吉祥寺行

八尾倖生

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第四章

灰常 水曜日 午前~昼

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7 水曜日 午前~昼

 今日も睡眠はバッチリだった。
 早く起きた分、早く寝た。早く起きた分、久しぶりにお弁当を作った。早く起きた分、大学に行かない理由がなくなった。
 スマートフォンを見ると、サークルのグループに通知が入っていた。今週末に予定されていたイベントが昨日からの雨の影響で延期になったため、次の日曜日はお休みになるという旨だった。日曜日に何も予定がないのは、どう過ごしていいかわからないくらい久しぶりである。昨日みたいに調布の街を散策してみようか。それとも普通の大学生っぽく、渋谷や新宿にでも繰り出そうか。
 いや、やっぱりやめた。だって、一人だから。雪乃さん、今度の日曜日は試合見に行くって言ってたけど、今から「連れてってください」って言うのもなあ。
 うん、やっぱり家でボーっとしていよう。溜まった課題もあるし、それに、こういう時間も時には必要、だと思う。

 微妙な雨模様にモヤモヤしながらも、傘を持って家を出た。時間的には余裕があったため、モノレールの混雑を回避することに成功した。しかしなんとなく、片手に持ち続けていた傘にフラストレーションを感じた。結局、教室に着くまでその傘を差すことはなかった。
 一昨日と同じく後列を確保したのはいいが、周りに座った学生一人一人が、私を見た瞬間に二度見する、ような気がした。そうだった。大教室にこの姿で現れるのは、今日が初めてだった。そういうときはいつも心構えを用意してくるのが通常の私だったが、今は雨曝あまざらし状態である。
 しかし案外、その方が乗り切れるかもしれない。意識するな、意識するな。皆は私になんか興味ない。私の外見の変化なんか、気付かない。当たり前だ。こんなことを考えていること自体が自意識過剰なんだ。うん、それならいつも通り、講義を受けよう。
 そう思って顔を上げた瞬間、前に座っていた女子二人組と目が合った。彼女たちは慌てて目を逸らしたが、後ろ姿で笑っているのがわかった。釣られて私も笑いそうになったのは、言うまでもない。
 そっか、そりゃそうだよね。やっぱり無理だ。これに耐えられる精神力など、私にはない。
 なんで私はいつも、やることなすことが他人にわらわれるのだろう。他人をいらつかせるのだろう。考えても仕方ない。だって答えは出ている。単に私は、人間と合わない人種、ただそれだけだ。これからはやっぱり、つつましく生きていこう。誰も傷つけず、傷つかないために、他人の後ろについていこう。記録にも、記憶にも残らない、そんな生き方。結局、それが一番、私に合ってるんだ。
 講義も終盤に差し掛かり、教室を出る準備のためにかばんの中身を整理していると、丁寧に折りたたまれた一枚の紙が出てきた。どこかで見覚えのあるその紙には、こう書いてあった。「法学部 都心移転反対! 地域と伝統を守るために立ち上がろう!」。そうだ、思い出した。これ、原田くんから貰いそびれて、代わりに教室で拾ったのを貰ったんだった。
 だけど、今となっては全く興味が湧かない。もういらなくなったこのビラを、どうしようか。そのまま捨てるのも、なんか違う。なんか違うことなんかないけど、なんとなく。
 ん? なんか書いてある? なにこれ。
