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終章 いつかジヴェルニーの庭で
58.シンジツ
しおりを挟む遠く、長く、まっすぐな道はさみしい。
目的地で誰かが待っていてくれる保証もないから。
たどりつくまでの距離を概算して、折れそうな心を鼓舞しなければいけないから。
理由と弁解のあいだを往復しながら、美波あきらは走っていた。
二月初旬にしては温かな陽が町にふりそそぐ日だ。道路沿いのなごり雪が溶け出して、車道はきらきらと黒光りしている。信号待ちのあいだに雪だるまと目があって、不安そうにかしげた眉毛がなんだかおかしかった。
道の先に、朱色の欄干が見えてくる。
雨槻橋。瑞凪町を横切るように流れる百子川にかかる掛け橋だ。
特徴的な見た目から、町民たちからは「赤橋」と呼ばれて親しまれている。毎年、春がくると河川敷の桜や柳を眺める客が集まるちょっとした観光名所だ。
橋の中腹に尋ね人を見つけた。速度をあげて急ぐ。
近づくと、相手は片手をあげて応じた。
「よう。アキラ。待ちくたびれたぜ」
未鳴だ。
痩身に黒衣。ジャケットにパンツスタイル。そして金のリングがついたネックレスを首から提げている。
「おまたせ。――久しぶり」
息を整えながらあいさつをする。
午前中だけの授業を終えてから急いできたせいで、こっちは制服のままだ。
歩きながら話そうと誘われて、未鳴についていく。
年明けからのこの一ヶ月あまりは、会話を交わしていなかった。報告しておきたい近況も、質問しておきたい内容も、山積みだ。心根を悟られるのは気恥ずかしくて、傍若無人にふるまう麗人に先をゆずる。
「まずはこっちの報告。叶鳴の病名――若年性アルツハイマーであたりだった」
祐城叶鳴がこの雨槻橋から飛び降りてから二年が経っていた。
彼女が自殺にいたった経緯には謎が多く、婚約者でさえも正確には把握できていなかったそうだ。そこで未鳴は、かつての勤務先付近の病院にあたりをつけ、祐城叶鳴が死の直前に訪れた経歴がないか調べあげた。
根気強くねばったところ、受診記録が見つかった。二年以上も昔の患者であるため探し出すのには骨が折れたそうだ。
「簡潔に説明しておくと、認知症だ。二十代で発症するケースはごくまれらしいが、まったく確認されていないわけでもない。主な症状は記憶障害や判断力の低下、幻覚や妄想といった精神面への悪影響……そして学習機能のおとろえ」
アパートに残されていた遺書には、幼子が書いたような支離滅裂な文字列が並んでいた。生前の祐城叶鳴が残したとは思えない内容だったようだ。
しかし、それこそが証拠だったという。
「病状が悪化すると、記憶はあいまいになっていく。周囲の人物には疑心暗鬼を向けるようになり、とてもじゃないが社会生活はままならなくなる。病といえども、本人よりも、きっと巻き込まれた人々が苦しむ……患者が理解を得るのは大変だろうな」
アナウンサーが速報を読み上げるような、明瞭な語り口。
「ここからは僕の憶測。……叶鳴のことだから、誰も傷つけたくなかったんだろう。理由のない暴力をとりわけきらう子だったから。職場を離れて、結婚も諦めて。誰かから奪う側にまわる前に、自分を殺してしまった。――以上が、殺人事件の真相だ」
「論理的な解決」
拍手をしておく。皮肉っぽいニュアンスは伝わったらしい。
苦笑がかえってくる。
「情緒的な忖度も、あるにはあるが」
「なら、私の疑問を。定説では若年性アルツハイマーの患者の記憶は、直近の記憶から消えていく……らしいね。十年前の思い出はまだ覚えていたとして、心に抱いた想いって、どれだけ鮮明に保持しておけるのかな」
仮説ならある。
祐城叶鳴という少女が、願いや欲を完全に秘めてしまえる子だとしたら。他者から望まれた役に準じようとした女性だとしたら。与えられた選択肢から選びとった行動と、語られないまま作品に宿された魂の、どちらを本心とするのが正解なのだろう。
疑問を告げると、未鳴の解答は速かった。
「ノスタルジア・バイアスって知ってるかい。記憶は美化される、そういうことだ」
「すぐに建前論で流そうとする」
思考回路がそう癖づいているのだろう。
あきらだって自分を納得させるため、感情に流されないように我慢する手段を試す。それはきっと生きていく上で、必要な積み重ねなのかもしれないけれども。
そればかりでは、あまりに心に対して嘘つきだ。
「…………叶鳴に生きてて欲しかったよ」
やがて諦めたように、未鳴がこぼした述懐が二月の空気に溶けていく。
首筋に巻いたマフラーに口もとをうずめたところでまだ肌寒い。
あきらはほう、とため息をついた。
「心の傷が目に見えればいいのにね」
「極論だな。傷の深さを測るのにどれほど骨が折れることか」
「でも強者の倫理におしつぶされて、傷を受けたひとだけが苦しむのは、まちがってる」
「そうだな。生存戦略に失敗した弱者は淘汰されるべきだ、なんていわないさ。そういう時代でもない。……だが、生まれついた環境が、育みそだてた感性が、受け皿のない過ちだとしたら」
道の先をじっと見つめていた未鳴が、まなざしを眇める。
「なあ、あきら。弱く儚い者たちはどう生きればいいの。どうあっても同じにはなれないと知りながら、生きていくことは苦しいよ」
静寂のなかに声を落としたら、黙り込んでしまった。
ふたりが橋を渡りきると、古い町並みが残る通りが待ち受けていた。瓦葺きの屋根に商家の暖簾を垂らした町屋がいくつも軒を連ねている。これから昼下がりにかけて、買い物客でにぎわう時間帯だ。
晴れた日の陽光にさそわれて、瑞凪町の住民たちがなごやかに往来する。
「螺科未鳴らしくないな」
「やはり見破られたか」
「未鳴の解答はもうあるんだ?」
青空は高く澄んでいる。
交差点にさしかかったところで、山向こうに真昼の月が浮かぶのが見えた。
「……僕は芸術家だから。悲しみを知ってなお、おのれの怒りさえ信じなけれないけない。針のむしろを歩きながら、カンバスの前では背筋を伸ばして、凜として描くさ」
そう宣言する横顔は、まだ寂しそうだったけど。
暖房が効かない狭い部屋で交わした言葉を思い出す。あのときの涙も、あのときの傷も、未鳴にとっては過去のはずだ。とっくに、光が照らす地上を歩いている。
――このひとはもう大丈夫だ。
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