ELYSIUM

久保 ちはろ

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Part 20-2

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「やっぱり金目だ」
 テラスで本を読むのを諦め、そろそろ部屋に戻ろうとした時、後ろから声がした。
 まどかが振り向くと、制服のパンツのポケットに手を突っ込んだ吉野が立っていた。額を斜めに流れる前髪が、強い光に赤く輝いている。
 彼はまどかの向かいに座ると、にっこり微笑んだ。その懐かしい笑顔で、始終張りつめていたまどかの気持ちがふっと緩む。
「今、オレがどこに行って来たかわかる?」
 彼はまどかのグラスから一口水を飲んだ。まどかはかぶりを振る。
「フーアのところ。金目、オレたちはもうすぐ帰れるぞ」
「どうして? フーアがそう言ったの?」
 自然と声高になった。
「いや、はっきりとではないけど。どうしても持って帰りたいツールがあって、フーアに聞きに行ったんだ。可能かどうか。そしたら彼が『ここに属しているものは、エネルギーの質が地球のと異質だから、また違う計算をしなきゃならん。式が完成に近いのに変に手間取って、先延ばしにされたくないだろ』って。金目、もうすぐなんだ」
 彼は一層、目を輝かせた。
「……どうしたの? 嬉しくないの」
 こんなとき、まどかが仲間の中で一番感情が顔に出ることを知っている吉野は、まどかが諸手を上げて喜ばないことを不審に思ったのか、首を傾げた。彼が内心戸惑っているのがわかる。
「もしかして……帰らないのか?」
 まどかは目だけ上げて彼を見る。
「……わからないの」
 彼は腕を胸の前で組んだ。
「そうか……。ちょっと、長く居過ぎたかもな。二年以上だ。おまえなりにいろいろあったんだな。金目さ、オレは帰るも帰らないも、それぞれの選択だと思っている。誰かに決断を委ねることもいいけど、その決断に自分が責任を持てないとけないよね。生まれ育ったところ、イコール故郷っていう考えに縛られないで、やっぱり自分に合った環境を探すのも、ちゃんと生きる為の手段と責任でもあるとオレは思うよ。オレの友人が……日本のね、その子がフィンランドに移住してさ。理由は『日本のゴキブリと地震が耐えられない』って。マジか。ってオレは思ったけど、彼女いはく、『自分の人生のストレスが減って、かつ、自分の生きたい土地を見つけた自分を誇りに思う』だって。なんかわからないけど、彼女はピンと来たらしいよ『ここだ!』って」
 まどかは吉野の話に、真剣に耳を傾けていた。
「で、彼女は幸せなの?」
「そうだね。彼女なりにね。な、金目。欲しいと思う人生、手に入れられるのは自分の意志によってのみだ。手に入れたかったら誰にも遠慮するな。人生で、実際手に入れようと思っても手に入らないものの方が多いんだ」
 そう言うと、吉野は紳士的に「これから一緒にメシ喰う?」と誘ってくれたが、まどかは丁寧に断った。じゃあ、と彼はまどかの肩を軽く叩き、芝生を踏んで寮の方へ戻って行った。
 まどかはパルスを出して、イルマ・ルイにメッセージを送った。
ーーお話があります
 たったそれだけ。急に喉の渇きを覚え、グラスのぬるくなった水を飲み干した。
 すぐに「ぶーん」とパルスが振動して、おもわず手にしていたグラスをカタンと、テーブルにぶつけてしまった。
ーー今、西棟上
(思いっきり、わかり易いメッセージだわ)
 まどかは本を手に、席を立った。

 研究室に入ると、彼は手を洗っていた。
「失礼します」
 彼の領域テリトリーに入るのは夜会以来だったので、つい警戒してしまう。
 夕方前でもまだ暑い外とは違い、部屋の中は結構冷えていた。その温度差に半袖の制服から出た腕に一瞬鳥肌が立った。
「今一段落したところだから、適当に座れよ。茶でも入れるからさ」
 彼は眼鏡を外して、胸のポケットに挿す。
