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第六章~③
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そこで疑問を持った。加賀は彼女と同期とはいえ子供がいる。それに課が隣り合っているのに、会社で二人が話しているのを余り見かけたことが無かった。その為正直なところ今回は、七恵に関しては詳しく聞けないだろうと予想していたからだ。
それでも美島支社長が亡くなった時から会社にいる、数少ない面識者の一人だったから声をかけた。しかし思わぬ情報が入って来たのだ。その為尋ねた。
「加賀さんは柴山さんと同期ですけど、会社では余り話していませんよね。それなのに、どうしてそんな事までご存じなんですか?」
「今はほとんど話さなくなったけど、彼女が結婚してしばらくの間は、他の同期の子達と連絡を取り合っていたからよ。不妊治療の話やご主人の話は、その時にちらっと聞いたことがあるの。でも私が結婚して子供ができた頃からは、余り会話をしなくなったわね」
「それはお子さんのことで、立場が違ってしまったからですか」
「そうかもしれない。でもその気持ちは理解できる。私だって彼女と何の話をすればいいか、判らないもの。子供の話題を避けようとしても、何かの拍子でつい触れちゃったりすることってあるでしょ。そうすると彼女も気分が良くないだろうし、こっちも気を使うじゃない。ただ子供がいない、または産まないと決めた人だったらそこまで気にしなくてもいいのかもしれないけど、彼女の場合はそうじゃないから」
「そうかもしれませんね。私は結婚すらしていないので、良く判りませんが」
「同じよ。あなただって既婚者で子供がいる私とは、仕事の話以外まずしないでしょ。ごめんね。批判している訳じゃないのよ。お互い立場が違うし、話が合わないから自然とそうなるのは仕方がないから。私だってプライベートの話をしだすと、どうしても子供の話が中心になっちゃう。だから共感してくれる人と話す方が楽なのよ。あなたも同じ独身の人と話す方が、会話が噛み合うでしょ」
彼女の言う通りだった。仕事の関係上、立場が違う先輩や後輩やスタッフ達と話すことはよくあった。しかし雑談となれば事情は異なる。既婚者の人達が話す子供の話題を聞く事が嫌な訳ではない。
ただ共感が出来ない為、どうしても参加できず聞くだけになる。そこで似たような話ばかりされれば、なんとなくその集団と離れがちになるのだ。
それ以前に、英美は仕事場でプライベートな話をぺちゃくちゃと喋ること自体が好きではない。噂話や他人の悪口となれば尚更だ。そういった性格が災いしてか、職場の中ではプライベートでも親しくしている女性はほとんどいない。せいぜい同期の子ぐらいだ。
休日などに会う友人と言えば、他では学生時代から付き合いがあり、自分と同じ独身の子達ばかりだった。だからなのか職場では浦里や三箇、古瀬といった男性達と話す方が気楽なのだろう。もちろんそこに異性として興味があったからだと、最近になって気付いた。
二人共ランチを食べ終え話題が逸れはじめた。お昼休みもそれほど残っていない。その為、英美は最後に尋ねた。
「加賀さんや板野さんの他に、十年前の件を知っている人っていますか? いれば私に紹介していただいて、話を伺いたいのですが」
「まだ会社にいる同期はいるけど、たぶんよく知らないと思う。その人達は、柴山さんとも付き合いが余りなかったから。彼女と仲が良かった子は、もう会社を辞めているしね」
「会社を辞められた方で柴山さんと仲が良かった人だったら、加賀さん以上に昔の事を知っていると思いますか?」
「そうね。その子ならもしかすると、彼女からもう少し詳しい話を聞いているかもしれない」
「他にはいませんか。例えば当時柴山さんと同じく一宮支社にいて、今は辞められた方でご存知の人はどうですか」
「悠里以外にはいないわね。今どうしているか連絡先も知らないし、顔も名前もよく覚えていないの。柴山さんに聞けば分かるかもしれないけど」
「それはちょっと、難しいかもしれないですね」
「昨日、二人は話をしたのよね。余り協力的では無かったの?」
「どちらかといえば、そうですね」
「余り思い出したくない事だからかもね。それにもう十年も前の事でしょ。聞かれたくないこともあるんじゃないかな。私達だってそうでしょ。昔の新人時代の話題となれば、どうしても仕事でミスしたことなんかが出てくるじゃない。そんな話なんて、余り今の人とか後輩には知られたくないからね」
「そうかもしれません。それでしたら加賀さんの同期で会社を辞められた、柴山さんと仲の良かった人を紹介して頂けませんか?」
「え? その子は今結婚して東京にいるわよ。こっちにはいないわ」
「東京ですか。もしかして同じ会社の人と結婚して、転勤か何かで向こうにいるんですか?」
「そう。二つ上の総合職と結婚したからね。今は子供が二人いて、専業主婦しているはずよ」
「それでしたら、加賀さんから連絡して頂いて私に話をしてもいいか、聞いて頂いてもいいですか? 先方から許可がでたなら、こちらから電話をかけて話を聞きます」
「あなた、そこまでするつもり? どうやら本気で十年前の事を調べているのね。それとも柴山さんのことを知りたいの?」
「いえ、柴山さんの事を調べている訳ではありません。あくまで十年前、一宮支社で何が起こっていたのかが知りたいだけです。もしその方が柴山さんを通して見聞きしたことや、別の人から当時の件を聞いていたら、それを伺いたいだけです。他意はありません」
「廻間さんは、久我埼さんのことを疑っているの? まさか柴山さんが犯人だと思っている訳じゃないでしょうね」
「そんなつもりはありません。美島支社長が病死だったら、それでいいと思っています。三箇さんがそう納得してくれる材料を集めたいだけなんです」
