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愛可理~①
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一幸の死から四年余り経ち、あの時大学に合格したと喜んでいた光輝も、この春から社会人になった。月日が経つのは早いものだ。愛可理も会社に入って十二年目を迎える。
「お互い、歳も取るはずだよね」
同じようにまだ勤め続けているりんにそう嘆いた。自分達が新人と言われていた頃が懐かしい。それがもう中堅を通り過ぎ、ベテランのお局様となってしまった。
かつてのバブル時代に大量採用され多くいた先輩達も少しずつ退社していき、今では数えるほどしか残っていない。といっても下から入ってくる若手事務員も入社四、五年目までには、半分以上が寿退社や自己都合の退社で辞めていった。
さらにここ最近増えたのが、うつ病などにかかって会社を休みがちになり、その後出社してこなくなってしまう社員だ。それは女性社員だけでなく、男性社員にも多くみられるようになっていた。
そういう愛可理自身も、一幸の事件が起こってからしばらくは警察の取り調べや何やらとても慌ただしかった。おかげで酷い精神不安定に陥った時期がある。
あの事件で一幸自身は、被害者だと明らかになった。しかし事件の発端は、愛可理達が六人の男達に襲われた所を彼と光輝が助けようとしたことだ。
しかもその前に、未成年と知りながらお酒を飲ませていたことから、りんと二人で警察からかなり厳重注意を受けた。それ以上に愛可理達を責めたのが一幸の母だった。
病院へと駆けつけた彼女は、警察から事情を聞いて怒鳴った。
「あなた達のせいで、一幸は死んだのよ! どう責任取ってくれるの!」
結果愛可理やりんと光輝までもが、彼の葬儀に参列することは許されなかった。だが愛可理達以上に傷ついたのは、すぐ隣にいたにも拘らず、彼の死に気づいてやれなかった光輝だったかもしれない。
あれ以来、愛可理達は彼と一度だけ会ったきりだ。事件の事が影響したらしく、大学へも行かず引き籠ってしまったと聞いたので、様子を見に行った。励ましては見たものの、精神状態が良くなかったことを覚えている。
その後は会うどころか、連絡を取ることもしなくなった。お互いが接することで一幸を思い出してしまうことを、どちらともなく恐れていたからかもしれない。
ただ彼と縁遠くなっていたのは、愛可理自身のプライベートがめまぐるしかった事も大きな要因だった。雅史と別れた後、自分を失っていたのだろう。許されない恋に溺れていたのだ。
一幸が亡くなった時も、その関係は続いていた。馬鹿な事をしていたから、罰が当たったのかもしれないと考えたことさえある。
そうした気持ちが、態度に出ていたのかもしれない。その後彼の素振りも冷たくなったせいか、繋がりに綻びが生じ始めた。結果として、相手とは二年程度で別れたのだ。
これではいけないと正気に戻り、新たな恋人探しも始めた。その時出会った男性と、早々に結婚までした。だがそれも三十を過ぎるまでにはと、焦っていたからだろう。互いの相性やそれまでの素性にも、目を瞑っていたのが問題だった。
新婚生活が始まって、一年も経たない内に彼の言動がおかしいと気付き始めた。そうなると、夫婦としての結びつきにも支障が生じる。挙句の果てには破綻し、二年余りで離婚することになったのだ。
幸いといっていいのか仕事は止めずに続けていたし、子供は作らなかった。共働きだったこともあり、別れる時も慰謝料や財産分与等も全くなしで、揉めずに済んだ。今は以前と変わらず、旧姓で働く毎日を過ごしている。
しかしそんな四年間が経過したこの春に、光輝が突然、愛可理達の前に現れた。しかも驚いたことに、会社の新人総合職として姿を見せたのだ。
彼が一昨年から就職活動をする学年になったことは、なんとなく気付いていた。だがどこの会社に内定を貰ったのかなど、詳しい事は全く知らなかった。
後で聞いたところによると、彼は愛可理達を驚かせたかったらしい。その為入社するまで黙っているようにと、母親や周囲に口止めしていたようだ。
久しぶりに会う彼は学生時代の幼い面影がすっかり消え、社会人らしくきりっとしてより逞しくなっていた。しかも愛可理は、同じ課に配属される新人として紹介されたのである。
しかも事務等に関する仕事について、指導をするようにと課長から申し渡された。
「寺内光輝です。宜しくお願い致します、岸本愛可理先輩」
彼は人懐っこい笑顔で片目をつぶりながら、そう挨拶した。その様子から、一幸の事件についてのわだかまりは全く感じられなかった。それどころか、時折四人で遊んだかつての頃の空気を醸し出していた程だ。
愛可理は彼に会えば、一幸のことを思い出して辛くなるだろう。だから彼も私達に会えばそう思うはずだ、と変に気を使っていた自分が恥ずかしくなった。
