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第三章
赤常 水曜日
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4 水曜日
正直言って、前日のバイトで夜が遅く帰ってからの、翌日一限のために早く起きる習慣は、なかなか堪えるものがある。
眠い目を擦りながらもなんとか都心モノレールを乗り切り、キャンパスに到達した。四方八方を見ると、中途半端な雨模様と重なり、人々の顔からは覚醒し切っていない様子が窺える。これを本物の都心に移したら、さぞかし精度の高い現代社会の鏡が観測できるだろう。
教室に着くと、例のゼミのメンバーの一人が既に席に着き、週刊の漫画雑誌を読んでいた。他愛もない会話を二分ほどしていると、次に芳内がやって来た。このタイミングということは、おそらく同じモノレールだったのだろう。芳内は「駅で見かけたけど、トイレ行きたかったから追いかけるの断念したわ」と言って、横に座った。微妙なタイムラグの原因もこれではっきりした。
そこから三人で七分ほど話していると、講義開始三分前というタイミングで、他のゼミ仲間の二人がやって来た。これで解答が導けるようになった。六人のゼミ仲間の中で、サボった人間は一人である。我ながら、なかなかの問題作成能力ではないだろうか。この調子で今度は小学生の家庭教師でもやってみよう。
眠気覚ましに下らないことに耽っていると、それを瞬時に吹き飛ばすインパクトが脳内に蘇った。教授も講義開始の準備が万全に整っている状態だったが、話しかけないわけにはいかなかった。
「芳内芳内、あれ、見ろよ、斜め後ろの」
「ん? どれ? あのショートヘアの人?」
「そ。あれ誰だと思う?」
「知らねーよ。クラスの人とか?」
「いや、微妙に正解当ててんじゃねーよ」
「なんだよ、益々どうでもいいわ。誰やねん」
「ちょちょ、違うんだって」
講義中の私語に厳しい教授だということもあって、芳内は会話を早く切り上げたがった。
しかし今の俺は、彼にしっかりと事実を伝えねばならないという謎の使命感に駆られていた。
「あれな、松井さんなんよ」
「はい嘘。しょーもな」
「いやいやガチだって。昨日俺もチャイ語のときにマジビックリしたんよ。よく見てみろって」
「いやないだろさすがに。だって松井さんっしょ? だとしたらめっちゃイメチェンじゃん」
「だからしたんだって、イメチェン。理由はわからんけど。だって最近、いつもと違うみたいな話してたじゃん。絶対なんかあってあーなったんだって」
「えー? でも、あれが?」
「そこ、私語がしたいなら教室の外でやりなさい。次やったら追い出すからね?」
教授の注意の矛先は、完全に我々の方を向いていた。隣の友人たちはニヤニヤしていたが、予想外の布告と不愉快な指摘のダブルパンチを食らった芳内は、不機嫌さを隠せていない様子である。
「とにかく、あれ、ガチで松井さんなんだって」
「わかったから、後で確認してみるから、一回静かにしよ?」
親交のない人間から怒られることが大嫌いな芳内から、久しぶりに殺気立つものを感じた。
「確かに松井さんだったわ」
講義を終えて次の教室に向かう道中までに、芳内は松井さんの変貌を確認したようだ。
だが話題はすぐに別のものに移った。昨日も話したが、彼は松井さんの話題について、最低限の付き合い程度しか乗ってこない。かく言う自分も、彼女に一定の執着があるのは、冷めつつある恋人への当てつけなのかもしれない。これ以降、芳内との松井さんに関する話題は、しばらく登場しなくなった。