 あ、そうだった。このビラ、誰かがKの文字を崩してサインみたいなのを書いてたんだっけ。それと、前は気付かなかったけど、なんだろう、これ。月? なのかな。随分へたっぴだけど、でもやっぱり月っぽい。Kと月、まさかね。
 その月をやけに見入った私は、思わず落書きを加えた。月の光を浴びて輝く、一輪の花を。
 そのままそのビラを、紙ヒコーキにして、教室に置いていった。理由は、わからない。
 ただなんとなく、これを書いた犯人の意志を感じ取った。このビラが紙ヒコーキになって学校を飛び出し、街中を飛び回り、世界のどこかで密かな都市伝説になって、そして気の利いた誰かが、メッセージを解読し、彼のところに辿り着くことを。
 そんな彼の夢に乗っかるために、花を描いた。後はあなたが、私の代わりに、いろんな景色を見て、いろんなことを感じて、彼のところにかえりなさい。
 ん? 彼? なんで私、犯人が男だと思ったんだろう。Kと月、まさかね。

 空コマだった二限は、いつものように図書室で過ごした。思いの外、有意義な時間になった。溜まっていた課題を全て終わらせ、今日以降の心構えも出来た。
 とりあえず、大教室の講義はできるだけ行かないようにしよう。これ以上、傷つくのは嫌だ。ひとまず今日は、三限の英語の授業だけ出席して、五限の憲法の講義はサボっちゃおう。一回も講義に行かない人でも単位は取れるんだから、ここまで頑張ってきた私なら、きっと大丈夫。そう信じて、これからはできるだけ、自分を守ろう。それでほとぼりが冷めたら、また行けばいい。その頃には髪も黒くして、長さも少しは元に戻ってる。
 そうだ、今のうちに美容院予約しちゃおう。いつ行こうかな、お、今日の19時からなら予約できるっぽい。でもなあ、昨日の今日だし、さすがに失礼かな。ま、いっか。とりあえず色さえ元に戻せば、目立つことは避けられる。また元に戻したんだって思われるのはしゃくだけど、しょうがない。まだ知らない人だっているだろうしね。
 よし、決まり。今夜、美容院で。
 考え事にふけっていたら、とっくに昼休みが始まっていた。早く行かないと、お弁当を食べる時間が無くなる。傘を持って、急いで図書室を出た。今後の方針がいろいろ決まったのは良かったが、その分、日曜日にやることが完全になくなった。ま、いっか。その日になってから考えれば。
 英語の教室に行くと、既に三分の一ほどの学生が席に座っていた。
 その中にはもちろん、彼もいた。彼はいつも、昼休みの早い時間から教室に来て、お昼ご飯を食べている。なぜ知っているか、理由は一つ、私と同じだからだ。
 だが、彼をそのように意識したのは、今日が初めて。今まではただのクラスメートで、ただ、行動パターンが似ている人間、それだけだった。彼にとっての私はそのままでも、私にとっての彼は、違う。気配以上、会話未満、そういう意味だったんだ、あの歌詞。昨日、テレビでこの曲知れてよかった。知らなかったら、気配すら感じられなかった。
 こっちの英語の授業は席が自由なため、どこに座ってもいい。彼の前は、人がいる。横も、既に埋まっている。しかし後ろが、空いていた。
 どうしよう。こんな不純な理由で彼に近付いていいのだろうか。彼は私の変化に気付いているだろうし、一昨日のこともあった。そんな私が後ろに来たら、警戒するに決まってる。話す機会だって、一生なくなるかもしれない。静かに生きようって決めたんだから、行動も奥手にしなきゃ意味がない。
 よし、決めた。別の席に座ろう。
「それでいいの?」
 え? 誰? 今の、誰の声?
