ELYSIUM

久保 ちはろ

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Part 16-1

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みちると有吉はユランへ発ち、二ヶ月近く過ぎていた。
 山口が看護チームに、吉野は研究チームに。
 バーシス居残りの内勤組にも、体力面での基礎訓練や武器技術関連の研修もあり、その時には吉野とも顔を合わせた。
 何度かイルマ・ルイにメッセージを送ってみたが、返事は一度も来なかった。
 そして、鳳乱を失った後遺症は、思ったよりもかなり酷かった。
 とにかく、眠れない。
 外でそよぐ森の、庭の木々に、家の中でことり、と何か音がした感じに、それらが鳳乱の帰還を錯覚させ、夜中に身を起こすことが何度もあった。
 鳳乱の香りの中にいることが神経を刺激するのかと、与えられた寮の部屋で寝てみたが、全く寝付けないか、または浅い眠りについたと思えば、やはりすぐに目が覚めるのだった。
 どこにいても、彼を感じた。肌を滑る彼の手の温もり、耳をくすぐる吐息、しっとりと湿った熱い体。
 彼の柔らかな髪の感触はまだ手が覚えている。唇は彼の味を。
 不意に彼に名を呼ばれた気がして、廊下を振り返ることも度々あった。
(会いたい……)
ーー私と離れるのは嫌だ、って言ったのは鳳乱じゃない。それなのに、どうして自分から離れて行っちゃったのよーー
 それでも彼を恨むことも、泣くことも出来ずに、まどかの鳳乱への思いは、胸の中で靄が掛かったようにいつも、そこにあった。
 ユランに行き、鳳乱が姿を変えた「火の石」を見れば諦めがつくかもしれない。
ーーでも、諦めってなんだろう。潮が引いていくようにさあっと鳳乱の事を忘れることだろうか。
 ユラン行きを考えるも、一方で、現実を見るのは怖かった。目の前に揺るぎない事実を突きつけられたら、本当に全て崩れる気がして、ユランを訪れる決心はなかなかつかなかった。

「うわ、おまえ、やばいよ。目の隈。コンシーラーかなんかで隠せないもんかね?」
 山口が、眠れずに三晩過ごしたまどかの顔を見て言った。
「コンシーラーとか、よく知ってるね」
 人差し指で目の下に軽く触れた。普段のメイクでは隠せなかったようだ。
「まあ、姉貴がいれば、そういうのは詳しくなるよ」
 彼は机の上で、救急箱の中身を一つ一つ確認し始める。
 これから、応急処置の授業だ。どんな状況でもいかに素早く手際よく、怪我人、病人に対処出来るか。これは常に授業の始めに練習させられる。ルーティンみたいなものだ。
「ね、山口のお姉さんの名前は?」
 急に訊かれて山口は、目を瞬いたが素直に答えた。
「えっと……恵美。なんで? あ……」
 まどかは山口に頷く。
 すると山口は手を伸ばし、わしわしっとまどかの頭を乱暴に撫でた。
「オレの記憶の心配なんてしてないで、おまえこそ安定剤、処方してもらいなさいな」
「うん……でも、けっこう頭の中は、ばきっと冴えているんだけどなあ……」
「だから、それがやばいんでしょうが」
「食事も一緒にしような。オレ、有吉からお前の世話するように、しつこいくらい念を押されたからな。まったく、あいつも過保護だよ」
「いいよ~、世話なんて……有吉は大げさなんだって」
 まどかは、乱れた髪をさっと手で直すと、必要なツールを机の上に並べながら、苦笑した。
 昼は約束通り、山口と一緒に食べたが食欲は全くなかった。彼の手前、無理して料理の三分の一程食べたが、それが限度だった。
 食べ物を口に入れてもその味は全くせず、紙やゴムでも噛んでいる気がした。
(鳳乱のごはんが食べたい……)
 そう思うと、自然とフォークをトレイの上に戻し、それそ再び手に取る気にならなかった。
 有吉と食事をした時に、味覚があった事実が不思議だった。
 昼休みの残りの時間で東棟の二階へ行き、ドクターの所へ連れて行くと、彼は症状を聞いた後に精神安定剤と、ビタミン剤の類をまどかに与えた。精神安定剤のほうは植物性のもので、成分を説明されると、いくつかまどかの知ったハーブの名前もあった。副作用も殆どない。
「これはこれで、でも、食事はきちんと摂るように心がけなさい」
 ドクターはタブレットの入ったケースを差し出しながら言った。事務的なそれではなく、眉間に皺を寄せて言う彼の雰囲気は少しお節介な親戚の叔父さんを思い出させた。
 そして、ふとまだそれを覚えていることに安堵した。
 薬を服用するようになってからは、少し眠れるようになったが、食欲の方は一向に湧いてこなかった。昼間は山口か吉野、モイラに無理矢理食堂に引っ張られ、何かしら少し口にするが、家でキッチンを使うとすれば、お茶を入れる時くらいだった。
 やはり、食べないと体が機能しないのだろう。何せ、ガソリンが無いのだから、車は走らない。
 体力がものを言う基礎訓練が、拷問に感じた。
 だるい体に鞭打ちながら、なんとか全てのメニューをこなす頃には、シャツはびっしょりと汗を吸い込んでいる状態だった。
 訓練後は、寒気がしたし、疲れもなかなか回復しなかった。そうやって疲れを溜め込んでしまうと、ますます体の融通が利かなくなった。
 自分の体が、自分のものじゃないみたいだった。
 他の研修生達より明らかに動きの悪いまどかに、教官はもちろん手を差し伸べもしなかったし、訓練を止めさせる事も無かった。
 止めたかったら、自分で決めて止めればいい。
 自分で自分をコントロールすることは、バーシスでは基本中の基本だった。
 まどかは、まだ、大丈夫だと思った。あと五分、あと5kg、あと5m……まだこなせる。
 そう思って歯を食いしばった。
 そして、ある日また、倒れた。