「そう。でも余り気持ちのいい話ではないわね。あなたはそうじゃないと言っても、三箇さんが犯人探しをしているのは間違いないでしょう。しかも警察まで辞めて、うちの会社に転職して来たっていうんだから」
「確かにそれは否定できません。だからこそ、私達は三箇さんの気持ちに区切りを付けてあげたいと思っているんです。それに久我埼さんのこともあります。このままでは総務課にいる限り、ずっと死に神というあだ名を付けられたまま、仕事をすることになるでしょう。現に柴山さんなんかは、彼を犯人扱いしています。こんな状態が続けば、フロアの雰囲気が悪くなるだけです。それにまた何か事件が起こるんじゃないかと言い出している子達もいますから、それを何とかしたい。その一心で動いている事だけは信じてください」
「あなたがそこまで言うなら、一応私から電話しておく。でも向こうが断るかもしれないから、それは覚悟しておいてね」
「それなら諦めます。無理やり聞き出そうとまでは考えていません」
「そう。向こうが話しても良いと言った場合はどうする? あなたの携帯の番号を教えて電話させればいい?」
「それでも構いませんが、都合の良い時間帯や番号を教えて頂ければ、こちらからかけます。それもお相手の良い方で構いません」
「了解。そう伝えておく。とにかく向こうの都合が確認出来たら、あなたに教えるから。今日か遅くとも明日には返事ができると思う」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
お昼休みの時間も終わりに近づいた為、ランチを食べ終えた二人は外に出た。帰りの道中は全く違う話題をしながら、ビルへと向かって八階に着いた。
まだ少し時間があったので昨日同様忘れない内にと、加賀から聞いた内容などをサイトに入力する。その後席に戻った英美は気持ちを切り替え、午後からの仕事にとりかかった。祥子による忠告が頭に残っていたためだ。
確かに十年前の事を調べていることが広まれば、良く思わない人がいるかもしれない。情報収集は昼休みや業務終了後に行っているとはいえ、仕事を疎かにしていれば足元を掬われかねない。ミスなどすれば、それこそ余計な事をしているからだと言われるだろう。
そうならない為にも、今は目の前の書類に集中しようと決めた。頭の中では、加賀の同期から話が聞けるだろうか気になってはいた。しかしあの件のことは後で考えようと、気持ちを切り替える。
そんな時、外出先から戻って来た浦里が席に付きながら、小声で話しかけて来た。
「サイトを見たよ。お疲れ様。ところで悠里さんと話をした?」
「まだしていない。彼女が昔の話をしたがらないって、古瀬さんが言っていたでしょ。それに私が話す機会は電話しかないから、古瀬さんに任せようかと思って」
「そうだな。それでいい。まあ俺も彼の事務所に行った時、彼女と話す機会が少しあるから聞けたら聞いてみるよ」
「それは助かる。デリケートな内容でしょ、直接会ってじゃないと話しづらいもんね」
「確かに」
短い会話を終え、再び目の前の仕事に取り組んでいると夕方の五時が過ぎた。といってまだ仕事は終わらない。普段は早く帰る加賀でさえまだ席にいた。黙々と目の前の書類を整理していると六時が過ぎた所で、帰り支度を終えた加賀に声をかけられた。
「これから例の件、電話してみるから結果は明日になるかもしれないし、今日中に確認出来たらあなたの携帯へ電話するけどいい?」
「宜しくお願いします。携帯の留守電を解除しておきますから大丈夫です」
「そう。じゃあお先にね」
周囲にもお先に失礼しますと声をかけている彼女の姿も見ながら、英美はスマホを取り出した。勤務時間内は留守電にしているが、今は残業している時間帯だ。かかってくれば席を外せばいい。長電話にならなければいいだろう。
そう考えて加賀からか、または彼女の同期からかかって来る場合に備えサイレントモードに切り替えた。
引き続き仕事に取り掛かり、なんとか今日中に行わなければならない仕事を終えた。そしてパソコンの電源を落とし、帰り支度をし始めた所でスマホが震えた。
慌てて廊下に出て電話に出ると、相手は加賀からだった。
「もしもし、廻間さん? 今日話していた件で連絡を取ってみたら、別に話しても良いって。でも電話代の事もあるし、向こうの家の固定電話にあなたの方から連絡して貰える? 番号は今から言うね。ちなみに名前は佐藤さん。今日だと今ぐらいの時間だったら良いって。それ以上遅くなると旦那さんが帰って来るから、それまでなら大丈夫って言っていたけど」
「ありがとうございます! そういうことならすぐにかけます!」
「そう。だったらその旨を今から向こうにメールで連絡しておくわ」
彼女は佐藤さんの家の番号を教えてくれた。それをメモリーに入れて電話を切った後、しばらく時間を置いた方が良いと思い、先に片付けを終わらせようと席に戻る。そこで浦里に声をかけられた。
「どうだった?」
おそらく加賀が帰り際に言ったことを聞いていたらしく、今の電話もその連絡だと思ったのだろう。
「昼間に聞いた加賀さんの同期の方が、話をしてもいいって了承が得られた。今からかけてみる」
「そう。よろしく。お疲れさま」
「お先に失礼します」
彼だけでなくまだ残っている課の人達に声をかけてから、英美は廊下に出た。そして人気がない廊下の端に行き、教えて貰った番号を押す。加賀があの後直ぐにメールを送っていたとすれば、既に読んでいるだろう。
しかし話が伝わっているとはいえ、全く面識のない年上の方と話をするのだ。その為内心ではドキドキしていた。それでもどう切り出し、何を聞けばいいかを頭の中で整理しながらコール音を聞く。
すると相手が出た。
「はい、佐藤です」
