる午後の優しい光にも、まだ少し頭がくらくらする。
 チャコールグレーのナポレオンジャケットにフレアパンツという、舞台役者のような姿のエステノレス長官は、まどかの隣に随分寛いで座っていた。
「食事はした?」
「はい。病室で少し」
「それはよかった」
 彼はにっこり微笑んだ。
(なんて美しく笑うんだろう……)
 思わず、その笑みに吸い込まれそうだ。
 しかし、すぐに真顔になり、言った。
「鳳乱のことは本当に残念だと思っている。彼は噴火を止めるために石になった。それは確かだ。うちの調査員が確認したからね」
 まどかは目を閉じた。
 このまま再び眠ってしまいたかった。目覚めのない、眠りに。鼓動が早くなり、呼吸が浅くなる。
 それでも目覚めてしまった今は、『シャムと話をしなければ』いけなかった。目を開けると、長官は口を開いた。
「金目、私は君の悲しみがとてもよくわかる。彼は私にとっても非常に大切な友人で、優秀な部下で、時には兄だったから。君の気持ちは痛い程わかる。私たちは悲しみを分かち合える。それは理解してくれるね?」
 まどかはゆっくり頷いた。
 彼の言うことはもっともだった。
「それで一つ、提案があるんだけど」
 エステノレス長官は人差し指をすっと立てる。
「君が望むなら、鳳乱の記憶だけ、消すことも出来るよ」
 一瞬、息をするのを忘れた。
「私にはこれと言って特技と呼べるものはないが、唯一、あるとすれば、人の記憶を消すこと。部分的にでも、全てでも。好き勝手にはもちろん、無理だけど。ちゃんと相手に準備ができていないことにはね」
(いや、それは十分特技に値するのでは……)
 敢えてそれは口に出さず、答えた。
「お断りしても、いいんですよね。長官は、私の辛い気持ちを察してそう言ってくださったと思いますが、やはり……それはお断りします」
「わかった」
 彼はあっさり頷いた。
「じゃあ、君の将来の話をしようか。これから君たちは希望するチームに入って訓練を続けてもらう。もちろん帰る時まで。チームと言っても、研究チーム、これは鳳乱が携わっていたもの。それとフィールドワークのチーム、外で体を動かしてもらう事が多いな、これだけはユランでの訓練となる。それから看護チーム。病理などの基本的なことから、戦場、災害時での怪我人の処置の仕方、それから様々な新しい医療について学ぶ。それで、私は既に決めたんだが、君は看護チームに入ってもらうことにするよ。以前、鳳乱とも話し合ったんだ。君が地球でしていたことを、そして、Dr.リウのところで学びたい旨も承知している。……それとも、君は何か他のことがやりたいのかな」
 彼はオウムのようにちょっと首を傾げた。
「いえ……それで、お願いします」
 まどかには『やりたいこと』なんて浮かばなかった。今の自分は、誰かにスイッチを押されて始めて動ける、そんな人形と同じだ。
「わかった。後で詳細をミケシュから聞いてくれ。何か質問はある?」
 これで面会は終わりだった。
 それでも、部屋を出る前に一つ聞きたいことがあった。
「一つだけ……。獅子王は、どうなったんですか?」
 彼は眉を少し寄せた。
「彼はあの後、調査隊にすぐに捕まえられて、私の指示で昨日、他の星に『異動』させたよ。公の理由ではね。まあ、ここだけの話『流した』ってことなんだけど」
 彼は肩をすくめた。
「優秀な人材を一度に二人も失ってしまったよ」
 まどかはそれには答えず、膝の上に置いた手に視線を落とした。

