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漫画

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七月の中旬に入ると、夏がチラリと顔を覗かせた。気温がぐんと上がって、エアコンなしでは生活することができない。
 
部屋の電気を落として、ベッドに寝転ぶ。学校から帰宅した後、ずっと漫画を読んでいたせいで首が痛い。
 
登校するようになってから、一日の終わるスピードは速くなった。
 
あれほど恐れていた日常は、いとも簡単に生活の一部に溶け込んだ。寝ぼけ眼をこすりながらアラームを止めて、母さんが作った朝食を食べて制服を着る。綺麗に畳まれた制服は、ずっと前からここが定位置だと主張するように堂々と椅子に座っていた。
 
教室のドアを開いても、クラスメイトたちは僕を見なくなった。
 
自分の席へと足を進め、校庭で朝練をする運動部をぼーっと眺めながら腰を下ろす。通学カバンから教科書やノートを取り出して机にしまい、ホームルームが始まるのを待つ。
 
朝のルーティンが完全に出来上がっていた。

「……あと二冊だ」
 
読み終えた漫画を袋に戻して、大きく息を吐く。この一週間、学校に通いながらも睡眠時間を削って借りた漫画を読んでいた。
 
漫画は全部で四種類あった。その中にはハルカさんと星見さんが感銘を受けた漫画も入っていた。アイドルとして活動する主人公が、学生生活の中で恋に落ちる物語だ。
 
主人公は、芸能活動と青春のどちらを選択するのか悩んでいた。
 
何かを犠牲にしなければ、本当に欲しいものは手に入らない。アイドルの衣装を着て活動している限り、制服姿で恋を叶えることはできなかった。

『アイドルは恋愛をしてはいけない』
 
脅迫じみた言葉に襲われて、主人公は不自由な状態で日々を送った。時折、学校に行っても、周囲と自分との温度差にやられてしまう。アイドルという華やかさがありながらも、女子高生としてのコンプレックスを背負っていた。
 
輝かしいことはいいことばかりではない、と主人公は言った。行動すべてが生徒の目を引き、そんな主人公に嫉妬心する生徒もいる。
 
孤独な主人公に声をかけたのが、冴えない男子生徒だった。陽の当たらない教室の端っこで、本を読んでばかりいる生徒だ。メガネをかけた口数の少ない男子生徒は、影で『オタク』などと呼ばれていた。
 
主人公も男子生徒も、普通から外れた場所で縮こまっているという意味では同じだった。見た目や印象が正反対なだけで、生徒たちとの距離感に変わりはない。日陰で一人か、日向で一人かの差でしかなかった。
 
同じ悩みを抱えた人間は、自ずと惹かれ合うのだろう。偶然と必然が重なって、二人の中はどんどん良くなっていった。主人公の印象は悪くなり、男子生徒は調子に乗るなと陰口を叩かれるようになった。
 
肩身が狭くなった二人は、教室での居場所を失った。どこで何をしていても、悪い噂がつきまとう。人を介して大きくなった噂は、二人の力では到底解決できないものになった。
 
活動にも日常にも支障をきたした主人公は、苦しい選択を迫られていた。登校を辞めて芸能活動に専念しようとするが、青春には未練が残っている。目立たない男子生徒が思い出されて、なかなか結論を出せなかった。
 
悩んだ末の回答は、学校に行かないということだった。それ以上、男子生徒が傷つく姿を見たくなかったからだ。

「……どうなるんだろう」
 
残りの二冊を読み終わった頃には、物語は終幕を迎えている。二人の関係はどうなるのか、主人公たちは救われるのか、そのすべては明日わかる。

枕元に置いたスマートフォンに手を伸ばす。電源を入れると、顔に光が降り注いだ。眩しさに耐えきれず目を細め、すぐさま明るさを下げる。
 
SNSを開くと、ハルカさんと交わしたメッセージが表示された。昨日、久々に連絡を送ったがすぐに返してくれた。
 
SNS上で会話を交わしたのは、数週間ぶりだった。
 
漫画を読み終わったら、ハルカさんに返そうと考えていた。借りっぱなしではいけないと感じていたこともあったが、気持ちの整理するためにもハルカさんに合う必要があった。

『今週の日曜日、楽しみにしてるね』
 
久々に交わしたメッセージを読むと、うっすらと笑うハルカさんの姿が目に浮かんだ。二日後、久々にハルカさんと出会えると思うと口元が緩む。日常の変化や漫画の感想など、話したい内容が溜まっている。
 
星見さんに気持ちを気付かされてから、様々なことを考えた。
 
SNSに顔を出さなくなったことを謝罪するべきだろうか。
 
ハルカさんは今、メイドさんと良好な関係を築いているだろうか。
 
芽生えた気持ちを、はっきりと伝えるべきだろうか。
 
言葉にしなければわからないことだらけだ。予測できないからこそ、多少の恐怖や不安はある。下手をすれば、僕とハルカさんの関係は修復できないレベルまで壊れてしまうだろう。
 
それでも不思議と逃げようとは思わない。会えることに対する喜びが優っているのか、それとも言葉にして楽になりたいのかはっきりとはしなかったが、信じられないくらい自信がある。きっとこの先の未来は、結果がどうなろうとも輝いているはずだ。
 
スマートフォンに表示された時刻が動く。0が三つ並んで、土曜日の訪れを示した。
 
学生としての一週間が終わったと思うと、どっと疲れが押し寄せてきた。瞼が重くなり、意識が朦朧とする。ベッドに沈んでいく身体は、早く目を閉じろと僕に催促しているようだった。
 
体の力を抜くと、自然と目が閉じた。瞼の裏側にハルカさんの顔が映る。脳は睡魔にやられてほとんど働いていなかったが、目や口元や輪郭が鮮明に映し出されている。目尻に寄ったシワが、持ち合わせている優しさを表していた。
 
身体が重力に引かれて、ベッドに溶け込んでいく。闇の先に耳を澄ますと、呼吸する音が聞こえた。
 
ぼんやりとしていく意識の中でも、ハルカさんの笑顔だけは消えずに残り続けた。
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