「夜分遅くに失礼致します。私、ツムギ損保の廻間と言いますが、加賀さんのご紹介でご連絡させていただきました。今、お時間よろしいでしょうか?」
「ああ、廻間さんね。聞いているわ。さっき加賀さんにメールも貰ったから待っていたの。少しくらいなら大丈夫よ」
「有難うございます。早速ですが、十年前の一宮支社で起こった件は覚えていらっしゃいますか?」
「さっき電話で聞いて、そんな事があったねって久しぶりに思い出した程度よ。加賀さんと私は当時名古屋ビルにいたから、噂程度にしか良く知らない。でも木幡さん、じゃなかった今は柴山さんだけど、彼女が一宮支社にいたから少し聞いたことがあったわね」
「どんな話を聞かれましたか?」
「警察が来て事情聴取をされた事とか、これから忙しくなるって時期に支社長が急死しただけじゃなく、支社も一時閉鎖されたりして仕事が滞って大変だったとか、その程度よ」
「当時、佐藤さんは同期の中では柴山さんと一番仲が良かったと聞きましたが、他に何か知りませんか?」
「加賀さんとも話したけど、あの件で私だけが聞いていたことなんて無かったと思う。彼女も大変で忙しかったアピールはしていたけど、詳細は余り話したがらなかったから」
「あの件で久我埼さんという総合職の方が一時疑われていたようですけど、柴山さんは何か言っていましたか?」
「彼女から、病死なのに警察が変に動き回っていて感じ悪かったと聞いた覚えはある。でも誰が疑われているなんて、言ってなかったと思う。ただ周りからは、過去にも上手くいっていなかった上司と一緒にいた時、事故して亡くなった噂が広まっていたわね。だから疫病神と呼ばれていた人がいた事は、うっすらと記憶にある。でもその人が殺したとか、そんな物騒な話にはなっていなかったはずよ」
「そうですか。でも最近柴山さんに話を聞いたら、あの件は久我埼さんが犯人だと断言していました。でも当時はそんなことを言っていなかった、ということですね」
「彼女、そんなことを言っているの? 昔はそんな人じゃなかったんだけどね。結婚してから色々大変だったし、性格もかなり変わっちゃったからかな。昔は仲が良かったけど、私に子供ができてからは、年賀状のやり取りもしなくなったのよね」
「それは、不妊治療していたことが関係しているのでしょうか」
「そうだと思う。加賀さんから聞いているとは思うけど、大変な目をしてお金も使った挙句に旦那さんが原因だったんだから、それはショックだったんじゃないかな」
「不妊治療が上手くいかないから、後になって旦那さんに原因があるか調べて判った、ってことですか」
「らしいよ。それでその原因が婚約中だった頃に、旦那さんがしばらく入院していた件が影響していたっていうから余計よね。そのせいで本当はもっと早く結婚するはずだったのが、延期されたんだから。彼女は早く会社を辞めたがっていたのに、それを我慢して予定より長く仕事を続けた結果がそれだもの。でも下手をすれば死んでいたかもしれない程の病気だったから、しょうがなかったのかもしれないけどね」
「死ぬかもしれなかった病気、ですか? どういう病名だったかは聞いていますか?」
「それが分からないのよ。かなり後になって仕事で海外出張した時に罹ったとは聞いたけど、詳しく教えてくれなかったから」
「海外へ出張、ですか。そういえば柴山さんのご主人は、大手自動車メーカーに勤務されていますよね。どこに出張されていたかはご存知ですか?」
「それも教えて貰えなかった。でも付き合っていた頃、東南アジアへ良く出張に行っていた話は聞いていたから、多分そっち方面だったんじゃないかな。向こうにある工場へ、問題が起こると行かなきゃいけない部署だったらしいよ。今は別の部署に変わっていると思うけど。病気が治ってから、異動になったって聞いた覚えがある」
「東南アジアですか。具体的にどこかはご存知ですか? 例えばフィリピンだとか」
「その辺りだったと思う。周辺にいくつか工場があるから、一度行くと転々としていたみたい」
「そうですか。その出張から帰って来て、病気が発症したってことなんですかね」
「そうらしいよ。相当な高熱が出たって聞いた。それが原因で、精子形成障害が起こった可能性が高かったんじゃないかって」
「そうですか。そういえば亡くなった美島支社長が、パワハラやセクハラをしていたという噂もあったそうですけど、柴山さんが被害を受けていたことはありませんか」
「その話、聞いたことがある。数字に厳しい人だったみたいね。今だったら、飛ばされていたかもしれない程度のパワハラはあったと思う。セクハラはどの程度か知らないけど、柴山さんも多少被害に合ったみたいよ。それもあって、早く会社を辞めたがっていたから」
「そうだったんですか。でもそんな嫌な思いをした会社に、彼女は再就職したんですよね。どうしてでしょうか。もし私だったら、同じ保険会社でも別の所にすると思いますけど」
「子供ができないって判ってから、仕事をするって決めたらしいけど、彼女は勤務経験が三年と三カ月だったでしょ。保険会社でも、他社は受からなかったんじゃなかったかな。保険会社以外だと、正社員でも給与は安いしね。一度損保の給与の高さを知っちゃうと、他は選べなかったんだと思う。うちの会社だったら、勤務経験は短くてもOGというだけで優遇されるから、しょうがなく選んだって話を聞いた気がする」
「でもお子さんがいなくて、共働きですよね。正社員や給与にこだわらなければ、他の選択肢もあったと思いますけど」
「そうなの。彼女が事務職として再採用されたって聞いた時、同期の間では離婚するつもりじゃないのかって噂が流れた位だからね。でも加賀さんの話では、何とか続いているそうじゃない。仕事をし始めて六年目になるとか。もし離婚するつもりで再就職したのなら、もう別れていてもおかしくないでしょ。だったら後は家を建てる資金を貯めているのかもしれないね。名古屋は持ち家比率が高いから」
