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老忍、見る者
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ずるずる、ずぞぞ。
蕎麦汁を最後の一滴まで飲み干して、女はすっくと立ち上がった。卓の上に銭を置こうと懐に手を潜らせたところで、店の奥から顔を出したまま、ぽかんと間抜けな面を晒す大将へにやりと不適に笑ってみせる。
「よお大将。こちとら店が荒らされんのを防いでやったんだ。勘定、ちっとばかし色つけてくれないかい?」
懐に手を入れたまま、女は店の大将に尋ねた。すると大将ははっと我に返った顔で、ぶんぶんと首をもげんばかりに横に振る。
「い、いらん! 金はいらんからさっさと出てってくれ!」
「ちぇ。なんでえ人を妖怪みてえに。まあいいや。んじゃ、ごちそうさん」
鉢巻きに汗まで滲ませて、追い払うように、否、実際追い払いたいのだろう大将の言い草に女は少しばかり不貞腐れた顔をしたものの、いつもの事なのか慣れた素振りでやれやれと肩を竦め、そのままさっさと荷物を纏めて店を出た。
正直なところ懐具合もそれほどよろしく無かったものだから、ただになるのは儲けもの。そうにししと口端で笑い飛ばし、藍染めの暖簾を背にほくほく顔で歩き始める。
頃合いは昼八つというところ。
足下に伸びた影は色濃く、晩春ともあってか気候はやや汗ばむほどで、冷たいかけ蕎麦にしておいて正解だったと女は足取り軽く歩を進めた。
そんな折。
「……もし。旅の方。絡繰る者とお見受けする。何卒お頼み申す」
「断る」
先ほどから―――実のところ蕎麦屋での一件の最中から女が感じていた妙な気配が漸く動いた。
振り返るよりも早く撥ね付けて、半身だけで視線を流せばにやにやと真っ黒な口で笑う老婆が背後に立っていた。抜けだらけの歯は黄色く濁り、しわくちゃの顔とざんばらに乱れた真っ白髪はさながら山姥か、良くても乞食だ。老いた者特有の死人めいた臭気が、離れていてなお漂ってくる。
街道を行き交う人々は、老婆を見るなり顔を顰め口元を押さえて足早に過ぎ去っていった。
女の本能が、この婆は厄介な手合いであると警告する。
「何卒お頼み申す」
女が断ったにも関わらず、老婆は頭を下げて再び告げた。老婆が一声発するたびに酷い臭いが鼻をつく。臭気に紛れているのは、焦げ臭い火薬の香りだ。
「ほかを当たりな……っ!?」
奇妙な老婆に胸騒ぎを覚えた女はそう言い捨てて背を向けた。けれども突如目前に現れた気配に息を呑み、咄嗟に腰の脇差しへと手を伸ばす。
「まあ、そう言わず」
女の目と鼻の先で、にちゃあと黒い口で老婆が嗤う。
女が瞬く一瞬の間に老婆は身を動かしていた。気配無く、女の眼前三歩半にいる。
何という身のこなしか。それなりに武芸を嗜んだ女の間合いにいとも容易く切り込むなど常人の為せる技ではない。女は度肝を抜かれながら、そうとは気付かれぬよう平静を装い慎重に地を踏みしめる足に力を込めた。
今の己で果たして敵う相手か否か、見定めるために間合いを取る。
背に、じわりと嫌な汗が滲んだ。
「面妖な。婆、貴様忍びか」
「左様」
口汚く女が罵ると、老婆は皺だらけの顔を歪め、弧を描いていた目を薄らと開いた。
刃の切っ先を思わせる鋭い眼光がひたりと女を見据える。女の本能が益々高らかに警鐘を打ち鳴らした。
相打ちならばもしくは。腕か足、どちらか一方を犠牲にして漸くかもしれぬ、と目測をつける。
「其方は断れますまい。のう希代の人形師、唐津橋菊が娘、お紅殿よ」
しかし自らの本名が出たことに女―――お紅は瞠目した。そうして、すうと細く眇めて唇を真一文字に引き結ぶ。
「菊を知る者か」
冷たく睥睨するお紅に、老いた忍びは満足げに頷いてみせた。
