ELYSIUM

久保 ちはろ

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Part 20-1

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 病理のグループ研修が意外に長引いた。
 獅子王が先に部屋に戻っているかと思ったが、彼はまだ帰っていないようだ。
 まどかは寝室に行き、クロゼットを開けて夜会のドレスを収めた箱からクロッチバッグを取り出す。
 その中に、首飾りも入っていた。それをそっと手にし、箱を元通りにして、クロゼットを閉める。 
 イルマ教官のお母様のクリスタル。その大振りな涙のような粒は七色の光を四方八方へ散らしている。ころころと手の上で転がすと、壁に光が踊った。
 冷たい輝きに、あの熱い夜が浮かび上がる。頬にほんのりと血が上った。
 あの夜、教官との間で起こった情事はこの首飾りだけが知っている。
(返しにいかなきゃ)
 それでも、彼と二人きりで会うと思うと、怖かった。
 怖い……。それは、彼が何か酷いことをする、傷つけるかもしれない行為に対しての恐怖ではなく、それよりも、自分の制御を失うことが怖かった。
 自分の中の何かが間違った方向へ動き出して、手に負えなくなるのが怖かった。まどかの、「本来の望むべき自分」から外れそうで怖かった。その道は深い深い崖へ続いているのに、喜んで自分がその道を進むイメージが描けるのが、怖かった。
 そして、彼に会う度、そのイメージは色濃くなっていく。
「あ、いたんだ」
 ハッとして視線をアクセサリーから声の方へ向けると、寝室の入り口に手をかけて獅子王が立っていた。
「あ……おかえり」
 まどかはクリスタルをきゅっと握り、ポケットへ滑らせた。彼からは体が影になって見えないのが救いだった。まどかはベッドから立ち上がり、彼に近づいた。
「帰って来たの、気がつかなかった」
 神妙な顔で見下ろす彼の腕に、手をかける。
「オレの首に、鈴でも掛けておいた方がいいかもよ」
 まどかは眉を寄せた。
 縁にかかっていた彼の手がまどかの顔に近づき、躊躇するように浮かんだが、そのまますっと下りていった。
「……おまえと鳳乱には、済まないことをした」
 静かに、言葉を選ぶように、それでもはっきりと彼は言った。
 まどかは、彼を見上げた目を見張った。
 琥珀色の瞳は、こちらが哀れになるくらい悲しみの色を宿していた。胸がキュッと痛む。
 それは、まどかがずっと欲していたはずの言葉だったのに、今、この瞬間、この言葉を聞いたことを後悔した。
 前触れもなく謝るのは卑怯、とさえ思った。「どうして今、そんなことを言うの」と、詰(なじ)りたくもなった。
 できれば、聞きたくなかった。
 ずっと、聞きたくなかった。
 所詮、まどかが彼を許さなければいい話だ。彼の言葉を受け入れなければいい。
 それでも、それを突き返すだけのものは、まどかには無かった。もう、彼に対する憎しみは残っていなかった。第一、まどかが彼を憎んでいたのかどうかも、今は思いだせなかった。
 それはまどかの蘇生を意味するものだったが、やっと蘇生したのは明らかに別の因子が働いたから、という事実に少し前から気がついていた。
 獅子王との日々過ごす時間ではなく、全く別の因子が、思わぬ方向から急激にやってきたことで。
「……お腹がすいた」
 まどかは獅子王の言葉には答えず、キッチンに促すように彼の腕を引いた。食欲なんて無かったが、この話を強制終了したかった。
「何が喰いたい?」
 彼はその一連の反応を予測してたかのように、自然にまどかの手を取り、キッチンへ向かう。
「……獅子王」
 彼は、ふと立ち止まり、真顔でじっとまどかを見下ろす。
「悪いな、まだ食べ頃じゃないんだよ」
 獅子王は、即座にまどかの小さな悪意を見抜いていた。彼の、謝罪に対する復讐を。
 そして同時に、彼をもう憎んでいないことを。
「代わりに、パスタでいいだろ。特製ソースでさ。デザートも付けてやる」
 彼はまどかの頭に、手を置いた。
「しょうがないなぁ」
 まどかは大げさに溜め息をついた。