彼女の言う通りだ。都会にしては地元意識が高いこともあって、若い内から家を購入する人は少なくない。しかも実家近くに家を建てるケースが多いと聞く。
それはコミュニティがしっかりしているからだろう。保守的な分、地域によって新しく住む人達には敷居が高く感じるそうだ。近所付き合いが煩わしい、と感じる人もいると聞く。
しかし実家の近くで親と知り合いの人がいれば、すんなりと受け入れられる場合も多いらしい。それだけ仲間意識が強いといえるだろう。また子供が生まれた時など、実家が近ければ何かと助けて貰うことができる。
さらには親が高齢になって介護しなければならなくなった時、遠くに住んでいるより安心だからかもしれない。その証拠に愛知県は、三世帯同居の割合が日本一高いと言われている。
七恵の家庭がそのような事を考えているかは不明だ。確か今は、ご主人の会社の借り上げ社宅に住んでいると聞いていた。それならば、家賃の自己負担はかなり少なくて済んでいるだろう。
将来子供ができることを考えれば、一戸建ての購入を検討していてもおかしくはない。だが彼女達は違う。今後結婚生活を続けていくつもりなら、ずっと二人で暮らしていくことになる。
そうなれば走り回る子供ができる予定もないのに、一戸建てが欲しいと思うだろうか。しかも将来家を残したとして、それを引き継ぐ相手はいないのだ。
経済的な事を考えれば、家賃補助のある間は社宅にいる方が得だろう。それでも自分の家を持ちたいと考える人はいる。老後を考えて、夫婦二人で末永く住める家が欲しいと思ってもおかしくはない。
話題が少し逸れたため、英美は尋ねた。そんなに長話をしていても相手に迷惑だ。
「話は戻りますが、柴山さんの旦那さんが入院していた病院って、どこだったとか聞いたことはありますか」
「それは覚えてないわ。でも大変な病気だったから、空港近くにある大きな病院じゃないかな」
「そうですか。あと佐藤さんが知っている方で、十年前の事を知っているだろう人はいますか? 柴山さん以外で一宮支社に勤めていた事務職や総合職もそうですが、スタッフさんでも構いません」
「いないと思う。それに私が今、昔の会社関係で連絡を取っている人は、ほとんどいないかな。加賀さんとだって年賀状のやり取りだけで、久しぶりに喋ったわよ」
「判りました。話が長くなってすみません。最後にお伺いしますが、何か他に当時の事で気になったことはありますか」
「気になったこと、ね。ちょっと思い浮かばないな。ごめんなさい」
「いいえ、こちらこそ面識もない方に、こんな時間にお電話して申し訳ありません。これで失礼します。そこで勝手な事かもしれませんが、もし何か思い出されたことがあったらご連絡頂けますか。加賀さん当てでも構いませんので」
「もうないと思うけど、あれば連絡するわ」
「有難うございます。それでは失礼します」
電話を切った英美は緊張していたのか、肩が凝っていることに気付く。首を回してホッと息を吐いた。時間をみると七時半を過ぎていた。仕事は終わったと言っても遅くまで会社に残っていると叱られかねない。急いでエレベーターに乗り一階に着いてビルを出た。
地下鉄の駅に向かい、次の電車が来るまで時間があったのでサイトを開く。先程まで話していた内容を入力している間に電車がやって来た。打ち込みがまだ終わっていなかった為、乗り込んでから続きを書き込む。
そこで改めて昨日から今日にかけて収集した情報を読み返した。さらに浦里や三箇、そして古瀬が書き込んだ内容も頭に入れる。その上で今後自分は誰に、そしてどのようにして情報を集めればいいのかを考えた。しかし何も浮かばない。正直手詰まりだった。これ以上話を聞く相手と言えば誰がいるだろうか。
ただ英美にはできないけれど、これまでの話を受けさらに掘り下げて調べることが見つかったと思っていた。そこでもう一度サイトに書き込む。今度は情報についてではなく、自分が思いついたことだ。これは三箇の手を借りるしかない。
英美が家に帰宅して、遅い夕食を取ってシャワーを浴びた。そして就寝しようと思った時、再びサイトを開いてみた。するとそこには新たな書き込みがされていた。まず三箇が
「了解! 良い所に目を付けたと思う。ここから先は、俺の昔の伝手を使って調べて見るよ。貴重な情報をありがとう!」
とコメントしていた。そこに浦里や古瀬の書き込みがあった。
「いいね! 後は三箇さんに任せよう。廻間さん、お疲れ様!」
「そうだね。ここまで調べてくれたら、後は三箇さんしか動けないでしょう。廻間さんの調査はひと段落しただろうから、しばらくお休みしていた方が良いよ。お疲れ様」
皆がそう言ってくれたのは、祥子から受けた忠告を考慮しての事だろう。久我埼の耳に入るよう、英美達が調べている事を意図的に広めたが、想像以上の反応が生じていた。
三箇が前職を辞めてこの会社に入った動機がショッキングだったことも影響したらしい。余りにも不謹慎だと非難する声がすでに出始めていたのだ。
今日までの書き込みよると、既に三箇は課長から呼び出しを受けたという。そこで噂の真相を尋ねられ、彼は正直に話したそうだ。そこで祥子が危惧した通り、同じ会社の社員を疑うような真似をするなと注意されたらしい。浦里も課長から話を聞かれたようだ。そこでもやはりこれ以上首を突っ込むなと叱られたという。
古瀬は代理店だからかまだ何も言われていないそうだが、彼もいずれ注意を受けるかもしれない。動き出したのは昨日からなのに、これらは今日一日で起きたことだ。
そうした事情もあり、英美も明日には呼び出しを受ける可能性が高い。その為しばらく大人しくしていた方が良いと、彼らなりの優しさからくる言葉だった。
幸い昨日から今日にかけての二日間で、英美ができることは一気にやった。次の手が思いつかないタイミングでもある。だから彼らの言う通り、少しの間は下手に動かない方が良さそうだ。
