66 / 67
終章 いつかジヴェルニーの庭で
59.ヤクソク
しおりを挟む「だからもうお別れ?」
あきらが尋ねると、未鳴はからりとほほえんだ。
「そういうことさ。……真木くんには悪いことをしたな。鷹藤のやつを紹介したし、おおめにみてくれるだろうと信じよう」
〈クロガネ〉原作者の鷹藤は大学時代の後輩らしい。
真木のことだから胸中は複雑なのだろうけれども、きっと感謝もしているだろう。
ブルブル――と。ポケットの中でスマホが震えていた。
授業が終わるまでマナーモードにしていたのだ。通知欄に届いたメッセージの主を確認して、あきらは顔をしかめる。
「征四郎さんからだ。最近うるさくてさ」
「だれだっけ? 聞いたことない名前だな」
「お父さんのこと、征四郎さんって呼ぶんだ。うちではそれがふつう」
放任主義の父親でも、たまには娘が心配になるのだろう。
それが親心なのだとは察しがついても、LINEでの連絡が多い日が続くとうっとうしい。
「きっかけは反抗期特有のあてつけだったけど。私、出てった母親に似てるらしいから」
母は自由奔放で、心に正直なひとだった。良き家庭人ではなかったのだろう。
彼女が母親だったころ、父の不在時には、自宅の敷居を見知らぬおとなが頻繁にまたいでいた。
――どうして、お父さん以外のおとこのひとがうちにいるの?
そう尋ね訊いたとき、母は答えをくれなかった。わけもわからず――お父さんがかわいそう。と言い放って、あきらはクローゼットの中でひとりで絵を描いていた。
家族への情があっても、母のそばで生きる道は選べなかった。手を離して泣き腫らして、さよならを飲み込んだあと、思い出のほかに残るものはない。家族がひとり減った。
事実としてはそれだけ。
残された父娘の相性は悪くなかった。無骨で厳格で自他に厳しい父が、理不尽にあきらを責めたことはない。父は公正なのだろう。だからこそ言外に、自分は重荷ではないだろうかと悟る。
「居るだけで迷惑をかけるなら。家のなかで私の顔を見たくないのなら。……早く大人になって、独りで生きていけるようになりたい」
生まれ故郷を離れて、知らない街に出かけるのは、予行練習に似ている。
いつもそこで生きる自分を想定している。
「……そっか」
「それで……週末、お母さんに会いに行くつもり」
そしてこれも決意のつもりだった。
未鳴があきらの描いた女性像を「逃げ」だと評したのは鋭い。
文化祭の準備で忙しくて、時間がなかったなんてただの言い訳だ。
昨年、美術室に展示するために描こうとしたのは、母親の肖像だった。
どれだけなおしても、あのひとの顔はイメージのなかでさえ歪むばかりでうまく描けない。たぶんそれは、彼女を正面から見据えるのが怖いのだ。その瞳に自分が映ってはいないことを認めるのが。愛情を、受けとめられなかった過去を直視するのが。
ただし、それでも。あきらも母もいまを生きている。時の流れが変化をつれてくるのならば、すこしくらいは大人びた顔をして。遠くへいった彼女のもとへも、会いにいくことができるはずだ。
「ひとりで行けそう?」
「私は恨んでいないから」
「潔くて君らしいな」
「未鳴は? これからどこに行くつもり?」
「ひとまずニューヨーク」
世界都市だ。日本との時差は十三時間。
「むこうの知り合いが、移民向けの学校経営をはじめてね。美術家志望のワカモノたちのロールモデルになれってさ。僕は画家なんだ。モデルなんぞこりごりに決まってるだろうが。と、一蹴したいが渡に船!」
「……負けてられないな」
螺科未鳴は現代アート界の最先端をゆく芸術家だ。きっと、どこまででも飛んでいく。
このひとの背を追いかけてきた。このひとに憧れて、絵を描きはじめた。本来ならば、こんなふうに言葉を交わすことのほうがおこがましい。
一年前の自分は、あの螺科未鳴にくちごたえしている未来なんて想像もしなかった。
「そうだ。君が去年描いた鳥人間だけどさ」
「鳥人間はやめて。あれは描きなおすつもり」
しかも、憧れの画家に失敗作を見られていたなんて。生き恥どころではない。
あきらが顔を伏せてしまうのを見かねてか、未鳴がふっと優しく吐息を落とす。
それから、突拍子もない提案が飛んできた。
「あの絵が完成したら売りに出しなよ。サザビーズでもどこでにも。そのとき、君という画家がどんな立場で、どんな人間だったとしても、ありったけの想いで僕の手中に収めるからさ」
「……大人は嘘つきがおおいって」
「螺科未鳴が信じられないかい? 奪いに参上しようってのに」
疑いの目を向けておく。
と、ふてくされたように未鳴が唇を尖らせた……かと思いきやいきなり破顔して、あきらの手を引く。
手のひらにしっかりと握られてしまうと、振り払えない。そのまま社交ダンスでも踊りだしそうなほど優雅なステップを踏んで、くるりと正面にまわって。
ふと、真剣な目をしてみせた。
「この先どんな道を選ぶにしても、手放さなければきっと会える。これはそういう約束で……ひょっとしたら呪いかもしれない」
濡れ羽色の瞳に、吸い込まれそうだった。
「僕からの薫陶だ」
右手の甲。小指のつけ根のあたりへ。
口づけが落ちてきた。
「……っ……す、きなひとがいるって言ったのに……!」
手をひっこめてあとずさる。全力で距離をとる。
顔が熱くて脳が高温で心臓ごと沸騰していた。歩道の隅のマンホールをめくって隠れられるものならいますぐ頭からかぶって消え去りたいのに、実行犯はにやにや嗤いを隠そうともせずこちらを観察している。
……してやられてしまった。
いつの間にか、街道の果てには駅舎が迫っている。走っていけばすぐそこだ。頭上の電光掲示板には、発車時刻のせまった急行の目的地がならんでいる。
「あはは! ごめんよ、大人はずるいんだ。じゃあな、達者で生きろよ!」
未鳴が嬉しそうに改札へと駆けだすから。
あきらは早いよと呼びかけながら、大慌てで追いかける。
足どりはふしぎと軽い。いつの間にか風はやんで、頬には暖かな空気が触れていた。早咲きの梅や木蓮の蕾が、瑞凪町のあちこちでほころびはじめている。
もうすぐ町に、春がくる。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
二重のカーテン (スカートの下の黒い意志)
MisakiNonagase
青春
洗濯物の隙間に隠したのは、母としての祈りと、娘のプライド。
かつて、女子高生という生き物はもっと無防備で、自由だった。
44歳の主婦、愛子が朝のベランダで手にするのは、娘たちが毎日履き替える漆黒のオーバーパンツ、通称「黒パン」。それは、令和を生きる娘たちが自らの尊厳を守るために身に着ける、鉄壁の「鎧」だった。
小学校時代のママ友たちとのランチ会。そこで語られるのは、ブルセラショップに下着を売っていた奔放な50代、無防備なまま凛と歩くしかなかった40代、そして「見せないこと」に命を懸ける10代の、あまりに深い断絶。さらには、階段で石像のように固まる父、生徒の背後に立たないよう神経を削る教師……。
一枚の黒い布を通して浮き彫りになる、現代社会の歪さと、その根底にある不器用なまでの「優しさ」。
ベランダに干された黒いカーテンの向こう側に、あなたは何を見ますか?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる