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第六章~②
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「そう。それで私には何を聞きたいの?」
「板野さんは当時の件を、どの程度覚えていらっしゃいますか?」
「私はこのビルにいたから直接は知らないけど、一宮の支社長が急に病死したことでこっちも騒ぎになったのは確かね。しかもその後警察の事情聴取なんかも始まって、まるで刑事ドラマのようだったからすごく印象に残っている」
「十年前ですから、板野さんが入社四年目の時ですよね」
「そう。廻間さんは十年目だから、入社する前の年か。だったら知らないよね」
「そういうことがあった、という話をうっすら聞いた覚えがある程度です。当時のことを知っている事務職で今も会社にいる人って、板野さんの他に柴山さんと加賀さん、後は古瀬さんと結婚された悠里さんくらいしか私は面識がありません。入社十一年目以上の人で知っている方はいますか?」
「何人かはいるけど、それほど親しくはないかな。それにいたとしても、あの件の事を詳しく知っている人は少ないと思うけど。私は当時業務部にいて、混乱していた事務職から問い合わせを受けて多少関わったから覚えているけど、加賀さん位だとほとんど覚えていないと思うな。まだ入社三年目で確か企業営業一課にいたでしょ。ビルも違うし、一般店と企業店では接点もほとんどないから。彼女の同期で一宮支社にいた柴山さんが、一番事情を把握しているはずよ。あの子には聞いた?」
「はい。今日のお昼に聞いてみましたが、余り詳しくは教えて貰えませんでした」
彼女には話していいだろうと判断し、昼間の会話を教えた。
「あの子、そんな事を言っていたの。確かに久我埼さんの上司が、その前にも後にも事故に遭っていることは確かだけど偶然でしょ。それに美島支社長は病死だと、警察も結論付けたはずよ」
「そのようですね。でもウィルスによって急性心不全が起きたのが死因だったと聞きました。だからどこで感染したか、社内にもウィルスが残っていないか、検査が入ったようですね」
「そうなの。支社長は亡くなる前、家族でフィリピンに旅行へ行っていたから、そこで感染したのだろうと言われていた事は覚えている。帰国後このビルには立ち寄っていなかったおかげで、病院の検査関係の人達が来なかったから助かったわよ。一宮支社はただでさえ支社長がいなくなって大変だった上に、検査や警察の事情聴取で振り回されたようね。立ち寄った代理店さんや飲食店など、かなりの範囲が調べられて大騒ぎになり仕事ができないと、事務職が電話で泣きついてきていたから」
「そんな電話があったんですか?」
「そうよ。仕事は滞ってしまうから何とかして欲しい、応援要員をよこしてくれって何度も言われたわ。でも検査の件が落ち着くまでは、下手に人を派遣して感染したら大変だからと本部では判断したようよ。代わりの支社長は、本社の人事部がすぐに人選をして呼び寄せたの。でもしばらくは、このビルの支店長席で待機していたはず。代理店の所への挨拶だとか、混乱させてご迷惑をかけていることへのお詫びも、ここから出かけて行っていたと聞いた覚えがある」
「じゃあ、相当な混乱ぶりだったんでしょうね」
「支社は二日ほどほぼ立ち入り禁止状態になっていたようだから、業務もだいたいストップしていたはずよ。どうしても至急計上しなければいけない書類は、検査が通って問題ないと判断されたものを、このビルに持ち込んで処理していたから。それでも念のため会議室の一つを特別に用意して、そこへ運び込んでいたようよ。万が一書類にウィルスが付着していたとしても感染が広がらないよう、出入りする人間も限定していたっていうから」
「板野さんは、手伝われなかったんですか?」
「業務部でもベテランの先輩方が選ばれていたからね。それもひと悶着あったのよ。だって下手をすれば死ぬ危険もある訳でしょ。そこで仕事をしろと言われて、拒否した人達が大勢いたようだから」
「それはそうでしょう。私も頼まれていたら嫌だと言うかもしれません。でも実際に手伝った人がいたんですよね。すごい勇気ですよ」
「勇気というよりは、業務命令に逆らえなかった人達が、嫌々していた感じだったと思う。だから本来は事務職がやる仕事だけど、総合職もかなり手伝いに入っていたらしいから。男の人の方が、上からの命令には逆らい難かったからでしょうね」
「そうだったんですか。でも結局ウィルスは検出されなかったようですね。だからおそらく海外の現地で感染し、帰国後に発症して病死したと判断された。しかしどこからも検出されなかったっていうのも奇妙ですよね」
「珍しいケースだったみたいね。でも稀に体内だけで発症する場合も有るって聞いたけど」
「そのようですね。でも感染元がどこか、フィリピンでも特定されなかったみたいですけど、そんなことがあるんですか」
「それは私に聞かれても知らないわよ。でも感染が広がらなくて、本当に良かった。あれで代理店さんの所で見つかったりしたら、大変な問題になっていたでしょうね」
「そうですね。下手をすれば取引を止めると言い出されても、おかしくないでしょうから。それで当時一宮支社にいた事務職やスタッフさんは、今どうされているか知りませんか」
「柴山さんは結婚して退職したでしょ。確か四年目に入ってすぐだったから、支社長が亡くなった翌年じゃなかったかな。後はスタッフさんなんかも気味が悪いからって、次々と辞めていったはずよ。事務職も全員が異動願いを出していたって聞いたし。だから三年位かけて順に入れ替えをしていったの。そうそう、古瀬さんと結婚した悠里も、柴山さんが辞めた次の年に二課へ異動したんだっけ。あの時いた人は全員辞めちゃっているかな。戻ってきて働いているのは柴山さんだけのはずよ」
