吉祥寺行

八尾倖生

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第三章

赤常 日曜日

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1 日曜日

「縦切れ! 縦切れ!」「フリー! フリー!」「ナイボー! マジ完璧!」「外あるよー」「ヘーイ! ナイッシュー!」
 肌が白い人だと赤く日焼けしそうな午後の日差しの中、江東区夢の島競技場の芝生の上では、世代に括りのない三、四十人の男たちがフットボールにふけっている。日本やアメリカではサッカーと呼ばれているあのスポーツだ。気取っているつもりはないが、たまにこういう雑学的な些事さじを披露したくなる年頃を抜け出せない。高校の部活の顧問の先生が教えてくれなければ、今でも俺は何も考えずに「サッカー」と連呼していただろう。小学生のときに観たある映画のように、イギリスの男たちに「サッカー」と言って不思議な顔をされていたことだろう。先生は今でも若者たちを導いているだろうか。回想するほど月日は経っていない。たった一年前のことだ。
 程なくすると、弱々しいホイッスルが鳴った。それは各チームのメンバーで交代にやっていた審判の人が、試合終了を告げる音だった。結果にかかわらず、座り込む者、叫び声を上げる者、ため息をつく者と、感情表現は十色だが、間違いないのはそのホイッスルが、三十から四十人の男たちの非日常を締め括る音であるということだ。今日はいつもより暖かな日曜日だったこともあり、その反動も人一倍である。
「お疲れー敬斗」
「あ、お疲れっす」
 試合が終わり、皆がそれぞれの日常に戻っていく中、同じ江東区の社会人チームに所属する三歳年上の先輩から声をかけられた。彼は兄と幼馴染の仲であり、他地区に住む自分をこのチームに誘った張本人でもある。同時に行きつけのジムの社員であり、共にチームに入った小学校からの友人と一緒によくご飯に連れて行ってもらっている。
「まだちょっと早いけど、行く?」
「あー、今日ちょっと」
「そいつ、今日デートっすよ」
「そっちかー。ホントやることやってんなお前」
 答えに詰まっていると、口うるさいくだんの友人が介入してきたことで、皮肉にも事が進んだ。
 ただ正直な気持ちを言えば、いつものように先輩たちと共に腹を肥やしたい。その理由は後々わかることになるだろう。
「んじゃ、来週武蔵野で」
「はい、お疲れっした! あ、来週はガチで行くんで店お願いします!」
「うっせーよ」
 Jリーグの公式戦が行なわれる関係で、来週は夢の島競技場を使用することができない。しかしチームの代表の人が武蔵野市と個人的にコネがあり、武蔵野市のチームと練習試合をするという条件で、特別に競技場を貸してもらえることになった。そのため来週は、武蔵野市まで遠征である。
 同じ東京でも、ここから武蔵野市まで行くには一時間ほどかかる。と言っても、武蔵野市は二十三区最西の杉並区や練馬区と隣接しており、全体で見ても中心より東側だと知ったのはつい二日前であった。それほど東京は、東西に関しては広い領地の下にある。週五日も往復三時間かけて東京を横断している自分が言うのだから、まあまあな説得力だろう。

