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第二章「契約更新は慎重に」
21.面倒ばかりのオトナたちの事情
しおりを挟む九遠堂に戻ると、椎堂さんは帳場の奥に座っていた。
いつもの定位置である。店主が暇を持て余しているということは、九遠堂は今日もとどこおりなく開店中であるようだ。
くだんの女性の姿は近くに見えない。
内心、ほっとする。あの美女が椎堂さんにねっとりと貼りついていては、さすがに割り込むのは気が引ける。
他所様の恋愛模様に首を突っ込むのは、可能であれば避けたい。
佳代さんの前で大見得を切っておいて情けないが、および腰になるのはしかたないだろう。
それがまさか修羅場に巻き込まれて、なりゆきで真相究明に乗り出してしまうとは。
天の川に隔てられた織姫と彦星のあいだをとりもつ、かささぎになったような心地だった。
「佳代さん、また機会を改めて話したいって言ってましたよ。あの女性も帰られたんですか?」
「あれは気分屋だからな。こちらの事情というものを忖度しない。自由そのものが歩いているのを咎められると思うか?」
僕の脳内では、自由の女神が真昼の往来を闊歩するシュールな映像が流れる。
……放心している場合ではない。
意を決して、椎堂さんに尋ねる。
「質問があります。……椎堂さんって人間ですよね?」
学生をしていた過去があり、佳代さんという当時からの知り合いがおり、しかし大主さんのような超常存在とも顔見知りである。
地上に足はついており、証言もあるのだが、確信はもてない。
この人が一体何者であるのか、という疑問は、僕にとっては九遠堂に関与するきっかけそのものだ。
単刀直入に斬り込むのは愚直な手ではあるが、このあたりで、はっきりさせておく必要があるだろう。
椎堂さんは、腕組みをしつつ、しかと頷いた。
「是と言っておくか。〈怪奇なるもの〉に関わる身の上ではあるが、あれら黄昏時の住人とは理を共にしてはいない。もっとも、徒人よりは、多少興味を抱かれやすい体質のようだが」
「体質……ですか」
「今朝の件は最たる例だな。――夢魔については知っているか?」
「ええと、よく知りません」
「二階で見ただろう、あれがそうだ」
あれ、とはかの女性だろう。椎堂さんにべったりとくっついていた美女のことだ。
「西洋の悪魔の名を借りれば、サキュバスだな。奴らは〈怪奇なるもの〉の中でもとりわけ人間に馴染みが深く、あちこちで男をたぶらかし、淫奔に誘ってはいたずらを繰り返すことを悦楽としている。錠前も呪いも効力がないようで、どこからともなく枕もとに湧いてくる。はた迷惑な隣人だ」
「……これまでの生涯で、僕の枕もとには現れたことありませんね」
椎堂さんは、ふっと笑った。
いちいち癪に障る微笑だ。頭に血が上りそうになるのをこらえて、疑問点をひねりだす。
「前に見た鬼火と違って、外見は人間と変わらないように見えましたけど」
「〈怪奇なるもの〉の中でも、人を惑わす存在は、友好的な態度を示すかぎりは人間と変わらぬ姿で現れるのが常だ。あれも見るものが見れば、魔性の存在に心を囚われることもあるだろう」
僕には、直視するのがはばかられるような妖艶な美女に見えた。
ある晩突然、枕元に現れたらまず夢か現か疑うほどには、現実離れした美貌の持ち主だった。
「椎堂さんの日常生活って、とっても刺激的なんですね?」
「夢魔程度なら街中でも見かけるな。奴らの中には、人間社会に溶け込んでいる者も数知れないな。さして珍しくもない」
「……さいですか。それ、佳代さんに説明したことあります?」
「あいつは見ての通り、頭の固い現実主義者だよ。説明したところで理解を得られると思うか?」
ためしに想像してみる。
さめざめと泣く佳代さんをなだめながら、椎堂さんは淡々と語りかける。
俺の日常においては夜な夜な美女が枕元に現れることもある。どうにもそういう体質らしい。
なに、めずらしくはない。夢魔なら街にも溢れている。まあ、そう気を落とすな。世の中そういうこともある。
……まず、張り倒されるだろう。
予想したとおり、九遠堂の真相と椎堂さんの正体を、佳代さんは正確には把握していない。
謎めいたこの男は、さぞや珍奇な存在に見えていることだろう。
にもかかわらず、心を砕きつづけていられるのは、惚れた弱みからだろうか。
「わかりあえないのなら、黙って距離をおくのが大人のやり口なんですか」
「その手ならばすでに試した。……結果、曽根河が懲りないやつだと判明した。俺個人との縁からか、人払いの呪いも効かん。策を弄しても無駄骨を折って終わる」
「移転するって嘘ついて、わざと住所を教えずにいたり、ですか」
「この店は明治期から続いている。そう簡単に場所を変えられるものか」
だんだんとわかってきた。
冷血漢のように見えて、椎堂さんには生温かい血がかよっている。
人と人とのつながりは、脆く、儚い。
たった一言、否定の言葉を吐けば、途切れてしまう危険性だって潜んでいることを僕は知っている。「さようなら」の五文字は空気のように軽い。
望まぬ関係性ならば、手打ちにすることだってできる。
それをしないのは。たぶん、手加減をしているのだ。
わかりあえないことを承服しながら、佳代さんは心を砕きつづけ、椎堂さんは砕かれた真心を拾い損ねている。
状況は佳代さんが悲観するほどでもないのかもしれない。
「……なにを笑っている」
「いやあ、なにも? かささぎ役も悪くはないのかなぁと思いまして」
意地っ張りな大人たちを横目に、ほくそ笑む。
呆れ果て、絶句することは数あれども、たまには賛同することもある。
――椎堂さん、それならありじゃないですか。
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