「当時いた総合職はどうですか? 久我埼さんのように、この中部圏内へ戻って来ている人はいませんか?」
「どうだろう。そこまでは知らない」
「そうですか。じゃあ辞められた事務職の方の中で、連絡を取っている人なんていませんよね」
「いない。悠里とは同期だけどそれ程仲が良かったわけじゃないし、今はあなたの方が話す機会も多いんじゃない? 後は柴山さんしかいないでしょう。でも彼女が昼間に話した内容だと、これ以上の情報を得るのは難しいでしょうね。それに彼女だって、余り思い出したくないことだろうから」
「そうかもしれません。悠里さんもそう言っていたようです。板野さんはどう思いますか? 久我埼さん犯人説が流れていますけど、美島支社長が誰かに殺された可能性はあると思いますか? 当時の支社長はかなり厳しい方で、評判も良くなかったようですけど」
「その話は私も聞いたことがある。だから総合職の中でも一番きつく当たられていた久我埼さんが、前の部署でのこともあって疑われていたようね。だけど総合職だけではなく、事務職やスタッフさんからも嫌われていたみたいよ。確か今でいうパワハラだけじゃなく、セクハラまがいのことをされた人がいるって噂も出ていたから」
初めて耳にしたキーワードに驚いた英美は、少し声を大きくして尋ねた。
「そうだったんですか? セクハラ、ですか」
祥子はもう少し声を落として、とジェスチャーをしながら答えてくれた。
「らしいよ。詳しくは知らないけどね。パワハラに関しては当時言葉自体あったけど、十年前は今ほど職場で使われていなかったからね。でもセクハラは社会的問題になっていたから、会社でも少し騒ぎにはなったみたい。でも本人が亡くなってしまったから噂もそのまま消えたし、会社もそれ以上調べようとはしなかったようよ」
「誰が被害を受けていたか、知りませんか?」
「そこまでは聞いてない。もしかして柴山さんだったら知っているかもしれないけど、今日の話だと聞きだすのは難しそうね」
「そうだと思います。他に知っていそうな人はいませんか?」
「加賀さんだったら、何か聞いているかもしれない。柴山さんはあの性格だから、多分昔から噂好きだったと思う。だとすれば同期の彼女に、何か話しているかもしれないから」
「そうですね。その辺りの事は加賀さんに聞いてみます」
「でもセクハラがあったからと言って、その被害者が支社長を殺したとは思えないけどね。それに一会社員が死に至る可能性があるウィルスなんて、そう簡単に入手できるとは思えないから。当時もそういう話が出て、結局病死だと警察も判断したんでしょう。その辺りの事情は、三箇さんならよく知っているはずなのに」
「はい。でも彼はその結論に納得しなかったから警察を辞めて、この会社へ転職したぐらいです。それは何か疑わしい点があったからだと私達は思っています」
「支社長が親戚で、恩人だったからじゃないの? 私情が入っているだけってことはない?」
「それは私達も考えました。確かに全くないかと言えば、嘘になると思います。亡くなったのが美島支社長だったから、それほどの決断をしたことは間違いないでしょう。でもそれだけではないと感じたから、協力することに決めたんです」
「そう。でも余り深入りしない方が良いと思うけど。だって三箇さんも含めて、あなた達はこの会社の社員なんだから。そんな警察の真似事をして、同じ会社の社員を殺人犯かもしれないと疑うのはどうかと思うけど。廻間さんらしくないよ」
「いえ、私達は決して誰かを犯人に仕立て上げたい訳ではありません。ただ三箇さんの話だと警察の事情聴取では当時それほど深く、社内の人間関係まで掘り下げて聞けていないようです。だからこの会社に転職してまで探ろうとしたそうですが、なかなか難しく諦めかけていた時、六年前に再び久我埼さんの上司が事故に遭いました。さらに時が経った今、すぐ目の前に彼が現れたため、どうしてもはっきりさせたいと思ったのでしょう。かつてできなかった不完全燃焼のままの気持ちに、蹴りを付けられればいいだけです。だから今までは聞けなかった話を集め、それでも結果を覆せないと分かれば、彼も諦めがつくでしょう。それにいつまでもこういう噂がこのフロアに充満して、嫌な空気を作っている状況を私はなんとかしたいとも思っています。良い大人が大した根拠もなく死に神と呼んでいるなんて、悪質な苛めじゃないですか」
話している内に気持ちが高まり怒りを露にした英美を、祥子は諫めるように言った。
「気持ちは判る。でも結局あなた達がしている事は犯人探しだと、周りの人達は考えるかもしれない。余り気分がいい話ではないと思うでしょうね。それに例え仕事をしている時間帯以外で話を聞いていたとしても、仕事を蔑ろにしていると取られてもおかしくないわ。だから同じ会社にいる先輩としては、止めておきなさいと忠告しておきます」
「そ、そんな」
「私はあなたが、そういう人じゃないと知っているから良いわよ。でもそう思わない人達は多いでしょうね。柴山さんが余り協力的でなかったのも、そういった感情があったからじゃないかな。みんな忙しいでしょ。だからピリピリしている人も少なくないし、自分のことで精一杯なのよ。そんな時に十年前の事を根ほり葉ほり聞いていたら、嫌味の一つでも言いたい人は出てくるでしょう。それに廻間さんと三箇さんとの仲を、疑う人も出てくるかもしれない」
「そういうつもりじゃありません。浦里さんだって手伝ってくれています」
「そこよ。ただでさえあなた達が仲良くしていることで、付き合っているんじゃないかと噂している人だっているのよ。そこに三箇さんが加われば、三角関係だとか面白おかしく話す人達も必ず出てくるでしょう。みんなそうしたゴシップネタが大好物だからね」
英美は胸の奥底を覗き見られた気がして、思わず大きな声を出し否定した。