それにここは会社だ。仕事にプライベートな感情を持ち込む必要などない。入社十二年目の事務職の先輩として、入社一年目の新人をしっかり指導しなくては、と愛可理は気持ちを入れ替えた。
だが問題なのは、隣の課にいるりんのことだ。彼女の不倫はまだ続いている。二人の関係は、つい一幸にだけ口が滑り喋ってしまった。
その後誰にも言わないようにと口止めしたが、あれは五年も前だし翌年に一幸は亡くなっている。よって光輝の耳に入っているか、今でも覚えているかどうかは不明だ。
長谷川課長はその後同じビルの一つ上の階の部署に異動し、次長に昇進した為近くには居ない。よって最近だと、愛可理以外に気づかれることなど社内ではまずないと言って良かった。
だがこれから、そうはいかないだろう。光輝だってもう大人だ。りんが同じ会社の同じフロアの隣の課にいれば、何となく感じる雰囲気や仕草からばれるかもしれない。
または他の同僚達の噂などから、感づく公算も高かった。もう五年近く続いている二人の関係は、一部の社員達に知れ渡っているのではないか、との話も聞いたことがある。愛可理自身もかつて、
「長谷川課長と今川さんって怪しくない? あなた、彼女と仲がいいんだから、何か知っているんじゃないの?」
と、先輩社員から問い詰められたことがあった。だがその時はきっぱり、それを否定した。
「そんなこと、ある訳ないじゃないですか。もしそうなら私も気づきますよ。あの二人はそんなんじゃありません」
または、知らない振りをして恍けたりもした。
「不倫しているなんて噂、あるんですか? へぇ~、私は何も知りませんでした」
だがそんなことなど、いつまでも通用はしない。そろそろ社内的にも問題になるのではないかと彼女に注意したところで、課長が次長に昇進し部署が変わったのだ。
同じビル内だが離れたおかげで、噂は一旦収まっていた。しかし問題は燻っている。この四月には無かったが、十月の人事異動で次長が再び異動するのではないかとの話も出ていたからだ。
愛可理達の会社では、事務職は一度配属されると、比較的長く同じ部署にいることが多い。もちろん退職していく女性達や入社する新人達のバランスを見て、異動する人達も多少はいる。
だが愛可理やりんのように、十年以上同じ部署に居続ける事は珍しくなかった。
一方で男性の総合職の場合は、平均すると五年から十年の間で部署を移動するケースが多い。そう考えれば長谷川の単身赴任は九年目を迎え、かなり長い方だと言える。
四年目で昇進と共に、部署が変わった事もその要因だと思われた。だがそろそろ次の部署に移ってもいい頃だ。よって家族が待つ大阪に戻るかもしれない、と予想されている。
そうなれば二人の関係はどうするのか。不倫を解消するのか、それとも次長を家族から奪って二人は結婚するのか、と愛可理はりんを問い詰めたことがあった。
そんな時、彼女はいつものらりくらりとかわすのだ。
「四月と十月の年二回の異動発表の時期になると毎回、同じような話が出るよね。だけど今までこうやって続いてきたんだから。二人がどうなるかは、彼の異動が正式に出た時、判るんじゃないかな。それまではこのままだと思うけど」
「それって問題を先送りにしているだけだよ。何の解決にもなってないじゃない」
そう責めると、彼女は不敵に笑うだけだった。
「先送りって、今の日本の政治家みたいな真似をしているってことよね。じゃあ大丈夫なんじゃない? 日本だって危ない危ないって言いながら、なんとなくやってきているでしょ」
「そんな投げやりな言い方、しないでよ。あんただってもう今年で三十二歳よ。いつまでも結婚できない相手と付き合って、本当にいいの? それとも結婚はするつもりなの?」
しかし口では彼女に勝てなかった。
「そんな事、判んないわ。それに愛可理は、結婚したけど離婚しちゃったじゃない。次はいつ結婚するのと聞かれたら、困るでしょ? 今はそういう相手が居ないみたいだし。私には一緒に過ごす相手がいるけど、ただあなたと同じで、結婚するかどうかも先なんて見えない。なるようにしかならないわよ。それにもう三十二じゃなく、まだ三十二よ。もう、なんて言ってたら直ぐにオバサン化しちゃうから」
いつもこんな感じで、話をはぐらかされてしまう。だが彼女も本心からそう言っている訳では無いはずだ。どこかで蹴りをつけなくてはいけないと、考えているに違いなかった。
そんな時、あの光輝がこんな近くに現れたのは、偶然で無いのかもしれない。あの彼の前で、愛可理に対して言った通り、不倫をしている事をなんでもないかのような素振りで、語れるだろうか。
彼の過去を愛可理達が知っているように、彼女についても同様のはずだ。そんな彼に、彼女は開き直って胸を張れるのだろうか。
「りん姉、いや、今川さん、よろしくお願い致します」
光輝は彼女がいる課にも、挨拶に回っていた。隣の課では、新人の男性総合職の他に女性事務員が一人ずつ配属されている。りんと愛可理達の所属する部ではもう一つの課があり、そこにも女性事務員が一人採用されていた。
