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雨とふたつのいきもの
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保育園の先生にあれこれと詮索されたその日の午後。家の窓の外にびしょ濡れのきっこを見つけたとき、華子穂はほとんど叫び声に近い喚きをあげて、外へ飛び出した。
こんなこころ持ちになったのは生まれて初めてだった。「いたたまれない」というもの。
雨に濡れること自体の悪いところを華子穂は知らない。身体が冷えて風邪をひくかもしれないとか、濡れた服は着心地が悪いだとかとは、そう教えられたこともないから考えられない。
むしろ華子穂は雨に打たれるのが好きだ。
けれど、何故だろう。きっこが濡れている姿は放っておけない。
夜みたいに暗いからだろうか?
きっこが小さいからだろうか?
華子穂は考える。
しかし、だとしたら華子穂はたびたびこんなふうにリビングの窓から裸足で飛び出さなければならないはずだ。世の中にはこんな暗い雨の昼間も、小さな生き物も沢山あるのだから。
そうはならないのは、華子穂がきっこにだけ、特別な想いを抱いているからなのだけれど、それはまだ名前もつけられない小さな火だ。それそのものを飾る「瞬き」しか目にすることはできない。「いたたまれない」とか「心配」というこころ持ちとして。
この世でただひとつの同種(いまのところ)を抱いて部屋へ戻ると、リビングは泥だらけになってしまった。きっこは驚いた表情で(どうしたの?)と伝えてくる。
(分からない)華子穂は返す。(そうしたかったの)と。
きっこの顔からすっと驚きが下がって、(ありがとう)が浮かぶ。
まるで華子穂の人生のすべてが報われるような(ありがとう)。
だから、きっこに伝わるかどうかわからない大きさで、華子穂も(ありがとう)を発する。
華子穂が下ろすときっこは一度窓から出て、飛び上がりながら手足を振った。
(なにそれ?)
華子穂もきっこに付いて出て、飛び上がって手足を振った。踊っているのかと思ったのだ。
(ああ、かこちゃんはお部屋に戻って!)きっこが華子穂のお腹をぐいぐい押す。結構力が強い。面積の小さい手のひら。部屋へ戻る華子穂。サッシを登るきっこ。
(それに濡れてるものは脱いで。身体についた雨を乾かしてから、濡れてないものを着るんだよ)
(どうして?)
(うーん。分からない。でも、そうしたほうがいいよ)
そんなものかと部屋の奥へ歩みだそうとすると、きっこが呼び止める。
(ここが濡れないようにしたほうがいい)
(それはどうして?)
(そう意図されてるものだって感じるよ)
(そうだね。家のなかが濡れてたらお母さんが掃除をする)
華子穂はその場で服を脱いで、脱いだ服で身体と髪を拭う。
(これでいいと思う?)
(うん。そう思うよ)
脱いだ服をそのままに華子穂は着る服を取りに部屋へ行く。自然ときっこと手を繋ぐ。乾いた葉が水を吸うみたいに。
(雨が)廊下へ出るときっこが立ち止まる。
(雨が?)華子穂も立ち止まる。
(消えた)目をつむって大きく息を吸うきっこ。
(雨が……?)どどどどどど、と。暴力的に打ち付けた雨。しかし、ここでは雨が空になった空気を挟んだ外側から遠く雨音が届くだけ。
(ほんとだね。)
それでも、肌で気づけるくらいには「雨の降っている」という気配がある。
しばらく雨の気配をきっこと並んで感じる。どこか懐かしい気持ちと共に。
白い壁紙、木の廊下。雨ざらしの外界とは裏腹に乾いたカビの匂いがする。
ふたりは全く同時に歩き出して、華子穂の部屋へと入っていった。
雨、ヒトの棲家、闇。かこの身体は少し黒いけれど、それでもこの闇のなかでは白々と浮かぶ。
きれいだ、ときっこは思う。布を被って隠れていくのが惜しく思う。
アサガオとかアジサイみたいな色をした自分の肌とは違う、柔らかそうというより脆そうな肌。薄い皮膚。青い血管。
(きれいだね)きっこはだからそう伝える。
(きれい?)かこは葉っぱや空の写った水たまりなんかの色をした布から頭を出そうと頑張りながらそう返す。
きっこが飛び上がって布の端を掴むと、かこの頭がぴょこりと出てきた。出てきたはいいけど勢いよく出た頭は身体全体をそのまま後ろへ引っ張って、かこは倒れてしまった。
(いたい……)
涙を流すかこ。
(かこ、血のニオイ……!)
(血?)
(うんっ、ぶつけたせいで傷ができたんだ!)
頭を摩るかこ。
(ほんとだ。ねたねたする)
(触っちゃだめたよ、傷口にわるいばい菌が入っちゃう)
(わるいばい菌?)
(そう。僕らと同じものでできていて、だけど少し違うもの)
そう言うと「すう」と優しく息をたくさん吸い込む。
寒々としたものはみんな追い出さないと。きっこは自分のなかに星空よりも美しく輝く夜空があることを感じる。
(動かないでね)
そう言うときっこはかこに向かって口から何かを吹きかけた。息ではない何か。
優しさ色のそれがかこを包み込むと身体中に「ふあふあ」が溢れてクラクラした。
倒れそうになると、今度はきっこが後ろから抱いて支えてくれた。
(もう大丈夫)
そう言われたけれど、起き上がりたくなかった。目を閉じて、この小さいけれど宇宙全体くらい優しい身体にずっと支えていてほしかった。
だから、そうしたのだ。眠りにつくまで。
こんなこころ持ちになったのは生まれて初めてだった。「いたたまれない」というもの。
雨に濡れること自体の悪いところを華子穂は知らない。身体が冷えて風邪をひくかもしれないとか、濡れた服は着心地が悪いだとかとは、そう教えられたこともないから考えられない。
むしろ華子穂は雨に打たれるのが好きだ。
けれど、何故だろう。きっこが濡れている姿は放っておけない。
夜みたいに暗いからだろうか?