「そんなことはありません!」
「あなたがいくら否定しても、人の口に戸は立てられないの。だから余り目立ったことをすると、叩かれるわよ。あなたはその手の話が嫌いでしょ。だから噂話をしている人達の輪の中にはいないじゃない。意識的に避けていることを、私は知っているわよ。でもそれは別に悪い事じゃないし、そうしている方が聞かなくて済む話もたくさんあるから」
「はい。私と浦里さんがそんな風に言われているなんて、初めて知りました」
「そうでしょ。それでいいのよ。でもそんなあなたが、今回のような行動を取っていることに私は驚いているの。聞かれたら知っている事は話す。でも積極的に手伝おうとは思わない。理由はさっき言った通りよ」
「分かりました。お手伝いして頂く必要はありません。ただご存知の事は教えてください。当時美島支社長を恨んでいた方は、久我埼さんの他にも、いた可能性があることは確かですね。それはセクハラされていた女性かもしれない。またはパワハラされていた総合職や、代理店の可能性だってあります。誰かは不明とのことでしたが、心当たりは全くありませんか? または加賀さんの他に知っていそうな人はいませんか?」
忠告を聞こうとしない英美に呆れたのか、祥子は大きくため息を吐いた。そして少し時間を置いてから答えた。
「今は思い当たらない。でも何か思い出したら、声をかけるようにする。ただし、私のできることはそれまでよ」
「有難うございます」
頭を下げた所で、応接室のドアをノックする音がした。祥子がはい、と答えると総合職が一人顔を出した。
「板野さん、もう八時半を過ぎているよ。仕事の話じゃないらしいけど、余り遅くまで残っていると上が煩いから、そろそろ終わらせた方が良いって課長が言っているから」
「もう終わりましたので帰ります。じゃあ今日はこれでいいわね」
彼女が席を立ちそう言ったので、英美も頷きながら立ち上がった。
「そう。じゃあ気を付けて」
総合職の見送りを受けながら部屋を出ると、業務課の課長がこちらを見ていたので二人して頭を下げた。そしてそのまま廊下に出てエレベーターに乗り、下へと降りた。
一階に着き、時間外用の出口を通って外に出る。祥子は英美と別の地下鉄の路線だ。その為途中で二人は別れた。帰りの電車の中で、先程までのやり取りを昼間と同様にサイトへと書き込みながら英美は考えていた。
新たな情報を得たことは確かだが、この件を調べることで周囲から浦里や三箇との関係を疑われると言われたことに、衝撃を受けていたからだ。
そこまで考えが全く至っていなかった為、正直動揺している。それが完全な誤解であれば、笑い話で終わらせられるだろう。しかしそうではないから厄介だ。
英美も自分の気持ちが二人にあり、その間で揺れていることに気付いたのも最近の事だ。そんなところに周囲からこそこそと陰口を叩かれ、または直接からかわれたら、どうなるかを考えた。恐らく平常心を保ち、ポーカーフェィスを貫くことは難しいかもしれない。
面倒な事に、首を突っ込んでしまったのだろうか。一瞬そう考えたが、すぐに心の中でそれを否定した。周囲が何と言おうが、三箇の気持ちやフロアの職場環境を考えると、調査に協力することは止めたくない。
ただ自分に覚悟が足りなかったことを自覚した。これからは様々な事を言われると見越し、行動しなければならない。そう腹を括ったことで、次にやるべきことがはっきりした。
やはり加賀から、話を聞かなければならない。七恵の事も含め当時の一宮支社で起こっていたと思われる、セクハラやパワハラの件を耳にしていないか確認する必要があった。
他に十年前の事を知る人物がいるかも聞こう。祥子からは名前が挙がらなかったけれど、もし紹介して貰えるなら話を聞いてみたい。そして翌日の朝、加賀にお昼の時間話ができないか、誘ってみようと考えた。
了承が得られれば、他の事務職とお昼の時間を交代して貰わなければならない。ぐずぐずしていると、明日には英美達のことが広まっている可能性がある。いや、英美が気付かなかっただけで、今日でもいろんなところで噂話が飛び交っていたかもしれない。
七恵と話をしたのはお昼だが、彼女の発信力は強烈だ。下手をすると、既に久我埼の元へ情報が届いていることもあり得た。そう考えれば行動は早い方が良い。時間が経つと、徐々に話が聞けなくなることもあるだろう。邪魔をする人も出てくるかもしれない。
そうした考えが杞憂ではなかったことを、英美は翌日、加賀に話しかけた途端に気付かされた。お昼に少し話を伺いたいことが、といった所で彼女は笑ったのだ。
「来たわね。三箇さんの為に、十年前の事を聞きまわっているらしいじゃない。昔の事だから余り覚えていないけど、良いわよ。私が知っている範囲内であれば話すから。でも意外だったわ。あなたは浦里さんと仲が良いと思っていたから」
やはり七恵の口から昨日の内に、事務職達の噂話のネタとして広まっていたようだ。また祥子が予想していた通り、色恋話と結びつけられているらしい。
昨日の内に心の準備をしていなかったら、どうなっていたか判らなかった。しかし祥子のおかげで助かった。よって英美は平然と答えることが出来た。
「そういうことではありません。詳しい事はその時にご説明しますので、お時間よろしいですか。他の事務職との休憩時間の変更は私の方でしますから、お願いします」
「良いわよ。私は今日早番だから、あなたもそうして貰える?」
「判りました。ありがとうございます」
英美は直ぐに他の早番の事務職に頭を下げ、交代して貰うこととなった。その子は一課だと、英美の次にあたる三番目の年次だ。上二人が抜ける時間帯に、若手ばかりでは心もとない。その為彼女にお願いすると、快く引き受けてくれた。
お昼は七恵と食事した同じ店を予約した。昨日と同じく英美の奢りだ。ランチの値段や雰囲気等から、加賀はすぐに了解してくれた。