 Dr.リウの診療所へは、バーシスでの研修が早く終わる日を選び、週に二回通っている。
 彼女から借りた本を読むと、まどかの中で長いこと眠っていた知識が再び呼び起こされる。本は随分年季の入ったイリア・テリオのものだったが、書かれている理論はほとんど日本で勉強していたものと同じだった。
 まどかがDr.リウに本の感想を述べると、さらりと言葉が返ってきた。
「偉大な先人は、いつの世でもどの世界にもいるものよ。彼らは自然と共存するために、自然が我々にどんな影響を与えているか知りたがったのね。一緒にいたいと思うならば、やはり相手の本質を知らないと。そういう意味では哲学とも言えるわね」

 先週は彼女が実際に施術しているところに立ち会った。
 手順や技術はまどかが学校で学んだことと違いが無いように思えた。ただ、彼女は患者ととにかく話し、特によく耳を傾けていた。
 まどかがそれを指摘すると、Dr.リウは小さく頷いた。
「そうね……私は病気を治すわけではなくて、患者さんの自己治癒力を引き出すだけ。だから、相手の声色にきちんと耳を傾け、目の輝きに気をつけて、呼吸の強弱を感じて、患者さんの体が私に何を教えているのか、とにかく全体を見ることを大切にしているわ。例えば、『お腹が痛い』って来る人がいて……診察して『胃潰瘍ですね』とか『生理痛ですね』って診断して、痛みを取り除くのは簡単なの。でも、その人はまた同じ症状で来るわ。そして同じ処置をする。そんな事を二、三回繰り返したら、もうその人は来ないわよ。だって、取り除かなきゃいけないのは『痛み』もさることながら、それを引き起こす『原因』だもの。それは胃腸が弱いという根本的なものだけではなくて、では、何が胃腸を弱くしているのか、そこを見つけてフォローしてあげないと、治癒力は存分に発揮出来ない。だから私は症状を聞いた後で必ず患者さんに『それでは、あなたが望んでいることはなんですか』って訊いているわ。そうすると大抵は『痛みを取って欲しい』と言うのだけど、……当たり前よね、でも、少し考えて答える人は『そうですね、よく眠りたいです』とか、『母に会って話したい』なんて答える人もいるのよ。それで驚くのは大抵ご本人ね。それからとてもすっきりしたような顔になるわ。私はその後施術するけど、ほとんどの場合その時にはご本人が気がついているのよ。自分が胸にどんなわだかまりや執着を持っていたとか、自分は本当はどうしたいのか、何を抑圧していたのか。それがわかれば体は快方に向かうわ。滞っていた気が流れ出しますからね」
 そう言ってDr.リウは、まどかが差し出した水の入ったグラスを微笑しながら受け取った。