「……へえ、あれが唐津橋の姫か」
二人のやりとりを、遠くの影から見つめる者がいた。
蕎麦汁を最後の一滴まで飲み干して、女はすっくと立ち上がった。卓の上に銭を置こうと懐に手を潜らせたところで、店の奥から顔を出したまま、ぽかんと間抜けな面を晒す大将へにやりと不適に笑ってみせる。
「よお大将。こちとら店が荒らされんのを防いでやったんだ。勘定、ちっとばかし色つけてくれないかい?」
懐に手を入れたまま、女は店の大将に尋ねた。すると大将ははっと我に返った顔で、ぶんぶんと首をもげんばかりに横に振る。
「い、いらん! 金はいらんからさっさと出てってくれ!」
「ちぇ。なんでえ人を妖怪みてえに。まあいいや。んじゃ、ごちそうさん」
鉢巻きに汗まで滲ませて、追い払うように、否、実際追い払いたいのだろう大将の言い草に女は少しばかり不貞腐れた顔をしたものの、いつもの事なのか慣れた素振りでやれやれと肩を竦め、そのままさっさと荷物を纏めて店を出た。
正直なところ懐具合もそれほどよろしく無かったものだから、ただになるのは儲けもの。そうにししと口端で笑い飛ばし、藍染めの暖簾を背にほくほく顔で歩き始める。
頃合いは昼八つというところ。
足下に伸びた影は色濃く、晩春ともあってか気候はやや汗ばむほどで、冷たいかけ蕎麦にしておいて正解だったと女は足取り軽く歩を進めた。
そんな折。
「……もし。旅の方。絡繰る者とお見受けする。何卒お頼み申す」
「断る」
先ほどから―――実のところ蕎麦屋での一件の最中から女が感じていた妙な気配が漸く動いた。
振り返るよりも早く撥ね付けて、半身だけで視線を流せばにやにやと真っ黒な口で笑う老婆が背後に立っていた。抜けだらけの歯は黄色く濁り、しわくちゃの顔とざんばらに乱れた真っ白髪はさながら山姥か、良くても乞食だ。老いた者特有の死人めいた臭気が、離れていてなお漂ってくる。
街道を行き交う人々は、老婆を見るなり顔を顰め口元を押さえて足早に過ぎ去っていった。
女の本能が、この婆は厄介な手合いであると警告する。
「何卒お頼み申す」
女が断ったにも関わらず、老婆は頭を下げて再び告げた。老婆が一声発するたびに酷い臭いが鼻をつく。臭気に紛れているのは、焦げ臭い火薬の香りだ。
「ほかを当たりな……っ!?」
奇妙な老婆に胸騒ぎを覚えた女はそう言い捨てて背を向けた。けれども突如目前に現れた気配に息を呑み、咄嗟に腰の脇差しへと手を伸ばす。
「まあ、そう言わず」
女の目と鼻の先で、にちゃあと黒い口で老婆が嗤う。
女が瞬く一瞬の間に老婆は身を動かしていた。気配無く、女の眼前三歩半にいる。
何という身のこなしか。それなりに武芸を嗜んだ女の間合いにいとも容易く切り込むなど常人の為せる技ではない。女は度肝を抜かれながら、そうとは気付かれぬよう平静を装い慎重に地を踏みしめる足に力を込めた。
今の己で果たして敵う相手か否か、見定めるために間合いを取る。
背に、じわりと嫌な汗が滲んだ。
「面妖な。婆、貴様忍びか」
「左様」
口汚く女が罵ると、老婆は皺だらけの顔を歪め、弧を描いていた目を薄らと開いた。
刃の切っ先を思わせる鋭い眼光がひたりと女を見据える。女の本能が益々高らかに警鐘を打ち鳴らした。
相打ちならばもしくは。腕か足、どちらか一方を犠牲にして漸くかもしれぬ、と目測をつける。
「其方は断れますまい。のう希代の人形師、唐津橋菊が娘、お紅殿よ」
しかし自らの本名が出たことに女―――お紅は瞠目した。そうして、すうと細く眇めて唇を真一文字に引き結ぶ。
「菊を知る者か」
冷たく睥睨するお紅に、老いた忍びは満足げに頷いてみせた。
「……へえ、あれが唐津橋の姫か」
二人のやりとりを、遠くの影から見つめる者がいた。
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