こうした点も同じ扱いをしておかなければ、後で何を言われるか分からない。仲が良いとは聞いていないが、彼女達は同期だから差を付ければ後々面倒な事になる。
二日連続で同じ場所で同じ説明をした後、彼女に尋ねた。
「当時の状況はどうでしたか。覚えている範囲で教えてください」
「私は企営課に配属されてまだ三年目だったから、出先の支社の事までは良く知らない。だけど大変な騒ぎだったことは、何となく覚えているかな」
「柴山さんは当時、一宮支社にいましたよね。加賀さんと同期でしたから、その時何か、聞いたことはありました?」
「あったわよ。支社長が亡くなったのは、確か八月の終わりだったんじゃないかな。お盆に取った夏季休暇から、少し経って病死したはずよね。その後は上半期の締めの時期だったし、警察なんかも来てバタバタしていたのよ。ようやく落ち着いたのが年末近くだったから、慰労会と忘年会を兼ねて同期会をしたの。そこで彼女がすごく大変だったって、大きな声で話していたのは覚えている。警察に事情を聞かれた話とか、あの時は彼女が主役だったからね」
「どんな話をしていたか、覚えていますか?」
「とにかく大変だったってことは伝わったわよ。彼女はそれをやたらアピールしていたから」
「警察にはどういう事を聞かれたか、言っていました?」
「えっとね。そうそう、最近海外にいたかを質問されたって。あれでしょ。支社長が夏季休暇の時に行った海外で妙なウィルスに感染したらしいけど、他に同じような場所へ行ったかどうかを確認していたみたい」
「らしいですね。でも柴山さんはパスポートを持っていたけど、海外へは行ったことが無かったらしいですね」
「あら、良く知っているわね。ああ、三箇さんからの情報か。あの人、あの時刑事として色んな人の事情聴取をしていたんだってね。七恵が言っていた」
「他に柴山さんは同期会で、どんな話をしていたんですか?」
「後は支社長がどういう人だったかとか聞かれたようね。久我埼さんがあの支社にいたから、一時は殺されたかもしれないと疑われていたからでしょう。でも彼女はまだ三年目だったから余計な事は喋らなかった、って言っていたと思う」
「余計な事は言わなかった、ですか。ということは裏を返すと色々言いたいことはあったけど、言えなかったということですよね。亡くなった人で、しかも三箇さんの恩人だから悪口は言いたくないですけど、美島支社長は評判が良くない人だったらしいですね」
「そうらしいね。彼女もそんなことを言っていた気がする。セクハラみたいなこともしていたって。彼女も被害に合った一人らしいよ」
「そうなんですか? セクハラの噂はあって、本部も誰が被害者だったか調べる予定だったらしいですよ。でもその前に亡くなったので、そのまま立ち消えになったみたいですね」
「そうなの? それは知らなかった。そうなんだ」
「だったらセクハラの被害者は、柴山さんだったんですか?」
「そういう訳じゃなかったと思うけど。だれか特定の人が狙われていたというより、複数の女性がセクハラを受けていて、その内の一人だっただけじゃなかったかな」
「そうなんですか?」
「うん。余り深刻そうな話はしていなかったし、それまでも聞いていなかったから。それに彼女はあの頃、婚約者がいて寿退社する予定だったし。嫌だと思えばすぐに辞められる状況だったから、我慢できたって言っていた気がする」
「でも辞められたのは、もう少し後ですよね」
「そう、支社長が亡くなった翌年。会社にいたのが丸三年と三カ月かな。当時ボーナスは六月と十二月の二回支給されていたから、六月分を貰って辞めたのよね。そういうところがしっかりしているというか、なんというか」
「支社長が亡くなって、一年弱は会社にいたことになりますね。それはどうしてなんでしょう。パスポートまで取っていたのなら、その年には辞めていてもおかしく無かったんじゃないですか」
「その予定だったけど、婚約者が病気に罹ってある時期入院していたらしいよ。会社も休んでいたから延期したんじゃなかったかな。結婚式の二次会で、そんな話を誰かしていた気がする」
「病気ですか? どんな病気か知っています?」
「それは良く知らない。でもその時のことが原因で、ご主人が精子形成障害になっていたって後で判ったらしいの。可哀そうな話よね。だって結婚してしばらく経っても子供が生まれなかったから、不妊治療していたのよ。それなのに原因がご主人にあったんだから」
「そうなんですか?」
「そうよ。だから子作りを諦めて、彼女はうちの会社に再就職したって聞いたわ」
「そうだったんですか。それは辛い話ですね」
「辛いなんてものじゃないわよ。不妊治療で相当お金も使っただろうし、精神的にもきつかったはずだから。それに耐えて子供を作りたいと頑張っていたのに、酷い話よ」
七恵が早くから不妊治療をしていたことは聞いていたが、やめた理由がご主人にあったとは知らなかった。しかしそう言われて気付いた。
彼女はいつも特定の事務職やスタッフとお喋りに花を咲かせていたが、皆独身者か、既婚者でも子供がいない人達ばかりだったはずだ。
女性達の中だと、子供がいるかどうかで話題は大きく変わるだろう。ただプライベートならともかく同じ仕事場のフロアで集まれば、多少立場の異なる人達が混じっても仕方ない。その方が自然だ。
それなのにあれだけお喋りで噂好きな彼女が、限られた条件に当てはまるメンバーとばかり話しているのは、不自然な気がしていた。
もちろん相性が合う人達とだけ話していれば、ある程度の偏りは起こる。その鍵となるのが、彼女にとっては子供がいない人だったのかもしれない。
不妊治療している既婚者は、このビルの中にも大勢いると聞いていた。彼女が良く話す人達の中にもいたはずだ。しかし七恵が不妊治療を止めた理由について聞いたことが無かった。おそらくその事は一部の人間しか知らないのかもしれない。