 まどかは近くにあった椅子を彼のデスクまで移動させ、そこに掛けた。部屋にはいろいろなものが溢れんばかりにあるのに、すっきりと整頓されていた。そして、デスクの上には彼のパルスと、スリムなタブレットPCが一つ載っているだけだ。
「この前は、楽しかったな」
 彼は、手際よく茶を用意すると机の向かいから、ことんとまどかの前に湯気のたつカップを置いた。そのまま、にやにやとまどかを見下ろす。
 まどかはその視線を避けるように、カップに手を伸ばすと両手で包んだ。体が冷えてきたので、熱いお茶はありがたかった。
「あ、もしかして寒い?」
「ええ、少し。でも大丈夫です」
 彼に気を使ってもらいたくなかったので、失礼にならないように答えた。
「いや、大丈夫じゃないだろ。爪、青くなってるし。これ着ろよ」
 彼は自分のコートの袖を抜きだした。
「あ、いいんです。本当に」
 この間の獅子王の言葉が、瞬時に頭によぎった。
『シャムは香水を変えたのかな』
 これ以上、獅子王に何か感づかれたら、と思うと気が気ではなかった。
「遠慮するなよ」
 彼はぐい、と脱いだコートを差し出した。まどかは断るのを諦めて、彼に獅子王の言葉をそのまま伝えた。
 相手は一瞬きょとんとした顔をし、ぷっと吹き出した。
「さっすが獅子。鼻が利くな。ふうん、そうか。ま、いいや、とにかく着ろ。風邪引くから。って、今のこと? 話って」
 彼はデスクの角に座った。
 まどかは一応、コートを肩にかけた。やはり彼の香水が微かだが、香る。夜会で、彼に抱きすくめられた温もりを思いだしてしまう。
 いや、そんな感傷に浸っている場合ではない。
 まどかは制服のポケットから布の袋を取り出し、首飾りを中からそっと滑らせて、彼に差し出す。
「あ、これ……お返ししておきます。お母様の……大切なものですよね」
 彼は手の平に乗ったそれに、ちらっと目を配る。
「やるよ。おまえに。似合ってたから」
「いえいえ、だめです。受け取れません。……それに、こちらのものを地球に持って帰ってはいけないと、フーアが……」
「じゃあ、帰るまで持っていればいい」
「だめですって。ていうか、あのとき、私の首にこのクリスタルが掛かっていてよくあんな真似が出来ましたよね。お母様に見られて恥ずかしいとか思わなかったんですか」
「いやー、おふくろなら喜んでると思うね。あんなに泣き虫だったルイが女を手篭めに出来るようにまで立派に成長して……ってね」
「いえいえ、あり得ないですから。それにそんなことおっしゃってますが、さすがに手際よく……女性の扱いには慣れてらっしゃいますよね」
 努めて朗らかに話した。まどかにできるのは、そんな風に軽口をたたいて、「あの夜のことはなんでもない」風を装うことだけだった。
 そうでもしないと、心が折れそうだった。
 まどかを見下ろす彼の顔が急に険しくなる。その表情が理解できず、まどかは急に不安になり、また、くじけそうになる自分を奮い立たせた。
「お話というのは……私、教官とデートしたいんです」
 思い切って言った。『話がしたい』といっても、では「腹を割って話し合いましょう」と構えるものではなく、自然に、バーシス以外の場所で、他愛ない話がしたかった。それを実現出来るのはデートだと、結論にたどり着いたのだ。
 茶を飲もうとカップに手を伸ばしかけていた相手の動きが、一瞬止まった。まどかの顔に視線を注いでいるが、意識が飛んでいるような表情をしている。
 彼はハッとすると、取り繕うように茶を飲み、もう一度ちら、と横目を流した。そして穏やかな声で「いいよ」と言った。
「夜ならいつでも空いている」
 またニヤリとする。
「いえ、昼間がいいんです。普通に」
「なるほど」
 彼は不満がありそうに、口をへの字に曲げる。
「じゃあ、オレたちの休みが合う日で、昼間で、さらに獅子にバレない日がいいんだ」
「まあ、そういうことですけど」
 さすが、頭の回転が速い人は話が早い。
「オレはともかく、おまえは有給なんかとったら獅子が怪しむんじゃないの? かといって普通に週末だと獅子も家にいるだろ。おまえ、嘘下手そうだしな」