一つの部で三つの課があるこの部署では、総勢男性二名、女性二名の新人が加わった。だが愛可理達が入社した頃は部の中の課も四つあり、毎年十名以上の男女の新人が入社してきていた。
その当時を考えると、まだまだ世間は不況から脱していない現状が判る。
「では今週末の金曜日、部全体で集まって新人歓迎会をやります」
朝礼でそう言い渡された時、愛可理は嫌な予感がした。そうか、歓迎会の場があったのか。
職員の異動などの歓送迎会は、いつもそれぞれの課ごとにやるものだ。しかし新入社員が入った時だけは、部全体でやることが最近多くなった。
その為隣の課だが普通に仕事をしていれば、それほど接点の無い課の職員と、この時ばかりは会話を交わす機会がある。そんな場所で、もし光輝がりんと長谷川次長の噂を耳にしたらどうしよう。
愛可理はそんなことを心配し始めた。それならば、当日は彼の隣の席を確保し、他の職員からの余計な情報を遮断するしかない。そう秘かに作戦を立てていた。
新人歓迎会の当日、愛可理は光輝のお世話係の特権を発動し、計画通り隣の席に座ることができた。だが新人の周りには、沢山の職員が物珍しさも手伝って集まってくる。
特に若手の女性社員は、可愛い若い男の子が来たと喜び、群がってきた。
「寺内さんって、カッコ良いからモテるでしょう。彼女はいるの?」
「どんな子が好み?」
「趣味は? 背も高くて体つきもがっしりしてるけど、何かスポーツはやってるの?」
「あの国立大学を卒業したんだって? すごい! 頭いいんだ!」
「岸本さん、寺内さんの隣の席、私達に譲って下さいよ!」
三十路を越えたおばさんの出番は無いとばかりに、愛可理は押しのけられ、彼と喋りたい女性陣が周りを取り囲んだ。質問攻めに合っているその内容から、そうか光輝は昔でいう三高の候補生何だな、と今更ながらに気づく。
収入はまだ新入社員だから、それほどでも無い。しかしやがてこの会社の男性達の年収は、四十代に近づく頃に一千万近くまで届く。
かなり以前から彼を見て来たけれど、確かに皆が褒めるように顔立ちは整っていて、背も高く体つきも男らしくなっていた。それで学歴も高いとなれば、やはり女性は放っておかないのだろう、と他人事のように観察した。
しょうがなく愛可理はその輪の外でお酒を飲みながら、余計な話はしないかと耳をそばだてることにしたのだ。
先程の彼の大学の話題が出た時、自分の胸が痛んだことに自分自身が驚いていた。四年以上経った今でも、まだ一幸の件が心の傷として残っていることに、あらためて気づかされる瞬間だった。
あの時、光輝達がお酒を飲んでいた事は警察にばれている。それでもお咎めなく無事大学に入れたのは、あくまで彼らが被害者であり、お酒をすすめたのは愛可理達だと認められたからだ。
ぼんやり一人お酒を飲みながら当時を思い出していると、ある一人の子がこそっと小さな声で、心配していた話題を口にし始めた。
「寺内さんって、隣の課の今川さんとお知り合いなんですって?」
「はい。岸本さんと一緒に、学生の時からお世話になっています」
光輝が女性の質問に答えていると、その子は彼の耳に近づき、意地悪そうな顔で尋ねた。
「じゃあさ。前に隣の課にいた上司との噂なんて知ってる?」
愛可理は思わずその場で立ち上がり、注意しようとした。だがそれより先に近くにいた他の事務員が、その話題をたしなめた。
「駄目よ、こんな所で寺内さんにそんな話をしちゃ」
しかし当の本人は、意外にも平然とした表情をしていた。その事に愛可理は驚いた。さらに彼は自分からその話の内容を興味深く聞きだしたのだ。
「噂って何ですか? 同じ課の上司と何かあったんですか? まさか不倫しているなんて言わないですよね」
ストレートな質問に、周りは逆に答え辛く黙っていると、彼は爽やかに笑って話を締めくくった。
「そんな訳ないですよね。これだけ皆さんが噂しているぐらいですから、本人達の耳にもそうした話は聞こえているでしょう。それでもまだ不倫しているなんて、あり得ないですよね」
すると女性達は、ああそうかもしれないと納得したように頷いた。いつの間にかあの話が、ただの噂だったのだろうといった流れのまま、話題は別の話に移った。
彼の一言で疑心暗鬼を生じさせていた不倫話は、彼女達にとって一気に関心の無いものへと変わったのだ。その様子を見て確信した。彼はりん達が、本当に不倫している事に気付いているのだと。
宴席が進むにつれ、新入社員の光輝達は席を立って他の男性社員達などへの挨拶に回り始めた。その為女性職員の取り巻きも、一時解散をした。
しばらくした後、再び自分の席に戻ってきた彼は、愛可理の隣に腰掛けゆっくりと食事を取り始めた。挨拶している間はお酒ばかり周りから飲まされ、なかなか食べられなかったからだろう。
彼は周辺にある、大皿に残った唐揚げやお刺身などの残り物に箸を伸ばし、次々と平らげていく。
「それだけ食べると、見ていて気持ちいいね。光輝、じゃなくて寺内さんってそんなによく食べたっけ」
そう話しかけると、口の中を大きく膨らました彼は、少し顔を赤らめて頭を掻いた。