明日辺り、課長に呼ばれるだろう。その時どう答えようかと考えながら布団に潜り込む。なかなか頭の中の整理がつかないと思いつつも、英美はいつの間にか眠りについていた。
それでも美島支社長が亡くなった時から会社にいる、数少ない面識者の一人だったから声をかけた。しかし思わぬ情報が入って来たのだ。その為尋ねた。
「加賀さんは柴山さんと同期ですけど、会社では余り話していませんよね。それなのに、どうしてそんな事までご存じなんですか?」
「今はほとんど話さなくなったけど、彼女が結婚してしばらくの間は、他の同期の子達と連絡を取り合っていたからよ。不妊治療の話やご主人の話は、その時にちらっと聞いたことがあるの。でも私が結婚して子供ができた頃からは、余り会話をしなくなったわね」
「それはお子さんのことで、立場が違ってしまったからですか」
「そうかもしれない。でもその気持ちは理解できる。私だって彼女と何の話をすればいいか、判らないもの。子供の話題を避けようとしても、何かの拍子でつい触れちゃったりすることってあるでしょ。そうすると彼女も気分が良くないだろうし、こっちも気を使うじゃない。ただ子供がいない、または産まないと決めた人だったらそこまで気にしなくてもいいのかもしれないけど、彼女の場合はそうじゃないから」
「そうかもしれませんね。私は結婚すらしていないので、良く判りませんが」
「同じよ。あなただって既婚者で子供がいる私とは、仕事の話以外まずしないでしょ。ごめんね。批判している訳じゃないのよ。お互い立場が違うし、話が合わないから自然とそうなるのは仕方がないから。私だってプライベートの話をしだすと、どうしても子供の話が中心になっちゃう。だから共感してくれる人と話す方が楽なのよ。あなたも同じ独身の人と話す方が、会話が噛み合うでしょ」
彼女の言う通りだった。仕事の関係上、立場が違う先輩や後輩やスタッフ達と話すことはよくあった。しかし雑談となれば事情は異なる。既婚者の人達が話す子供の話題を聞く事が嫌な訳ではない。
ただ共感が出来ない為、どうしても参加できず聞くだけになる。そこで似たような話ばかりされれば、なんとなくその集団と離れがちになるのだ。
それ以前に、英美は仕事場でプライベートな話をぺちゃくちゃと喋ること自体が好きではない。噂話や他人の悪口となれば尚更だ。そういった性格が災いしてか、職場の中ではプライベートでも親しくしている女性はほとんどいない。せいぜい同期の子ぐらいだ。
休日などに会う友人と言えば、他では学生時代から付き合いがあり、自分と同じ独身の子達ばかりだった。だからなのか職場では浦里や三箇、古瀬といった男性達と話す方が気楽なのだろう。もちろんそこに異性として興味があったからだと、最近になって気付いた。
二人共ランチを食べ終え話題が逸れはじめた。お昼休みもそれほど残っていない。その為、英美は最後に尋ねた。
「加賀さんや板野さんの他に、十年前の件を知っている人っていますか? いれば私に紹介していただいて、話を伺いたいのですが」
「まだ会社にいる同期はいるけど、たぶんよく知らないと思う。その人達は、柴山さんとも付き合いが余りなかったから。彼女と仲が良かった子は、もう会社を辞めているしね」
「会社を辞められた方で柴山さんと仲が良かった人だったら、加賀さん以上に昔の事を知っていると思いますか?」
「そうね。その子ならもしかすると、彼女からもう少し詳しい話を聞いているかもしれない」
「他にはいませんか。例えば当時柴山さんと同じく一宮支社にいて、今は辞められた方でご存知の人はどうですか」
「悠里以外にはいないわね。今どうしているか連絡先も知らないし、顔も名前もよく覚えていないの。柴山さんに聞けば分かるかもしれないけど」
「それはちょっと、難しいかもしれないですね」
「昨日、二人は話をしたのよね。余り協力的では無かったの?」
「どちらかといえば、そうですね」
「余り思い出したくない事だからかもね。それにもう十年も前の事でしょ。聞かれたくないこともあるんじゃないかな。私達だってそうでしょ。昔の新人時代の話題となれば、どうしても仕事でミスしたことなんかが出てくるじゃない。そんな話なんて、余り今の人とか後輩には知られたくないからね」
「そうかもしれません。それでしたら加賀さんの同期で会社を辞められた、柴山さんと仲の良かった人を紹介して頂けませんか?」
「え? その子は今結婚して東京にいるわよ。こっちにはいないわ」
「東京ですか。もしかして同じ会社の人と結婚して、転勤か何かで向こうにいるんですか?」
「そう。二つ上の総合職と結婚したからね。今は子供が二人いて、専業主婦しているはずよ」
「それでしたら、加賀さんから連絡して頂いて私に話をしてもいいか、聞いて頂いてもいいですか? 先方から許可がでたなら、こちらから電話をかけて話を聞きます」
「あなた、そこまでするつもり? どうやら本気で十年前の事を調べているのね。それとも柴山さんのことを知りたいの?」
「いえ、柴山さんの事を調べている訳ではありません。あくまで十年前、一宮支社で何が起こっていたのかが知りたいだけです。もしその方が柴山さんを通して見聞きしたことや、別の人から当時の件を聞いていたら、それを伺いたいだけです。他意はありません」
「廻間さんは、久我埼さんのことを疑っているの? まさか柴山さんが犯人だと思っている訳じゃないでしょうね」
「そんなつもりはありません。美島支社長が病死だったら、それでいいと思っています。三箇さんがそう納得してくれる材料を集めたいだけなんです」
「そう。でも余り気持ちのいい話ではないわね。あなたはそうじゃないと言っても、三箇さんが犯人探しをしているのは間違いないでしょう。しかも警察まで辞めて、うちの会社に転職して来たっていうんだから」
