吉祥寺行

八尾倖生

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第三章

赤常 木曜日

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5 木曜日

 火曜日と同じく二限から授業が始まる今日は、火曜日と同じく8時に起き、火曜日と同じく11時頃に学校に行き、火曜日と同じく夜はバイトをして、一日を終える。授業は二コマだけで、二限は昨日も話した中国語、三限には昨日とは違うクラスの英語の授業がある。ちなみに言うと、こっちのクラスは知り合いと一緒に履修したため、昨日のようなビジネスクラスターは発生していない。その分、居心地も良い。
 三限で授業が終わると、15時には大学から解放される。ここは火曜日と違って、一時間半早い。この半端な九十分、昨日のように大学生の本分に身を委ねるもよし、一昨日のように大学生の本分に取り組むもよし、大学内にあるジムで身体を動かすのもいいが、結局、先週は何をしていたか憶えていない。
 それくらい、俺にとってこの九十分間が、一週間の穴になっている。バイト前という軽い憂鬱ゆううつから活動する気になれず、かと言ってダラダラは前日に消費している。これは甘えなのだろうか。いや、人間というのは、案外こういう時間がバランサーになっているものだ。ということで、毎週甘んじて受け入れている。
 だが今日に関しては、甘んずる必要はない。九十分の聖域は、冷め切った熱に溶かされてしまった。その熱は前の九十分にまで侵食し、次第に生活へと手を伸ばそうとする。おそらく今日もそういう話になるだろう。もうそろそろ限界だとは自覚しているが、相手がその気では、なかなか情に踏み込めないのが人間関係というものだ。平行線のまま、互いの妥協点で着地する夕方の光景が目に浮かぶ。

 モノレールで松井さんを見かけた。
 髪色が黒に戻っていたので、見かけた瞬間は思わず声が出そうになった。その上小さくではあるが、髪の毛を後ろでまとめている。リ・リニューアルしたその風貌は、「落胆」を抱かせた男性諸君に手を差し伸べるように、以前の彼女の面影を取り戻そうとしている。何はともあれ、松井さんの心境に再び変化が訪れたことを、察さざるを得ない。
 結局、あの一件以外、話題は一つも用意していない。教室に着くまでの残り十五分くらいで考えようとも思ったが、面倒くさくなってやめた。どうせ大して話したこともない他人のお節介だ。彼女が再び人目にさらされても、自分には損もないし、非もない。自分で言うのもなんだが、俺は普段はこんな人間ではない。たまたま今日は機嫌の悪い日だったいうことを承知しておいてもらいたい。
 だが最終的に、今日ほど杞憂という言葉の意義を感じた日はないとまで思う結果となった。
 俺より一足早く教室に着いていた松井さんは、前回と違ってちょうど真ん中辺りの席に座り、いつも通り授業の準備をしていた。周りの人間も特にそのことを気にする様子もなく、各々の世間話で授業の開始を待っている。一昨日までの騒めきは、一、二ヵ月で打ち切りになった深夜帯のバラエティ番組のように、若者たちの関心から消えていったようだ。
 昨日意識しないと誓ったにもかかわらず、翌日になって皆の彼女に対する無関心を意識していることを心の中で強く恥じたが、今ではその恥の感情を生じさせていることすら恥ずかしい。とりあえず周りに合わせておこうと考えたのも初めてだ。
 九十分間、一週間前とほとんど変わらぬ雰囲気で、授業は何事もなく終了した。変わったのは、やはり松井さんは積極的に発言をしなくなったことだった。
 だが差されたときの受け答えは相変わらずの愛想の良さであり、学修に取り組む姿勢は衰えるどころか、まるで何かが吹っ切れたようなエネルギーを感じた。なんとなくだが、無理をせず、やりたいようにやっている、そんな印象を抱いた。今思えば、朝に感じた変化の兆候は正解だったのだろう。
 これにて、彼女を話題に出すことを本当にやめると宣誓する。