「すみません、少しお腹が減っていたので」
そのあどけない仕草に、ああ昔と余り変わらない、愛嬌のある光輝がここにまだいるんだ、と嬉しくなった。
微笑ましい思いで、引き続き食べ続ける彼をしばらく眺めていた。その後一通り食べ終わり箸を置いたところを狙い、愛可理はこっそりと耳打ちした。
「光輝ってりんが不倫していること、知っていたんでしょ」
一瞬ぴくりと反応したが、周りに悟られないよう気遣ったのだろう。愛可理の目を見ず、正面を見たまま呟いた。
「知ってましたよ。大学へ入る前に、一幸から聞いてましたから」
「え?」
動揺して声を出しそうになったが、なんとか口の中で驚きを抑えた。そこで彼の表情を確認したい気持ちを我慢しながら、同じように視線を逸らしたまま尋ねた。
「そんな前から知ってた、っていうの?」
彼は淡々と答えた。
「はい。一幸があい姉には口止めされていながら、でも知っておくべきだと、高三の夏頃だったかに言ってました」
「そうだったの」
あの時はつい口が滑り、光輝が受験体制に入っている時期だった為、邪魔にならないよう強く言い聞かせていたはずだった。それなのに、一幸が話していた事実を知り困惑した。
だが現実には、問題なく彼は受験に成功している。しかも一幸がいない今、何を言っても遅い。そう考えていると彼は言った。
「でもその事を聞いて、良かったんです。おかげで僕は受験に身が入りました」
意外な告白に、思わず横にいる彼の顔を見ながら尋ねた。
「え? どうして? 心配じゃなかったの?」
それでも彼は、じっと前を向いたまま平然と答えた。
「心配はしていましたよ。でも当時、親友のあい姉でさえ止められなかったと聞きました。だから高校生の頃の僕が何を言っても、りん姉には届かなかったでしょう」
余りにも聞き分けのいい彼の態度に、首を傾げた。そんな簡単に割り切れる感情では無いはずだ。そう思った時、彼は続けて言った。
「あの時僕はまだまだ未熟な自分を、より磨かなければいけないと気付きました。だから受験勉強をしっかりやって、希望の大学に入らなければならないと思いました。そうして一人の自立した、頼れる男性になろうと、今まで努力してきたんです。それでようやくここまで辿り着きました。長かった。でもまだ間に合う。もうこれからは、好き勝手になんかさせません。僕が彼女の目を覚まします。あの時の僕にはできなかったけれど、今ならできる。だからこの会社に入社したんです」
まっすぐ前を向いたまま、隣の愛可理にだけ聞こえるよう小さな声で囁いた彼の言葉は力強かった。まさしくりんを長谷川次長から引き離すという宣言であり、愛可理に向けた決意表明だった。
「当然、協力してくれますよね?」
この時彼はやっとこちらを振り向き、確認を取るように愛可理と視線を合わせた。その迫力には、首を縦に振るしかなかった。いや彼なら今の彼女を救ってくれるかもしれない、と期待できた。
「判ったわ」
こんなに頼もしくなった彼を横目に、いつの間にか一幸の姿を重ね合わせていた。もし生きていれば彼もまた、このような立派な社会人になっていたかもしれない。そしてこうやって堂々とした態度で、
「あい姉、俺は、」
そこまで想像して目頭が熱くなった。もうこれ以上、彼のことを考えられなくなった。思い出せば思い出すほど辛く切ない。
あれほど愛可理達を慕ってくれた一幸。年下の鼻たれ小僧だった彼がどんどんと成長するにつれて、昔から言い続けていた言葉が現実味を帯びてくる、あの不思議な感覚。
だけどほんのりと心を温かくしてくれる、飾り気のないまっすぐな気持ち。一度、光輝から教わったという折り紙で作った人形をプレゼントされたことがあった。
りんにも似た物を渡したと言っていたが、後に彼女が貰ったのと比べれば、明らかに愛可理の方が立派で綺麗だった事を覚えている。あれが彼なりの、愛情表現だったに違いない。
愛可理は今になって、そのことがどれだけ大切なことで、得難いものだったかを気づかされた。しかしもうその彼は、この世にいない。あの熱い思いに、誰も応えてあげられないのだ。
「岸本さん、どうしたんですか?」
気がつくと頬には、大粒の涙が何筋も流れ落ちていた。正面に座っていた女性社員の一人がそれを見て驚き、声をかけてきたのだ。横では光輝も心配そうに、顔を覗き込んでいる。
しかしその目は、愛可理が何を思って泣いていたのかを知っているかのように温かく、見守っているような優しい目だった。
「ご、ごめん、大丈夫。ちょっと昔のことを思い出して、つい。駄目ねえ、歳を取っちゃうと、涙腺がバカになっているんだから」
涙を拭いて茶化すと、なんとかその場で笑いを取り和ませて事なきを得た。それでもまた、目からこぼれそうになった。隣の彼が嬉しい言葉をかけてくれたからだ。
「あい姉、大丈夫だよ。僕が一幸の分まで二人の事を守るから」
そんな彼だったが、時折遠く離れた席に座っているりんを、悲しげな目で時折見つめていた。