 エステノレスとの面会のあと、まどかは一人ミケシュの所に寄り、ここでの生活が再び動き出すアイテムを手に入れた。
 看護チームの日々のカリキュラムと、Dr.リウの連絡先と、寮の新しい部屋のコード。このアイテムをしかるべく使えば、物事はスムーズに進む……はず。
「あなたのピースで、しばらくは鳳乱の部屋を出入り出来るようにしておくわ。あなたは寮でも、鳳乱の部屋でもどちらを使ってもいいのよ」
 ありがとうございます、と頭を下げ、管理部を後にした。
 まどかは鳳乱の部屋へ戻った。
 カーテンが引いてあったので、部屋は薄暗い。
 一人で暮らすには贅沢すぎるスペース。
 がらんとした部屋は、冷え冷えとしていた。半年も留守にすると、部屋全体が褪せている感じだ。それとも主人を無くした部屋は、こうも素っ気ない顔を見せるものなのか。
「……ただいま……」
 カーテンを開けながら、部屋に挨拶をした。
 小さな庭の木々は、茜色に染まっていた。
 鳳乱は、バーシスのほとんどの窓ガラスがボタン一つでコントロール可能な遮光窓だったのにも関わらず、カーテンを使っていた。
『柔らかい感じがするし、これ一つで部屋の雰囲気ががらりと変えられるだろ』
 まだ、彼の声がはっきりと頭の中で響くのに。
ーー急にいなくなるなんて、ひどいよ。酷すぎる。
「あれ……」
 制服のポケットで、パルスが震えた。
 取り出す時に、Dr.リウの診療所プラクシスのカードが落ちた。
「有吉?」
 パルスを耳に当てながら、屈んで絨毯の上からカードを拾う。
『メシ、喰いに行こう。おまえ、一人じゃ何も食べないだろ』
「食欲、無いもの」
『知ってる。でも、喰わないとダメだ。街に出ようぜ。奢るし』
「……」
『断る理由考えたってムダだって。少ししたら迎えに行くから、着替えておけよ。鳳乱のとこだろ?』
「……うん」
 じゃあ後で。と、一方的に話をまとめられてしまった。手にしていたカードを柳のテーブルの上にそっと置いた。
 ミケシュが控えめに笑いながら言った言葉が、甦る。
『Dr.リウは、いつでも連絡して、と言っていたわ。本当に、いつでもいいのよ。心の準備が出来たら連絡しなさい。彼女は、とても素敵な人よ』
『ごめんなさい、いろいろ気を使わせて……』
『そんな風に思わないで』
 項垂れたまどかの手を、彼女は両手で包んだ。その温もりが、じんと胸に染みた。

 その夜、有吉と約束どおり食事に行ったまどかは、アルコールを少し飲んだにもかかわらず、家に帰ると寝付けなかった。
 鳳乱の香りに包まれて、広いベッドで何度も寝返りを打つ。
 きっと、昏睡状態に陥ってから色々体に影響しているのだろう、と結論を出して、眠るのを諦めた。
 ふと、食事中の有吉との会話が、頭に浮かんだ。