きっこが小さいからだろうか?
華子穂は考える。
しかし、だとしたら華子穂はたびたびこんなふうにリビングの窓から裸足で飛び出さなければならないはずだ。世の中にはこんな暗い雨の昼間も、小さな生き物も沢山あるのだから。
そうはならないのは、華子穂がきっこにだけ、特別な想いを抱いているからなのだけれど、それはまだ名前もつけられない小さな火だ。それそのものを飾る「瞬き」しか目にすることはできない。「いたたまれない」とか「心配」というこころ持ちとして。
この世でただひとつの同種(いまのところ)を抱いて部屋へ戻ると、リビングは泥だらけになってしまった。きっこは驚いた表情で(どうしたの?)と伝えてくる。
(分からない)華子穂は返す。(そうしたかったの)と。
きっこの顔からすっと驚きが下がって、(ありがとう)が浮かぶ。
まるで華子穂の人生のすべてが報われるような(ありがとう)。
だから、きっこに伝わるかどうかわからない大きさで、華子穂も(ありがとう)を発する。
華子穂が下ろすときっこは一度窓から出て、飛び上がりながら手足を振った。
(なにそれ?)
華子穂もきっこに付いて出て、飛び上がって手足を振った。踊っているのかと思ったのだ。
(ああ、かこちゃんはお部屋に戻って!)きっこが華子穂のお腹をぐいぐい押す。結構力が強い。面積の小さい手のひら。部屋へ戻る華子穂。サッシを登るきっこ。
(それに濡れてるものは脱いで。身体についた雨を乾かしてから、濡れてないものを着るんだよ)
(どうして?)
(うーん。分からない。でも、そうしたほうがいいよ)
そんなものかと部屋の奥へ歩みだそうとすると、きっこが呼び止める。
(ここが濡れないようにしたほうがいい)
(それはどうして?)
(そう意図されてるものだって感じるよ)
(そうだね。家のなかが濡れてたらお母さんが掃除をする)
華子穂はその場で服を脱いで、脱いだ服で身体と髪を拭う。
(これでいいと思う?)
(うん。そう思うよ)
脱いだ服をそのままに華子穂は着る服を取りに部屋へ行く。自然ときっこと手を繋ぐ。乾いた葉が水を吸うみたいに。
(雨が)廊下へ出るときっこが立ち止まる。
(雨が?)華子穂も立ち止まる。
(消えた)目をつむって大きく息を吸うきっこ。
(雨が……?)どどどどどど、と。暴力的に打ち付けた雨。しかし、ここでは雨が空になった空気を挟んだ外側から遠く雨音が届くだけ。
(ほんとだね。)
それでも、肌で気づけるくらいには「雨の降っている」という気配がある。
しばらく雨の気配をきっこと並んで感じる。どこか懐かしい気持ちと共に。
白い壁紙、木の廊下。雨ざらしの外界とは裏腹に乾いたカビの匂いがする。
ふたりは全く同時に歩き出して、華子穂の部屋へと入っていった。
雨、ヒトの棲家、闇。かこの身体は少し黒いけれど、それでもこの闇のなかでは白々と浮かぶ。
きれいだ、ときっこは思う。布を被って隠れていくのが惜しく思う。
アサガオとかアジサイみたいな色をした自分の肌とは違う、柔らかそうというより脆そうな肌。薄い皮膚。青い血管。
(きれいだね)きっこはだからそう伝える。
(きれい?)かこは葉っぱや空の写った水たまりなんかの色をした布から頭を出そうと頑張りながらそう返す。
きっこが飛び上がって布の端を掴むと、かこの頭がぴょこりと出てきた。出てきたはいいけど勢いよく出た頭は身体全体をそのまま後ろへ引っ張って、かこは倒れてしまった。
(いたい……)
涙を流すかこ。
(かこ、血のニオイ……!)
(血?)
(うんっ、ぶつけたせいで傷ができたんだ!)
頭を摩るかこ。
(ほんとだ。ねたねたする)
(触っちゃだめたよ、傷口にわるいばい菌が入っちゃう)
(わるいばい菌?)
(そう。僕らと同じものでできていて、だけど少し違うもの)
そう言うと「すう」と優しく息をたくさん吸い込む。
寒々としたものはみんな追い出さないと。きっこは自分のなかに星空よりも美しく輝く夜空があることを感じる。
(動かないでね)
そう言うときっこはかこに向かって口から何かを吹きかけた。息ではない何か。
優しさ色のそれがかこを包み込むと身体中に「ふあふあ」が溢れてクラクラした。
倒れそうになると、今度はきっこが後ろから抱いて支えてくれた。
(もう大丈夫)
そう言われたけれど、起き上がりたくなかった。目を閉じて、この小さいけれど宇宙全体くらい優しい身体にずっと支えていてほしかった。
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