 口の端を上げたまま、人を値踏みするように目を細める。嫌な感じだが、彼に一番似合っている表情だった。
「だ、大丈夫ですよ。子供じゃないんだし、山口と映画に行くとかなんとか言います」
子供ガキっぽい発想。何? それで映画のストーリーをどっかで調べて、さも見て来たようあいつに話すの? でも、おまえすぐ態度に出るし。そうだな……わかった。オレに任せろ。そのうち連絡するから待ってろ」
 なんだか急に浮き足立っているような雰囲気だ。シャープな顎に手を当ててちょっと思案する素振りを見せたかと思うと、にやっと口元が歪む。そして、満面の笑みで言った。
「じゃあ、これで話は終わりだな。オレまだ仕事があるからコート返して?」
 まどかが差し出したそれを羽織りながら、彼は「デートか、久々だなー」と呟いた。
 普段の彼は、一見やり手のようだが、一皮剥けば、盛りのついた犬とほとんど変わらない勢いで人の周りを纏わりつくのが常だ。
 だが、今日のその一歩引いたような態度に、まどかなんだか拍子抜けした。
「失礼しました……」
 部屋を出かけたまどかに、おい、と彼は呼びかけた。
「帰ったらすぐにシャワー………」
「わかってます!!」
 振り向きもせずに言い捨て、まどかは研究室を後にした。
 ーー……なんだか、腹がたつ。

 ***

 次の週末の昼前には、まどかは大聖堂の広場のベンチに掛けていた。
 広場を囲むように並ぶカフェは、外にテーブルを出していて、席もほどほどに埋まっている。雲ひとつない空の下、皆、それぞれの週末を楽しんでいた。
『11:00 大聖堂前、ピクニック。持ち物特にナシ』
 イルマ教官から昨日受け取ったのは、この短いメッセージだった。
 まどかは少し早く着いたので、膝の上のキャンバスバッグからDr.リウに借りた本を出し、開いた。
 しばらくしてふと気がつくと、本に落とした視界の端に、白いデッキシューズが入った。顔を上げると、イルマ教官の視線と出会う。
「待たせたかな」
 彼はふわりと笑う。
「いえ、そんなに」
 彼は立ち上がったまどかの背に軽く手を添えて、道に停めてあった車へ導いた。それはよく街で見かける流線型のものだったが、色は光沢のあるライムグリーンで、彼の趣味にしては随分可愛い。
 スマートに開けてくれたドアから乗込む。クリーム色のシートが体を包んだ。
「一時間くらい走るから」
 車はすっと浮き上がり、風に乗るように滑らかに走り出す。
「街を走る時はオートマで走った方が楽なんだけど、郊外に出たらマニュアルに切り替えるんだ。その方が断然楽しい」
「はあ」
 この世界の車にはまったく知識が無かったので、一台でオートマからマニュアルに切り替えるのが可能というのが上手く想像出来なかった。まどかは曖昧に相づちを打った。そんなまどかを彼は目だけで見て、ふっと口元を弛める。
 強い午後の光は、遮光ガラスに遮られているので、かけていたサングラスを外す。車中と言えど、密室で二人きりと思うとどうも落ち着かない。サングラスを少し弄んでから、膝の上のバッグに仕舞った。
「あの……」
「ん?」
「獅子王が今日、急になんとかって星に行くことになったのって……やっぱり教官の仕業ですか?」
「あぁ、害虫退治ね。大変だよな。虫のせいで街がひとつ消えかかってるんだと。……でもさぁ、オレがそんなに簡単に人を、とくにカネラを動かせるわけないだろ。公式に指令が出たんだろ」
 彼は依然、前を見たまま答える。その整った横顔とハンドルに置かれた、かたちよい手にぐっときてしまう。
 実はまどかは、車を運転する男の姿に弱かった。
「いえ……そうなんですけど、夜会の時といい、タイミングが良すぎるじゃないですか。長官が一枚噛んでるのではと……本当のところ、お二人の共謀ですか」
「さあ……そうかもしれないし、そうじゃ無いかもしれない」
 明らかに楽しんでいる笑みを添えて、ちらっと視線が投げられる。完全にはぐらかされた。