「快気祝い、と言いたいけど、事情がアレなだけに、『祝い』は無いよな」
 有吉は給仕されたばかりのグラスを目の高さに上げた。
「まあ、そうだよね……」
 まどかもつられてグラスを上げ、一口果実酒を口に含んだ。
 有吉が連れて来たのは、ホテルのレストランだった。客層も気取った雰囲気ではなく、またウェイターの畏(かしこ)まり過ぎず、馴れ馴れし過ぎず、きめの細かいサービスはこのホテルの質をそれだけで語っていた。
『もちろん、食事だけだから』と、向かいの席でおどける彼に、まどかは微笑で答えた。
 彼はまどかが山頂で倒れた後と、バーシスに戻るまでの経過を短く話した。
 そこにイルマ・ルイの名が出て来たことに、まどかは内心驚いた。
「オレ、ユランに行くことにした」
「そ、そうなの?」
 動揺を悟られないよう、サラダに視線を落とした。
「うん」
 有吉はまどかのサラダから、キュウリにフォークを持つ手を伸ばした。
 まどかはキュウリが嫌いだ。漬け物はまだ大丈夫だが、新鮮な、あの青臭いにおいがダメだった。
 有吉はそれを知っている。
「オレ、どうしてもバーシスの空気がダメ。体動かしている方が断然好きだし。金目を一人にしておくのはちょっと気がかりだけど、覚と吉野が残るから大丈夫だろう」
 おい、手と口が動いてないぞ、と彼はフォークを揺らしてまどかを促した。
「みちるは?」
 サラダを口に運ぶ。野菜はみずみずしく、ドレッシングも爽やかで、美味しかった。
「みちるもユランに行く。ああいう時の女って、強いと言うか、すぐに決断出来るところがすごいよな。まあ、あいつの性格でもあるとおもうけど。覚の方がショック受けてたからなあ」
「私は、看護チームに行く」
「だろうね。覚もだよ」
 給仕がメインを運んで来た。サラダがまだ残っていたが、下げてもらった。
 まどかは魚料理、有吉は肉のソテーだった。
「うまい」
 一口食べて、彼は唸った。
「見てこれ。絶妙の焼き加減。火はきちんと通ってるけど、中は限りなく生に近い」
 彼は一口切った肉をフォークで刺して口元に近づけた。
 確かに、外側は香ばしく焼かれ、こんがりと色濃く肉を縁取っているが、中はほんのりと桜色だった。
 それを有吉は口に運んだ。食事中に不謹慎かもしれないけど。と、彼は前置きをしてから、ややまどかの方へ顔を寄せた。
「この、ふかふかの肉の口当たりと肉汁は、女を連想させる。マジで」
「……と、言われましても……」
 まどかは、皮にからりと焼き色がついている魚にソースを絡めて口に入れた。
「うまい?」
 まどかが飲み込んだのを見て、有吉はホッとしたようだった。
「おいしい。あ、ねえ、お肉一口ちょうだい」
 彼は肉を切り、フォークで直にまどかの口に入れた。
 温かいそれは、噛むとささやかな弾力で応え、肉汁は舌に絡み、とろけて喉の奥へ消えていった。
 なんとなく、有吉の言葉の意味が分かる気がした。
「……確かに、エロいわ……」
「だろ?」
 彼は片目を瞑って笑った。

 二人は、シャトルの停車場までゆっくり歩いた。
暗がりの中にライトアップされ、ぽっかりとその姿を浮かび上がらせている大聖堂の近くには、まばらだが、まだ人の往来があった。
「ごめんね、食事、残しちゃって」
「少しでも食べられて良かったと思ってるよ」
 有吉の言葉に感謝した。誘ってもらって、感謝した。
「あ。そうだ、有吉、ずっと側に付いていてくれたでしょ。私が意識無くしているとき。ありがとね」
 何を今さら、あなた。と、有吉は腕でまどかの頭を抱え込んだ。
「オレは、ずっと……ずっとお前の側にいたでしょ。今さら、ありがとうって、それだけじゃ足りないって」
 彼は立ち止まり、そのまま両手で私の顔をすくい上げ、キスをした。咄嗟のことに吃驚したが、まどかは瞳を閉じ、自然にそれを受け入れた。
 有吉にキスをされると、昔の自分に戻れるような気がした。
 まだ何も知らない、人を愛する事も傷つける事も、傷つく事も知らない、恋に恋しているあの時に。
 何度かお互いの舌を絡め合い、甘く噛み、噛まれた。強く舌を根元から吸われると、ぼうっとしてきて、思わず彼の腕に掴まった。
 有吉は軽く唇を吸い上げると、顔を覗き込んだ。
「大丈夫?」
「あ、うん……ちょっとふらついただけ」
 どんな顔をしていたのだろう。
「こ、これはホラ、お礼として貰っておいただけだから」
 目の前で、少し慌てる有吉の胸に、額を付けた。
「分かってるよ……」
 彼はまどかの肩に両腕を回した。
 こんなこと言うのは不謹慎かもしれないけど……と、彼は前置きした。
 まどかにはその先が何となく読めた。
「おまえのキスで、さっき喰った肉、思いだした」
 まどかは思わず吹き出した。

 回想の中の自分と一緒に、まどかはもう一度吹き出した。
 風のない夜。
 森のざわめきも、部屋にも音は無く、薄暗がりの中で、時が止まってしまったのではないかと思えた。
 それはやはり気のせいで、やがて朝日を受けたカーテンがじんわりと時間をかけて発光し始め、庭に遊びに来た鳥のさえずりが聞こえた。
 一日がまた、始まる。
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