ELYSIUM

久保 ちはろ

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Part 17-1

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 バーシスに船が着く時間は、どんなに早くても夜中になる。
 ミケシュがはじいた時間通り、ほぼ正確に船は到着した。

 船をスポットに止めると、地に埋め込まれた小さな光と、満月直前の十分太った月の明かりを頼りに、二人はしんと静まった闇夜を宿舎まで無言で歩いた。
 もっとも、獅子王には光があっても無くても同じだっただろう。
 月が描く二つの青い影も、黙って寄り添っていた。
 生暖かい風が肌を撫でた。森を通ってくるそれは、土の匂いを含んでいた。
 獅子王の部屋に入ると、彼は寝室に直行した。
 確かに彼は向こうでシャワーも浴びたし、ここには食料の買い置きも無いので、寝るしかない。
 獅子王はあれだけ船で寝たのに、眠れるのはある意味、羨ましかった。
 恋人同士なら、会えなかった時間を埋め合わすように寝る間も惜しんで語り合うだろう。
 でも、二人は違うし、語り合える共通の話題といえば、出来れば触れたくない類いのものだ。
 まどかは勝手にシャワーを使った。
 体をつたう熱めの湯が、獅子王の愛撫の残滓と長旅の疲れを流していった。
 もし、あのとき必死で抵抗すれば、彼に組み敷かれることも無かっただろう。
 それでも彼に体を許したのは、打算的なものが無かったかと言えば嘘になる。まどかはどうしても獅子王を連れて帰りたかった。
 体を許すことで、その目的を容易に果たせるのだったら。
 まさか獅子王が、そんな陳腐な策にかかるとは思わなかったが、結局、功を奏した。
 でも、冷静になると、なぜそこまで自分がムキになっているのかわからない。
 シャワーに打たれながら、まどかは頭をゆっくり振った。
 着替えが無いので、着ていたキャミソールとショーツを身に付け、寝室へ向かう。

 天窓から真っ白な月光が差し込んでいた。
 光はベッドに横たわる、大きな体を浮き上がらせていた。
 彼に近づくまどかの足音は、毛足の長い絨毯に吸い込まれる。
 まどかはベッドに上がると、飼い主に近づく猫のように忍び寄り、獅子王の背にそっと手を伸ばす。
 指先が相手に触れそうになったところで、「触るな」と鋭い声がそれを阻んだ。
 まどかは、はっとして身を引いた。そのまま彼の横に座り込む。
 濃い静寂。
「オレに近づくな」
 振り向きもせずに、獅子王は言った。
「満月も近いんだ……満月は全ての生物の血を滾(たぎ)らせる。見境が無くなる。おまえを襲う」
「どうにかされてもいいわ。いっそ、噛み殺してくれれば……」
 まどかは語尾を濁した。自分が言ったことに何の意味もないとわかったからだ。
「でも、一つだけ言っておきたいの。鳳乱は石に姿を変える直前、私に言ったの。『獅子は悪くない』って……」
「嘘だ」
「本当よ。『まどかも、有吉も、誰も悪くない』って」
 厚い沈黙の層が、二人だけをすっぽりと覆っているようだった。
「……おまえ、鳳乱のにおいがするんだよ。おまえの体が熱くなると、水が蒸発するみたいにあいつのにおいが立ち上ってくる。そんな状態じゃ、萎えるだろ。普通」
「うそ……」
「嘘じゃねーよ。ま、よっぽどの臭覚の持ち主じゃないとわからないけどな。どんだけ、あいつおまえに刻み込んだんだよ」
 まどかは両腕を胸の前で交差させて、自分で自分を抱きしめた。
(鳳乱……)
 鼻の奥がつーんと痛んだ。
 部屋のかたちがだんだん歪み始めた。
 目の縁にたまった涙が月光を反射し、目がちかちかした。
 さら……
 衣擦れの音がした。
 獅子王が、まどかの方へ体の向きを変えていた。
 ザンク・イネアを後にしてから始めて、二人の視線が交わった。
 彼は腕を持ち上げてブランケットを開いた。彼の、何も身に付けていない上半身が、青白い月明かりに浮いた。
 彼は一言も言葉を発せずに、ただ、じっと不思議そうに、涙を溜めたまどかの目を見ていた。
 まどかは、もそもそと逞しい腕の中に潜り込む。彼がそっとその体を包んだ。
 しばらくすると、頭の上から規則正しい寝息が聞こえてきた。
 とても久しぶりに、人の温もりと心音に包まれて、まどかはやがて眠りに誘われていった。

 目を覚ましたとき、まどかは一瞬自分がどこにいるのかわからなかった。
 ベッドの上に一人。いつもと違うシーツの色、肌触り。
 部屋の様子もなんとなく違う。鳳乱の匂いが全くしない。鳥のさえずりは聞こえるが、それ以外は音がしない。
 久しぶりに良く眠れたせいか、目に見えるものが脳へ伝わって分析されるのに随分時間がかかっているようだ。
 体を起こし、顔にかかった髪を横に払う。
(ああ、獅子王の部屋……)
 傍らにあった自分のパルスを取ると、よく眠ったと思う割にはまだ早い時間だった。
 昨日は、あの夢を見なかった。

 背景はいつも、あの、マンチャ・カタルヤの頂上。
 周りはグレー一色。
 目を凝らすと、佇む人影。鳳乱だ。まどかは駆け寄る。
 鳳乱は微笑んでいる。眩しそうに目を細めて、まどかが来るのを待っている。腕の中に飛び込むのを待っている。
 あと少し、手を伸ばせば届くその時……まどかの足元に亀裂が走り、そこから突然、真っ赤な溶岩が空に向かって無数の手を伸ばす。
 止めども無くどろどろの溶岩は二人の間を隔て、まどかはその熱さで顔を覆う。
 鳳乱の名を叫びながら彼のいた方を見ると、その姿はもう、無い。