 特に話すこともなく、まどかは外を見る。教官が音楽を流した。軽快な、透明感のあるメロディー。
 チューブが縦横に走る街を抜けると、景色は縦に長い建物がぐっと減り、草木の目立つ横長の大地に変化していく。黄色い花の絨毯がずっと向こうまで広がっている。
「すごーい……」
 つい、言葉が漏れた。
「おまえ達、街の外に出ることないだろ。次の街までけっこうこんな感じだよ」
 まどかは窓に額を付けるようにして、景色に見入りながら彼の声を頭の後ろで聞く。
「でも、花粉症のやつらには、あの花畑は地獄だろうな」
 雰囲気をぶち壊す意見は無視する。
「そうそう、本が好きなら図書館をもっと使えよ。おまえ、まだ一度も来たこと無いだろ」
「どうしてわかるんですか」
 思わず振り向くと、彼は苦笑いした。
「オレ、よくリファレンスに座ってるからな」
「あ、じゃあ今度、お邪魔します」
「お待ちしています……なあ、そう警戒するなよ」
 彼が、すっと手を伸ばしてまどかの頬に指の背を滑らせた。そしてまた何事も無かったようにフロントガラスの向こうを見る。そんな仕草に胸がきゅっと辛くなった。これも戯れの一つだったら……悲しい。

 フリーウェイを下りると、彼はマニュアルに切り替えた。とん、と小さな衝撃がお尻に伝わった。景色が少し揺れ始める。
「タイヤを出しただけ。ほら、おまえ達のところの飛行機って、滑走路に下りる時タイヤが本体から出てくるだろ。アレと似たようなもん」
 ギアを楽しそうにチェンジして、彼は少しスピードを緩めた。
 林の中に入り、そこを抜けると、わっと、青い大地が広がっていた。大きな木がぽつぽつと立ち、小川が流れ、ちぎった綿のような羊がぽんぽんと草原に水玉模様をつくっている。東の方にロッジが一つぽつんと建っている。数人の子供が水辺で遊び、それを彼らの両親が楽しげに眺めている。
 教官は適当な木陰に車を止めると、リアシートからバスケットと紙袋を取り出して「こっち、持って」と、紙袋をまどかに渡した。
 ふわっとこうばしいパンの香りが、鼻腔に入り込む。
「あのロッジで食事もできるし、季節によって森で穫れた果物なりキノコが買える」
 柔らかな草の上を歩きながら、彼はそう説明した。二人は水辺の方には行かず、堂々と空にそびえ立つ一本の木が気に入り、その下にシートを広げて座った。
 光と、風と、草の匂い。 
「本当に、ピクニックなんですね」
 バスケットの中身を取り出して、彼は手際よく並べていく。
「言っただろ」
 バゲットと木の実入りの丸パンは木のプレートの上に。オリーブの小瓶、水のボトル、ルビー色の液体が入ったボトル、ハムに野菜にチーズ。
「これ、フィルズのシロップと水を割ったやつ。おまえフィルズ好きだろ。休み時間にむしゃむしゃ喰ってるもんな」
 オレには甘過ぎるんだけど、とルビー色の方をまどかに差し出す。
「変なところばっかり見てるんですね」
「まあ、つい、な。あ、これがフムス、ハーブ練り込んだバターと、こっちがフローナの作ったイチゴジャム。フローナはまめでさ、いろいろ作ってうちに持って来るんだよ。全部手作り。ジャム、パン、クッキーとか。ちょっと味見てみろ」
 そう言って手早くバゲットを切ると、その白い切り口に赤いジャムを乗せて差し出したが、まどかは躊躇した。
「フローナ、ってどなたですか」
 彼の口から女性の名前を聞いたとたん、胸の奥で色の濃い膿がどろりと出てきた感じがした。
 彼は一瞬虚を突かれた顔をしたが、すぐに普段のそれに戻る。
「気になる?」
「いえ」
「だよな」
(嘘、すごく気になる)
 まどかは黙って一切れのパンを受け取ると、かじった。手作りならではの、まだ果実の形が残るジャムは丁度良い甘さで、爽やかな酸味が口に残った。
「どう?」
「おいしい」
 だろ、と彼は得意げに顎を軽く上げた。まどかは、ジャムがおいしい分だけ情けない気がして下を向いてパンを食べた。
 彼は、そんなまどかの姿を見て、胸内で嘲笑しているに違いない。そう思うと、顔を上げられなかった。
「Dr.リウ」
(え?) 
