淑女の隣にあなたの花が咲く

八尾倖生

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第三章

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 開店直後というのもあるが、この前来たときよりも随分落ち着いた店内で、彼女を待ち受ける。外の空気はまだ暑さが残っていたが、きっと彼女は肌の露出を控えた服装で現れるだろう。
「遅くなって申し訳ありません」
 私が着いてから三分後に到着した彼女は、やはり私とはワンランク違う出で立ちをしていた。ブランド物に身を包むわけでもなく、着ているものはそこまで違わない筈なのに、着こなし方に差があるのか、傍から見れば教師と生徒のような関係性に見える。彼女の方が、よっぽど生徒のような振舞いをしているのに。
「今日はありがとうございます。わざわざお時間作っていただいて……」
「あの、そんなに固くならないで……」
 そう言っている私の方が、明らかに固くなっている。その時点で、成熟した大人の余裕など見る影もない。
「改めて、羽生綾乃と申します。先日は本当に、突然話しかけて申し訳ないです」
「いえいえ! 石原亜希です。……一応彼とは、半年前に初めて会って……」
 その先の言葉が出ない。私と彼は、どのような関係だと形容すればいい?
「あなたのことは、彼が関わっていたお店の方から伺いました。勝手に調べてしまい、本当に申し訳ありません」
 そう言って、彼女は深く頭を下げた。他人からこんなに頭を下げられたことは初めてだ。
「今も、彼とは会ってますか……?」
 哀しげに浮かべるその表情で、彼女が彼と会っていないことがわかった。
「……はい。会わせてもらってます」
「彼、元気ですか……?」
 引け目を全面に出しながら、少しずつ彼のことを知ろうとしている。全くもって、子供を捨てた親の言動とは思えない。
「私には全く似つかわしくないくらい、魅力的です」
 言葉にしてから初めて、答えになっていないことに気付いた。それでも彼女は、薄らと表情を綻ばせた。
「あんなに短い言葉だったのに、よく、あの子のことだってわかりましたね」
 確かにそれは自分でも思った。彼女が「彼」と言った瞬間、すぐに彼のことを思い浮かべた。
「……私と仲良くしてくれる人なんてごく僅かですし、それにあなたは、彼に、よく似ている」
 その言葉を聞いた瞬間、彼女の中の何かが込み上がった。
「綾乃さん……?」
 俯いた彼女の名前を呼ぶと、今度は勢いよく顔を上げた。
「ごめんなさい……! その呼び方されるの、久しぶりだったから……」
 先ほどまでとは打って変わって取り乱す彼女に、私の内心も揺れ動く。
 すると姿勢を整えるや否や、神妙な面持ちで言った。
「……私、あの子の実の母親じゃないんです」
「え?」
 時間が止まる。
 自分は捨てられたと言ったときの彼の表情と、目の前にいる彼女の表情が交差し、常識の一つを打ち崩していく。
「だから似てるなんて言われて、どうしていいかわからなくなっちゃって……」
 でも、確かに感じた。
 彼の魅力と彼女の魅力は、どこか似ている。母親と息子として時間を共にした、確かな跡が。
「私もそうですけど、綾乃さんも、彼の名前を呼ばないんですね」
 意地悪な問いかけだっただろうか。再び彼女の表情が若干曇る。
「私、彼の名前、知らないんです」
 息が止まる。
 小さくなった彼女の背後に、何か暗いものが迫ってきている気がした。
「私が付けた名前はすぐに呼べなくなって、その後は違う名前で過ごしていたんですけど、離れてしまった後は、また違う名前になったみたいで……」
 彼は、名前が嫌いだった。それは、今明かされた事実と関係があるのだろうか。
「今の彼の情報は知らないことばかりで、住所もずっと知りませんでした。最近やっと立川に住んでるって聞いて、それでこの前みたいに立川のどこかにいれば、彼に会えるかなって……」
 あの日、彼女は疲れていた。立っているのも歩くのも、正常ではなかった。
「……ずっと、彼を探していたんですね」
 彼女が一日中、街を歩き回る姿が目に浮かぶ。会えるなんて保証はどこにもないのに、身にまとっている装いの中で唯一ボロボロになるくらい靴を履き潰しながら、僅かな希望に祈りを捧げている。
「こんな母親、ホントに、……情けないですよね」
 私が彼女の立場だったら、全く同じことをしていただろう。彼は部屋からほとんど出ないとわかっていても、一日中、立川の街を歩き回る。
 私だって、きっとそうしていたはずだ。
「この話、あまりしたくなかったんですけど……」
 この人は、本当に彼のことを想っている。心の底から、彼と再会することを願っている。
 だからこそ、訊かなくてはならない。
「彼から、自分は親に捨てられたって、聞きました」
 意地悪な問いかけだっただろう。彼と彼女の言葉を合わせれば、普通は彼を捨てたのは実の親の方だと考えつくはずなのに、私は敢えて、綾乃さんを指してその言葉を投げた。
「……はい、その通りです。私は一度、彼の面倒を、……見られなくなりました」
 しかし彼女の表現の中に、その事実が潜んでいることを感じた。
 つまりそれは、彼が、二度も親に捨てられたという残酷な過去である。
「何が、あったんですか……? あなたが子供を捨てるなんて、私には考えられない」
「それは……」
 彼女の瞳から、一粒の光がテーブルに落ちた。
「……私からは言えません。彼は、過去を強烈に拒んでいます」
 目頭を拭う手も、すすられる鼻も、何から何まで美しかった。こんな人と暮らしていれば、本当に美しいものへの価値観だってひらけるだろう。
「でもあなたには、それを話した。彼にとって亜希さんは、とても、大切な人なんですね」
 女の涙は武器ではない。この姿を見てまだそんなことを言う人間は、武器という概念から考え直すか、ヘミングウェイのようにおさらばした方がいいだろう。
 それくらい、彼女のしずくには込めた想いがあった。
「いつの日か彼の口から、すべてを話してくれるときが来ると思います」
 零れる涙を抑えながら、綾乃さんは強い眼差しを放った。
「あなたになら、きっと、世界を見せてくれる」
 その眼差しに、応えたい気持ちで一杯になる。
「よかったら、これから一緒に彼のところへ……」
「それはできません」
 しかし、彼女の答えは早かった。
「そんなことをしたら、あなたに迷惑が掛かります。私は、これでいいんです」
 その意志も、とても固い。
 何日も何日も費やして漸く掴んだ彼への手がかりに、あっさりと区切りをつけられるくらいに。
「じゃあ、せめてこれを……」
 彼女に連絡先を渡した。半年前のように、世界が動く一本の電話を信じて。
「ありがとう、亜希さん。あなたに会えてよかった」
 初めて、綾乃さんの笑顔を見た。それを、心の隙間に仕舞いこむ。
「本当に、楽になれた」
 それでも彼女のカーネーションは、赤く染まることを許されないのだろうか。
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