「板野さんは当時の件を、どの程度覚えていらっしゃいますか?」
「私はこのビルにいたから直接は知らないけど、一宮の支社長が急に病死したことでこっちも騒ぎになったのは確かね。しかもその後警察の事情聴取なんかも始まって、まるで刑事ドラマのようだったからすごく印象に残っている」
「十年前ですから、板野さんが入社四年目の時ですよね」
「そう。廻間さんは十年目だから、入社する前の年か。だったら知らないよね」
「そういうことがあった、という話をうっすら聞いた覚えがある程度です。当時のことを知っている事務職で今も会社にいる人って、板野さんの他に柴山さんと加賀さん、後は古瀬さんと結婚された悠里さんくらいしか私は面識がありません。入社十一年目以上の人で知っている方はいますか?」
「何人かはいるけど、それほど親しくはないかな。それにいたとしても、あの件の事を詳しく知っている人は少ないと思うけど。私は当時業務部にいて、混乱していた事務職から問い合わせを受けて多少関わったから覚えているけど、加賀さん位だとほとんど覚えていないと思うな。まだ入社三年目で確か企業営業一課にいたでしょ。ビルも違うし、一般店と企業店では接点もほとんどないから。彼女の同期で一宮支社にいた柴山さんが、一番事情を把握しているはずよ。あの子には聞いた?」
「はい。今日のお昼に聞いてみましたが、余り詳しくは教えて貰えませんでした」
彼女には話していいだろうと判断し、昼間の会話を教えた。
「あの子、そんな事を言っていたの。確かに久我埼さんの上司が、その前にも後にも事故に遭っていることは確かだけど偶然でしょ。それに美島支社長は病死だと、警察も結論付けたはずよ」
「そのようですね。でもウィルスによって急性心不全が起きたのが死因だったと聞きました。だからどこで感染したか、社内にもウィルスが残っていないか、検査が入ったようですね」
「そうなの。支社長は亡くなる前、家族でフィリピンに旅行へ行っていたから、そこで感染したのだろうと言われていた事は覚えている。帰国後このビルには立ち寄っていなかったおかげで、病院の検査関係の人達が来なかったから助かったわよ。一宮支社はただでさえ支社長がいなくなって大変だった上に、検査や警察の事情聴取で振り回されたようね。立ち寄った代理店さんや飲食店など、かなりの範囲が調べられて大騒ぎになり仕事ができないと、事務職が電話で泣きついてきていたから」
「そんな電話があったんですか?」
「そうよ。仕事は滞ってしまうから何とかして欲しい、応援要員をよこしてくれって何度も言われたわ。でも検査の件が落ち着くまでは、下手に人を派遣して感染したら大変だからと本部では判断したようよ。代わりの支社長は、本社の人事部がすぐに人選をして呼び寄せたの。でもしばらくは、このビルの支店長席で待機していたはず。代理店の所への挨拶だとか、混乱させてご迷惑をかけていることへのお詫びも、ここから出かけて行っていたと聞いた覚えがある」
「じゃあ、相当な混乱ぶりだったんでしょうね」
「支社は二日ほどほぼ立ち入り禁止状態になっていたようだから、業務もだいたいストップしていたはずよ。どうしても至急計上しなければいけない書類は、検査が通って問題ないと判断されたものを、このビルに持ち込んで処理していたから。それでも念のため会議室の一つを特別に用意して、そこへ運び込んでいたようよ。万が一書類にウィルスが付着していたとしても感染が広がらないよう、出入りする人間も限定していたっていうから」
「板野さんは、手伝われなかったんですか?」
「業務部でもベテランの先輩方が選ばれていたからね。それもひと悶着あったのよ。だって下手をすれば死ぬ危険もある訳でしょ。そこで仕事をしろと言われて、拒否した人達が大勢いたようだから」
「それはそうでしょう。私も頼まれていたら嫌だと言うかもしれません。でも実際に手伝った人がいたんですよね。すごい勇気ですよ」
「勇気というよりは、業務命令に逆らえなかった人達が、嫌々していた感じだったと思う。だから本来は事務職がやる仕事だけど、総合職もかなり手伝いに入っていたらしいから。男の人の方が、上からの命令には逆らい難かったからでしょうね」
「そうだったんですか。でも結局ウィルスは検出されなかったようですね。だからおそらく海外の現地で感染し、帰国後に発症して病死したと判断された。しかしどこからも検出されなかったっていうのも奇妙ですよね」
「珍しいケースだったみたいね。でも稀に体内だけで発症する場合も有るって聞いたけど」
「そのようですね。でも感染元がどこか、フィリピンでも特定されなかったみたいですけど、そんなことがあるんですか」
「それは私に聞かれても知らないわよ。でも感染が広がらなくて、本当に良かった。あれで代理店さんの所で見つかったりしたら、大変な問題になっていたでしょうね」
「そうですね。下手をすれば取引を止めると言い出されても、おかしくないでしょうから。それで当時一宮支社にいた事務職やスタッフさんは、今どうされているか知りませんか」
「柴山さんは結婚して退職したでしょ。確か四年目に入ってすぐだったから、支社長が亡くなった翌年じゃなかったかな。後はスタッフさんなんかも気味が悪いからって、次々と辞めていったはずよ。事務職も全員が異動願いを出していたって聞いたし。だから三年位かけて順に入れ替えをしていったの。そうそう、古瀬さんと結婚した悠里も、柴山さんが辞めた次の年に二課へ異動したんだっけ。あの時いた人は全員辞めちゃっているかな。戻ってきて働いているのは柴山さんだけのはずよ」
「当時いた総合職はどうですか? 久我埼さんのように、この中部圏内へ戻って来ている人はいませんか?」
「どうだろう。そこまでは知らない」