 相手を見上げると、口の端を上げている。
「Dr.リウのファーストネームだよ、フローナって。おまえ、知らなかったの? 意外だな、あれだけ通ってて。フローナはもう、オレの身内みたいなものだからな」
(そうなんだ……)
 安堵している自分に気がつく。
「教官がお腹の中にいる時から知ってるって、おっしゃってました」
「ああ。子供の頃は風邪引いたらフローラのまずい茶を飲まされ、何かことあるごとにフローナにいじられた。彼女の腕がいいのは、オレの御陰ともいえる」
 まさか、と笑みがこぼれた。彼も、ふっと目を細める。
 それからまた、教官がパンを薄く切ってくれた。それぞれにフムスやバター、好きなものをそれに乗せて、好きなだけ食べた。お腹がいっぱいになると広げたものを簡単に片付けた。彼は水を飲むと、腕を頭の後ろに回してごろりと仰向けになる。
「あー、最高。天気は良いし腹一杯だし、オレ寝そう。昨日遅かったんだよな」
「お仕事ですか?」
「いや、フーアにもらった地球の動画見てた」
 まどかは一瞬思いを地球に馳せながら、陽光に、濡れたように光っている青草の上に視線を投げた。
「教官は、どうして私に構うんですか。どうせ帰るんだから放っておけばいいじゃないですか。それは自然と、獅子王と別れることでもあるんですよ」
「帰らなかったら? 手遅れになるんだよ」
「帰りますよ」
「だよな」
 ざあっと、風が枝を揺らした。
「どうして獅子王に直接『別れた方が良いぞ』って言わないんですか。おまえたちは間違っているって。幼馴染みから言われれば、彼も考えるところがあるんじゃないんですか」
 彼は少しの間、頭上で微かに揺れる葉に視線を向けていた。
「ばーか。男は誰だって自分のテリトリーから何かを奪われるのは嫌なんだよ。たとえそれがゴミでさえもだ。それがおまえみたいな女ならなおさらだ。とにかく幼馴染みだろうとオレが何か言ったところで聞く男じゃないし、むしろ逆効果だろうな。警戒心を煽る。かえってそのゴミに価値があるんじゃないかと思う。それにあいつは、おまえがあいつを側に置きたがっているってことくらい言ってのけるだろう」
 ……ゴミ、ゴミって……いくらなんでも、その極端な例えにまどかはいい気はしない。
「それに、それはあいつが決めることじゃないだろ。おまえはあいつを利用するために連れて来た。その時からおまえが獅子の『世界』なんだろ。……で、獅子とはどうなの、実際」
「彼は……優しいですよ」
「うん、あいつは優しいやつだよ。寂しさがどんなものかわかっている……もし、おまえが……獅子を好きならそれはそれでいいんだよ」
 でもなあ、と彼はいい、まどかに視線を移した。
「でも、なんですか」
「自分で考えろ」
「は?」
 鳳乱はさ、と彼は続けた。
「あいつはずーっとオヤジさんのことで心痛めてたんだぜ。ある意味、あいつが石になったことで自分が本当にするべき使命、オヤジさんが果たさなかった事を全う出来たってことで、救われた部分があるんじゃないかな。ああなった原因はどうであれ」
「それって、鳳乱が遂に楽になった、獅子王のしたことが結果、よかったってことですか」
「そうじゃない。ただ、物事はいろんな面から見れるってこと。一方だけから見て、自分を苦しめなくてもいい。真実は一つじゃないんだよ」
「獅子王を許してやれ、ってことですか」
「そういうことかな。……おまえ、人を許すことが『負け』だとか思ってない? そんなことないからな。人を許せるって、なかなか出来るものじゃない」
「許すも何も、私は彼を憎んでいません。……最近気がついたことなんですけど……それは、多分、獅子王も気付いている筈です」
「それなら、なんでおまえらは一緒にいるんだ?」