「確かにそれは否定できません。だからこそ、私達は三箇さんの気持ちに区切りを付けてあげたいと思っているんです。それに久我埼さんのこともあります。このままでは総務課にいる限り、ずっと死に神というあだ名を付けられたまま、仕事をすることになるでしょう。現に柴山さんなんかは、彼を犯人扱いしています。こんな状態が続けば、フロアの雰囲気が悪くなるだけです。それにまた何か事件が起こるんじゃないかと言い出している子達もいますから、それを何とかしたい。その一心で動いている事だけは信じてください」
「あなたがそこまで言うなら、一応私から電話しておく。でも向こうが断るかもしれないから、それは覚悟しておいてね」
「それなら諦めます。無理やり聞き出そうとまでは考えていません」
「そう。向こうが話しても良いと言った場合はどうする? あなたの携帯の番号を教えて電話させればいい?」
「それでも構いませんが、都合の良い時間帯や番号を教えて頂ければ、こちらからかけます。それもお相手の良い方で構いません」
「了解。そう伝えておく。とにかく向こうの都合が確認出来たら、あなたに教えるから。今日か遅くとも明日には返事ができると思う」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
お昼休みの時間も終わりに近づいた為、ランチを食べ終えた二人は外に出た。帰りの道中は全く違う話題をしながら、ビルへと向かって八階に着いた。
まだ少し時間があったので昨日同様忘れない内にと、加賀から聞いた内容などをサイトに入力する。その後席に戻った英美は気持ちを切り替え、午後からの仕事にとりかかった。祥子による忠告が頭に残っていたためだ。
確かに十年前の事を調べていることが広まれば、良く思わない人がいるかもしれない。情報収集は昼休みや業務終了後に行っているとはいえ、仕事を疎かにしていれば足元を掬われかねない。ミスなどすれば、それこそ余計な事をしているからだと言われるだろう。
そうならない為にも、今は目の前の書類に集中しようと決めた。頭の中では、加賀の同期から話が聞けるだろうか気になってはいた。しかしあの件のことは後で考えようと、気持ちを切り替える。
そんな時、外出先から戻って来た浦里が席に付きながら、小声で話しかけて来た。
「サイトを見たよ。お疲れ様。ところで悠里さんと話をした?」
「まだしていない。彼女が昔の話をしたがらないって、古瀬さんが言っていたでしょ。それに私が話す機会は電話しかないから、古瀬さんに任せようかと思って」
「そうだな。それでいい。まあ俺も彼の事務所に行った時、彼女と話す機会が少しあるから聞けたら聞いてみるよ」
「それは助かる。デリケートな内容でしょ、直接会ってじゃないと話しづらいもんね」
「確かに」
短い会話を終え、再び目の前の仕事に取り組んでいると夕方の五時が過ぎた。といってまだ仕事は終わらない。普段は早く帰る加賀でさえまだ席にいた。黙々と目の前の書類を整理していると六時が過ぎた所で、帰り支度を終えた加賀に声をかけられた。
「これから例の件、電話してみるから結果は明日になるかもしれないし、今日中に確認出来たらあなたの携帯へ電話するけどいい?」
「宜しくお願いします。携帯の留守電を解除しておきますから大丈夫です」
「そう。じゃあお先にね」
周囲にもお先に失礼しますと声をかけている彼女の姿も見ながら、英美はスマホを取り出した。勤務時間内は留守電にしているが、今は残業している時間帯だ。かかってくれば席を外せばいい。長電話にならなければいいだろう。
そう考えて加賀からか、または彼女の同期からかかって来る場合に備えサイレントモードに切り替えた。
引き続き仕事に取り掛かり、なんとか今日中に行わなければならない仕事を終えた。そしてパソコンの電源を落とし、帰り支度をし始めた所でスマホが震えた。
慌てて廊下に出て電話に出ると、相手は加賀からだった。
「もしもし、廻間さん? 今日話していた件で連絡を取ってみたら、別に話しても良いって。でも電話代の事もあるし、向こうの家の固定電話にあなたの方から連絡して貰える? 番号は今から言うね。ちなみに名前は佐藤さん。今日だと今ぐらいの時間だったら良いって。それ以上遅くなると旦那さんが帰って来るから、それまでなら大丈夫って言っていたけど」
「ありがとうございます! そういうことならすぐにかけます!」
「そう。だったらその旨を今から向こうにメールで連絡しておくわ」
彼女は佐藤さんの家の番号を教えてくれた。それをメモリーに入れて電話を切った後、しばらく時間を置いた方が良いと思い、先に片付けを終わらせようと席に戻る。そこで浦里に声をかけられた。
「どうだった?」
おそらく加賀が帰り際に言ったことを聞いていたらしく、今の電話もその連絡だと思ったのだろう。
「昼間に聞いた加賀さんの同期の方が、話をしてもいいって了承が得られた。今からかけてみる」
「そう。よろしく。お疲れさま」
「お先に失礼します」
彼だけでなくまだ残っている課の人達に声をかけてから、英美は廊下に出た。そして人気がない廊下の端に行き、教えて貰った番号を押す。加賀があの後直ぐにメールを送っていたとすれば、既に読んでいるだろう。
しかし話が伝わっているとはいえ、全く面識のない年上の方と話をするのだ。その為内心ではドキドキしていた。それでもどう切り出し、何を聞けばいいかを頭の中で整理しながらコール音を聞く。
すると相手が出た。
「はい、佐藤です」
「夜分遅くに失礼致します。私、ツムギ損保の廻間と言いますが、加賀さんのご紹介でご連絡させていただきました。今、お時間よろしいでしょうか?」
「ああ、廻間さんね。聞いているわ。さっき加賀さんにメールも貰ったから待っていたの。少しくらいなら大丈夫よ」
「有難うございます。早速ですが、十年前の一宮支社で起こった件は覚えていらっしゃいますか?」