水曜日は月曜日と違い、今日は一人少ないが、一限が終わればゼミ仲間の六人は別行動となる。二限から四限の間は皆、別々の講義を取っているからだ。五限の憲法の講義は全員が履修しているため再び集まる機会であるが、六人が揃うのは、Oasisの再結成ぐらい可能性が低い。と言っても、普段は来ない連中も授業最終日などは様子を見に来るため、そこまで稀少な出来事ではないかもしれない。サッカーのスペインリーグで、バルセロナかレアル・マドリード以外のクラブが優勝する可能性と同じくらいといったところだろうか。
何が言いたいかと言えば、我ら同族六人はそこまで集団行動に躍起になっているわけではない。仮に諸君が世の中で五、六人の集団を発見しても、我らのことを連想するのは避けてもらいたい。その権利は毎週目の当たりにしている、同じゼミにいる他の人たちにのみ認めることとする。迷惑をかけているつもりはないが、初期の頃、彼らに芽生えたであろう嫌悪感を否定するつもりはない。まあでもこの件に関しては、芳内の方が専門性が高いと思われるため、自分からの言及はこれくらいにしておこう。
二限の空きコマを学食内にあるサークルの溜まり場で過ごし、そのまま昼飯を済ませた後、三限の教室である大教室へ向かった。そこには朝同様、友人の一人が漫画雑誌を読みながら既に席に着いていたが、デジャブの感覚には陥らなかった。
緩やかに進んでいく時間と、緩やかに進んでいく講義内容が絶妙に調和し、かつてないほどの睡魔に身を委ねた結果、講義の三分の二は眠っていた。起きたときにはもう講義は終わっていたが、友人は未だに漫画を読んでいた。教授がなぜか通常の終了時間の十分前に講義を切り上げたため、次の授業まで時間が余ってしまった。だが特にすることもなかったので、最低限の眠気を覚まし、大教室を出た。
友人はこの後もこの教室で講義があるため、最低限の挨拶だけして置いていった。どうせ五限にまた会うことになる。そのときも今のように絵と文字のコントラスト書物を読んでいるかどうかは、ぜひ賭けの対象にしてみたいものだ。
大教室群を抜けるために足を進めていると、赤っぽいパーカーを纏う見知った顔が、大教室の開放を待ちながら、構内の一か所に留まっていた。普段この場所はよく通りかかるが、彼をここで発見したのはこれが初めてである。
「お、実。久しぶり」
「ん? あ、敬斗。珍しいな、こんなところで会うの」
一日大学で過ごせば十五人近くと会う高校の同級生の一人に、また出会った。その気になれば、月に一度のペースで同窓会を開催できるが、その気になるほど大学生活に余裕を持てているのはほんの一部で、世間から見た俺は、そのほんの一部なのだろう。
実際、抵抗はない。同時に、欲望もない。
「授業出てんの? 珍しいじゃん」
「サークル辞めたから暇なんよね」
「ふーん。なんで辞めたん?」
「まあ、色々めんどくさくなってさ。他にやることできたし。そういえば敬斗の彼女、さっき授業出てたよ。教室だと初めて見たわ」
「え、ガチか。珍しいな」
美咲と実は同じ学部らしいが、たぶんほとんど面識はない。なぜなら二人とも、特に美咲の行動範囲は教室外が中心だからである。彼が美咲を知っているのも、確か学食で西井と共に会ったときに、たまたま美咲もその場にいたからだと思う。
そんな美咲が授業に出た、いや、特に意味はない。大方寿あたりに仕返しされて、出席があると騙されただけだろう。
それ以上は詮索することなく、お互い次の目的地へ向かうことにした。
心なしか、宿り木と思っていたサークルを捨てた彼が以前よりも元気そうに見えたのは、季節相応に吹く心地良い風の悪戯だろうか。
外に出ると、雨は完全に上がっていた。
大教室から移動した先は、学部棟にある小教室である。だがこれから受講するのは、中国語ではなく、英語の授業だ。エレベーターで四階まで上がり、既に中で席を陣取っていた知り合いたちと合流した。彼らは高校の同級生でもなく、サークルの友人でもない。この授業が始まってから知り合った、いわゆる類は友を呼ぶである。