***

「情けない」
 三日間病室でシスターの管理下、三度三度の食事をとらされた後、長官室への二度目の呼び出し。
 まどかは、ソファに座って項垂れている。
 その向いには、今その言葉を発した本人が脚を組み、鈍い光を放つ布張りの、アームチェアに身を沈めていた。
「情けない」
 シャム・エステノレス長官は静かに、でも、鋭くもう一度言った。
「ご迷惑をかけて、もうしわけ……ありません。自分の力を過信していました……」
 初めて会った時と同じ、紫紺のローブと、高貴なオーラを身につけた長官は、冷たく突き刺すような視線でまどかを見ていた。
 そんな視線をまともに受けたら、死ぬ。と言って彼を形容しても、大げさではないだろう。
 一度視線が交わったあと、まどかは怖くて顔を上げられなかった。
「私には迷惑はかかっていないけれどね、少し自分を甘やかしているんじゃないのかな。食べたくなきゃ食べない。そんな我が侭が通ると思ってるの? 食べなきゃ倒れることくらい、君にだってわかるだろう。ここでの研修だって、お遊びじゃない。病人がこなせるような訓練じゃないんだ。そんなことは始めから分かっているね?」
「はい……」
 静かな語り口だが、明らかに苛立が聞こえる。彼にそんな口調で語られると自分がどんな罪を犯したのか、という気にさえなってくる。
「金目は暫くの間、誰かと一緒に暮らした方がいい。シェア出来るのに十分な部屋を与えるから、彼女なり、彼なり、君の選んだ研修生と暮らしたまえ。そして、ちゃんと生活を管理してもらいなさい。君一人じゃ、ダメということが証明されたわけだから。それは私からの指令ということで、相手に断る余地はない。誰と暮らしても構わないよ」
 まどかは顔を上げた。彼の視線は、まだ冷徹を保っている。
「あの……それは、研修生じゃなきゃダメですか……?」
 アームチェアの肘に頬杖を付いていた長官は、一変して興味深そうに目を輝かせた。女学生が、友人の「恋話コイバナ」に喰いつく、まさにそんな目つきだ。
「何? 教官の中で誰か心当たりがあるの?」
 まどかは、膝の上に置いた手を固く握りしめた。
「……獅子王と、暮らします」
 長官の目の輝きが、また『最高司令長官』の、冷たいそれに変化した。
「あ、それはダメだね」
 まさか諸手を上げて賛成されるとは思わなかったが、速攻のダメ出しに、がっくりと肩を落とした。
「獅子王は、鳳乱を石にした張本人だぞ。そんなヤツと暮らしたいだなんて、気でも触れたか、そうじゃなきゃ、ドMか」
「山口にも以前、そんなことを言われました……ドMかと」
「え!? 本当にそうなのか?!」
「違います……」
 長官は椅子の背に頭をもたせかけたまま、ゆっくり脚を組み換えた。彼は、楽しそうに口の端を上げた。
「話してごらん。金目がそう言うからには、何かあるんだろう? 理由に依っては、私は首を縦に振るかもしれない」
 まどかはじっと彼を見据えた。
ーー私はここでは、あなたの忠実な部下の一人です。深手を負っている哀れな部下に、最高司令長官の恩寵を与えてくださいーー
 眼差しから、その思いは伝わるだろうか。
「私、考えたんです。自分がまた眠れるようになり、食事も出来るようになるにはどうしたらいいか……自分勝手で、利己主義な話になりますが……もし、獅子王が少しでも良心と言うものを持っているのなら……少しでも自分のしたことを後悔しているのなら……私といる事が、私といて、常に鳳乱の影を絶えず思い起こす方が、辛いと思うんです。それは、十分に彼を罰するに値するものだと思うんです……」
 まどかは、ここで一息おいて、素早くエステノレスの様子を伺った。
 彼の頬杖をついた顔に表情はない。まどかは自分を勇気付け、言葉を継いだ。