「それは……」
 まどかは言いかけて、口をつぐむ。実際、何を言おうとしてたのかわからなかった。だって、自分でも、その問いの答えはわからないのだから。
 二人とも、それ以上語ることはなかった。
 本当は、まどかには、彼にいろいろ聞きたいことがあって誘った筈なのだが、それは、もう大したことではないような気がした。
 それよりも教官の見せる表情や、仕草が饒舌に何かを語っているようだった。それはどんな言葉よりも、彼らしく、彼を。
「ちょっと手を洗ってきます」
 まどかが立ち上がると、彼は「はいはい」と頭の後ろから、ひらひらと手を振った。
 
 ロッジで用を済ませて、白い光の中なだらかな緑の坂をゆっくり登り、木の下まで戻る。
 シートの上に、長い脚を投げ出して伸びている彼を見下ろし、まどかは一瞬凍り付く。
(うそ……デートで寝る? ……普通)
 確かに木陰は丁度いい具合に光を遮り、影から伸びた足は日に照らされて随分気持ちよく暖まっているに違いない。
 それにしてもデートの相手がいるのに眠り込むなんて、いくら寝不足と言ってもあんまりな仕打ちではないか。
 さすがにこの、「金目まどかには全く興味がありません」という態度には、プライドというか、女心が傷つく。
 まどかは隣に膝を立てて座ると、不満を思いっきり顔に出して彼を睨んでみた。だが、寝ているのだからその眼力もまるで意味が無い。
「もう……」
 まどかは傍らにあったフィルズの果汁が入ったボトルを手に取り、煽った。
(つまらないな)
 地に手をついて、空を仰いだ。頭上に重なる梢がさわさわと揺れ、光をちらちらとその隙間からこぼしていた。
(私も寝ちゃおうかな)
 体をひねるようにして、もう一度しげしげと相手の顔を観察する。軽く目にかかる栗色の前髪。長いまつげ、すっきりとした鼻梁。形の良い唇がわずかに開き、それが却って彼を無邪気な少年のように見せていた。
(……寝ていれば可愛いのに)
  まどかは、指で彼の白い頬をちょんと突いてみた。
「あの……起きてください?」
 反応無し。びくともしない。ペンを持っていれば鼻の下に王様のひげでも描いてやるところだ。
「どうしようかなぁ」
 後で考えてみると、どうしてそんなことをしたのか解らない。
 まどかは、そよ風に後ろから流されるように、静かに顔を彼に近づけた。そして、温かい唇に触れると、柔らかいそれをそっと吸う。
 その瞬間、「すう」とひときわ寝息が高くなったので、まどかは慌てて体を起こした。
 しかし、彼は口元をむにゃっと動かしただけで、起きる気配は全くなかった。
 だいぶ後に、彼は目を覚ました。
 まどかはそのとき本を読んでいたので、彼が起きたことに気がつかず、「ん」と声がした時に始めて振り向いた。
 そして、「オレ……寝ちゃってた?」と、まだ眠気眼でまどかを見た。
「ええ、随分と気持ち良さそうでしたよ」
 まどかは冷ややかな視線を添えて答えたが、彼は気付いていないようで、腕をうーんと天に伸ばした。
「気持ち良かったーー。なんかめちゃくちゃいい夢見た気がする」
「それはよかったですね。どんな夢ですか」
 教官の夢に毛頭興味は無かったが、話をつなげるのにも聞いておいた方がいい。
 彼はぺろりと唇を舐めて、あれ、と呟いた。
「いや、よく覚えていないんだけど……そうだな、女の子とキスしたような感触が……」
 自分の唇に人差し指を滑らせながら、彼はまだ夢見ているように遠くを見る。
(ば、バレてる? いや、ものすごくガン寝していたはず)
 彼は訝しげにまどかを横目で見る。
「そ、それはよかったですね」
 胸がドキドキし、少し声が上擦ってしまった。