本心ではもっと彼女の近くに座って話をしたかっただろうが、隣の課の人達に囲まれていた為遠慮したのだろう。先程も席を立った時、彼女とは軽く挨拶程度に言葉を交わしただけだった。
「お互い、歳も取るはずだよね」
同じようにまだ勤め続けているりんにそう嘆いた。自分達が新人と言われていた頃が懐かしい。それがもう中堅を通り過ぎ、ベテランのお局様となってしまった。
かつてのバブル時代に大量採用され多くいた先輩達も少しずつ退社していき、今では数えるほどしか残っていない。といっても下から入ってくる若手事務員も入社四、五年目までには、半分以上が寿退社や自己都合の退社で辞めていった。
さらにここ最近増えたのが、うつ病などにかかって会社を休みがちになり、その後出社してこなくなってしまう社員だ。それは女性社員だけでなく、男性社員にも多くみられるようになっていた。
そういう愛可理自身も、一幸の事件が起こってからしばらくは警察の取り調べや何やらとても慌ただしかった。おかげで酷い精神不安定に陥った時期がある。
あの事件で一幸自身は、被害者だと明らかになった。しかし事件の発端は、愛可理達が六人の男達に襲われた所を彼と光輝が助けようとしたことだ。
しかもその前に、未成年と知りながらお酒を飲ませていたことから、りんと二人で警察からかなり厳重注意を受けた。それ以上に愛可理達を責めたのが一幸の母だった。
病院へと駆けつけた彼女は、警察から事情を聞いて怒鳴った。
「あなた達のせいで、一幸は死んだのよ! どう責任取ってくれるの!」
結果愛可理やりんと光輝までもが、彼の葬儀に参列することは許されなかった。だが愛可理達以上に傷ついたのは、すぐ隣にいたにも拘らず、彼の死に気づいてやれなかった光輝だったかもしれない。
あれ以来、愛可理達は彼と一度だけ会ったきりだ。事件の事が影響したらしく、大学へも行かず引き籠ってしまったと聞いたので、様子を見に行った。励ましては見たものの、精神状態が良くなかったことを覚えている。
その後は会うどころか、連絡を取ることもしなくなった。お互いが接することで一幸を思い出してしまうことを、どちらともなく恐れていたからかもしれない。
ただ彼と縁遠くなっていたのは、愛可理自身のプライベートがめまぐるしかった事も大きな要因だった。雅史と別れた後、自分を失っていたのだろう。許されない恋に溺れていたのだ。
一幸が亡くなった時も、その関係は続いていた。馬鹿な事をしていたから、罰が当たったのかもしれないと考えたことさえある。
そうした気持ちが、態度に出ていたのかもしれない。その後彼の素振りも冷たくなったせいか、繋がりに綻びが生じ始めた。結果として、相手とは二年程度で別れたのだ。
これではいけないと正気に戻り、新たな恋人探しも始めた。その時出会った男性と、早々に結婚までした。だがそれも三十を過ぎるまでにはと、焦っていたからだろう。互いの相性やそれまでの素性にも、目を瞑っていたのが問題だった。
新婚生活が始まって、一年も経たない内に彼の言動がおかしいと気付き始めた。そうなると、夫婦としての結びつきにも支障が生じる。挙句の果てには破綻し、二年余りで離婚することになったのだ。
幸いといっていいのか仕事は止めずに続けていたし、子供は作らなかった。共働きだったこともあり、別れる時も慰謝料や財産分与等も全くなしで、揉めずに済んだ。今は以前と変わらず、旧姓で働く毎日を過ごしている。
しかしそんな四年間が経過したこの春に、光輝が突然、愛可理達の前に現れた。しかも驚いたことに、会社の新人総合職として姿を見せたのだ。
彼が一昨年から就職活動をする学年になったことは、なんとなく気付いていた。だがどこの会社に内定を貰ったのかなど、詳しい事は全く知らなかった。
後で聞いたところによると、彼は愛可理達を驚かせたかったらしい。その為入社するまで黙っているようにと、母親や周囲に口止めしていたようだ。
久しぶりに会う彼は学生時代の幼い面影がすっかり消え、社会人らしくきりっとしてより逞しくなっていた。しかも愛可理は、同じ課に配属される新人として紹介されたのである。
しかも事務等に関する仕事について、指導をするようにと課長から申し渡された。
「寺内光輝です。宜しくお願い致します、岸本愛可理先輩」
彼は人懐っこい笑顔で片目をつぶりながら、そう挨拶した。その様子から、一幸の事件についてのわだかまりは全く感じられなかった。それどころか、時折四人で遊んだかつての頃の空気を醸し出していた程だ。
愛可理は彼に会えば、一幸のことを思い出して辛くなるだろう。だから彼も私達に会えばそう思うはずだ、と変に気を使っていた自分が恥ずかしくなった。
それにここは会社だ。仕事にプライベートな感情を持ち込む必要などない。入社十二年目の事務職の先輩として、入社一年目の新人をしっかり指導しなくては、と愛可理は気持ちを入れ替えた。
だが問題なのは、隣の課にいるりんのことだ。彼女の不倫はまだ続いている。二人の関係は、つい一幸にだけ口が滑り喋ってしまった。