三、四人で固まったこのグループは、それぞれ違うサッカーサークルやフットサルサークルに所属しており、英語のレッスン恒例の自己紹介を経て、自然とクラスターが形成された。
だが個人的には、彼らと深い関係になる気はない。それは、クラスターの共通理解でもある。他の場所で会えば「よっ」くらいは言うが、飲みに行くことや、ましてや旅行に行こうなんて話には決してならない。一年間限定のかったるい授業を乗り切るために、課題やテスト問題を共有し、愚痴を理解し合う、柔らかく言えばビジネスパートナーである。ゼミの六人衆に比べるとよっぽど性質の悪い、自然に形成されて、自然に解散する、ユスリカのようなものだ。おそらく二年も経てば、メンバーはそれぞれ気まずい感情を抱くことになるだろう。
「松井さんがギャルみたいになったってマジ?」
メンバーの一人が言った。俺たちは全員同じ学部で、おまけに同じ種族なので、当然のように彼女を知っている。さらに言えば、俺が彼女と中国語で同じクラスだと口を滑らせてしまったために、性欲旺盛な彼らは事あるごとに彼女を議題にし、その都度俺に経過を訊いてくる。彼らとの将来に兆しが見えないのも、こんな日常の会話から察してもらえるだろう。
だが嫌気が差すのと同時に、彼の言葉を聞いて苦笑してしまった。やはり噂というものは当てにならないが、面白い。彼女の今の姿がギャルならば、八王子は立派な若者の街である。駅前に大きな商業ビルが建ち並び、テレビカメラや巷を騒がせているYouTuberたちもたくさん撮影に来ているのだろう。
そんな世界線を、是非とも噂を広めた人々に実現してもらいたいものだ。そうすれば我らの大学を、僻地などと自虐のネタにする必要もなくなる。
「恋人にフラれたんじゃね?」「男なんていないだろあの人」「パパ活始めたとか?」「ワンチャンあるなそれ」「え、普通にヤりたいんだけど。一万で足りるかな?」「そういうのってどこで繋がれんの? ツイッター?」「直で言った方が早いだろ。後で言ってこいよ」「ふざけんな」「でも正直、ヤるんなら前の松井さんの方がよかったわ。金出したら戻してくれるかな?」
極力会話の輪に加わらないようにしたが、やはり色々と訊かれるので、最低限の今朝見た様子と風貌だけ伝え、スマートフォンを弄っていた。だが正直、風貌を伝えたのは失敗だったと後悔している。ご覧の有様である。
教員がやって来て授業が始まったため、彼ら三人は大々的な猥談はやめたが、相変わらずひそひそとソワソワを滲ませている。
四十分ほどが経過し、いい加減にしろと言いたくなる気持ちが六〇%くらいまで達したそのとき、スマートフォンに一件のメッセージが届いた。芳内からだった。
「わりい、五限行けなくなった。なんか重要なこと言ってたら教えて」
胸に衝撃が走った。
「珍しいよな、芳内がサボるって」
六人衆が再び集う五限の憲法の講義、実際に集まったのは四人だった。一人は朝の段階で言うまでもないが、もう一人減ったのは先ほどのメッセージの通りである。いくら大学生とはいえ、あの芳内だ。例外中の例外行動を起こしたのには、何か彼にとって緊急事態が起きたのではないかと勘繰りたくなる。
もしかしたら、同じくらい珍しいことに、松井さんが後列にすら座っていなかったことと関連があるのではないかとも頭の隅で考えたが、その衝動は消失した。というか、衝動自体を恥じた。思考回路はあの猥談と何も変わらない。心の中で松井さんと、ついでに芳内に一言謝罪して、それからはできるだけ彼女のことを意識しないように努めた。明日は中国語の授業があるため顔を合わせることになるが、できるだけ皆の意識が彼女に向かないよう、今のうちから十個くらい話題を考えておこう。
