雨に濡れた桜 ~能面課長と最後の恋を~

國樹田 樹

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一才桜の露涙

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 課長が聞いたという言葉は私自身に向けたものであったことを告げた。

 『嫌な経験』と私が話したせいか、彼は聞いても良いものかどうか迷ったようだった。

 彼の話を聞いておいて自分は何も言わないのはフェアではないと思ったから、私は包み隠さず当時のこと全てを話した。

 あまり気持ちの良い話ではないし、優しい彼はきっと聞いただけでも私の代わりに傷ついてしまうだろうと思った。それが少し恐かった。

 案の定、彼は眼鏡の奥の瞳に怒りと、悲しみと、痛みを滲ませていた。

 私がこの年齢になって知ったのは【他人の傷ついた話は、聞いた人にも負担を与えてしまう】ということだった。

 他人に共感することが出来る優しい人は特に。

 過去、この話を一度だけ当時付き合っていた人にしたことがある。

 その時の人は、自分と同じ『男性』がした行為が受け入れられず、私が受けた痛みに罪悪感を覚えてしまったようだった。違う人間なのに、私が狭い場所や暗い場所を怖がる度に「君が恐がっているのが、僕自身に思えてしまう」と言って辛そうな顔をしていた。

 そして結局「君が恐がる度、自分が否定されているようで辛くなる」とさよならを告げて去ってしまった。

「あの言葉は、私にとっては言い訳だったんです。自分がしていることは『優しさ』なのだと思いたくて。それをずっと胸に思っていたから、出た言葉でした」

 交差した課長の指に、掌にほんのり力が込められる。彼は私が話すのをじっと聞いてくれていた。

 鋭いけれど優しい両眼が、真っ直ぐ私に向けられていた。

「……痛みを知る君の言葉だったからこそ、俺にも響いたんだ。だからこそ惹かれた。そして今は君以外は何も見えないほど、俺は君が好きだ」

「尚人さん」

「茜」

 繋げた手にぎゅっと力を込めながら名を呼べば、彼はふっと短い息を吐いてから、何かを決意したように強い視線とはっきりした口調で語り始めた。背にある彼のもう片方の手が、ぐっと私を引き寄せる。

「正直、相手の男を殺してやりたいとすら思う。たとえその頃はまだ子供であったとしてもだ。……君は怖がるかもしれないが、そのくらい、君は俺にとってかけがえのない女性なんだ。たとえ君が過去の体験から俺を怖ろしいと感じたとしても、もう離してやれない。……すまない」

 告げた唇が引き締められる。けれど目は、表情は、私の心を奥まで射貫いていた。

 ああ私はこの言葉が欲しかったのだと、過去から今までを思いながら気付く。

 かつてこの話をした人に去られた事もあり、私はこれまであまり自分から進んで恋愛に積極的にはなれなかった。けれど、何もしなかったわけではない。古い傷には知らない振りをして、普通の女性として普通と言われる幸せを手にするためにそれなりの事はしてきた。

 けれどどうしてここまで彼を思うほど誰も好きになれなかったのか、今、わかった。

 私はこの話をする人を最後の人にしたかったのだ。

 二十七歳にもなってまだ、白馬の王子様を夢見ていた。最後の恋を、求めていた。

「怖いだなんて……思うはず、ありません。この前、地下倉庫に駆け付けてくれた時、私あの場所が怖くなかった。それどころか、嬉しかった。こんなにも優しい暗闇があるのかと思えたんです。課長が、尚人さんが来てくれて、居てくれたから」

 初めてだったのだ。あの狭い場所を、暗い場所を怖いと思わなかったのは。

 課長と出会って、尚人さんに恋をして、初めてそう思えた。彼がそう思わせてくれた。私の傷に気付いて、寄り添ってくれたから。

 だから私も彼をここまで———愛してしまったのだと、思う。

「私、尚人さんに会えて良かった……好きです。課長が、尚人さんの事が。私も、好き……」

「茜……っ」

 彼が繋いだ手を離し、ぎゅうと身体を抱きしめてくれる。労わるように、守るように。

 本当は今守ってあげなければいけないのは彼の方なのに、私が過去の話をしたから、自分も話すのは辛かっただろうに私を優先してくれている。それが嬉しくて、切なくて、愛おしい。

「巻き込んだなんて思わないでください。迷惑だなんて私は思っていません。むしろ嬉しいんです。尚人さんが大変な時でも傍にいられる、今の状況が」

 課長の耳元で精一杯気持ちが伝わるように心を込めて言葉を紡いだ。

 彼の肩越しに、儚げに咲く一才桜の鉢植えが見える。淡く優しい桜の花弁には、きらりと輝く雫があった。

 温められた部屋の窓には薄っすら白い膜が張られている。外との気温差で結露しているのだろうか。

 その露で濡れているのか、一才桜の鉢植えは夜を透かす窓硝子に姿を映し、まるで二本の桜が並び立つように見えていた。

 私には、しっとりとした風情を漂わせる桜花が、まるで私と課長の涙の雨に濡れているように思えた。
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