「例えば……私を被害者と呼ぶとして、そんな私が彼を許そうという素振りを見せれば見せる程、優しく接すれば、接する程、加害者である彼の良心は、苦しみで悲鳴を上げると思うんです……それを見たら、少しは私の気が済むかもしれません。苦しみ、そして少しでも鳳乱に済まないという獅子王の気持ちが見えれば、私も立ち直れるかも……。いろいろと、諦めがついて、生きていこうと、新しい一歩を踏み出そうと頑張れるかもしれない。……そう思ったんです。……それは、全て獅子王に『良心がある』という仮定の上ですが……。つまり、そういう意味で、今の私には獅子王が必要なんです」
 話が終わっても、相手はしばらく黙っていた。そして、ガラスの向こうに、藤色に染まりつつある空の方へ顔を向けた。
「ドSか……」
「は?」
 まどかは、彼の言葉よく聞き取れず、いや、何かの聞き間違えではないかと思い、やや身を乗り出した。
 彼は再びまどかの方へ向き直った。
 その瞳からすでに冷ややかな光は消え、彼は心底、楽しんでいるような笑みを漏らしてさえいた。
「そんなこと考えるなんて、金目はドSだったんだなあ」
「ち、違います!」
 まどかは自分が赤面するのを感じた。
「違わないよ」
 彼は組んだ脚をぶらぶらと揺らした。
「獅子は踏み台か……気に入った」
「え?」
(まさか)
「ドS、お好きなんですか?」
 ふっ、とやや俯いて彼は鼻で笑った。
「獅子王、連れて帰って来なさい。これは私からの指令だ。うん。悪くない。なかなか楽しそうな企画だ」
 そして立ち上がった。
 まどかもつられて立ち上がった。そして勢いよく頭を下げた。
「あ、ありがとうございます!」
「いいって。そんな堅苦しい。まあ、獅子王もまたここで私のために働いてくれたら実際助かるしね。あぁ、迎えに行くのは君一人だから、明日から船の扱いを課外授業として、ミケシュから教わりなさい。話を通しておくから。それと、きちんと食事をとりなさい。無理にでも詰め込む。これも、命令」
「はい!」
 自然と声に張りが出た。
 まどかはもう一度お辞儀をして、部屋を出ようと体の向きを変えかけると、長官に呼び止められた。
「金目、ちょっとこっちに来なさい」
 彼は軽く手招きをする。
「……はい?」
 彼の正面に立つと、細面の美しい顔に視線が釘付けになった。穏やかに微笑みをたたえている。
 そういえば、こんなに間近で長官を見るのは始めてだ。
(天使がいるとしたら、こんな風に微笑む?)
 そんな風に考えていると、突然ふわりと、彼の腕が伸びて、体が引き寄せられた。
 まどかは息をのむ。
 突然のことに声が出ない。
 彼はそっと包むように、しかし、しっかりと体を密着させたまま、髪に顔を埋めていた。
 まどかの頬を、さらさらと、彼のうぐいす色の髪がくすぐった。花の蜜のような、甘い香りが漂った。
「私は結構、ドSが好きかもしれない」
 そう耳元で囁いて、彼はかりっと耳を噛んだ。
「んっ」
 痛いような、くすぐったいような、小さな旋律が体を走った。
 彼はそっと体を離すと、真剣な眼差しでまどかを見つめた。
「金目、胸が痩せたような気がするよ。やっぱりもっと太らないといけないね」
 まどかは何かを言おうとしたが、頭の中が混乱してくるばかりで、ただ、呆然と彼を見つめ返していた。
 彼はにやりと口の端に笑みを刻んだ。
「もう行ってもいいよ。今度会う時は獅子王と一緒の時かな」
 まどかはそのまま一歩、二歩、と後退し、やっとのことで「し……失礼します」と言うと、くるりと背を向けて足早に長官室を後にした。
(い、一体今のは何だったの!?)
 まどかは廊下に出た途端、小走りで西棟へ戻った。
(ドSが好きって……私はドSじゃないっ!)
 胸の内で叫びながら、人気(ひとけ)の無い長い廊下を走り続けた。
(ていうか、あれ、すっごく立派なセクハラじゃないの!? ていうか、抵抗しなかったから長官的にはオッケー!? とにかく、この件は自分の中では削除!)
ーーとにかく、私は獅子王を連れ戻す。
 その目的のおかげで気分が高揚してきたためか、その後は急に食欲を覚えた。
 自然と体が食べ物を要求するようになり、一日三度の食事が苦にならなくなった。
 食べたら食べただけ、体重も緩やかに戻ってきた。動いても、疲れ難くなった。
 生命力って、こういうことなのだろうか。