特に重要なことを言われる間もなく平凡に講義は終わり、朝から晩まで大学に拘束される選択をした我ら四人は、それぞれ帰路に就いた。
すると途中のモノレールで、隣にいた男女が何やら揉めているのを横耳に挟んだ。
「ねえ、説明してよ。あの娘とはどういう関係なの?」
「いやだから、ただサークルが同じなだけだって。それにあいつ、彼氏いたろ? あんとき横にいたあの男」
「それは問題じゃない。私、はっきり聞こえたからね。『そいつと付き合ったのって、俺が告ったより前から?』って。告ったってどういうこと? それって浮気しようとしてたってことだよね? てか浮気だよね?」
「それは……、その……、言葉の綾だよ。あいつ、気が弱いとこあるから、俺がいろいろ気に掛けてて、それでああいう言い回しになったというか……。『リトル・ダンサー』でもあったじゃん、そういうの。……あれ、違う映画だっけ?」
「そのさ、相手を丸め込もうとするときに映画で例えるの、バレバレだからね? もしかしてまだ疚しいことあるの?」
「違う違う! ……とにかく、あいつとはもう関わらないから。それでいいだろ?」
なんだかよくわからないが、要するに、修羅場のあとなのだろう。
依然として女性の方は、男と目を合わせようとしない。浮気発覚の始末はこうなるという社会科見学を、特等席で観賞できた。それと同時に、明日の話題にも使える。これでノルマはあと九個だ。
錦糸町に着く頃には20時を過ぎていた。五限の際はいつもこのくらいの時間になるが、周りから見れば、俺がこの時間に地元に帰ってくることは、むしろ早いくらいだろう。
その後、ちょうど良い雨上がりの夜風に吹かれながら、一目散に駅から少し離れた家系ラーメン店に向かった。今朝、芳内と話していた際、ケチな彼が行く数少ない外食として家系ラーメンを挙げ、自分も無性に食べたくなった。見事な宣伝効果である。彼の瞳の奥には、もしかしたら特別な商才が眠っているのかもしれない。
ただし、彼が家系ラーメンの回し者という前提の話だが。
正直言って、前日のバイトで夜が遅く帰ってからの、翌日一限のために早く起きる習慣は、なかなか堪えるものがある。
眠い目を擦りながらもなんとか都心モノレールを乗り切り、キャンパスに到達した。四方八方を見ると、中途半端な雨模様と重なり、人々の顔からは覚醒し切っていない様子が窺える。これを本物の都心に移したら、さぞかし精度の高い現代社会の鏡が観測できるだろう。
教室に着くと、例のゼミのメンバーの一人が既に席に着き、週刊の漫画雑誌を読んでいた。他愛もない会話を二分ほどしていると、次に芳内がやって来た。このタイミングということは、おそらく同じモノレールだったのだろう。芳内は「駅で見かけたけど、トイレ行きたかったから追いかけるの断念したわ」と言って、横に座った。微妙なタイムラグの原因もこれではっきりした。
そこから三人で七分ほど話していると、講義開始三分前というタイミングで、他のゼミ仲間の二人がやって来た。これで解答が導けるようになった。六人のゼミ仲間の中で、サボった人間は一人である。我ながら、なかなかの問題作成能力ではないだろうか。この調子で今度は小学生の家庭教師でもやってみよう。
眠気覚ましに下らないことに耽っていると、それを瞬時に吹き飛ばすインパクトが脳内に蘇った。教授も講義開始の準備が万全に整っている状態だったが、話しかけないわけにはいかなかった。
「芳内芳内、あれ、見ろよ、斜め後ろの」
「ん? どれ? あのショートヘアの人?」
「そ。あれ誰だと思う?」
「知らねーよ。クラスの人とか?」
「いや、微妙に正解当ててんじゃねーよ」
「なんだよ、益々どうでもいいわ。誰やねん」
「ちょちょ、違うんだって」
講義中の私語に厳しい教授だということもあって、芳内は会話を早く切り上げたがった。