「おまえ、もしかしてオレの寝込みを襲って何かしたとか」
「いやいやいや、それ、ぜ、絶対にあり得ませんから」
 ぶんぶん手を振ってそれを否定する。そうかなー、と彼は薄く笑った。
「でも、唇、なんか甘いんだよね、オレ、水しか飲んでないのに」
「あー、わかります、わかります、それ。口に甘みを感じる時って、脾臓が弱っている証拠なんですよ。そう。教官、脾臓、気をつけた方がいいです。何なら、鍼打ちましょうか? 特別に太くて長いやつがありますから」
 まどかは慌てて畳み掛ける。
「え……いいよ。鍼……遠慮しておく。おー、もうこんな時間か。そろそろ帰るぞ。よく寝たし」
 彼は鍼と言う言葉に露骨に嫌な顔をし、腰を上げた。もしかしたら、これもDr.リウに関係しているのかもしれない。
「あ、はい」
 二人で荷物をまとめて、傾きかけた陽の、勢いの弱った光の粒子が浮かぶ草原の小道をのんびり下った。
 心地の良い疲れが体を纏っていた。
 まどかはシートに体を深く沈めて、ぼうっと、過ぎる景色を眺めていた。流れる音楽を聴くともなしに聴き、お互い無言だった。
「以前……」
 まどかは話を切り出した。話をしていないと眠ってしまいそうだった。
「うん?」
 彼が顔を一瞬まどかに向けた。それを目の端で捕らえると、話を続けた。
「教官が『私と獅子王が別れて、私が教官の元に行くことが皆の為になる』っておっしゃってましたよね。それ、私にはやっぱり納得がいかないんです。もし、もし仮に私が獅子王と別れたとして誰かの元へ走る。『皆の為になる』状況って一つだけーーつまり、有吉のところへ行く方が筋が通っている気がするんです。どうせ帰るのだし。そう思いませんか」
 教官は前を向いたまま、しばらく黙っていた。まどかも彼が何か言うのを、迫っては遠ざかる景色を眺めながら、ただ待っている。
「帰ることと、おまえが誰かを選ぶのは同じ線上の問題じゃないだろ。帰るから一緒になる、って言う理屈はまるでお門違いだ。だから帰る帰らないは今は横に置いておく」
 確かに便宜上「一緒に帰るなら、有吉」という選択肢が成り立つわけで。彼はなかなか鋭いところを突く。
 彼は一息おいて言った。
「……あのさ、金目と有吉って、付き合い長いんだろ」
「ええ、まあ。学生時代からです……十年以上になりますね」
「その間、何度か付き合う機会はあった。違うか?」
「ええ、まあ……」
「それでもおまえは有吉と一緒にならなかった。ってことは、つまりおまえにはその気が無いんだよ。有吉を男として十分に見てないってことだ。おまえにとってあいつは安全株か何かなんだよ」
 本当にこの人は身も蓋もないような物言いしか出来ないのか。……それでも認めざるを得ない部分もあるのが悔しい。つい、反抗心が芽生えてしまう。
「そんなこと……今まではタイミングが悪かっただけで……今度こそ……」
 一度目は自分の、有吉への気持ちが冷めてしまった。それは、ずっと昔のこと。
 二度目は、鳳乱に恋をしていた。そして今……確かにタイミングが悪いとしか言いようがなかった。
「タイミングが悪いってことは、縁がない、ってことだ。オレの母親がよく言ってたぞ。いくら好き合っていても、すれ違いが多かったりするのは縁がないってこと。無理して一緒になっても結局別れる。逆も言えるってことだ。鳳乱がいなくなって、なんですぐにあいつの胸に飛び込まなかった? あろうことかお前は獅子を連れて来るし、その上、現に今おまえの隣にいるのはオレだ。なんで有吉じゃないんだ? 獅子がいないなら、チャンスとばかりにオレとの約束なんか放ったらかして有吉を呼び出せばいい。あいつなら一も二もなく飛んで来るだろう。獅子だって、もしそれを知ったとしてもおまえを咎められるような立場じゃない。オレだっておまえにとってなんでもない者だ。恋人でもない。まして疎ましいくらいだろう。そう言う意味ではオレだって獅子と同じようなものだ。おまえに約束を反古にされたところで、おまえを責められるようなカードは一枚も手持ちに無い」
