淑女の隣にあなたの花が咲く

八尾倖生

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第一章

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 朝は人々に平等に訪れると言うけれど、この部屋が朝の陽ざしに包まれることなどないと言っていい。カーテンを開けても閉めても、昼か夜かがわかるくらいしか違いはない。それが暗闇で生きることを許された我々への、上から譲り受けた最大限の特権である。
「母ちゃん、俺の分のパンないよ」
 昨日の不機嫌を引きずっている朱翔が、今にも破裂しそうな雰囲気でボソッと呟いた。
「え、嘘。おかしいな、ピッタリ三個残ってたはずなんだけど……」
「絶対白翔が腹いせに俺の分も食べたんだよ! お前、ホントにふざけんなよ!」
 叫びながら朱翔は、白翔の頭を躊躇ちゅうちょなく叩いた。
「ちょっと朱翔、やめてってば。白翔もほら、もう朱翔怒ってないから」
 朱翔をなだめると共に、白翔を早く泣き止ませなければならない。そうしないと、今日も夫にいつもの日々を過ごすきっかけを与えてしまう。
「ねえ母ちゃん、これ、よく見たら五個入になってるよ」
 今日も戦火の外にいる碧翔が、朝ご飯のバターロールの入っていた袋を指差した。碧翔の言う通り、いつもなら二百円で六個入りだったバターロールが、いつの間にか同じ値段で五個入になっていた。
 食パンや菓子パンなどが少しずつ小さくなっていることにはよく気が付くのに、明確な個数の減少を見逃していた。主婦としてあるまじき失態である。
「朱翔、ごめんね。お母さん、間違えて買ってきちゃったみたい。お母さんの朝ご飯あげるから許してくれる?」
 そう言って昨日の帰りにパート先で買った、既に消費期限が切れている半額のおにぎりを渡すと、朱翔は落ち着いた。
 酷いと思われるかもしれないが、今この家には、これ以上まともな食べ物がない。廃棄食品の中にあれほどあった菓子パン類が一つでも貰えるなら、この子たちはどれだけ喜んだだろうか。やはり私は、努力する方向を間違えている。職場の中でうまくやっていくのも生活のための必要な手段なのに、昔からそうだったが、境遇を環境の所為せいにする卑しいさがを治すことができない。
「次のニュースです。昨日の晩、都内某所で少年が父親を殺害するというショッキングな事件が起きました」
 不意にテレビから聞こえてきたニュースに、肩の荷が重くなる。
「警察の調べによると、少年は以前から父親との関係が上手くいっておらず、その不満が爆発したと見られています。なお、現場にはもう一つ男性の遺体があり──」
 悟られないように、三人の顔を盗み見る。
 こんなことを連想する時点で、私は母親失格なのだろうか。例えば朱翔の激昂がエスカレートし、もはや抑え込める力のない私に降りかかることも、いつも冷静でいる反面、心のどこかにストレスが蓄積しているのかもしれない碧翔のリミッターが外れることも、この家では充分起こり得る末路だ。そうなったとき、果たして私は彼らの胸中を心配できるほど、彼らに愛情を注げているだろうか。と言うより、ちゃんと彼らに愛情を抱いているだろうか。そんな余裕が、今の私にあるのだろうか。
「母ちゃん、もう行くよ」
 気が付くと、すっかり落ち着きを取り戻した朱翔がランドセル姿になっていた。時間ももうそれなりに経過しており、先ほどのショッキングなニュースも、新作映画の宣伝に切り替わっていた。
「あ、うん、気を付けてね。たぶん、帰るの昨日と同じくらいになると思う」
「わかった。おーい白翔、行くぞ。碧翔も」
 兄らしく弟二人を引き連れて家を出る朱翔を見て、先ほどの憂慮を恥じた。穴のようにポッカリ開いた目の前の溝は、もしかしたらただの自作自演なのかもしれない。
「あいつら、もう行ったか?」
 子供たちが団地の外まで行ったタイミングで、寝癖まみれの夫が起きてきて、私の背中を通り過ぎた。
 以前ならこういうとき、肩に手を置くくらいは最低でもあった。まだ碧翔が生まれる前は、パートに出掛ける五分前までこともある。その日は本当に気持ちが良くて、一日中濡れていて、仕事から帰った後も当然の如くその続きに没頭していた。
「今日は、どうされます?」
「……頭痛いからもう少し寝る。朝飯は適当に置いといて」
「……わかりました」
 夫は今、働いていない。遠回しに朝の騒がしさを免罪符にして、今日もおそらく、パチンコに行く一日で終わってしまうだろう。二ヵ月くらい前までは日雇いの建設現場にたまに顔を出していたが、腰の不調を訴え、ここのところはずっとこの調子である。