「美咲、あなた、今も彼のこと好きなんでしょ? 本当にそれでいいの?」
 だから、誰? あなたは一体。
「明日、会うんでしょ? だったらさ、思い切ってぶつけてみなよ。思ってること全部」
 やめて。
 これ以上、私の胸を締め付けないで。
「その方が、お互いスッキリするから」
 よくよく聞いたら、それは近くにいた女性の電話をする声だった。なーんだ、びっくりした。ていうか、意外とみんな、悩み持ってるんだ。私だけじゃないんだ。
 でも私には、美咲って人と違って、こんなこと言ってくれる人、いないし。
 それじゃ、どうする? どうすれば、彼への想い、ぶつけられる? 方法は、一つしかない。でもそれは、ただのワンステップに過ぎない。でも、やるしかない。
 席に座った瞬間、彼の身体が一瞬だけ、風に吹かれる花のように、揺れ動いた。
 意識されている。しかし、悪い意味で。
 彼は確実に、私を見た。ただし、最初の一回だけ。それ以降は何事もなく、授業が始まってからも、普通に授業を受けている。でも、なんとなく感じる。「なんでこいつ、よりによって俺の後ろに座ってきた?」、わかる、わかります、その気持ち。でも、座っちゃったもんはしょうがない。私だって一応、努力はしたよ? ここに座っちゃいけないって、心では思ってる。でもさ、あの女の人が、あんなこと言うもんだからさ。「それで勇気づけられて体が反応したって? お前、脳内お花畑かよ。心も身体も、小学生のまんまだな」、いいよ、小学生のまんまでも。私の小学生時代、知らないくせに。
 脳内で彼とやり取りしていると、いつの間にか授業時間は残りわずかになっていた。教員も既に、授業を終わらせようというムードを漂わせている。前にいる彼は、何か長いメモを書き終え、四色ボールペンを机に置いた。
 するとそのタイミングに合わせたかのように、三限終了を告げるチャイムが鳴った。教員は時間通りに授業を終わらせ、我々は解放された。人々は次々と教室を後にしていく。
 だが彼は、スマートフォンで何かしらの作業をしているため、なかなか教室を去ろうとしない。
 私はどうすればいい? ただでさえ警戒されているのに、これ以上彼の動きに合わせたら、もうおしまいだ。
 あ、そうだった。別に尾行しているわけじゃないんだ。だから、普通に先に帰っても、何も問題ない。早く帰ろう。外、雨止んだっぽいしね。
 彼と話せなくたっていい。
 彼は私を意識している。それがわかっただけでも、今日は充分。
 彼はやっぱり私と似た感性を持っている。それがわかっただけでも、今日は充分。
 彼は、彼は、彼は、私に嫌な印象を持っていて、もう関わりたくない、そう思われている。それがわかっただけでも、今日は、充分。
 だから、もう、彼とは話せない。彼に話しかけることもできない。彼から話しかけられることなんて、絶対にない。
 早く帰ろう。誰もいない、独りのアパートに──
「あの、ちょっと──」
 教室に残った男の声が、女を引き留める。
「たぶんなんですけど、傘、忘れてますよ?」
 そこにいたのは、松井彩花と、芳内克月、ただ二人だけだった。

「……もしかして違いました?」
 彼は少し恥ずかしそうにしている。でも、心の中は間違いなく、私の方が揺れ動いている。
「あ、えーっと……、」
 単純なイエスかノーを、不自然に躊躇ちゅうちょしている。これは、会話?
「……すいません、私のです。ありがとうございます」
 せめて、一昨日のことだけでも、一言言わないと。
「あ、よかった」
 そう言って彼は立ち上がり、私に傘を手渡した。そのまま荷物を持って、教室を出ようとしている。
「あの……、ありがとうございます」
「いえいえ」
 引き留められない。だけどこれ以上、私からは何も言えない。
 そうして彼は、教室を出た。どんどん遠ざかっていく。教室に一人、ポツンと取り残された。このまま、時も、息も、何もかも止まってしまえばいいのに。
「あれ? 芳内?」
 外の廊下から聞き覚えのある声が聞こえた。
「芳内じゃん! 何やってんのこんなところで」
「うるせえな。普通に授業受けてたんだよ」
「マジウケる! 芳内が授業受けてるとか、想像するだけで笑っちゃうわ」
「お前の俺に対するイメージどうなってんだよ」
