ELYSIUM

久保 ちはろ

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Part 25-1

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 まどかは目の前に立つ彼を見上げる。
「それでは、教官……」
 ルイになんて言って部屋を出ればいいのか、分からない。
 彼が、傷付けた耳のことを謝った時には、必要以上に心配させたくなく、無理して微笑んでみせた。
(こんな傷、すぐに癒える)
 ずっと、残っていてくれればいいのに。自分と彼との間に存在する唯一の刻印として。
 ルイは、何も言わずにまどかにさらに近づくと、その胸にきつく抱きしめた。
 とても、きつく。
 言葉は無く、ただ抱きしめる。
 それが、唯一、彼の言葉のように思えた。
 一番近くて、一番遠い人。
 その彼が、ただ、まどかを抱きしめている。

**
 
 まどかは、人通りの少ない、まだ湿っぽい朝の空気の中をシャトルの停車場まで歩き、一つも席が埋まっていないそれに乗って、バーシスに戻る。
 教官との情事で寝不足の筈だったが、なぜか頭は冴えていた。体には疲労から来る重さを少し感じたが、それはルイとの情事を証明する真実の一つだった。 
 獅子王の部屋へ一歩入ると、そこにはすでに誰もいないことを肌で感じる。
 部屋には静かに朝の光が漂っていたが、空気は全く動いていなかった。呼吸から生まれる空気の波とか、そういう動きが。
(本当に、出て行っちゃったんだーー結局、私が追い出したのかな)
 うなじの辺りに、ぞくりと冷たい空気が流れた気がした。
 ーー違う。二人は始めから、別々の場所に立っていた。
 それは獅子王も分かっていたはず。
 自分を責めるのは、止める。
 ただ、前に進むことだけを考える。まどかにはまだ処理すべきものがいくつかあった。
 取りあえず目の前の課題をこなす。 
 彼と関係があったから何だって言うの? 何か尊いものが二人の間に生まれたの? ううん、昨日と今日の狭間に、いつもと少し違った出来事があっただけ。
 一夜限りの関係。そんなことは世間でよくある話。
 私たちは、ただ、寝ただけ。男と女がお互い求める取引をしただけ。

 まどかは研修で使うものを手早くまとめながら、そんな風に気持ちの整理も試みつつ、新しい制服に着替えて部屋をでる。
 きちんと昼まで研修を受け、昼休みになると管理部へ行った。
 席で仕事をしているミケシュに歩み寄る。まどかに気がついたミケシュは、顔を上げてからりとした笑顔を見せる。
「あら、またパルスが不調?」
「いえ、二つ、ご相談することがありまして」
「うん? 何かしら」
 彼女は肘掛けに手を滑らせて、身を反らした。
「獅子王の部屋のことですが……」
「ああ、出て行っちゃったものね。金目も彼の部屋を出たいってことかしら?」
 本当に話が早い。
「ええ」
「悪いけど、それは無理だわ。寮がね、全部埋まっちゃってるの。だから、帰るまであそこにいてくれる?」
 彼女は机の上のピンクのタブレットをとんとん叩いて画面を見やりながら、うん、やっぱり無理だわ、と言った。
「分かりました。それで、二つめは、長官とお話ししたいので、お時間を取っていただけないかと」
「あ、そう言えばあなた達、帰れることになったのよね。おめでとう」
 わざわざ立ち上がってまそかの手を取り、ミケシュは白い歯を見せた。
「は、はい。そのことでお話が……」
「あら、帰らないとか、そういう話?」
 露骨に彼女の顔が曇った。まどかが帰らないと、まずいことでもあるのだろうか。
「いえ、違いますけど」
 一瞬の間のあとでまどかは、はっきり答えた。
「あ、そう。それならいいんだけど。そうね、聞いてみるわね」
 すぐにパルスを指ではじく。こちらも瞬時に長官からの応答があった。
「金目さんがお話があるとこちらに来ていますが………はい、わかりました」
 今、大丈夫よ、ミケシュは指でOKと形作った。

