淑女の隣にあなたの花が咲く

八尾倖生

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第一章

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 この世には、感性が溢れている。
 月が光り、鳥がさえずり、花が香り、風にさすられ、生まれた味を判別する。そのすべてに自然の摂理が宿り、人はそれを人間の言葉に翻訳することで、感覚を震わせ、目の前に起きた現実として認識することができる。
 しかし今、私の全身に絶えず押しかけてくるのは、人類が初めて発明した機械ですら生み出すことのできそうな、簡素を極めた単純作業である。商品を受け取り、どこかについているバーコードをレジの決まったところにかざし、その値段を口に出して、次の商品を受け取る。一秒に一回のペースでその作業を要求され、しかも五、六個のレジが並行して動いているため、この場からが消失することはまず起こり得ない。もし起こっても、その頃には精液の入った使用済みのコンドームのように、とっくに私は用無しになるだろう。
 使用済み。その言葉は何より、私に当てまる言葉だ。
「ねえ、ちょっと、」
 ふと、赤みがかったパーマ頭の中年女性に鋭い声を投げかけられた。
「この卵、どう見ても割れてるでしょ? ねえ、どう責任取ってくれんの? 明らかに不良品よね? これ」
「え、えっと、」
 こういうときのための言葉を、頭の中で整理する。整理すればするほど、目の前は機械音のように無機質になっていく。
「大変申し訳ございません。当店は品質管理に関しては徹底しておりますが、もし不備がございましたら、こちらの方で対応させていただく形で──」
「そ。じゃあ、当然交換してくれるのよね? なら早く取ってきてよ。こっちは急いでるんだからさ」
 無機質になればなるほど、身体はオイルを全身にまとったようにしおれていく。
「しょ、少々お待ちくださいませ。ただいま商品担当を呼んでまいりますので……」
「ねえ、聞こえなかった? 急いでるって言ってんの。あんたでいいから早く新しいの取ってきてって」
 萎れたその先にあるのが、使用済みの人間が辿る現実である。
「お客様、失礼ですが、」
 そのとき、店長が割って入ってきた。
「先ほど、お客様ご自身がそちらの商品を手元から落とされているのを拝見致しました。そのような場合、新品と交換するという対応を取ることはできません」
「え!? 何!? 私のせいだっていうの!? そんなわけないでしょ!」
「もしよろしければ、裏で監視カメラの映像をご覧になりますか? 本当は売り場のものとすり替えようとして、品出し担当がいたから諦めた場面もはっきりと映っておりますが」
「……勘弁してやるわ」
 そう言って中年女性は、代金を支払って逃げるようにその場から去っていった。
「……助かりました、店長」
「いいっていいって。あのパーマおばちゃん、そろそろ何とかしなきゃだなあ」
 あの中年女性は、パート内の最大派閥から外されている私でも噂が耳に入るほど、職場では有名なクレーマーだった。
「それより石原さん、もうレジ閉めていいから休憩行ってきな?」
「え? いや、それはちょっと……」
「いいっていいって。あと十分もすれば落ち着くだろうし」
 そのとき、前方でレジを打つ同僚と目が合った。彼女はすぐに目を逸らし、レジの業務に戻っていった。
「……大丈夫です。もう少しやります」
「そう? 無理しなくて大丈夫だよ?」
「他の方に悪いですし……」
「そっか。じゃあ、僕も手伝っちゃおっかな」
 そのまま店長は私の隣に並んだ。
 買い物かごを整理するために振り返ると、ふと後方の同僚と目が合った。接客のために浮かべていた彼女の笑顔がまたたく間に消え失せ、一瞬にして、無機質な機械音が現実を造り出した。

「さっき見た? 店長、また石原さんだけ先に休憩行かせようとしてた」
「ホント? まったく、贔屓するにしても限度があるわよね。石原さんにだけ妙に馴れ馴れしい言葉使うし。ああ、気持ち悪い」
 はす向かいのロッカーでは、耳のかゆい話がいつも通り飛び交っている。
「本人も本人よ。あの人、弱々しく振舞えば可哀想に見えるってわかってやってるんだわ」
「ホント、少し周りより若いからっていい気になっちゃって」
 わざわざ聞こえるように展開される陰口に、思わず帰り支度の手が停滞する。もう慣れてきたはずなのに、足の指から髪の毛一本まで、今日の出来事を繰り返しフラッシュバックしている。果たして私は、何か責められるようなことをやったのだろうか。
「お先に失礼します。お疲れ様でした」
「……お疲れ様ー」
 いくらないに等しい反応でも、あるだけマシなのがこの世界だ。完全になくなった瞬間、私はこの職場に居ることを許されなくなる。今はまだ、「気に入らない」で済んでいるだけありがたいと思わなくてはならない。
 先ほども言った通り、私はこのスーパーの職場の最大派閥から外されている。理由は単純で、その派閥の中心を担っているベテランの中年女性たちと私は一回り年齢が違い、しかも彼女たちに媚びを売るほどの余裕を職場に持ち込むことができないため、案の定派閥には溶け込めずにいた。そんな状況を店長は気に掛けてくれたが、むしろそれが逆効果になっていることまでは気が回らなかったようだ。
 しかし私にとって、それはもうどうでもよい因果なのだと諦める他ない。確かに派閥に入れないことで、多少の不便を強いられる機会はある。派閥内で独占されている廃棄食品を惜しいと思ったことは、両手両足の指の数では収まらない。一方で、私にはもう一つの現実がある。それを現実として成り立たせるためには、どれだけ職場に居場所がなくても、そこに居続けなければならない。それが、私の世界なのだから。
「石原さん」
 スーパーの外に出た瞬間、同僚の一人に声をかけられた。彼女も私と同じで、理由はわからないが、最大派閥から外されている。
「これ、息子さんたちと一緒に食べて。あの人らがいない間に盗ってきたから」
 仲が良いまではいかないが、たまにこういうはぐれ者同士、協力し合う束の間がある。今回に関しては、「し合う」という表現は不適切ではあるが。
「いいんですか?」
「うん。まだ寒いから、風邪引かんよう気を付けるんよ? 上の子、今度から中学生よね?」
「はい。本当に助かります。ありがとうございます」
 彼女から貰った袋麵の焼きそばをしっかり買い物袋に入れ、家に向かった。何よりも大きい現実が待ち構える、我が家に帰るために。
 三月に入っても、寒気は大きな顔をしている。風の一つ一つが、私の痩せ細った身体を通り抜けていく。人間では誰にも触れられなくても、風は平等に、人の身体を撫でまわす。
 もし風に意思があるのなら、私の身体は吹かれる価値があったのだろうか。処理し切れていない毛の一本一本が逆立つほど、私の身体は魅力的に映ったのだろうか。
 もしそうなのであれば、風に抱かれたっていい。風に唇を奪われたっていい。もう一度、心から感情が動く機会があるのならば、相手が人間じゃなくたっていい。現実を全てぶち壊す、何か破裂のような快感を味わえるのならば、それが獣であっても構わない。
 しかし私の前に立ちはだかるのは、どこまでも続く地平線のような現実に過ぎない。
 それが、私の生きている世界なのだから。
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