その後誰にも言わないようにと口止めしたが、あれは五年も前だし翌年に一幸は亡くなっている。よって光輝の耳に入っているか、今でも覚えているかどうかは不明だ。
長谷川課長はその後同じビルの一つ上の階の部署に異動し、次長に昇進した為近くには居ない。よって最近だと、愛可理以外に気づかれることなど社内ではまずないと言って良かった。
だがこれから、そうはいかないだろう。光輝だってもう大人だ。りんが同じ会社の同じフロアの隣の課にいれば、何となく感じる雰囲気や仕草からばれるかもしれない。
または他の同僚達の噂などから、感づく公算も高かった。もう五年近く続いている二人の関係は、一部の社員達に知れ渡っているのではないか、との話も聞いたことがある。愛可理自身もかつて、
「長谷川課長と今川さんって怪しくない? あなた、彼女と仲がいいんだから、何か知っているんじゃないの?」
と、先輩社員から問い詰められたことがあった。だがその時はきっぱり、それを否定した。
「そんなこと、ある訳ないじゃないですか。もしそうなら私も気づきますよ。あの二人はそんなんじゃありません」
または、知らない振りをして恍けたりもした。
「不倫しているなんて噂、あるんですか? へぇ~、私は何も知りませんでした」
だがそんなことなど、いつまでも通用はしない。そろそろ社内的にも問題になるのではないかと彼女に注意したところで、課長が次長に昇進し部署が変わったのだ。
同じビル内だが離れたおかげで、噂は一旦収まっていた。しかし問題は燻っている。この四月には無かったが、十月の人事異動で次長が再び異動するのではないかとの話も出ていたからだ。
愛可理達の会社では、事務職は一度配属されると、比較的長く同じ部署にいることが多い。もちろん退職していく女性達や入社する新人達のバランスを見て、異動する人達も多少はいる。
だが愛可理やりんのように、十年以上同じ部署に居続ける事は珍しくなかった。
一方で男性の総合職の場合は、平均すると五年から十年の間で部署を移動するケースが多い。そう考えれば長谷川の単身赴任は九年目を迎え、かなり長い方だと言える。
四年目で昇進と共に、部署が変わった事もその要因だと思われた。だがそろそろ次の部署に移ってもいい頃だ。よって家族が待つ大阪に戻るかもしれない、と予想されている。
そうなれば二人の関係はどうするのか。不倫を解消するのか、それとも次長を家族から奪って二人は結婚するのか、と愛可理はりんを問い詰めたことがあった。
そんな時、彼女はいつものらりくらりとかわすのだ。
「四月と十月の年二回の異動発表の時期になると毎回、同じような話が出るよね。だけど今までこうやって続いてきたんだから。二人がどうなるかは、彼の異動が正式に出た時、判るんじゃないかな。それまではこのままだと思うけど」
「それって問題を先送りにしているだけだよ。何の解決にもなってないじゃない」
そう責めると、彼女は不敵に笑うだけだった。
「先送りって、今の日本の政治家みたいな真似をしているってことよね。じゃあ大丈夫なんじゃない? 日本だって危ない危ないって言いながら、なんとなくやってきているでしょ」
「そんな投げやりな言い方、しないでよ。あんただってもう今年で三十二歳よ。いつまでも結婚できない相手と付き合って、本当にいいの? それとも結婚はするつもりなの?」
しかし口では彼女に勝てなかった。
「そんな事、判んないわ。それに愛可理は、結婚したけど離婚しちゃったじゃない。次はいつ結婚するのと聞かれたら、困るでしょ? 今はそういう相手が居ないみたいだし。私には一緒に過ごす相手がいるけど、ただあなたと同じで、結婚するかどうかも先なんて見えない。なるようにしかならないわよ。それにもう三十二じゃなく、まだ三十二よ。もう、なんて言ってたら直ぐにオバサン化しちゃうから」
いつもこんな感じで、話をはぐらかされてしまう。だが彼女も本心からそう言っている訳では無いはずだ。どこかで蹴りをつけなくてはいけないと、考えているに違いなかった。
そんな時、あの光輝がこんな近くに現れたのは、偶然で無いのかもしれない。あの彼の前で、愛可理に対して言った通り、不倫をしている事をなんでもないかのような素振りで、語れるだろうか。
彼の過去を愛可理達が知っているように、彼女についても同様のはずだ。そんな彼に、彼女は開き直って胸を張れるのだろうか。
「りん姉、いや、今川さん、よろしくお願い致します」
光輝は彼女がいる課にも、挨拶に回っていた。隣の課では、新人の男性総合職の他に女性事務員が一人ずつ配属されている。りんと愛可理達の所属する部ではもう一つの課があり、そこにも女性事務員が一人採用されていた。
一つの部で三つの課があるこの部署では、総勢男性二名、女性二名の新人が加わった。だが愛可理達が入社した頃は部の中の課も四つあり、毎年十名以上の男女の新人が入社してきていた。
その当時を考えると、まだまだ世間は不況から脱していない現状が判る。
「では今週末の金曜日、部全体で集まって新人歓迎会をやります」