 エステノレス長官は職務室の隣のいつもの応接間にまどかを誘い、並んでソファにかけると、話を促した。
「で、何かな?」
「あの……私たちが地球に帰ることを、イルマ教官には話さないでいただきたいのですが」
 彼は目を細めた。
「ルイと、何かあったの?」
 彼ともあろう人が、本当に何も知らないのだろうか。
 何かあったと言えばあったが、きっとルイにとっては「無かった」にカウントされるのではないか。
「いえ、特に何があったと言うわけではありません」
「ああ、いろいろあったんだね……」
 エメラルドグリーンの瞳がクリアに光る。
 やっぱり、この人には多分、知らないことなど無い。まどかは即座に察した。
「金目、口止めするのは簡単だ」
「はい」
 まどかは長官があっさりと頼みを受け入れてくれたことに、内心ホッとした。ーー次の言葉を聞くまでは。
「相手にくちづけして、封じてしまえばいい。そして言葉を吸い上げて、飲み込めばいいだけだ」
 その顔にからかう様子は微塵もない。と、いうよりも似たような場面が、遠からず過去にあったような気がしなくもない。
 これはバーシスの教官指導に含まれているのか。
 まどかは素早く考えを巡らせた。冗談ではないらしい。伸るか、反るか。これは、つまり取引だ。
 まどかは静かに息を吸う。
「そ、それでは目を閉じて下さい」
「こう?」
 彼は素直に瞼を閉じる。さらさらと髪が頬にかかる。
(あれ? どんな風にキスをしたらいいんだろう)
 まどかは、やや彼の方に体を近づけたものの、長官の要求を満たすようなキスはどうすればいいのか見当がつかなかった。
 目の前の美しい顔をまじまじと見つめていたが、やがて心を決め、目を閉じてゆっくりと顔を近づける。
「ククッ‥‥‥」
 唇に触れる寸前で、変な声を聞いたまどかが目を開けると、可笑しそうに肩を震わせる彼の視線とぶつかった。
「冗談だ、悪かった」
 口元に拳を当てているが、上がっている口角は隠しきれていない。
 まどかはの頰が恥ずかしさと憤りで、熱くなる。
「からかうなんて、あんまりじゃありませんか」
 相当怖い顔をしていたのか、長官は笑うのを止めた。
「すまなかった。君がどれだけ本気か試したかったんだ」
「何のためにですか」
 何のために? 彼は明後日の方を向いた。そしてすぐに向き直る。
「忘れたよ。まあ、いいじゃないか。とにかくルイには本当に内緒にしたいのはわかったから。口が裂けても言わないよ……他には何かあるか? 私に出来ないことはあまり無いから、この機会に言えばいい」
 それは自惚れだろうか、確かな自信だろうか。
「あの……私がバーシスに残るとしたらどうなります?」
「金目、私はフォーカスの定まらない質問はきらいだよ。それはどういう意味だ? バーシスに残っても在籍していいのか、という意味か、それとも君だけバーシスに残ったら他の四人は無事に帰れる可能性が少なくなるか、そういう意味か?」
 そうか。ずっと『帰る、帰らない』という一点で悩んでいたけれど、ここに残った後のことなんて考えていなかった。
「両方です」
 なるほど、と彼は頷く。
「私が答えられることは、君がもしバーシスに残りたいというなら、私は延長される契約書の君の名前の横に、喜んでサインをするよ。二つ目の質問には私は答えられない。それはフーアが答えられると思う」
 彼は手を伸ばしてまどかの髪を一房、指先で弄んだ。
 まどかは、なぜかすごくリラックスして、されるままになっている。
「金目、私は王子にキスをされる眠れる王女の気持ちがわかったような気がするよ。少し忍耐が足りなかったけどね」
 彼は優雅に微笑んだ。
「そうですね、根気負けですね」
 まどかも目元を緩ませて、返す。

 まどかは、フーアの手が、四角い顎をゆったりと右に左に往復するのを見ていた。
「確かにお前さんたちは、少しばかりここに長く居過ぎたのかもしれんなあ」
 彼は溜め息をついた。
「つまりおまえさんは、もしかしたら直前になって『やっぱり帰らない』という可能性もあるぞ、と言っているのかな」
「だめですか、やっぱり」
「いやいや、良いか悪いかではなく、そういうことが起こりうるのか知りたいだけだよ」
「あるかもしれません」
 彼は背を丸めて胸の前で腕を組むと、上目でちらりとまどかを見た。
「うむ………面白いことだが、お前さんのような例は少なくない。過去にも何度かこの星に来てしまった者たちを送り返して来たが、--まぁ、もっとも地球のようなとてつもなく遠い惑星はまだ無いんだが--何人かいたよ。その日、その直前に『やっぱりここに残りたい』という輩が」
「で、残ったんですか? それで、一緒に来た人たちは?」
 まどかは思わず身を乗り出した。フーアはそれを手で制す。
「落ち着きなさい。今、わしが言ったような例は、大抵一人か二人の場合だ。そもそもお前さんたちのように五人揃って、一度に飛んで来た例は初めてでな。人数が多い分それだけ計算も複雑になる。一人や二人なら仕事がずっと楽だ。それでも、直前に言われたら無理な話だよ。悪いがきちんと送り返したよ。……そうさね、お前さんひとりが残るとすると……ギリギリだが計算してみるか」
 フーアの青い瞳の輝きが増した。
「受けて下さいますか」
「このフーアを味方に付けるとは、お前さんもなかなかだぞ」
 彼はやや反り返り、椅子を鳴らした。
「あ、でも予定通り帰るかもしれないので……」
 元の式を消されては困る。
 彼は慌てるまどかをじろりとひと睨みした。
「わかっておる。私を誰だと思ってるね? アカルディルのフーアはちょっとは知れた名なんだがね。見かけはこんなおじさんでもな」
「す、すみません」
 彼に念を押すこと自体、失礼だった。
 まどかの声が急に小さくなったのに気付き、彼は目元を緩めた。
「ああ、お前さんが帰らないとなると、お前さんの分身が、全く同じ質のエネルギーを持つものが必要になる。その物質をもってお前さんと見なし、式の微調整をする。そのエネルギーがどれだけお前さん自身と同じように安定するか、とにかくこれから試験の繰り返しだ」
 彼はそう言って立ち上がると、近くの同僚の机上にある水のボトルからコップに水を注いだ。
「これに指を入れなさい」
 まどかはコップを受け取り、言われたままに人差し指をぬるい水の中に浸けた。
「もうよかろう」
 たった数秒しか経っていないのに、彼はコップを取り、同時に彼のハンカチを差し出した。まどかは指を拭う。
「水はお前さんのエネルギーを、情報を記憶した。水は柔軟性のある、そして長期にわたってエネルギーの状態を安定して記憶出来る装置なんだよ。環境の変化にも強い。重力の変化にも上手く対応するだろう」
 まどかは、フーアの手にしているその透明な分身にじっと視線を注いだ。
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