 時刻は13時半、若者の街と言われているここ渋谷は、どんな時間でも人でごった返している。そんなところで待ち合わせをするのも自殺行為だと思う反面、ここを選んだのは自分の意思を含んだ妥協点だということを思い出し、相手を責めるのをやめた。
「ごめん、待った?」
 心なしかいつもよりしっかりとした、美咲の声が聞こえた。
「いや、今来たとこ」
 本当である。
 二限が終わってすぐモノレールに乗ると、大体渋谷に着くのはこの時間になる。今日は具体的な集合時間を決めていなかったため、そもそも遅刻という概念自体薄らいでいたが、これまで通りのスタンスを維持するためには、大学をサボって自宅から来るであろう彼女よりも早く来なければならない。そんな強迫観念に駆られた結果、小走りを使ってまで大学を後にした。
 結果的に先に着くことには成功したが、マウントを取れるほどではなかった。そのためだけに嘘をつくのも気が引けた。小学生の頃、嘘は一番大事なときのために取っておくべきだと、兄の友達に教えてもらった。そのためには普段は正直でいつつ、それでいて自分が嘘をつける人間であると自覚すること、そしていざ嘘をつくときは、大胆かつ堂々とするのがコツらしい。その人は良い人だったが、大学生のときに起業して、その一年後に詐欺罪で捕まったと小耳に挟んだ。
「カラオケ行こ?」
 美咲が半ば強引に俺の手を引っ張る。
「買い物行くんじゃなかった?」
 手を振りほどきはしなかったが、腕に力を入れたため、彼女の足が止まった。
「昨日中に済ましてきた。だから今日はカラオケ。最近行ってないし」
「あいよ」
 カラオケは特別好きではないし、お金もかかるためあまり気は進まなかったが、夜にホールで動き回ることを考えると、興味もないもののために雑踏に付き合わされるよりはマシだと考え、素直に彼女の申し出にゴーサインを出した。