朝礼でそう言い渡された時、愛可理は嫌な予感がした。そうか、歓迎会の場があったのか。
職員の異動などの歓送迎会は、いつもそれぞれの課ごとにやるものだ。しかし新入社員が入った時だけは、部全体でやることが最近多くなった。
その為隣の課だが普通に仕事をしていれば、それほど接点の無い課の職員と、この時ばかりは会話を交わす機会がある。そんな場所で、もし光輝がりんと長谷川次長の噂を耳にしたらどうしよう。
愛可理はそんなことを心配し始めた。それならば、当日は彼の隣の席を確保し、他の職員からの余計な情報を遮断するしかない。そう秘かに作戦を立てていた。
新人歓迎会の当日、愛可理は光輝のお世話係の特権を発動し、計画通り隣の席に座ることができた。だが新人の周りには、沢山の職員が物珍しさも手伝って集まってくる。
特に若手の女性社員は、可愛い若い男の子が来たと喜び、群がってきた。
「寺内さんって、カッコ良いからモテるでしょう。彼女はいるの?」
「どんな子が好み?」
「趣味は? 背も高くて体つきもがっしりしてるけど、何かスポーツはやってるの?」
「あの国立大学を卒業したんだって? すごい! 頭いいんだ!」
「岸本さん、寺内さんの隣の席、私達に譲って下さいよ!」
三十路を越えたおばさんの出番は無いとばかりに、愛可理は押しのけられ、彼と喋りたい女性陣が周りを取り囲んだ。質問攻めに合っているその内容から、そうか光輝は昔でいう三高の候補生何だな、と今更ながらに気づく。
収入はまだ新入社員だから、それほどでも無い。しかしやがてこの会社の男性達の年収は、四十代に近づく頃に一千万近くまで届く。
かなり以前から彼を見て来たけれど、確かに皆が褒めるように顔立ちは整っていて、背も高く体つきも男らしくなっていた。それで学歴も高いとなれば、やはり女性は放っておかないのだろう、と他人事のように観察した。
しょうがなく愛可理はその輪の外でお酒を飲みながら、余計な話はしないかと耳をそばだてることにしたのだ。
先程の彼の大学の話題が出た時、自分の胸が痛んだことに自分自身が驚いていた。四年以上経った今でも、まだ一幸の件が心の傷として残っていることに、あらためて気づかされる瞬間だった。
あの時、光輝達がお酒を飲んでいた事は警察にばれている。それでもお咎めなく無事大学に入れたのは、あくまで彼らが被害者であり、お酒をすすめたのは愛可理達だと認められたからだ。
ぼんやり一人お酒を飲みながら当時を思い出していると、ある一人の子がこそっと小さな声で、心配していた話題を口にし始めた。
「寺内さんって、隣の課の今川さんとお知り合いなんですって?」
「はい。岸本さんと一緒に、学生の時からお世話になっています」
光輝が女性の質問に答えていると、その子は彼の耳に近づき、意地悪そうな顔で尋ねた。
「じゃあさ。前に隣の課にいた上司との噂なんて知ってる?」
愛可理は思わずその場で立ち上がり、注意しようとした。だがそれより先に近くにいた他の事務員が、その話題をたしなめた。
「駄目よ、こんな所で寺内さんにそんな話をしちゃ」
しかし当の本人は、意外にも平然とした表情をしていた。その事に愛可理は驚いた。さらに彼は自分からその話の内容を興味深く聞きだしたのだ。
「噂って何ですか? 同じ課の上司と何かあったんですか? まさか不倫しているなんて言わないですよね」
ストレートな質問に、周りは逆に答え辛く黙っていると、彼は爽やかに笑って話を締めくくった。
「そんな訳ないですよね。これだけ皆さんが噂しているぐらいですから、本人達の耳にもそうした話は聞こえているでしょう。それでもまだ不倫しているなんて、あり得ないですよね」
すると女性達は、ああそうかもしれないと納得したように頷いた。いつの間にかあの話が、ただの噂だったのだろうといった流れのまま、話題は別の話に移った。
彼の一言で疑心暗鬼を生じさせていた不倫話は、彼女達にとって一気に関心の無いものへと変わったのだ。その様子を見て確信した。彼はりん達が、本当に不倫している事に気付いているのだと。
宴席が進むにつれ、新入社員の光輝達は席を立って他の男性社員達などへの挨拶に回り始めた。その為女性職員の取り巻きも、一時解散をした。
しばらくした後、再び自分の席に戻ってきた彼は、愛可理の隣に腰掛けゆっくりと食事を取り始めた。挨拶している間はお酒ばかり周りから飲まされ、なかなか食べられなかったからだろう。
彼は周辺にある、大皿に残った唐揚げやお刺身などの残り物に箸を伸ばし、次々と平らげていく。
「それだけ食べると、見ていて気持ちいいね。光輝、じゃなくて寺内さんってそんなによく食べたっけ」
そう話しかけると、口の中を大きく膨らました彼は、少し顔を赤らめて頭を掻いた。
「すみません、少しお腹が減っていたので」
そのあどけない仕草に、ああ昔と余り変わらない、愛嬌のある光輝がここにまだいるんだ、と嬉しくなった。
微笑ましい思いで、引き続き食べ続ける彼をしばらく眺めていた。その後一通り食べ終わり箸を置いたところを狙い、愛可理はこっそりと耳打ちした。