 先輩たちと別れてから四十分ほどが経過した17時、地元の錦糸町きんしちょうに戻ってきた。ちょうど約束の時間である。しかし五分経っても十分経っても、約束の相手は来ない。
 結果的に二十分遅れで件の人物はやって来た。その間、自分から催促の連絡を取ることは一度もなかった。十分前に「遅れる」というラインが来たというのもあるが、一番の理由は、個人的に今回は遅れた部類に入らないからである。
「ごめーん、待った?」
「いつもよりマシだよ」
「駅着いたら財布ないの気付いてさ、あれはマジで焦ったよね」
 彼女の家は駅から往復すると二十分では済まない場所にあることを知っていたが、口には出さなかった。大方、友人とのカラオケだか買い物だかが長引いたのだろう。小さな嘘を重ねるのは彼女の伝家の宝刀だが、それを見抜く人物を見抜けないことが、彼女の致命的な欠点である。
 そんな彼女の名は、天野美咲みさきという。社会人チームの他に所属している大学のサッカーサークルで知り合い、地元が近いということもあって、よく帰りが一緒になった。そこから異性の関係に発展したのは、良く言えば成り行きである。
「今日どうだった? 勝った?」
「勝ったよ」
「へーすごいじゃん。点獲った?」
「惜しかったのは一個あった」
「えー。獲ったらご褒美あげようと思ってたのに」
「どうせジュース一口とかだろ」
「バレたか」
 目的地まで向かうわずかな道中、エキストラにさえ喋らせるのをはばかられるような会話で惜しげもなく時間を潰し、駅前にそびえ立つ映画館へと到着した。まだ上映までは充分余裕がある。映画を観に行くときは、集合時間を三十分早めておくのが今では常識になっている。
 だがおそらく、彼女はそのことに気付いていない。上映時間の管理を俺に委託している彼女はいつも、遅刻したのに時間ぴったりだと、俺のタイムキーピングを褒めちぎる。しかし実際は、一律に十分から三十分の遅延を発生させる彼女に対し、一律に三十分を余分に確保しているだけである。ジャンルで言えば、統計学に近いかもしれない。
 ちなみに本日鑑賞予定の映画は、ハリウッドの名作を日本の若手俳優・女優でアレンジしたリメイクらしく、そっちの業界に精通していない自分でも、聞いたことのある名がいくつか見つかった。だが昨日、ざっと映画タイトルを検索エンジンにかけてみたところ、作品自体の評判は良くないようである。いわゆる映画ファンによると、原作へのリスペクトが全くなく、ただの売り出し中の俳優たちによる、商業的な息のかかった展覧会だという厳しい意見もあった。
 ただ自分自身、映画の歴史には全く縁がないため、そのような評価を下すことはないだろう。第一、原作があることを知ったのも昨日であり、リメイクというものの存在すら昨日初めて知った。この映画を観に行くことになったのも、お気に入りの俳優目当ての美咲の強い希望である。もし仮に上映終了後、メディアの人に感想をかれたとしても、肯定的な意見を言うつもりなので安心してほしい。
 それから約二時間後、五割ほど埋まった映画館に、徐々に光が灯された。既に館内を後にした人もいたが、隣にいる女性はというと、浮かべた涙の痕がはっきりと残っていた。
遼輝りょうきくん、ホント最高だったよね! 泣いちゃったよ!」
 涙の訳は映画の内容ではなく、お目当ての俳優に注がれた情から湧き出たものだったようだ。逆に内容が理由だとしたら、完全に当惑していた。寝てたと追及されても文句を言えないほど、ほとんど内容を覚えていない。前言は撤回する。今インタビューを受けても、俺からまともな答えは返ってこないだろう。頭の中では、今シーズン最高のテンションを維持する隣の女性の熱量に対し、ひたすら頷いているというシミュレーションすらしていた。
 その後の食事の際も、聞いた言葉も言った言葉もほとんど覚えていない。覚えているのは、一年半ぶりに食べたオムライスの味だけだ。しかも前回食べた時期、経緯までもをなぜか詳細に覚えていた。
 そういえば、このことを話したことを思い出した。前言は撤回する。

「えー、もう帰っちゃうの?」
「明日一限だからさ」
「いいじゃん、一限なんか行かなくても」
「ゼミだからサボれねーんだよ」
「一回ぐらい大丈夫っしょ」
「また今度な」
「じゃあ次こそ夜もね?」
 ファミレスの時点から帰りたいオーラを出していたつもりだったが、やはり口に出さないとわからない性質だったようだ。この時点で心の内では、イライラが言葉に表れ得るほどつのっていた。
 だが俺は、彼女に対して決して強く当たらないことを、心の中で誓っている。理由は単純である。強く当たっても意味がない相手だからだ。それ以上でも以下でもない。その先にあるのは、唇を切ったような苦々しい後味だけである。
「ねえねえ、今気付いたんだけどさ、」
 錦糸町駅南口から去ろうとした足は、直前で緊急停止を余儀なくされた。
「星出てるのに、月、出てなくない? もしかして、月食ってやつ? 写真撮っとこうよ」
「ただの新月だろ」
 今、世間の人々に訴えかけたいことはただ一つ。くれぐれも緊急停止ボタンは思い付きで押さないでほしい。
 その後、真っ直ぐ帰ってきた時刻は22時を回っていた。想定よりも一時間ほどオーバーしたが、想定外ではない。むしろホッとしている。
 昼過ぎからの念願だったシャワーを浴び、明日のゼミの課題を片付けた後、床に就く準備に入った。このとき既に0時を回っていたが、それを認識する間もなく、意識は三大欲求の一つに飲まれていた。
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