 その数日後、初老のご婦人が関節痛と、お腹の調子が悪いと来院した。
 Dr.リウは婦人の細い手首に指を当てて脈を調べ、一通りの診察と問診を終えると、彼女の目をじっと見つめ、そして静かに言った。
「引っ越しをされた方がいいみたいですよ」
 ご婦人は目を丸くしてDr.リウを見つめている。まどかも、息を詰めてDr.リウの次の言葉を待った。
 健康の相談をしに来たのに、なぜ引っ越しの話をするのだろう。常軌を逸した診断だ。
 しかし、ご婦人の返事に、まどかはさらに驚かされた。
「そうですよね! 私、そのことでずうっと悩んでおりましたの。先生のお言葉ですっきりしました。ええ、引っ越しますとも」
 そう答えたご婦人の表情がパッと変化する。Dr.リウは、それから彼女に最低限の施術をし、薬茶の処方箋を渡した。
 患者が帰った後、まどかは矢も盾もたまらず、訊いた。
「Dr.リウ、先ほどの……すごかったですね。どうしてわかったんですか?」
 まどかは器具を元の場所に収めて、彼女の机の向かいに座った。
「そうねぇ、脈からは脾が弱っていたから、何か悩みがあると思ったのだけど……さらに目を診るとね、ときどき風が雲を払うように、はっきりとわかることがあるのよ。どうしてかしらね。こればかりは経験かしら」
 でも、やっぱりすごいです、と相づちを打つ。
「あ、目を診る、で思いだしたけれど、イルマさんの話をした時、あなたの目が曇ったのよ。彼に何か悪いイメージを持っているのかしら」
 まどかは、無意識に顔をしかめていたらしい。Dr.リウは小さく肩をすくめた。
「あら、そんなに怖い顔をしなくてもいいのよ。ただ、親心と言うか……なんていうの、ルイ君は私の息子みたいなものだから、つい、気になっちゃって」
 そう言って、からりと笑った。
「あの……今、何と?」
 まどかは思わず身を乗り出していた。
「ルイ君、話していなかった? まあ、私もいきなりそんな話も、と思ってあなたに最初は『イルマさん』なんて言ったから、わからなかったのね。彼のご両親とは家族ぐるみの御付き合いだったから。私の息子と、主人と。本当に小さい時から。ルイ君のお母様が彼を妊娠している時から診ていたの。お母様は、あの子を心優しい子にしようとそれはそれは、丁寧に育てていたわ。ルイ君は見た感じはむっつりして、第一印象は良くないけれど、可愛いところもあるのよ。人を見る目もね。だから、あなたの人柄について聞いた内容も、なかなか当たっていたでしょう?」
 彼女は、テーブルの器に盛った乾燥フルーツを一つつまんで口に入れた。
「え……でも、それは鳳乱から彼が仕入れた情報ですよね」
「あら、違いますよ。確かに鳳乱さんは、あなたが具体的に何が出来るかということは話してくれても、あなた自身についてはあまり話したがらない、って、ルイ君、困っていたもの。だから、『あくまでオレの私見ですけど』って、私にあなたのことを教えてくれたのよ」
 そういえば、まどかも、鳳乱が私の性格までつぶさに、親友と言えど他人にぺらぺら喋るのはおかしいと思っていた。どちらかと言うと彼らしくない行為。
 それなら、教官はバーシスでのまどかを見ただけで、あそこまで言い当てたのか。ーーでも、いつから?
「そ、そうですよね。人の上に立つ人は、やはり人を見る目も養われてますよね……」
 まどかは慌てて、「ちょっと、お茶を入れましょう」と角の簡易キッチンへ足を向けた。
 正直、複雑な気持ちだった。顔がほてってくる。ずっと滞っていた『気』が、とくとくと流れ出して来る気がした。

 翌日、まどかは研修の終わった夕刻前の遅い午後を、カンティーンのテラスで過ごしていた。大好きなフィルズのソルベを食べ、Dr.リウから借りた本を読んでいたが、彼女の言葉が頭にこびりついて離れない。
『一緒にいたいなら、相手の本質を知るべき』
 なんてシンプルなことだろう。
 とうとう本を閉じてしまった。つい熱心に読み過ぎたせいか、頭を上げると軽い目眩がした。
(暑い……)
 汗が出る程ではなかったが、陽は建物から延長されたシールドに遮られていても十分に肌を焼く。少し乾いた芝生は十分に暖められ、熱を蒸し返している。
 この暑さで思考が鈍る。無駄に考え事が出来なくて、いいかもしれない。
 でも、陽炎かげろう陽炎のようにイルマ・ルイの姿が目前に揺れる。 
 イルマ教官とは、彼の研修で顔を合わせるが、夜会以降、まどかは極力彼を避けていたし、向こうも近づいては来なかった。彼は本当に、まどかが頭にリボンを付けて彼の元へ行くとでも思っているのだろうか。
 それは絶対にありえない、と思いつつも、心が揺れている自分も自覚していた。
 そうでなかったら、『彼を意識しないように』意識するはずがない。
 全てが教官に試されているようで、なんだか、悔しい。
 
 確かに、あの夜会で、あの彼の書斎で起きた事実は、少なからずショックだった。
 ーーショック。
 彼の前に簡単に無防備になれた自分に。
 彼の愛撫にあっさりと陥落した自分に。
 あれだけ自分を求める彼に。切なくなるほど、情熱的に。
 それとも、生物学上「雄」がそうして獲物を求めるのは普通なのだろうか。
 彼の意思から完全に切り離された、「雌」を前にしての、単なる本能なのだろうか。

 このまま彼の手の上で踊らされるのは屈辱以外の何ものでもない。
 それならせめてもう少し彼を知りたい。少しでも自分自身を納得させる何かを彼に見出したい。ーー外見の良さとキスの技術テクニックだけではなくて。
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