 結局、長官の許しを勝ち得たまどかは、獅子王を迎えに行くために船の基本的な扱いを、一週間かけてミケシュから手ほどきされた。
 その小型船は、先がやや尖った流線型で、全体が鷹の頭のように見えなくもなかった。
 操縦席が一つ、その後ろに二人分のシートがあり、さらに後ろは、大人一人が寝てもまだ随分スペースに余裕があった。一番奥に見えるドアの奥は、洗面所だ。
 ミケシュの話だと、このタイプの船がよく看護チームで使われるらしい。その空きスペースで怪我人や病人の運搬や応急処置をすることもあるそうだ。
「ごめんね、誰か同伴させてあげたいんだけど、公式には、獅子王は他の星の監察で外に出している、ってなってるから、『ザンク・イネア』なんかに誰かと迎えに行ったら、あの措置が追放だったってことが一発でバレちゃうのよ。囚人しかいない所だもの。さすがの獅子王も人相変わってなきゃいいけどね。あ、あの生意気な性格は矯正されてることを願うわ」
「でも、ユランで獅子王はバーシスの警備隊に捕まっているじゃないですか。彼らなら内情を知っているから、同伴してもらっても問題は無いんじゃないですか」
 操縦席に膝立ちの状態で、頭上に並ぶ幾つかのボタンを押していた彼女は、腕の下からまどかを見下ろして口を歪めた。
「あの人達、長官にそこだけ記憶抜かれたから。金目はもう、知ってるでしょ? 長官の特技」
「ええ、まあ……」
「人の口に戸は立たないからね……いくらバーシスで訓練された者だろうと、長官は100パーセント信用していないわ。皮肉にも獅子王と、鳳乱は別だったけど。あと、残りはカネラ・イルマね」
「でも、そんなに簡単に……同意が無いと記憶は消せないって言ってましたよ? 調査員は皆、同意したんですか?」
 ミケシュは操縦席から下りると、席の背に背中を預けた。
「金目は、組織の中で働いた経験が無いでしょう」
 診療所で仕事はしていたが、殆ど院長一人がまとめている個人経営のようなものだったし、確かに、こんな大きな組織で働いたことは、無い。
「ええ、ありません」
「こういう組織では、人に同意させる方法なんていくらでもあるのよ。さっ! 説明したこと、やってみて」
 まどかは操縦席に座り、目の前のパネルに集中した。
 船はもちろん、自動操縦の運行で目的地まで着くのだが、何かエラーがあった時にパニックに陥らないよう、エラーコードと対処の仕方は念入りに指導された。
 今回は飛行距離がかなり長くなるので、万が一の時のエネルギー交換の仕方、バーシスとの通信方法。部品が故障した時の適切な道具と、その使用法。
 それらを頭に叩き入れ、まどかは一人、獅子王を取り返すための唯一のツールである、最高司令長官の書類を携えてザンク・イネアに向かった。
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