 駅前のビルに入っているカラオケ店に入ると、俺より少し年上くらいの女性店員が「いらっしゃいませ!」と言って、二人を迎えた。正直、かなり綺麗な人だった。美しい顔立ちに黒髪のポニーテールが完璧にマッチしており、下衆げすな話をすれば、ここで働かなくともいくらでも稼げると思った。
 どんどんと会計を進める美咲におくれを取り、彼女のネームプレートを拝むことはできなかったが、美咲の背後からチラチラとお顔を拝見することには成功した。会計が終わり、部屋番号が書かれたバインダーを手渡されると、最後に愛想良く一礼して、部屋に向かった。
 道中、美咲が少し不機嫌そうに話しかけてきた。
「さっきの店員さん、めっちゃ可愛かったね」
「え? ああ、確かに」
「なにが『え?』よ。めっちゃ見てたくせに」
 隠すことなく、不機嫌になった。
「敬斗、最近、そういうの隠さなくなったよね。前はこういう話しても、『そうかなー』とか言ってくれてたのに」
「そうだっけ? あれだよ、あれ、嘘つかないようにしたんだよ」
「嘘つくのと気遣うのは違うでしょ? 私はね、最近ずっと敬斗が気遣ってくれないって話してるの」
「あー、悪かったよ。わかったから、部屋着いたし、とりあえず入ろ? な?」
 久しぶりに、彼女に対して虚をかれた。
 何とか形勢を逆転しようと模索していると、先ほどの女性店員からもらったレシートが目に付いた。
「フリータイムにしたん? 俺今日バイトあるから、長くても17時までだよ?」
「この時間だとフリータイムの方が安いの。あと、たぶんそんなに長くいないと思うし。だから大丈夫」
 週に一度はオールナイトカラオケにふけっていると思っていた彼女からそんな発言が出て、またしても虚を衝かれた。確かに冷静に考えれば、二人だけでのカラオケに四時間五時間も費やすのは馬鹿げている。そのような理性が欠けているという前提が故の不意打ちだったが、彼女の方は至って冷静に、上着をハンガーに掛けていた。
 かと思いきや、美咲はいきなりブルーのブラウスを脱ぎ捨て、下着姿のまま俺の方に身を寄せてきた。咄嗟とっさに立ち上がり離れようとするも、運悪く部屋の隅に追いやられ、逃げ場を失い座り込んでしまった。呼吸を荒らげる美咲は、俺の眼をじっと見つめている。
 その姿は今まで見てきたどんな美咲よりも、官能的で、扇情的で、恐怖さえ覚えた。
「ど、どうした!? なに!?」
「ねぇ、最近してなかったでしょう? しようよ? ね? いいでしょ? ねえ!」
 『雨に唄えば』のワンシーンのように、近くにあったマイクから鼓動が部屋中に響き渡りそうだった。それに対して美咲は、マイクなしで息遣いを部屋中に響かせている。
 その瞬間、衝動的に下半身が勃起したことを認識した。
「ここはダメだって! 見つかったらマジで怒られるから!」
「大丈夫。監視カメラとかないの確認したから。それよりもしかして、私のこと、嫌なの?」
 そう言うと美咲は、デニムパンツを脱ぎ、下半身を身体に絡ませてきた。
は正直でしょ? ねえ、わかってるから。お願い、もうこんなことしないから。……最後に、一回だけ」
 完全に上を取られ、唇を何度も奪われると、次第に美咲の手は俺の下半身を捉え、遂には下穿したばきにまで行き届いていた。
 しかしここで急激に理性がよみがえり、彼女の生身を跳ね除けると、彼女は床に落ちていった。運良く彼女がテーブルに身体をぶつけなかったことを見届け、そのまま慌てた様子で部屋を出ると、運悪く先ほどの女性店員が、別の部屋にフライドポテトを届けに行くところに遭遇してしまった。
「どうされました!? もしかして、ゴキブリ出ました!?」
 こっちと同じくらい慌て始めた彼女を尻目に、ゴキブリの方がよっぽどマシだと内心思いつつ、
「あの、トイレ、トイレ行きたいんですけど、どっちですか!?」
と、小胆かつびくびくと嘘をついた。
 幸い彼女は勢いに弱いらしく、そのままのテンションを保ってトイレに駆け込んだ俺を完全に信じ込み、部屋の中を確認されることは回避できた。
 実際に用を足して廊下に戻ると、女性店員はもういなかった。迷った挙句、部屋に戻ることにした。
 中に入ると、美咲は既に全身に衣服をまとい、以前からお気に入りだと言っていた曲をBGMにして、先ほど俺が押さえつけられていたところで涙を浮かべていた。
 この上なく気まずい緊張状態の中、彼女から一人分空けた位置に座り、カラオケの映像を眺めていた。すると同じように映像を眺めていた彼女が、曲の途中から突然歌い出した。特にリアクションもなく、涙声が混ざったその歌声を聴いていると、程なくして曲は終了した。
「カラオケ、しに来たんだもんね」
 そうして、鼻をすすりながらデンモクを手渡してきた。
 とても歌うような気分じゃなかったが、仕方がないのでアラームにしているあの曲を入力した。おそらくこの曲は、もうしばらくアラームとして、かったるい朝に流れることになるだろう。