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「でも、今日の約束は私から言い出したので……」
「おまえ、本当にお人好しっていうか、おめでたいやつだな。女との約束なんて『約束』だって、オレ、微塵も思ってないから。豊富な経験上、一応言っておくけど」
 しゃあしゃあと、そんなことを言ってのける彼に少し驚いたが、彼の言葉には全て妙な説得力があった。
 地球に帰るためのカード。
 ここに残るためのカード。
 自分の手に、どちらのカードが、どれだけあるのだろう。そして、教官は、切り札になり得るのか。有吉は、やはり違うのだろうか。
 まどかは再び黙り込んでしまった。返すべき言葉が見つからなかった。彼も、それ以上何も言う必要は無いと思ったのか、それから口を開くことはなかった。
 街に入り、中心地に近づいて来た。
「獅子もいないことだし、うちに来いよ」
 一瞬、彼がどんなところに住んでいるのか見てみたいと興味をそそられたが、即座にそれを打ち消した。
「いやです」
「だよな」
 彼はハンドルに手を預けたまま言った。やがて路肩に車を停めた。
「バーシスまで送ってやりたいけど、誰かに見られるのも嫌だろ。悪いけど、あそこからシャトルに乗ってくれ」
 彼はフロントガラスを通して見えるシャトルの停車場を指差した。それに対して何の異論も無かった。
「今日はありがとうございました。ピクニック、楽しかったです」
「こちらこそ」
 彼はくだけた笑みを見せる。
 こんな彼の笑みが好きだ。この笑顔が本当にイルマ・ルイの顔なのではないか。そうなら……いい。否、そんな淡い期待は無駄なものだ、と振り払う。
 おもむろに伸びた彼の手が、まどかの髪を後ろに撫で付けるように後頭部を軽く滑る。相手がつい、と身を寄せ、頭を撫でていた手に軽く力がこもったと思った瞬間には、唇が重なっていた。
 相手は、唇をつけたまま縁をなぞるように舐め、軽く挟み、引っ張る。溜め息の間を縫って、唇を吸いながら舌を割り込ませてくる。目の奥がじんと熱くなる。その時にはもう二人の舌は絡み合い、唇を濡らしている。
 舌を甘噛みされると、体が微かに戦慄いた。彼は、頭に回した手にさらに力を込めて引き寄せ、まどかの舌を追いかけるが、強引さはなく、寄せては引く波のようにゆるゆると口内を犯す。彼の温かくて柔らかい舌の肉感にうっとりとしていると、激しい水音をたてて舌が強く吸われた。
 「んぅ」思わず鼻から甘い声が漏れてしまう。
 彼の手が緩み、お互いの唇の間にやっと隙間ができる。彼は再び二、三度まどかの唇を軽く啄んで、少し身を引いた。
「やっぱり、甘すぎる」
 彼はからかうようにまどかの顔を覗き込む。その顔をまともに見れずに、視線を落とした。
「でも、クセになる」
 彼はまどかの頬を軽くつねり、「よくないな」と言った。
「そうですよ。良くないです」
 自分の声が薄っぺらく耳に響いた。
「だよな……」
 彼は少し首を傾げて言った。
 車から出るとまどかは身を屈めて、開いた窓越しにもう一度お礼を言う。
 じゃあな、と彼は手を挙げながら「ふぉん」と軽くクラクションを鳴らして、ネオンがまばらに目立ち始めた街の中に走り去って行った。
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