「光輝ってりんが不倫していること、知っていたんでしょ」
一瞬ぴくりと反応したが、周りに悟られないよう気遣ったのだろう。愛可理の目を見ず、正面を見たまま呟いた。
「知ってましたよ。大学へ入る前に、一幸から聞いてましたから」
「え?」
動揺して声を出しそうになったが、なんとか口の中で驚きを抑えた。そこで彼の表情を確認したい気持ちを我慢しながら、同じように視線を逸らしたまま尋ねた。
「そんな前から知ってた、っていうの?」
彼は淡々と答えた。
「はい。一幸があい姉には口止めされていながら、でも知っておくべきだと、高三の夏頃だったかに言ってました」
「そうだったの」
あの時はつい口が滑り、光輝が受験体制に入っている時期だった為、邪魔にならないよう強く言い聞かせていたはずだった。それなのに、一幸が話していた事実を知り困惑した。
だが現実には、問題なく彼は受験に成功している。しかも一幸がいない今、何を言っても遅い。そう考えていると彼は言った。
「でもその事を聞いて、良かったんです。おかげで僕は受験に身が入りました」
意外な告白に、思わず横にいる彼の顔を見ながら尋ねた。
「え? どうして? 心配じゃなかったの?」
それでも彼は、じっと前を向いたまま平然と答えた。
「心配はしていましたよ。でも当時、親友のあい姉でさえ止められなかったと聞きました。だから高校生の頃の僕が何を言っても、りん姉には届かなかったでしょう」
余りにも聞き分けのいい彼の態度に、首を傾げた。そんな簡単に割り切れる感情では無いはずだ。そう思った時、彼は続けて言った。
「あの時僕はまだまだ未熟な自分を、より磨かなければいけないと気付きました。だから受験勉強をしっかりやって、希望の大学に入らなければならないと思いました。そうして一人の自立した、頼れる男性になろうと、今まで努力してきたんです。それでようやくここまで辿り着きました。長かった。でもまだ間に合う。もうこれからは、好き勝手になんかさせません。僕が彼女の目を覚まします。あの時の僕にはできなかったけれど、今ならできる。だからこの会社に入社したんです」
まっすぐ前を向いたまま、隣の愛可理にだけ聞こえるよう小さな声で囁いた彼の言葉は力強かった。まさしくりんを長谷川次長から引き離すという宣言であり、愛可理に向けた決意表明だった。
「当然、協力してくれますよね?」
この時彼はやっとこちらを振り向き、確認を取るように愛可理と視線を合わせた。その迫力には、首を縦に振るしかなかった。いや彼なら今の彼女を救ってくれるかもしれない、と期待できた。
「判ったわ」
こんなに頼もしくなった彼を横目に、いつの間にか一幸の姿を重ね合わせていた。もし生きていれば彼もまた、このような立派な社会人になっていたかもしれない。そしてこうやって堂々とした態度で、
「あい姉、俺は、」
そこまで想像して目頭が熱くなった。もうこれ以上、彼のことを考えられなくなった。思い出せば思い出すほど辛く切ない。
あれほど愛可理達を慕ってくれた一幸。年下の鼻たれ小僧だった彼がどんどんと成長するにつれて、昔から言い続けていた言葉が現実味を帯びてくる、あの不思議な感覚。
だけどほんのりと心を温かくしてくれる、飾り気のないまっすぐな気持ち。一度、光輝から教わったという折り紙で作った人形をプレゼントされたことがあった。
りんにも似た物を渡したと言っていたが、後に彼女が貰ったのと比べれば、明らかに愛可理の方が立派で綺麗だった事を覚えている。あれが彼なりの、愛情表現だったに違いない。
愛可理は今になって、そのことがどれだけ大切なことで、得難いものだったかを気づかされた。しかしもうその彼は、この世にいない。あの熱い思いに、誰も応えてあげられないのだ。
「岸本さん、どうしたんですか?」
気がつくと頬には、大粒の涙が何筋も流れ落ちていた。正面に座っていた女性社員の一人がそれを見て驚き、声をかけてきたのだ。横では光輝も心配そうに、顔を覗き込んでいる。
しかしその目は、愛可理が何を思って泣いていたのかを知っているかのように温かく、見守っているような優しい目だった。
「ご、ごめん、大丈夫。ちょっと昔のことを思い出して、つい。駄目ねえ、歳を取っちゃうと、涙腺がバカになっているんだから」
涙を拭いて茶化すと、なんとかその場で笑いを取り和ませて事なきを得た。それでもまた、目からこぼれそうになった。隣の彼が嬉しい言葉をかけてくれたからだ。
「あい姉、大丈夫だよ。僕が一幸の分まで二人の事を守るから」
そんな彼だったが、時折遠く離れた席に座っているりんを、悲しげな目で時折見つめていた。
本心ではもっと彼女の近くに座って話をしたかっただろうが、隣の課の人達に囲まれていた為遠慮したのだろう。先程も席を立った時、彼女とは軽く挨拶程度に言葉を交わしただけだった。
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