 時刻は16時45分、十月にしては早く、青空には既に茜色が差し掛かっていた。
 そのコントラストは恋愛小説の表紙になるくらい綺麗だったが、この街の人々は皆、意識が目線より下にあるらしい。空に浮かぶ渋谷事変に目を奪われていたのは、カラオケにもスターバックスにも立ち寄らなそうな、制服姿の女子二人組だけだった。
「……じゃあ、また明日」
 そう言うも、美咲はなかなか歩き出そうとしない。駅前で待ち合わせをしているカップルは他にもいるため、特に行人こうじんの邪魔にはならなかったが、中途半端な立ち位置を取る美咲個人に焦点を当てると、少しだけ街から浮いていた。
 ではなぜ俺の方は動き出さないか。正確には、動き出せなかった。
 あの後、すなわちトイレから部屋に戻り、無理やりカラオケを続行させられた後だ。結局、三十分で退室した。世界最大級の罰ゲームのような状況に、さすがの美咲もいたたまれなくなった。レジにいたのはあの女性店員ではなかったため、特に不審がられることもなく、スムーズに店を出られた。これが、今日一番のラッキーな瞬間だっただろう。
 その後はいつものように、美咲の買い物未遂に付き合った。付き合わされたのではない、付き合ったのである。約二時間歩いているだけだったが、お陰で美咲は、終わりの方には街中のカラオケ店から目を逸らさなくなるまで、精神状態が安定した。対してこっちは、効果がわかるのはバイトの後になりそうだ。
 彼女との今日を終わらせる前に、言いたいことがまだ山ほどある。おそらくこのまま帰してしまえば、明日、彼女とは碌に話すことができなくなる。そうなっても構わないと、三時間前までの俺は考えていた。
「……明日さ、練習の後、やっぱ行くよね?」
 先に膠着こうちゃくを破る決断をしたのは、美咲の方だった。中途半端な位置から脱し、俺の前に戻ってきた。
「たぶん。もう予約しちゃってるっぽいし」
 毎週金曜日は、夕方からサークルの練習がある。その後にほぼ全員で飲みに行くのは週課になっているが、美咲は意外にも、この週課に対して良い印象を持っていないらしい。事あるごとに二人で抜け出すことを勧めてくるが、それが実現したのは、付き合ってから数週間の頃だけだった。最近は諦めたのか、てっきり提案しなくなっている。
「わかった。私も行く。でも、……近くにいてね」
 軽く頷くと、美咲は納得したように視線を落とした。失いかけていた彼女への罪悪感が、わずかに腕に触れている彼女の髪を伝って、鼓動に働きかける。
「土曜は、無理、なんだっけ?」
「……うん」
「日曜も、無理、なんだよね……?」
「試合自体はこの前と同じくらいで終わるけど……、吉祥寺の方でやるんだよね」
 うつむきに達しつつあった彼女の顔が一瞬止まったそのとき、先走りした木枯らしが、彼女の背中を押した。
 よろめく彼女の目の前には、俺しかいない。
「行く。吉祥寺。絶対行くから、絶対会って」
 久しぶりに、美咲に
 しかし、顔は見えない。意志のこもったその言葉も、脇を通り抜けていく。言葉と同様に、俺よりワンサイズ小柄な美咲は、預けていた身を離し、脇からすり抜けていった。
 そのとき、俺と美咲は初めて、明確な言葉もなく、背中合わせに別れようとしていた。
「……明日さ、」
 一瞬膠着を破った男の声に、歩く女の足が止まる。
「午前中、……暇?」
 美咲の表情は見えない。彼女は振り向かずに、肩を震わせている。少し離れた所にいるスーツを着た女性が、心配そうに美咲を見つめている。
 今、美咲の表情を推しはかるには、この女性のリアクションに頼るしかない。
「明日、午前中──」
 つぶやくように言葉を発する美咲の背中は、とてもその辺の大学生などと揶揄やゆできるものではない。
 そんな美咲の後ろ姿は、今まで見た、どんなものより──
「授業、行くんだ。出席、あるみたいで。一回も行ってないから、さすがにサボれない」
 真、だった。
 そのまま一歩踏み出そうとしたが、足を元に戻した。
「……ごめんね、わがままで。いつもは、サボってもらってるのに」
 そして、少しだけ顔を横に向け、唇を動かした。
「ありがとう。敬斗から、誘ってくれて」
 声が聴こえた、ような気がした。
 マジックアワーに染まるその背中が見えなくなるまで、彼女の青を、何度も目に焼き付けた。
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