「さっき電話で聞いて、そんな事があったねって久しぶりに思い出した程度よ。加賀さんと私は当時名古屋ビルにいたから、噂程度にしか良く知らない。でも木幡さん、じゃなかった今は柴山さんだけど、彼女が一宮支社にいたから少し聞いたことがあったわね」
「どんな話を聞かれましたか?」
「警察が来て事情聴取をされた事とか、これから忙しくなるって時期に支社長が急死しただけじゃなく、支社も一時閉鎖されたりして仕事が滞って大変だったとか、その程度よ」
「当時、佐藤さんは同期の中では柴山さんと一番仲が良かったと聞きましたが、他に何か知りませんか?」
「加賀さんとも話したけど、あの件で私だけが聞いていたことなんて無かったと思う。彼女も大変で忙しかったアピールはしていたけど、詳細は余り話したがらなかったから」
「あの件で久我埼さんという総合職の方が一時疑われていたようですけど、柴山さんは何か言っていましたか?」
「彼女から、病死なのに警察が変に動き回っていて感じ悪かったと聞いた覚えはある。でも誰が疑われているなんて、言ってなかったと思う。ただ周りからは、過去にも上手くいっていなかった上司と一緒にいた時、事故して亡くなった噂が広まっていたわね。だから疫病神と呼ばれていた人がいた事は、うっすらと記憶にある。でもその人が殺したとか、そんな物騒な話にはなっていなかったはずよ」
「そうですか。でも最近柴山さんに話を聞いたら、あの件は久我埼さんが犯人だと断言していました。でも当時はそんなことを言っていなかった、ということですね」
「彼女、そんなことを言っているの? 昔はそんな人じゃなかったんだけどね。結婚してから色々大変だったし、性格もかなり変わっちゃったからかな。昔は仲が良かったけど、私に子供ができてからは、年賀状のやり取りもしなくなったのよね」
「それは、不妊治療していたことが関係しているのでしょうか」
「そうだと思う。加賀さんから聞いているとは思うけど、大変な目をしてお金も使った挙句に旦那さんが原因だったんだから、それはショックだったんじゃないかな」
「不妊治療が上手くいかないから、後になって旦那さんに原因があるか調べて判った、ってことですか」
「らしいよ。それでその原因が婚約中だった頃に、旦那さんがしばらく入院していた件が影響していたっていうから余計よね。そのせいで本当はもっと早く結婚するはずだったのが、延期されたんだから。彼女は早く会社を辞めたがっていたのに、それを我慢して予定より長く仕事を続けた結果がそれだもの。でも下手をすれば死んでいたかもしれない程の病気だったから、しょうがなかったのかもしれないけどね」
「死ぬかもしれなかった病気、ですか? どういう病名だったかは聞いていますか?」
「それが分からないのよ。かなり後になって仕事で海外出張した時に罹ったとは聞いたけど、詳しく教えてくれなかったから」
「海外へ出張、ですか。そういえば柴山さんのご主人は、大手自動車メーカーに勤務されていますよね。どこに出張されていたかはご存知ですか?」
「それも教えて貰えなかった。でも付き合っていた頃、東南アジアへ良く出張に行っていた話は聞いていたから、多分そっち方面だったんじゃないかな。向こうにある工場へ、問題が起こると行かなきゃいけない部署だったらしいよ。今は別の部署に変わっていると思うけど。病気が治ってから、異動になったって聞いた覚えがある」
「東南アジアですか。具体的にどこかはご存知ですか? 例えばフィリピンだとか」
「その辺りだったと思う。周辺にいくつか工場があるから、一度行くと転々としていたみたい」
「そうですか。その出張から帰って来て、病気が発症したってことなんですかね」
「そうらしいよ。相当な高熱が出たって聞いた。それが原因で、精子形成障害が起こった可能性が高かったんじゃないかって」
「そうですか。そういえば亡くなった美島支社長が、パワハラやセクハラをしていたという噂もあったそうですけど、柴山さんが被害を受けていたことはありませんか」
「その話、聞いたことがある。数字に厳しい人だったみたいね。今だったら、飛ばされていたかもしれない程度のパワハラはあったと思う。セクハラはどの程度か知らないけど、柴山さんも多少被害に合ったみたいよ。それもあって、早く会社を辞めたがっていたから」
「そうだったんですか。でもそんな嫌な思いをした会社に、彼女は再就職したんですよね。どうしてでしょうか。もし私だったら、同じ保険会社でも別の所にすると思いますけど」
「子供ができないって判ってから、仕事をするって決めたらしいけど、彼女は勤務経験が三年と三カ月だったでしょ。保険会社でも、他社は受からなかったんじゃなかったかな。保険会社以外だと、正社員でも給与は安いしね。一度損保の給与の高さを知っちゃうと、他は選べなかったんだと思う。うちの会社だったら、勤務経験は短くてもOGというだけで優遇されるから、しょうがなく選んだって話を聞いた気がする」
「でもお子さんがいなくて、共働きですよね。正社員や給与にこだわらなければ、他の選択肢もあったと思いますけど」
「そうなの。彼女が事務職として再採用されたって聞いた時、同期の間では離婚するつもりじゃないのかって噂が流れた位だからね。でも加賀さんの話では、何とか続いているそうじゃない。仕事をし始めて六年目になるとか。もし離婚するつもりで再就職したのなら、もう別れていてもおかしくないでしょ。だったら後は家を建てる資金を貯めているのかもしれないね。名古屋は持ち家比率が高いから」
彼女の言う通りだ。都会にしては地元意識が高いこともあって、若い内から家を購入する人は少なくない。しかも実家近くに家を建てるケースが多いと聞く。
それはコミュニティがしっかりしているからだろう。保守的な分、地域によって新しく住む人達には敷居が高く感じるそうだ。近所付き合いが煩わしい、と感じる人もいると聞く。