しかし今の俺は、彼にしっかりと事実を伝えねばならないという謎の使命感に駆られていた。
「あれな、松井さんなんよ」
「はい嘘。しょーもな」
「いやいやガチだって。昨日俺もチャイ語のときにマジビックリしたんよ。よく見てみろって」
「いやないだろさすがに。だって松井さんっしょ? だとしたらめっちゃイメチェンじゃん」
「だからしたんだって、イメチェン。理由はわからんけど。だって最近、いつもと違うみたいな話してたじゃん。絶対なんかあってあーなったんだって」
「えー? でも、あれが?」
「そこ、私語がしたいなら教室の外でやりなさい。次やったら追い出すからね?」
教授の注意の矛先は、完全に我々の方を向いていた。隣の友人たちはニヤニヤしていたが、予想外の布告と不愉快な指摘のダブルパンチを食らった芳内は、不機嫌さを隠せていない様子である。
「とにかく、あれ、ガチで松井さんなんだって」
「わかったから、後で確認してみるから、一回静かにしよ?」
親交のない人間から怒られることが大嫌いな芳内から、久しぶりに殺気立つものを感じた。
「確かに松井さんだったわ」
講義を終えて次の教室に向かう道中までに、芳内は松井さんの変貌を確認したようだ。
だが話題はすぐに別のものに移った。昨日も話したが、彼は松井さんの話題について、最低限の付き合い程度しか乗ってこない。かく言う自分も、彼女に一定の執着があるのは、冷めつつある恋人への当てつけなのかもしれない。これ以降、芳内との松井さんに関する話題は、しばらく登場しなくなった。
水曜日は月曜日と違い、今日は一人少ないが、一限が終わればゼミ仲間の六人は別行動となる。二限から四限の間は皆、別々の講義を取っているからだ。五限の憲法の講義は全員が履修しているため再び集まる機会であるが、六人が揃うのは、Oasisの再結成ぐらい可能性が低い。と言っても、普段は来ない連中も授業最終日などは様子を見に来るため、そこまで稀少な出来事ではないかもしれない。サッカーのスペインリーグで、バルセロナかレアル・マドリード以外のクラブが優勝する可能性と同じくらいといったところだろうか。
何が言いたいかと言えば、我ら同族六人はそこまで集団行動に躍起になっているわけではない。仮に諸君が世の中で五、六人の集団を発見しても、我らのことを連想するのは避けてもらいたい。その権利は毎週目の当たりにしている、同じゼミにいる他の人たちにのみ認めることとする。迷惑をかけているつもりはないが、初期の頃、彼らに芽生えたであろう嫌悪感を否定するつもりはない。まあでもこの件に関しては、芳内の方が専門性が高いと思われるため、自分からの言及はこれくらいにしておこう。
二限の空きコマを学食内にあるサークルの溜まり場で過ごし、そのまま昼飯を済ませた後、三限の教室である大教室へ向かった。そこには朝同様、友人の一人が漫画雑誌を読みながら既に席に着いていたが、デジャブの感覚には陥らなかった。
緩やかに進んでいく時間と、緩やかに進んでいく講義内容が絶妙に調和し、かつてないほどの睡魔に身を委ねた結果、講義の三分の二は眠っていた。起きたときにはもう講義は終わっていたが、友人は未だに漫画を読んでいた。教授がなぜか通常の終了時間の十分前に講義を切り上げたため、次の授業まで時間が余ってしまった。だが特にすることもなかったので、最低限の眠気を覚まし、大教室を出た。
友人はこの後もこの教室で講義があるため、最低限の挨拶だけして置いていった。どうせ五限にまた会うことになる。そのときも今のように絵と文字のコントラスト書物を読んでいるかどうかは、ぜひ賭けの対象にしてみたいものだ。
大教室群を抜けるために足を進めていると、赤っぽいパーカーを纏う見知った顔が、大教室の開放を待ちながら、構内の一か所に留まっていた。普段この場所はよく通りかかるが、彼をここで発見したのはこれが初めてである。