 すかさず私も何が起きているかを確認しに、廊下に出た。
「あ! 彩花!」
 やっぱりそうだ。この声は、桜だ。
「え? てかなんで二人一緒にいるの?」
「一緒にいるっていうか、同じクラスだから終わる時間も一緒なだけだよ」
「同じクラス? あ、そっか! そういえば言ってたもんね、芳内と英語のクラス同じだって」
「え? 俺の話、したの? てか、二人、知り合いだったんだ」
 そうだけど、ちょっと待って。
 桜、お願い、余計なことは言わないで。これ以上、私の息の根を止めないで。
 私は彼の気配さえ感じられれば、それでいい。私と同じような感性持ってる人間がいるんだってわかれば、それでいい。
 でもそれは、彼が私を意識していないことが前提。私の気配を感じさせてはならない。今でさえギリギリなのに、彼が私の心を察してしまったら、もう私は空気にすらなれない。
「うん。彩花、なんか知らないけど芳内のこと知りたがってたから」
 終わった。桜、そりゃないよ。恥ずかしすぎて、頭がボーっとしてきた。
 でも仕方ないよね。私の心なんか、私にしかわからないんだから。誰にも判らない。私の心も、生き方も、過去も、誰だって理解できない。そう、彼だって。
「あ、やば。早く行かないと遅れちゃうわ。じゃあね彩花! あとついでに芳内!」
 一方的に置いてけぼりにされ、尋常じんじょうじゃなく気まずい空気が流れた。
 まあ、桜らしいっちゃ、桜らしい。もうどうだっていいや。
「あいつ、なんちゅータイミングで去ってったんだよ」
 え? 今、話しかけられた? 私に言ってた? まさかね。彼、私のこと見てないし。
 でも、私も同じこと思った。もしそうだったとしたら、そうだ、これ、チャンスじゃない? 今までにない、千載一遇のチャンス。心の中も、開き直る準備はできている。
 ならいっそ、思い切って、
「私のこと、知ってました?」
 彼は少し慌ててこっちを向いた。
「え? そりゃまあ、一応」
「なんですか? その反応。まるで『お前のことなんて知ってて当たり前だろ』みたいな」
 やば。ちょっと攻めすぎた。一応彼のイメージに合わせて攻めたつもりだったけど、脳内の応酬をそのまま声に出してしまった。絶対引かれる。あーあ、せっかくのチャンスだったのに。これじゃ、また振り出しだよ。
 しかし、その言葉を聞いた彼は、笑った。
「え? 私なんか、変なこと言いました?」
 動揺していないふりをする。だけど心は、溶けてしまいそうだった。
「いや、なんつーか、想像してたキャラと違ったから」
「……それ、もしかして、悪口?」
「違う違う! てか、うーん、やっぱやめとこ」
「え!? なんで!? そういうの、地味に一番傷つきます……」
「わかったわかった! あの──」
 それでも彼は、言うのを躊躇ためらった。
 だが改めて息を吸い、少し笑いながら、
「松井さんって、結構面白いんだね。自虐上手いっていうか」
 まさか、こんなにダイレクトに言われるとは思わなかった。やっぱり彼も、私のこと、そう思ってたんだ。
 しかし不思議と、嫌じゃなかった。こんな会話、いつか誰かとしてみたかった。私のことを、私のキャラを、正面からいじってくれる人間、それがこの、芳内克月なんだ。
 その瞬間、彼に私の全てをぶつけたくなった。皮を被った強い私を、いつも通りの素の私を、人に傷つけられ、傷つけてきた、弱い私を。
 今まで生きてきた、全てを。
「あの──」
 歩き出そうとする彼の前に立ち、行く手を塞いだ。それでも、彼は驚かない。
「今から時間、あります? 少し話しませんか?」
 いつ以来だろう、こんな、胸が張り裂けそうな気持ち。
 答えは決まっている。彼なら理解してくれる。身体だけの女じゃないと。
 彼なら、きっと──
「うん、いいですよ。じゃあ、えーと、学食とかでいいっすか?」
 私を受け入れてくれる。

「雨、止みましたね」
 こうやって男性と二人で歩くの、生まれて初めてかも。厳密に言えば初めてじゃないけど、記憶にあるのはどれも、消したいものばかりだ。
「傘、持ってこなかったんですか?」
「悩んだんすけど、朝のときぐらいの雨なら傘なしでもいけるかなって。使わないのに持ってくると色々面倒なんで」