しかし実家の近くで親と知り合いの人がいれば、すんなりと受け入れられる場合も多いらしい。それだけ仲間意識が強いといえるだろう。また子供が生まれた時など、実家が近ければ何かと助けて貰うことができる。
さらには親が高齢になって介護しなければならなくなった時、遠くに住んでいるより安心だからかもしれない。その証拠に愛知県は、三世帯同居の割合が日本一高いと言われている。
七恵の家庭がそのような事を考えているかは不明だ。確か今は、ご主人の会社の借り上げ社宅に住んでいると聞いていた。それならば、家賃の自己負担はかなり少なくて済んでいるだろう。
将来子供ができることを考えれば、一戸建ての購入を検討していてもおかしくはない。だが彼女達は違う。今後結婚生活を続けていくつもりなら、ずっと二人で暮らしていくことになる。
そうなれば走り回る子供ができる予定もないのに、一戸建てが欲しいと思うだろうか。しかも将来家を残したとして、それを引き継ぐ相手はいないのだ。
経済的な事を考えれば、家賃補助のある間は社宅にいる方が得だろう。それでも自分の家を持ちたいと考える人はいる。老後を考えて、夫婦二人で末永く住める家が欲しいと思ってもおかしくはない。
話題が少し逸れたため、英美は尋ねた。そんなに長話をしていても相手に迷惑だ。
「話は戻りますが、柴山さんの旦那さんが入院していた病院って、どこだったとか聞いたことはありますか」
「それは覚えてないわ。でも大変な病気だったから、空港近くにある大きな病院じゃないかな」
「そうですか。あと佐藤さんが知っている方で、十年前の事を知っているだろう人はいますか? 柴山さん以外で一宮支社に勤めていた事務職や総合職もそうですが、スタッフさんでも構いません」
「いないと思う。それに私が今、昔の会社関係で連絡を取っている人は、ほとんどいないかな。加賀さんとだって年賀状のやり取りだけで、久しぶりに喋ったわよ」
「判りました。話が長くなってすみません。最後にお伺いしますが、何か他に当時の事で気になったことはありますか」
「気になったこと、ね。ちょっと思い浮かばないな。ごめんなさい」
「いいえ、こちらこそ面識もない方に、こんな時間にお電話して申し訳ありません。これで失礼します。そこで勝手な事かもしれませんが、もし何か思い出されたことがあったらご連絡頂けますか。加賀さん当てでも構いませんので」
「もうないと思うけど、あれば連絡するわ」
「有難うございます。それでは失礼します」
電話を切った英美は緊張していたのか、肩が凝っていることに気付く。首を回してホッと息を吐いた。時間をみると七時半を過ぎていた。仕事は終わったと言っても遅くまで会社に残っていると叱られかねない。急いでエレベーターに乗り一階に着いてビルを出た。
地下鉄の駅に向かい、次の電車が来るまで時間があったのでサイトを開く。先程まで話していた内容を入力している間に電車がやって来た。打ち込みがまだ終わっていなかった為、乗り込んでから続きを書き込む。
そこで改めて昨日から今日にかけて収集した情報を読み返した。さらに浦里や三箇、そして古瀬が書き込んだ内容も頭に入れる。その上で今後自分は誰に、そしてどのようにして情報を集めればいいのかを考えた。しかし何も浮かばない。正直手詰まりだった。これ以上話を聞く相手と言えば誰がいるだろうか。
ただ英美にはできないけれど、これまでの話を受けさらに掘り下げて調べることが見つかったと思っていた。そこでもう一度サイトに書き込む。今度は情報についてではなく、自分が思いついたことだ。これは三箇の手を借りるしかない。
英美が家に帰宅して、遅い夕食を取ってシャワーを浴びた。そして就寝しようと思った時、再びサイトを開いてみた。するとそこには新たな書き込みがされていた。まず三箇が
「了解! 良い所に目を付けたと思う。ここから先は、俺の昔の伝手を使って調べて見るよ。貴重な情報をありがとう!」
とコメントしていた。そこに浦里や古瀬の書き込みがあった。
「いいね! 後は三箇さんに任せよう。廻間さん、お疲れ様!」
「そうだね。ここまで調べてくれたら、後は三箇さんしか動けないでしょう。廻間さんの調査はひと段落しただろうから、しばらくお休みしていた方が良いよ。お疲れ様」
皆がそう言ってくれたのは、祥子から受けた忠告を考慮しての事だろう。久我埼の耳に入るよう、英美達が調べている事を意図的に広めたが、想像以上の反応が生じていた。
三箇が前職を辞めてこの会社に入った動機がショッキングだったことも影響したらしい。余りにも不謹慎だと非難する声がすでに出始めていたのだ。
今日までの書き込みよると、既に三箇は課長から呼び出しを受けたという。そこで噂の真相を尋ねられ、彼は正直に話したそうだ。そこで祥子が危惧した通り、同じ会社の社員を疑うような真似をするなと注意されたらしい。浦里も課長から話を聞かれたようだ。そこでもやはりこれ以上首を突っ込むなと叱られたという。
古瀬は代理店だからかまだ何も言われていないそうだが、彼もいずれ注意を受けるかもしれない。動き出したのは昨日からなのに、これらは今日一日で起きたことだ。
そうした事情もあり、英美も明日には呼び出しを受ける可能性が高い。その為しばらく大人しくしていた方が良いと、彼らなりの優しさからくる言葉だった。
幸い昨日から今日にかけての二日間で、英美ができることは一気にやった。次の手が思いつかないタイミングでもある。だから彼らの言う通り、少しの間は下手に動かない方が良さそうだ。
明日辺り、課長に呼ばれるだろう。その時どう答えようかと考えながら布団に潜り込む。なかなか頭の中の整理がつかないと思いつつも、英美はいつの間にか眠りについていた。
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