 安定剤を使うようになっても、この夢に度々うなされた。
 ベッドの上には新しい、普段の制服が一揃え、置いてあった。まどかは着替えて寝室を出た。
 コーヒーの香りが漂う居間を横切り、キッチンに入る。
「おはよう……」
 獅子王はテーブルに頬杖を突いて自分のパルスをいじっていた。こちらへ目だけ上げると、また視線をガジェットに落とした。
「おはよう。コーヒー入れたけど、おまえ紅茶の方がいいなら、入れるぞ」
「あ……いい。コーヒー貰う。獅子王の、美味しいもんね」
 まどかはシンク脇の、まだ熱いエスプレッソマシーンから、近くに用意されていたマグにコーヒーを入れた。ミルクパンの温かいミルクを注ぐ。
「パルス、どうしたの? 取り上げられたはずでしょ」
 まどかは彼の後ろから覗き込んだ。
「さっき、ポストマンが運んできた。シャムの仕業だろ。ご丁寧に食い物も。パンやらいろいろその袋に入っているから適当に喰えよ」
 依然として顔を上げない彼が指差す方を見ると、隅に二つ、紙袋が置いてあった。
「獅子王は?」
「オレはもうフィルズ喰った」
 非常に、素っ気ない。
 フィルズはサクランボほど小ぶりで、丸い甘みは桃のようなフルーツだ。
 栄養価も高いらしく、まどかもよくおやつ代わりに食べることがあった。
「え……一人で朝食とるのいやよ。獅子王、一緒に、食べて?」
 一瞬振り向いた獅子王は顔をしかめた。が、すぐに手元に視線を落とす。
 まどかは向いに座り、コーヒーのマグを傾けながら彼をちらちらと見つつ、さらに言葉を継げる。
「ただでさえ食欲湧かないのに、一人寂しく食べるのいやだし……今日は朝食抜きでもいっかなあ」
 それは嘘だった。ザンク・イネアに行く船の中でクラッカー二枚とフィルズを一つかじった胃袋はとっくに空で、悲鳴を上げる寸前だった。
 彼は画面を忙しくスクロースさせていたが、いきなりぱたっとそれを置くと、席を立って紙袋を持って来た。
 そして怒ったような少し荒い手つきで中のものをテーブルに出していく。
「あれ? 獅子王、食べるの? じゃあ、お皿、用意するね」
 まどかは慣れないキッチンで、あらゆる戸棚を開けたり閉めたりを繰り返して、必要な食器をセットした。その間に彼はいくつかの野菜を洗って切り、皿に載せる。
「……おまえ、そういうヤツだったっけ?」
 野菜とハムを挟んだサンドイッチに噛み付きながら、向かいの獅子王は言った。
「何が?」
 まどかは、口に広がるトマトの甘酸っぱい汁に、つい口元を綻ばせた。味覚はすっかり戻っていた。
「……なんか人を試すような所、前はなかったと思うけど」
「そりゃ、いろいろあれば変わるでしょ。こっちに来てそれなりに時間が経ってるのよ。変わらない方が、変よ」
 獅子王の、まどかを見る目が一瞬虚ろになった。
(あ……今の、イヤミとかじゃないんだけど……)
「あ……今の……」
 まどかは弁解の言葉を切り出そうとしたが、獅子王の方が早かった。
「おまえ、こっちに来てから何かを自分の意志で決めて、行動したのって初めてじゃないの? それが、おまえの恋人を消した男を連れ戻すっていうのは何の因果か、皮肉だよな。おまえ、そうやってここで点数稼いで、経験値上げてどーすんの? 帰る人間がやることじゃないだろ。無意味だろ。それともおまえ、ここに残るつもりなの? それならまだ何となくわかるけどな。……ま、帰るも残るもおまえが決めることだし、こんなオレが口出すことじゃないけど」
 言うだけ言うと、獅子王は、とっくに冷めているはずのコーヒーを一口飲んで、キッチンを出て行った。
 まどかは、獅子王のその言葉に少なからずショックを受けていた。
 そして、自分があれだけムキになっていた理由もわかった。
 つまり自分の力で結果を出したかった。そういうことだ。
『自分で決めて、行動して結果を出したこと』
 これまでの人生で、自分は一体どれほど経験してきただろう。
 高校、短大は偏差値と交通の便が良い、という条件で選んだ。
 その時は、「やりたいこと」はそのうち見つかると思っていた。
 だから、それが見つからないまま短大を卒業した後、何を勉強してきたかわからずに、そのときたまに通っていた鍼灸治療院の先生の勧めで、両親も納得してくれたこともあって、専門学校に行き直し、資格を取った。
 それくらいだろう。自分が「決断して、結果を出した」のは。
 それすらも今は就職した先で、「自分はこれでいいのか」と首を傾げることも多くなっている。
『帰るも残るも、おまえの決断』
『帰る』のだから、『残る』決断なんて、ない。ずっとそう思っていたのに、獅子王の言葉で、今、まどかは分かれ道の前に立っていると気付かされたのだった。
 まどかは皿に残ったパンを食べ終えると、食器を片付けて寝室へ獅子王を見に行った。彼は再びベッドに潜り込んで、眠っていた。
 一応、彼の丸まった背に声をかける。
「夕方、長官の所に一緒に行くんだからね……」
 そして、授業のツールを取りに、鳳乱の部屋へ向かった。
 普段と同じように、朝露で表面を煌めかせた芝生を踏みながら。

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