 わかる。傘って、始末が面倒。電車だと片手塞がれちゃうし、大教室だと置き場所ないから、置くところに困る。
「あと僕、家から駅までチャリなんすよ。なんで大したことない雨のときは、多少濡れてもチャリで行っちゃうんすよ」
「そうなんですね。えっと、駅ってどこの駅なんですか?」
「吉祥寺です」
「あ! 知ってる! 私一回行ったことあります! あのでっかい公園あるとこですよね!?」
「たぶん井の頭公園っすね、それ」
「そうそう! 私、東京来てまだ半年ぐらいで、渋谷とか新宿とかほとんど行ったことないんですけど、吉祥寺だけあるんです。一回だけですけど」
「へー。なんか、珍しいパターンっすね」
 なんで私、こんなに興奮してるんだろ。たかが住んでる街の話なのに、好きな男子と初めて話せた女子中学生みたいに、浮ついている。あ、私の住んでる街、言いそびれた。
「席、端っこの方でいいっすか?」
 学食に入ると、彼は率先的に目立たない端の席を確保してくれた。
 昼休み以外の学食は、多くはサークルの溜まり場としての機能が目立っているが、他にも席はたくさん余っているため、私たちのような二人組を始めとする少人数のいこいの場としても、しっかりと機能している。たまに一人で図書室のような用途で自習している人もいるが、未だにあれで集中できるのかは理解し難い。
 四人掛けのテーブルを、二人で広々と使った。ご飯を食べるわけでも、ボードゲームをやるわけでもない。ただ二人で、そこにいた。
「今日この後、憲法、行きます?」
「うーん、朝は行かないで帰ろうと思ってたんですけど、芳内くんが行くなら行くかも」
「え? なんで俺次第なんすか? まだ話して間もないのに」
 ボケだと思ったのかな。今の、普通に本心だったんだけど。
 でももしかしてこの雰囲気なら、色々訊いても大丈夫かも。
「あの、この髪、どう思います?」
「あ、そういえば髪型変えましたよね。新崎、気付いてなさそうだったけど。似合ってると思いますよ。なんか、雑誌とかに載ってそうでオシャレだし」
 え、嘘。この髪、思ったより評判良い? だって今、似合ってるって言われたよね? しかも、一番言われたい人に。美容師の人が言ってたこと、お世辞じゃなかったんだ。
 あ、そうだった。今日、美容室の予約しちゃったんだ。どうしよう。この髪型、変えない方がいいかな? そのことも芳内くんに訊いてみようかな? さすがにそれはないか。
 でもホントに、美容室、どうしよう。
「松井さん、最近講義で座る席とか変わってるっぽいっすけど、なんかあったんすか?」
 それ、やっぱり気になるよね。いや、話すべきだし、むしろ話したいんだけど、一から説明するの、大変だからなあ。絶対、飽きられちゃうし。
「あ、そういうこと、あんまり訊かない方がよかったですよね。ごめんなさい、デリカシーない質問しちゃって」
「いえ! 違うんですよ! その、話すのが嫌なんじゃなくて、色々あって説明が大変で」
「そうだったんですか。確かにこの前、具合悪そうでしたもんね。朝、モノレールで」
 体中から湯気が吹き出そうなほど、恥ずかしくなった。
 そうだ、私、この人の目の前で醜態しゅうたいさらしたんだった。
「……あのときは、本当にありがとうございました! あと……、ごめんなさい。あのときすぐに感謝伝えられなくて」
「いえいえ、いいんですよ。あんなこと、感謝されるほどじゃないですし。あ、でも、足踏まれたのは痛かったなあ」
 そう言って彼は、悪戯いたずらっぽい笑顔を浮かべた。
 余計に恥ずかしくなって、その場から逃げ出したくなった。
「……すいません。ちょっと、お手洗い行ってきます」
「あ、はい、わかりました」
 でも、嬉しかった。こんな話できる人、他にいない。この際だから、しっかり準備しよう。髪も身だしなみも整えて、一番良い、私を見せよう。
 よし、準備完了。不安も焦燥も、全てトイレに流してきた。
 戻ったら、最初に何を話そう。私のことも聞いてほしいけど、もっと彼の話も聞きたい。彼がどんな人で、どんな生き方してきて、どんな人が好きなのか。もっと知りたい。もっと、近付きたい。
 早く、早く彼の元へ──
「あれ? 彩花?」
 嘘、でしょ? 嫌だ。絶対嫌だ。あなただけには、絶対会いたくなかった。
 それも、よりによって、なんで今?