「そうですか。じゃあ辞められた事務職の方の中で、連絡を取っている人なんていませんよね」
「いない。悠里とは同期だけどそれ程仲が良かったわけじゃないし、今はあなたの方が話す機会も多いんじゃない? 後は柴山さんしかいないでしょう。でも彼女が昼間に話した内容だと、これ以上の情報を得るのは難しいでしょうね。それに彼女だって、余り思い出したくないことだろうから」
「そうかもしれません。悠里さんもそう言っていたようです。板野さんはどう思いますか? 久我埼さん犯人説が流れていますけど、美島支社長が誰かに殺された可能性はあると思いますか? 当時の支社長はかなり厳しい方で、評判も良くなかったようですけど」
「その話は私も聞いたことがある。だから総合職の中でも一番きつく当たられていた久我埼さんが、前の部署でのこともあって疑われていたようね。だけど総合職だけではなく、事務職やスタッフさんからも嫌われていたみたいよ。確か今でいうパワハラだけじゃなく、セクハラまがいのことをされた人がいるって噂も出ていたから」
初めて耳にしたキーワードに驚いた英美は、少し声を大きくして尋ねた。
「そうだったんですか? セクハラ、ですか」
祥子はもう少し声を落として、とジェスチャーをしながら答えてくれた。
「らしいよ。詳しくは知らないけどね。パワハラに関しては当時言葉自体あったけど、十年前は今ほど職場で使われていなかったからね。でもセクハラは社会的問題になっていたから、会社でも少し騒ぎにはなったみたい。でも本人が亡くなってしまったから噂もそのまま消えたし、会社もそれ以上調べようとはしなかったようよ」
「誰が被害を受けていたか、知りませんか?」
「そこまでは聞いてない。もしかして柴山さんだったら知っているかもしれないけど、今日の話だと聞きだすのは難しそうね」
「そうだと思います。他に知っていそうな人はいませんか?」
「加賀さんだったら、何か聞いているかもしれない。柴山さんはあの性格だから、多分昔から噂好きだったと思う。だとすれば同期の彼女に、何か話しているかもしれないから」
「そうですね。その辺りの事は加賀さんに聞いてみます」
「でもセクハラがあったからと言って、その被害者が支社長を殺したとは思えないけどね。それに一会社員が死に至る可能性があるウィルスなんて、そう簡単に入手できるとは思えないから。当時もそういう話が出て、結局病死だと警察も判断したんでしょう。その辺りの事情は、三箇さんならよく知っているはずなのに」
「はい。でも彼はその結論に納得しなかったから警察を辞めて、この会社へ転職したぐらいです。それは何か疑わしい点があったからだと私達は思っています」
「支社長が親戚で、恩人だったからじゃないの? 私情が入っているだけってことはない?」
「それは私達も考えました。確かに全くないかと言えば、嘘になると思います。亡くなったのが美島支社長だったから、それほどの決断をしたことは間違いないでしょう。でもそれだけではないと感じたから、協力することに決めたんです」
「そう。でも余り深入りしない方が良いと思うけど。だって三箇さんも含めて、あなた達はこの会社の社員なんだから。そんな警察の真似事をして、同じ会社の社員を殺人犯かもしれないと疑うのはどうかと思うけど。廻間さんらしくないよ」
「いえ、私達は決して誰かを犯人に仕立て上げたい訳ではありません。ただ三箇さんの話だと警察の事情聴取では当時それほど深く、社内の人間関係まで掘り下げて聞けていないようです。だからこの会社に転職してまで探ろうとしたそうですが、なかなか難しく諦めかけていた時、六年前に再び久我埼さんの上司が事故に遭いました。さらに時が経った今、すぐ目の前に彼が現れたため、どうしてもはっきりさせたいと思ったのでしょう。かつてできなかった不完全燃焼のままの気持ちに、蹴りを付けられればいいだけです。だから今までは聞けなかった話を集め、それでも結果を覆せないと分かれば、彼も諦めがつくでしょう。それにいつまでもこういう噂がこのフロアに充満して、嫌な空気を作っている状況を私はなんとかしたいとも思っています。良い大人が大した根拠もなく死に神と呼んでいるなんて、悪質な苛めじゃないですか」
話している内に気持ちが高まり怒りを露にした英美を、祥子は諫めるように言った。
「気持ちは判る。でも結局あなた達がしている事は犯人探しだと、周りの人達は考えるかもしれない。余り気分がいい話ではないと思うでしょうね。それに例え仕事をしている時間帯以外で話を聞いていたとしても、仕事を蔑ろにしていると取られてもおかしくないわ。だから同じ会社にいる先輩としては、止めておきなさいと忠告しておきます」
「そ、そんな」
「私はあなたが、そういう人じゃないと知っているから良いわよ。でもそう思わない人達は多いでしょうね。柴山さんが余り協力的でなかったのも、そういった感情があったからじゃないかな。みんな忙しいでしょ。だからピリピリしている人も少なくないし、自分のことで精一杯なのよ。そんな時に十年前の事を根ほり葉ほり聞いていたら、嫌味の一つでも言いたい人は出てくるでしょう。それに廻間さんと三箇さんとの仲を、疑う人も出てくるかもしれない」
「そういうつもりじゃありません。浦里さんだって手伝ってくれています」
「そこよ。ただでさえあなた達が仲良くしていることで、付き合っているんじゃないかと噂している人だっているのよ。そこに三箇さんが加われば、三角関係だとか面白おかしく話す人達も必ず出てくるでしょう。みんなそうしたゴシップネタが大好物だからね」
英美は胸の奥底を覗き見られた気がして、思わず大きな声を出し否定した。
「そんなことはありません!」
