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母親

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髪の毛を乾かしてさっぱりした頃には、疲れも眠気も吹き飛んでいた。再び自室に戻り、リュックの中から紙袋を取り出してリビングへと向かった。小さな丸テーブルの上には、母さんが作り置きした晩御飯が置いてあった。

「……手紙」
 
サランラップがかかった料理の上に、ボールペンで書かれた置き手紙がある。学校に行かなくなってから別々に晩御飯を食べることが増えたが、手紙が添えられていたことは一度もなかった。
 
紙袋を床に置き、手紙を手に取る。柔らかな文字で綴られた文章には、僕を心配する気持ちこそ現れていたものの、学校や人間関係に触れるような言葉は一切書かれていなかった。

「僕が幸せならそれでいい……」
 
手紙をテーブルの端に置いて小さく呟く。口に出してみると、その一文の温かさがより一層身に染みてわかった。
 
学校に行かなくなっても、母さんは僕を否定することはなかった。引きこもってから一週間ほど経った夜、ふと顔を合わせた時に「おやすみ」とだけ残して寝室へと消えていったことは今でも覚えている。
 
最初は見捨てられたのかと思った。一人手で育てた子供が、真っ当な人間でないと知って失望してしまったのだと考えていた。
 
けれど日を追うごとに、その考えが間違っていたことに気がついた。母さんは、僕を心の底から信用しているからこそ、深く踏み込まないようにしてくれていた。
 
優しさの輪郭がはっきりと見えているからこそ、僕の気持ちは生と死の狭間で彷徨い続けている。

『理想の形はわかってて、それでも大きな弊害のせいでそこに向かうことができない。漠然とした不安や見えない相手と戦うことは、そう簡単なことじゃないと思うよ』
 
ふと、メイドカフェでハルカさんが言った言葉が蘇った。
 
理想の形がわかっていても、原因があってそうすることができない。理想に近づくための強さが、僕には欠落している。
 
気持ちを言葉にできる勇気が芽生えれば、あるいは感情を打ち明けられる人と出会えたならば、この状況から抜け出すことはできるのだろうか。
 
ぼんやりとハルカさんの表情を思い浮かべながら、皿を持ってレンジの前に向かった。
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