「おい、彩花! 無視すんなよ!」
 なんで無視してるか、わかってるでしょ? あなた、私なんて身体だけの女って言ったんだから、もうどうでもいいでしょ? それなのに、なんでまだ、私のことを、
「この前のことは悪かったから! 勢いで色々言っちゃったけど、本心じゃないから! せめて謝らせてくれって!」
 あんまり騒がれると周りの注目を集めてしまうので、仕方なく立ち止まった。
 せめて、芳内くんだけには、気付かれないように。
「なに? 石嶺くん」

「あの日はさ、ちょっとイライラしてて、その……、」
 イライラする原因作ったのも、あなたでしょ?
「てか、髪型変えたんだな。似合ってるじゃん。そっちの方がいいよ」
 話変えないで。それと、やっぱり黒に戻そう。
「何が言いたいの?」
「だからさ! あの日のことは謝るから、また、仲良くしようよ。前みたいに」
 ふざけないで。私、あなたの所為せいでめちゃくちゃになったんだよ?
 いや、彼の所為じゃない。彼の言っていたことは、確かに的を射ていた。だから、感謝はしないけど、あの日のことは受け入れる。それで、あなたのことは、忘れるから。
「無理だよ」
「は!? なんで!? 彩花、お前のことこんなに想ってる人間、俺以外いる!?」
「あなたが想っていれば、私はあなたのになるの? あと、お前って言うの、やめてくれる?」
「彩花、悪いことは言わないから、俺の女になれよ? ぶっちゃけ俺、お前にはもったいないぐらいの男だろ? いいから、素直になれよ」
 やっぱり石嶺くんは、何も変わってない。相変わらず、私を物扱いしている。
「ごめん。あなたとはもう関わりたくない」
「そう言わずに、な?」
 そう言って石嶺くんは、私の腕を掴んだ。周りを見ると、フロアにはほとんど人がいなかった。その代わり、近くには人気ひとけのない物置がある。
「ちょっと、なに!? やめて!」
「どうせ処女なんだろ? 一回ぐらい味わわせてやるよ、男の味ってもんを。病み付きになるから」
「離して!」
「うるせえ。いいからおとなしくしてろ」
 口を塞がれた。胸をまさぐられた。
 ああ、あのときと全く一緒だ。シチュエーションも、相手も、私も。
 こうやって私は、人と離れていくんだ。せっかく辿り着けた、理想の人と。もう無理なのはわかってる。私はどうなってもいい。
 だからせめて、現れないで。見ないで、汚れた私を。
「おい、何やってんだ」
「ん?」
 私の身体をガッチリと掴む、石嶺くんの手が止まった。
「やめろよ。それ、犯罪だぞ?」
「は? 誰だお前?」
 新たに現れた声の主を見て、心臓が止まりかけた。
 それと同時に、鼓動は最高潮に達した。
「こいつ、俺の女だから。彼女とヤッて何が悪いんだよ」
「だとしても、そうやってやるのは間違ってるってことぐらい、わかるだろ?」
 口論が始まった隙に、石嶺くんの腕から脱出した。その勢いに任せて、相手の男性に抱きついた。
 彼はわかっていたように、優しく受け入れてくれた。
「違う!! 私、あの人の女なんかじゃない! 信じて!? 芳内くん!」
「は? てめえ……、ふざけんなよ? てか、何? そいつ、知り合い?」
 モノレールのときも思ったが、私を支える彼の手は、本当に柔らかい。
「この人は、その……、」
 突拍子もない考えが、頭に浮かんだ。ええい、もうどうにでもなってしまえ。
「なんなんだよ! 早く言えよ!」
 今の私は、嘘をつける。大胆かつ、堂々と。
「彼氏! 私の!」
「は? え?」
 そのとき、彼の手が一瞬震えたことを、密着していた私以外に知っている人間はいない。
「なにそれ!? 聞いてねえぞ!?」
「だって言ってないし、言う必要ないじゃん!」
「そうかもしれないけど……。おい、お前、本当か!? 本当にそいつ、お前の女か!?」
 私の鼓動は、きっと彼にも伝わっている。
「ああ、そうだよ。松井さんは、俺の彼女だ」
 間違いなく今日一番の鼓動が、全身を駆け巡った。
「マジかよ……、信じらんねえ……。ホントにお前、最低な女だな。胸も触ったら大したことねえし、身体すらクソじゃん……。なんで俺、こんな女に執着してたんだろ……」
「言いたいこと言ったんなら、さっさと消えろ。くずが」
 少し怖かったけど、頼もしかった。この人がもし、本当にそうだったら……。
 やめよう、そんなこと考えるの。
「ちなみにさ、そいつと付き合ったのって、俺が告ったより前から?」
「拓也、そこで何してるの?」
 新たな女性の登場に、石嶺くんは完全に我を失った。

「は!? ちょ、お前、なんでいんの!?」
「そんなことより、今、なんて言った?」
 ここまで焦る石嶺くんも、これはこれで珍しい。そういえばこの人、どこかで見覚えがある。私と同じ茶髪のショートヘアで、眼鏡をかけた女性。
 横を見ると、唖然あぜんとしながらも、芳内くんも見覚えがあるように、その女性を見ている。
「いやそれは……、ほら、『ラブ・アクチュアリー』でもあったじゃん、こんなシーン」
「あっ、もしかして……。そっかー、この娘かー。噂は前々から聞いてたけど、本当にやってたんだ」
「違うって! これはその、誤解だよ! だからさ!」
「もういい。ごめんなさい、二人とも、迷惑かけちゃって。あっ、あなたもしかして……、ご無沙汰してます」
「ああ、いえいえ」
 そう言って彼女は、石嶺くんの制止を物ともせず、早歩きで去っていった。石嶺くんも彼女を追いかけていった。
 ようやく落ち着いた場で二人、目を合わせて、笑った。
「今の人、知り合い? 話しかけられてたけど」
「ああ、あの人、最近やってるデモの人らしくて、そんときに話したってだけ」
 思い出した。あのとき、原田くんと一緒にいた人か。もしかして桜が言っていた、芳内くんと話していた茶髪のショートヘアの女性って、あの人?
「あの二人、どう見ても付き合ってるよね?」
 芳内くんはまた、悪戯っぽい笑顔を浮かべた。
「うん。そう思う」
「それなのに、松井さんを『俺の女』って、ホント、何というか……、」
 それ以上は何も言わなかった。
「あのさ、」
 思い切って話しかける。
「こういうの、なんて言うんだっけ。本命の相手いるのに、いつでもいけるような相手作っておくこと」
「セフレ?」
「えっと、たぶん違う。……ていうか、セフレって何?」
「あ、ごめん。今の忘れて。なんだろ……、キープとか?」
「それだ。ふふっ、でもさ、そんなはっきり言う? さすがに酷くない?」
「え? マジ? 俺今、ハメられた?」
 何気ないやり取りに、笑い合う一時。いつの間にか、敬語の関係は終わっていた。
「思ったんだけど、芳内くんって、演技とかできないでしょ?」
「なんで!? 俺、さっき頑張ったでしょ?」
「普通さ、『松井さんは、俺の彼女だ』、なんて言う? 同い年の彼女に名字にさん付けとか、違和感ありまくりだよ。少女漫画じゃないんだから。しかもめっちゃ棒読みだったし」
「それはさ……、まあ、しょうがないじゃん。咄嗟とっさだったし。それにバレなかったんだから、な? ……でもよくよく考えたら、なんでバレなかったんだろ」
 また笑い合う。
 でもあのとき、「彩花」なんて呼ばれてたら、本当に心臓、止まってたかもしれない。
「戻ろっか、とりあえず」
 歩く彼の後ろ姿を見て、この前のボランティアのときの女の子の話を思い出した。双子座は今週、運命の出来事が訪れる。教えてくれたあの娘に感謝しなくちゃ。
 そして同時に、思いついた。彼との時間を、もっと大切にする、ある考えが。
「芳内くん。いや、克月、くん」
 彼の名前には月があり、私の名前には花がある。
「五限、一緒にサボらない?」
 青い空に吹く風と、赤い夕焼けで飛ぶ鳥。
「吉祥寺、行きたい」
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