海底の放課後 -ネットの向こうの名探偵と、カリスマ・アカウントの謎を解く -

穂波晴野

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第三章 瑞凪少女誘拐事件

37.ホンモノ

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 緊張を紛らわそうと、深呼吸をしている。

 ネモから伝えられた作戦を実行するのに必要なのは胆力だ。言い換えるならば度胸と精神力。やりたくはないけど、やってできないことではない。できるはずだと暗示をかけて、あきらは瞑目していたまぶたを開く。

 カウンター席の右隣には、ウォーターサーバーが設置されていた。
 給仕がホールを見てまわらない代わりに、セルフサービスで飲み水を補充できる仕組みになっている。席を立ち、ガラスコップを持って、水を注ぐ。問題はここからだ。

 標的である男性客は、空になった大皿を脇に置いて、ランチョンマットの裏面になにかを書きつけていた。幸い、いまはボールペンを走らせるのに夢中だ。

 目的は簡単に達せてしまうだろう。心の中で詫びておく。
 ――ごめんなさい、無垢で善良な一般の方だったら、誠心誠意を尽くして謝ります。

 腕を上下に振るう。
 手の内からコップが滑り落ちていく。
 ああ、やってしまった。と心は確かに焦るのに、脳裏ではいっとう冷淡な自分が状況を俯瞰している。

「ああっ、すみませんっ!」

 謝罪のタイミングが、早くはないだろうか。
 焦りが先走ったせいか、狙いは若干ズレてしまった。溢れ落ちたコップの水は、男性客の足もとに置いていたトートバッグをぐっしょりと濡らしている。

 男性客の顔からはサッと血の気が引いていた。

「おま、おまおまおま、おまえ……!」

 やばい。口をパクパクと動かす男を前に、とっさにそう悟ったが、彼はあきらを視界にとらえていなかった。
 食い入るように足もとのカバンを見ている。相手がショックを受けている隙に、あとは作戦通り――。トートバッグを狙う。

 ポケットに忍ばせておいたハンカチーフの出番だ。
 丁寧な動作で水分を拭き取りつつ、親切を装ったまま中身を改める。

 トートバックに入っていたのは書類だった。触れるとコピー用紙ではなく、厚手のケント紙だとわかる。何かの資料だろうか、イラストが描かれているようだ。

「あれ、これ……」

 見覚えがある。あまりに見覚えがありすぎる絵柄だった。
 顔をあげると、なぜかキッチンスタッフが青い顔をしていた。

「会計!」

 男性客が叫ぶ。

「はい、ただいま!」

 キッチンから出てきたスタッフが、帳場へとひた走る。
 男はあきらからトートバッグを奪い去って、おぼつかない手足を無茶な振り方をして去っていく。
 ……目前で起きたことに、処理能力が追いつかない。

 バン、と大きな手に背を叩かれた。ネモが耳もとで囁く。

「追うぞ!」

 ハッとして顔をあげたあきらの前で、ネモは財布から出した五千円札をカウンターに叩きつけようとしていた。

「逃げるって怪しすぎるだろ……! これはなにか釣れちゃったかな思わぬ大物がさ!」

 すでに獲物を追う狩人の目だ。
 仕方ない。もとはといえば自分で撒いてしまった種だ。それに男性客の言動には不審な点ばかりが目につく。理由ならもう用意されていた。ためらわず、先を急ぐ。

 店外へ出てすぐ、階段の手前でネモが叫んだ。

「アキラ、僕は上にいく! 通話出てくれよ!」
「どういうこと?」
「説明してる時間はない。まずは一階まで降りてくれ!」

 言われるがまま、階下へつづく階段を駆け降りる。

 三段飛ばしで跳躍。着地したところでスマホがけたたましく鳴った。ネモからの着信だ。LINE通話できている。

『僕だよ、こっちはビルの屋上に向かう』
「上から探すつもり?」
『こんなこともあろうかと双眼鏡を持ってきてる』

 用意周到にもほどがある。

 とにかく、いまは正体不明のパートナーを信じるしかない。太洲商店街に土地勘はないのだ。覚悟を決めて周囲を見渡す。すでに男性客は雑踏に紛れてしまったようだ。

 外見は黒いパーカーにジーンズ、短髪にメタルフレームの眼鏡。特徴がなさすぎるのも考えものだ。
 直感を頼りに、左方のアーケードへと足を向ける。駅に向かうならこちらの道だ。

『滑りだし良好だぜ。そのまま九十メートル直進。走れよ、門限七時のシンデレラ!』
「このスカート、走りにくい!」

 全力疾走。
 歩道を駆けるほどに布地がヒラメ筋にあたる。末広がりのヘップバーンスカートが受ける空気抵抗はいくらだろう。とにかく邪魔だった。

 太洲商店街のアーケードを抜けると、右手に公園が待ち受けていた。
 ネモからの指示は「公園内で捕まえろ」のみ。男は公園を抜けたのち大通りに出て、追っ手を撹乱するつもりのようだ。あきらの尾行はとっくにバレている。

 標的の背中はさして遠くはない。走行フォームが乱れていたせいか、相手は四肢への負担が著しいようだ。スタミナ切れか、みるみる減速していく。これなら追いつける。そう、確信したとき――。

 前方をゆく男性が転倒した。

 チャンスだ。速度を上げる。一息に距離をつめて、男が落とした眼鏡を探している隙に、トートバックを押さえる。

「ちょっ、あんた鬼だな……!」

 どこかで聴いたような、悲痛な叫びだった。

「……すみません」

 きっと誰の目に映しても非道徳的な行動をとっている。
 謝罪をしておく。おそらく、これを人質にとればこの男が逃げることはない。詰問したいことがあるのだ。

「……先ほど偶然見てしまったんですが、これって……〈クロガネ〉ですよね……?」

〈リトルパルフェダイニング〉の店内で、男の荷物からとびだした書類には、びっしりと細やかな絵が描かれていた。緩急をつけたコマ割りに、鉛筆で台詞が記された吹き出し。人物の活き活きとした表情。流血と硝煙。〈叛逆の皇子クロガネ〉のキャラクターたちが華麗なアクションを繰りだす、戦いの場面だった。

 あきらが尋ねると、男は顔面蒼白で絶叫する。

「あああああ写真はやめろSNSにアップするな鍵垢でもダメだつーか見るな聞かなかったコトにしろなんも口外すんな!」
「海賊版、ではないと」
「本誌用連載ネームだよ……」

 消え入りそうな声を喉もとから絞り出して、男は自白する。
 ペンだこだらけの手で顔面をおさえてから、恨めしげに睨みつけてくる瞳は、ほの赤く充血していた。

「なにが望みだよ……サインか? 描き下ろしイラストか? ライセルでいいのか?」
「落ち着いてください。……あと、ひょっとしてお名前って……」
「…………はい。そうです、俺が作者の鷹藤藻那斗たかふじもなどです……」


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