「あなたがいくら否定しても、人の口に戸は立てられないの。だから余り目立ったことをすると、叩かれるわよ。あなたはその手の話が嫌いでしょ。だから噂話をしている人達の輪の中にはいないじゃない。意識的に避けていることを、私は知っているわよ。でもそれは別に悪い事じゃないし、そうしている方が聞かなくて済む話もたくさんあるから」
「はい。私と浦里さんがそんな風に言われているなんて、初めて知りました」
「そうでしょ。それでいいのよ。でもそんなあなたが、今回のような行動を取っていることに私は驚いているの。聞かれたら知っている事は話す。でも積極的に手伝おうとは思わない。理由はさっき言った通りよ」
「分かりました。お手伝いして頂く必要はありません。ただご存知の事は教えてください。当時美島支社長を恨んでいた方は、久我埼さんの他にも、いた可能性があることは確かですね。それはセクハラされていた女性かもしれない。またはパワハラされていた総合職や、代理店の可能性だってあります。誰かは不明とのことでしたが、心当たりは全くありませんか? または加賀さんの他に知っていそうな人はいませんか?」
忠告を聞こうとしない英美に呆れたのか、祥子は大きくため息を吐いた。そして少し時間を置いてから答えた。
「今は思い当たらない。でも何か思い出したら、声をかけるようにする。ただし、私のできることはそれまでよ」
「有難うございます」
頭を下げた所で、応接室のドアをノックする音がした。祥子がはい、と答えると総合職が一人顔を出した。
「板野さん、もう八時半を過ぎているよ。仕事の話じゃないらしいけど、余り遅くまで残っていると上が煩いから、そろそろ終わらせた方が良いって課長が言っているから」
「もう終わりましたので帰ります。じゃあ今日はこれでいいわね」
彼女が席を立ちそう言ったので、英美も頷きながら立ち上がった。
「そう。じゃあ気を付けて」
総合職の見送りを受けながら部屋を出ると、業務課の課長がこちらを見ていたので二人して頭を下げた。そしてそのまま廊下に出てエレベーターに乗り、下へと降りた。
一階に着き、時間外用の出口を通って外に出る。祥子は英美と別の地下鉄の路線だ。その為途中で二人は別れた。帰りの電車の中で、先程までのやり取りを昼間と同様にサイトへと書き込みながら英美は考えていた。
新たな情報を得たことは確かだが、この件を調べることで周囲から浦里や三箇との関係を疑われると言われたことに、衝撃を受けていたからだ。
そこまで考えが全く至っていなかった為、正直動揺している。それが完全な誤解であれば、笑い話で終わらせられるだろう。しかしそうではないから厄介だ。
英美も自分の気持ちが二人にあり、その間で揺れていることに気付いたのも最近の事だ。そんなところに周囲からこそこそと陰口を叩かれ、または直接からかわれたら、どうなるかを考えた。恐らく平常心を保ち、ポーカーフェィスを貫くことは難しいかもしれない。
面倒な事に、首を突っ込んでしまったのだろうか。一瞬そう考えたが、すぐに心の中でそれを否定した。周囲が何と言おうが、三箇の気持ちやフロアの職場環境を考えると、調査に協力することは止めたくない。
ただ自分に覚悟が足りなかったことを自覚した。これからは様々な事を言われると見越し、行動しなければならない。そう腹を括ったことで、次にやるべきことがはっきりした。
やはり加賀から、話を聞かなければならない。七恵の事も含め当時の一宮支社で起こっていたと思われる、セクハラやパワハラの件を耳にしていないか確認する必要があった。
他に十年前の事を知る人物がいるかも聞こう。祥子からは名前が挙がらなかったけれど、もし紹介して貰えるなら話を聞いてみたい。そして翌日の朝、加賀にお昼の時間話ができないか、誘ってみようと考えた。
了承が得られれば、他の事務職とお昼の時間を交代して貰わなければならない。ぐずぐずしていると、明日には英美達のことが広まっている可能性がある。いや、英美が気付かなかっただけで、今日でもいろんなところで噂話が飛び交っていたかもしれない。
七恵と話をしたのはお昼だが、彼女の発信力は強烈だ。下手をすると、既に久我埼の元へ情報が届いていることもあり得た。そう考えれば行動は早い方が良い。時間が経つと、徐々に話が聞けなくなることもあるだろう。邪魔をする人も出てくるかもしれない。
そうした考えが杞憂ではなかったことを、英美は翌日、加賀に話しかけた途端に気付かされた。お昼に少し話を伺いたいことが、といった所で彼女は笑ったのだ。
「来たわね。三箇さんの為に、十年前の事を聞きまわっているらしいじゃない。昔の事だから余り覚えていないけど、良いわよ。私が知っている範囲内であれば話すから。でも意外だったわ。あなたは浦里さんと仲が良いと思っていたから」
やはり七恵の口から昨日の内に、事務職達の噂話のネタとして広まっていたようだ。また祥子が予想していた通り、色恋話と結びつけられているらしい。
昨日の内に心の準備をしていなかったら、どうなっていたか判らなかった。しかし祥子のおかげで助かった。よって英美は平然と答えることが出来た。
「そういうことではありません。詳しい事はその時にご説明しますので、お時間よろしいですか。他の事務職との休憩時間の変更は私の方でしますから、お願いします」
「良いわよ。私は今日早番だから、あなたもそうして貰える?」
「判りました。ありがとうございます」
英美は直ぐに他の早番の事務職に頭を下げ、交代して貰うこととなった。その子は一課だと、英美の次にあたる三番目の年次だ。上二人が抜ける時間帯に、若手ばかりでは心もとない。その為彼女にお願いすると、快く引き受けてくれた。
お昼は七恵と食事した同じ店を予約した。昨日と同じく英美の奢りだ。ランチの値段や雰囲気等から、加賀はすぐに了解してくれた。
こうした点も同じ扱いをしておかなければ、後で何を言われるか分からない。仲が良いとは聞いていないが、彼女達は同期だから差を付ければ後々面倒な事になる。