 そのため私は二ヵ月前から、週四日入っているかのスーパーの他に、週二日、家から片道一時間かかる流通センターの仕分けのパートを始めた。そっちは変な派閥に巻き込まれていないため精神的には楽だが、家から十分で通える近所のスーパーと違い、家を出るのも帰るのも、家族に余計なストレスを与える原因になっている。今朝のように子供たちが家を出るのを見送ることもできず、帰る頃には、家の中は嵐が過ぎ去った後のようにぐちゃぐちゃになっている。
「あのさ、亜希」
 久しぶりに名前で呼ばれ、左の懐が硬くなった。
「朱翔、今度から中学生だろ? なんか、買ってやれないかな」
 子供の名前を発するのも、本当に久しぶりに思えた。
「そうですか。どんなものがいいとか、なんとなく、考えてます?」
「パソコンなんて、どうかな?」
 彼の提案は、私や朱翔の名前が久しぶりに呼ばれたときよりは、衝撃が薄かった。
「ほら、今ってインターネットないと何かと不便だろ? だから、最低限必要かと思って」
 想像するにかたくないだろうが、この家にはパソコンがない。それどころか、スマートフォンすら一台もない。家の電話と私の持つ激安プランのガラパゴス携帯はあるが、夫は二ヵ月前を皮切りに仕事用の携帯電話を解約しており、子供に持たせる余裕も当然ない。最低限の社会マナーとして、私が一台、いわゆるガラケーを持っているだけである。逆に言えばこの家は、それで充分なのだ。ちなみにテレビに関しては、夫が友人からタダ同然で譲り受けたため、ほとんど費用は掛かっていない。そんな幸運に恵まれることもたまにはある。
 しかし仮に、この家にパソコンがやって来て、世の中を支配しつつあるインターネットが暗闇に敷かれるならば、枯れ果てた砂漠にオアシスが生まれるように、少しはこの家にも日向ひなたができるかもしれない。今まで考えもしなかったが、少しは別の世界を知ることができるかもしれない。それだけ今の時代、地球が周る速度は上がっている。
「でも、お金はどうするんですか? ウチ、そんな余裕……」
「あ、うん、そのことなんだけど──」
 夫は自信を注入するように、少しだけ声のボリュームを上げた。
「今貯金から使えるの、二、三万くらいはあるだろ? それで充分だから」
「え? どういうことですか?」
 反対に、私の声はか細くなっていく。
「実はさ、働いてた頃の給料とか、パチンコで勝ったやつとかいろいろ貯まってて、今、そこそこあるんだよ。だから、それ使ってさ」
 こういうとき、インターネットを使えば、これに対する模範的な受け答えを得ることができるらしい。週二日分増えた苦労の代償を叱責の機会にするべきか、はたまた自分で得たお金を家族サービスに捧げようという夫の姿勢を褒め称えるべきか。
 だが今は、答えを出せるのは私しかいない。
「……わかりました。ありがとうございます。家族のこと、考えてくれて」
「あ、ああ。まあ、うん」
 歯切れの悪い受け答えを見て、彼がまだ私に興味があった日々の記憶を蘇らせる。この歯切れの悪さこそ、私への熱が冷めた何よりの証拠なのだから。
「子供たちには、なんて伝えます?」
「できるだけ黙っておいて、サプライズみたいにした方が喜ぶんじゃないかな。一応、プレゼントがあることはほのめかしといて」
「わかりました。それとなく言ってみます」
「うん」
 急に関心を失ったような夫を見て、近くにあった鏡を見てみる。知らないうちに、目の下に薄いシミができていた。
「お金は今、手元にあるんですか?」
「一応、いつでも出せるとこにはある。亜希が買いに行くタイミングで出すようにするから」
 二度目の名前呼びに、つい余計なことをたずねたくなる。
「それじゃ、今度の日曜日に商品見に行って、良さそうだったらそのまま買ってきます」
「ああ、わかった」
「あの──」
 夫の声がほんのり開いた勢いに乗っかって、遂に、余計なことが口からこぼれ落ちる。
「私のこと、まだ、好きですか……?」
 ああ、私は今、何を期待しているのだろう。何をしてほしくて、こんなことをいたのだろう。その答えは到底、欲求不満なんてものじゃ片付けられない。私には欲求など、うの昔に必要なくなったのだから。
「……寝てくる」
 もしかして期待しているのは、彼が相手ではないのかもしれない。血液の一筋に眠るかすかな望みを、世界に撒き散らそうとしているのではないか。
 詰まるところ、私はまだ、本能を捨て切れていないのだ。

「え!? ホント!? やったー! 母ちゃんありがと! 楽しみだなあー!」
 その夜、それとなく言うつもりが一大イベントとして伝わり、子供たちは喜びに溢れた。彼らの勢いに押され、結局そのプレゼントがパソコンであることも漏らしてしまった。その分朱翔の機嫌は直り、白翔はいまいち理解していなかったが、同じく恩恵を受けられる碧翔も喜んでいた。何はともあれ、この瞬間、久しぶりに家庭が穏やかになった気がする。
 やはりこの世は、お金で解決できることがたくさんあるのだと、改めて実感した。
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