「お、実。久しぶり」
「ん? あ、敬斗。珍しいな、こんなところで会うの」
一日大学で過ごせば十五人近くと会う高校の同級生の一人に、また出会った。その気になれば、月に一度のペースで同窓会を開催できるが、その気になるほど大学生活に余裕を持てているのはほんの一部で、世間から見た俺は、そのほんの一部なのだろう。
実際、抵抗はない。同時に、欲望もない。
「授業出てんの? 珍しいじゃん」
「サークル辞めたから暇なんよね」
「ふーん。なんで辞めたん?」
「まあ、色々めんどくさくなってさ。他にやることできたし。そういえば敬斗の彼女、さっき授業出てたよ。教室だと初めて見たわ」
「え、ガチか。珍しいな」
美咲と実は同じ学部らしいが、たぶんほとんど面識はない。なぜなら二人とも、特に美咲の行動範囲は教室外が中心だからである。彼が美咲を知っているのも、確か学食で西井と共に会ったときに、たまたま美咲もその場にいたからだと思う。
そんな美咲が授業に出た、いや、特に意味はない。大方寿あたりに仕返しされて、出席があると騙されただけだろう。
それ以上は詮索することなく、お互い次の目的地へ向かうことにした。
心なしか、宿り木と思っていたサークルを捨てた彼が以前よりも元気そうに見えたのは、季節相応に吹く心地良い風の悪戯だろうか。
外に出ると、雨は完全に上がっていた。
大教室から移動した先は、学部棟にある小教室である。だがこれから受講するのは、中国語ではなく、英語の授業だ。エレベーターで四階まで上がり、既に中で席を陣取っていた知り合いたちと合流した。彼らは高校の同級生でもなく、サークルの友人でもない。この授業が始まってから知り合った、いわゆる類は友を呼ぶである。
三、四人で固まったこのグループは、それぞれ違うサッカーサークルやフットサルサークルに所属しており、英語のレッスン恒例の自己紹介を経て、自然とクラスターが形成された。
だが個人的には、彼らと深い関係になる気はない。それは、クラスターの共通理解でもある。他の場所で会えば「よっ」くらいは言うが、飲みに行くことや、ましてや旅行に行こうなんて話には決してならない。一年間限定のかったるい授業を乗り切るために、課題やテスト問題を共有し、愚痴を理解し合う、柔らかく言えばビジネスパートナーである。ゼミの六人衆に比べるとよっぽど性質の悪い、自然に形成されて、自然に解散する、ユスリカのようなものだ。おそらく二年も経てば、メンバーはそれぞれ気まずい感情を抱くことになるだろう。
「松井さんがギャルみたいになったってマジ?」
メンバーの一人が言った。俺たちは全員同じ学部で、おまけに同じ種族なので、当然のように彼女を知っている。さらに言えば、俺が彼女と中国語で同じクラスだと口を滑らせてしまったために、性欲旺盛な彼らは事あるごとに彼女を議題にし、その都度俺に経過を訊いてくる。彼らとの将来に兆しが見えないのも、こんな日常の会話から察してもらえるだろう。
だが嫌気が差すのと同時に、彼の言葉を聞いて苦笑してしまった。やはり噂というものは当てにならないが、面白い。彼女の今の姿がギャルならば、八王子は立派な若者の街である。駅前に大きな商業ビルが建ち並び、テレビカメラや巷を騒がせているYouTuberたちもたくさん撮影に来ているのだろう。
そんな世界線を、是非とも噂を広めた人々に実現してもらいたいものだ。そうすれば我らの大学を、僻地などと自虐のネタにする必要もなくなる。
「恋人にフラれたんじゃね?」「男なんていないだろあの人」「パパ活始めたとか?」「ワンチャンあるなそれ」「え、普通にヤりたいんだけど。一万で足りるかな?」「そういうのってどこで繋がれんの? ツイッター?」「直で言った方が早いだろ。後で言ってこいよ」「ふざけんな」「でも正直、ヤるんなら前の松井さんの方がよかったわ。金出したら戻してくれるかな?」