二日連続で同じ場所で同じ説明をした後、彼女に尋ねた。
「当時の状況はどうでしたか。覚えている範囲で教えてください」
「私は企営課に配属されてまだ三年目だったから、出先の支社の事までは良く知らない。だけど大変な騒ぎだったことは、何となく覚えているかな」
「柴山さんは当時、一宮支社にいましたよね。加賀さんと同期でしたから、その時何か、聞いたことはありました?」
「あったわよ。支社長が亡くなったのは、確か八月の終わりだったんじゃないかな。お盆に取った夏季休暇から、少し経って病死したはずよね。その後は上半期の締めの時期だったし、警察なんかも来てバタバタしていたのよ。ようやく落ち着いたのが年末近くだったから、慰労会と忘年会を兼ねて同期会をしたの。そこで彼女がすごく大変だったって、大きな声で話していたのは覚えている。警察に事情を聞かれた話とか、あの時は彼女が主役だったからね」
「どんな話をしていたか、覚えていますか?」
「とにかく大変だったってことは伝わったわよ。彼女はそれをやたらアピールしていたから」
「警察にはどういう事を聞かれたか、言っていました?」
「えっとね。そうそう、最近海外にいたかを質問されたって。あれでしょ。支社長が夏季休暇の時に行った海外で妙なウィルスに感染したらしいけど、他に同じような場所へ行ったかどうかを確認していたみたい」
「らしいですね。でも柴山さんはパスポートを持っていたけど、海外へは行ったことが無かったらしいですね」
「あら、良く知っているわね。ああ、三箇さんからの情報か。あの人、あの時刑事として色んな人の事情聴取をしていたんだってね。七恵が言っていた」
「他に柴山さんは同期会で、どんな話をしていたんですか?」
「後は支社長がどういう人だったかとか聞かれたようね。久我埼さんがあの支社にいたから、一時は殺されたかもしれないと疑われていたからでしょう。でも彼女はまだ三年目だったから余計な事は喋らなかった、って言っていたと思う」
「余計な事は言わなかった、ですか。ということは裏を返すと色々言いたいことはあったけど、言えなかったということですよね。亡くなった人で、しかも三箇さんの恩人だから悪口は言いたくないですけど、美島支社長は評判が良くない人だったらしいですね」
「そうらしいね。彼女もそんなことを言っていた気がする。セクハラみたいなこともしていたって。彼女も被害に合った一人らしいよ」
「そうなんですか? セクハラの噂はあって、本部も誰が被害者だったか調べる予定だったらしいですよ。でもその前に亡くなったので、そのまま立ち消えになったみたいですね」
「そうなの? それは知らなかった。そうなんだ」
「だったらセクハラの被害者は、柴山さんだったんですか?」
「そういう訳じゃなかったと思うけど。だれか特定の人が狙われていたというより、複数の女性がセクハラを受けていて、その内の一人だっただけじゃなかったかな」
「そうなんですか?」
「うん。余り深刻そうな話はしていなかったし、それまでも聞いていなかったから。それに彼女はあの頃、婚約者がいて寿退社する予定だったし。嫌だと思えばすぐに辞められる状況だったから、我慢できたって言っていた気がする」
「でも辞められたのは、もう少し後ですよね」
「そう、支社長が亡くなった翌年。会社にいたのが丸三年と三カ月かな。当時ボーナスは六月と十二月の二回支給されていたから、六月分を貰って辞めたのよね。そういうところがしっかりしているというか、なんというか」
「支社長が亡くなって、一年弱は会社にいたことになりますね。それはどうしてなんでしょう。パスポートまで取っていたのなら、その年には辞めていてもおかしく無かったんじゃないですか」
「その予定だったけど、婚約者が病気に罹ってある時期入院していたらしいよ。会社も休んでいたから延期したんじゃなかったかな。結婚式の二次会で、そんな話を誰かしていた気がする」
「病気ですか? どんな病気か知っています?」
「それは良く知らない。でもその時のことが原因で、ご主人が精子形成障害になっていたって後で判ったらしいの。可哀そうな話よね。だって結婚してしばらく経っても子供が生まれなかったから、不妊治療していたのよ。それなのに原因がご主人にあったんだから」
「そうなんですか?」
「そうよ。だから子作りを諦めて、彼女はうちの会社に再就職したって聞いたわ」
「そうだったんですか。それは辛い話ですね」
「辛いなんてものじゃないわよ。不妊治療で相当お金も使っただろうし、精神的にもきつかったはずだから。それに耐えて子供を作りたいと頑張っていたのに、酷い話よ」
七恵が早くから不妊治療をしていたことは聞いていたが、やめた理由がご主人にあったとは知らなかった。しかしそう言われて気付いた。
彼女はいつも特定の事務職やスタッフとお喋りに花を咲かせていたが、皆独身者か、既婚者でも子供がいない人達ばかりだったはずだ。
女性達の中だと、子供がいるかどうかで話題は大きく変わるだろう。ただプライベートならともかく同じ仕事場のフロアで集まれば、多少立場の異なる人達が混じっても仕方ない。その方が自然だ。
それなのにあれだけお喋りで噂好きな彼女が、限られた条件に当てはまるメンバーとばかり話しているのは、不自然な気がしていた。
もちろん相性が合う人達とだけ話していれば、ある程度の偏りは起こる。その鍵となるのが、彼女にとっては子供がいない人だったのかもしれない。
不妊治療している既婚者は、このビルの中にも大勢いると聞いていた。彼女が良く話す人達の中にもいたはずだ。しかし七恵が不妊治療を止めた理由について聞いたことが無かった。おそらくその事は一部の人間しか知らないのかもしれない。
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