極力会話の輪に加わらないようにしたが、やはり色々と訊かれるので、最低限の今朝見た様子と風貌だけ伝え、スマートフォンを弄っていた。だが正直、風貌を伝えたのは失敗だったと後悔している。ご覧の有様である。
教員がやって来て授業が始まったため、彼ら三人は大々的な猥談はやめたが、相変わらずひそひそとソワソワを滲ませている。
四十分ほどが経過し、いい加減にしろと言いたくなる気持ちが六〇%くらいまで達したそのとき、スマートフォンに一件のメッセージが届いた。芳内からだった。
「わりい、五限行けなくなった。なんか重要なこと言ってたら教えて」
胸に衝撃が走った。
「珍しいよな、芳内がサボるって」
六人衆が再び集う五限の憲法の講義、実際に集まったのは四人だった。一人は朝の段階で言うまでもないが、もう一人減ったのは先ほどのメッセージの通りである。いくら大学生とはいえ、あの芳内だ。例外中の例外行動を起こしたのには、何か彼にとって緊急事態が起きたのではないかと勘繰りたくなる。
もしかしたら、同じくらい珍しいことに、松井さんが後列にすら座っていなかったことと関連があるのではないかとも頭の隅で考えたが、その衝動は消失した。というか、衝動自体を恥じた。思考回路はあの猥談と何も変わらない。心の中で松井さんと、ついでに芳内に一言謝罪して、それからはできるだけ彼女のことを意識しないように努めた。明日は中国語の授業があるため顔を合わせることになるが、できるだけ皆の意識が彼女に向かないよう、今のうちから十個くらい話題を考えておこう。
特に重要なことを言われる間もなく平凡に講義は終わり、朝から晩まで大学に拘束される選択をした我ら四人は、それぞれ帰路に就いた。
すると途中のモノレールで、隣にいた男女が何やら揉めているのを横耳に挟んだ。
「ねえ、説明してよ。あの娘とはどういう関係なの?」
「いやだから、ただサークルが同じなだけだって。それにあいつ、彼氏いたろ? あんとき横にいたあの男」
「それは問題じゃない。私、はっきり聞こえたからね。『そいつと付き合ったのって、俺が告ったより前から?』って。告ったってどういうこと? それって浮気しようとしてたってことだよね? てか浮気だよね?」
「それは……、その……、言葉の綾だよ。あいつ、気が弱いとこあるから、俺がいろいろ気に掛けてて、それでああいう言い回しになったというか……。『リトル・ダンサー』でもあったじゃん、そういうの。……あれ、違う映画だっけ?」
「そのさ、相手を丸め込もうとするときに映画で例えるの、バレバレだからね? もしかしてまだ疚しいことあるの?」
「違う違う! ……とにかく、あいつとはもう関わらないから。それでいいだろ?」
なんだかよくわからないが、要するに、修羅場のあとなのだろう。
依然として女性の方は、男と目を合わせようとしない。浮気発覚の始末はこうなるという社会科見学を、特等席で観賞できた。それと同時に、明日の話題にも使える。これでノルマはあと九個だ。
錦糸町に着く頃には20時を過ぎていた。五限の際はいつもこのくらいの時間になるが、周りから見れば、俺がこの時間に地元に帰ってくることは、むしろ早いくらいだろう。
その後、ちょうど良い雨上がりの夜風に吹かれながら、一目散に駅から少し離れた家系ラーメン店に向かった。今朝、芳内と話していた際、ケチな彼が行く数少ない外食として家系ラーメンを挙げ、自分も無性に食べたくなった。見事な宣伝効果である。彼の瞳の奥には、もしかしたら特別な商才が眠っているのかもしれない。
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