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―― 第三章 ―― 祝言と聖夜
【042】蔵の下 ※修道会
そこは、暗く、暗い。
天羽家の隣には蔵がある。蔵、として正しいのは、一段高いところにある木が張られた床の一室だ。その床を開けると、酒や味噌を貯蔵しておく倉庫があると、使用人の多くは考えていたし、桜子もここで暮らしていた頃、それは同じだった。桜子が血を抜かれていたのは、逆側にある木の戸の向こうの、内部だけが先進的な研究室だった。そちらもまた半地下ではあったが――この、暗い、暗い、座敷牢とは趣が異なる。
古より浄癒の力を持つ、黒薔薇の刻印がある者が生まれてきた天羽家には、それを隠すこともあれば、殺すこともあったが、生かしておく場合、座敷牢に繋いでおくという処置がとられていた。それが、この蔵の下、隠し床の下の座敷牢である。完全に日の光は入らず、廁代わりは木の穴と壺。首をくくらぬようにと、両手首には鉄の輪が嵌められ、汚れた着物は月に一度も着替えさせてもらえればいい方だった。常人でも精神が蝕まれるような環境における私宅監置の場。今、そこに桜子の姉、紅子はいる。それは彼女が突飛な言動をするからではない。桜子を害した者の一人として、同時に黒薔薇修道会の者に密通していた疑惑があるからとして、監視下におかれているからだ。
とはいえ、軍部は鬼ではない。
江戸の頃とは異なり、紅子のもとには使用人が通い、日に一度は体を清め、着替えをさせ、食事だって満足に取らせている。蔵にはあやかし対策部隊の式神が見張ってこそいるが、それは過去の一連の事件があったのだから、仕方ないと言える。
だがその境遇に、紅子は当然満足しない。
「早く出しなさいよ!」
「おやめください!」
世話に来た女中の髪を、紅子が引っ張る。殴る蹴る。着物が乱れ、足が覗く。その足の裏で、女中を強く蹴りつける。事態に気付いた式神が、母屋の外にいる軍人に報せ、その軍人が止めに入ると、キッと紅子は睨んだ。
「全部桜子が悪いのよ、あの気持ちの悪い妹が」
女中と軍人が顔を見合わせる。
いつもはこの後、ひとしきり紅子が罵詈雑言を放つのを、二人は落ち着くまで見ている。加害者がわであるからこそ、証言を引き出さねばならず、殺すわけにもいかなければ、話し始めたら言葉を無視するわけにもいかないがゆえだ。
だが、今日は違った。
「そうだねぇ、紅子嬢は何も悪くないのに」
微苦笑するような優しげな、柔らかな声がした。青年の声だ。
硬直した軍人と女中が、直後それぞれ昏倒した。床に倒れた二人の衣擦れの音。
紅子は目を丸くする。倒れている二人を見てから、ゆっくりと顔を上げると、そこには黒い外套を着て、首元で紐リボンで結んだ、暗い金色の髪をした青年が立っていた。麗しいかんばせだ。
「僕は今は斑目と名乗っているよ。紅子嬢、きみを助けに来たんだ」
斑目はそう言って、シルクハットを手に取ると、優雅に一礼した。
そして笑うと、牙が覗く。
「僕とともにおいで? きみは、聖母の末裔なのだから」
「……聖、母?」
「そうさ。誰よりも気高く清廉なアリアの末裔さ。皆が、きみにひれ伏すことこそが正しい姿だ。僕はずっと、修道会で守護するべきアリアの末裔を探していた。そう、それは、きみのことさ」
紅子は恍惚とした表情を浮かべた。己が守られるべき貴人の末裔らしいと耳にした瞬間、彼女の中の自尊心が膨れ上がる。
「みな、きみの妹を聖女だと誤解しているらしい。偽聖女だというのに」
「偽聖女……」
「紅子嬢、きみこそが真の聖女だ。さあ、僕が守るよ、急ごう」
パチンと斑目が手を鳴らすと、紅子の手首の拘束が取れた。
紅子が立ち上がると、黒い外套で抱き込むようにして、斑目が紅子を抱きしめる。紅子が暴れたせいで乱れた髪に口づけると、紅子に見えない角度で目を眇める。飲まなくても、漂う精気で血の味の見当は付く。はずれだなと、内心で思っていた。浄癒の力は、確かにアリアの特性だ。だがそれが出るのは、宣教師の血が先祖返りの血が濃く出た者のみだと、斑目は黒薔薇修道会が研究した結果を見たことがある。吸血鬼からすれば、癒やしの力になど興味は無い、それは己も持つ力に酷似している。欲しいのは、甘美な血液だ。
「少し飛ぶよ、掴まって」
紅子をお姫様を抱くように抱き上げて、斑目は外に出た。そこには朽ちてボロボロになった元は式神だった紙が散乱している。堂々と玄関を出れば、軍人が数名倒れていた。斑目はふわりと地を蹴り飛んで、夜の空を進む。
その夜は雲のせいか星灯りもなく、とても暗く寒い夜だった。
天羽家の隣には蔵がある。蔵、として正しいのは、一段高いところにある木が張られた床の一室だ。その床を開けると、酒や味噌を貯蔵しておく倉庫があると、使用人の多くは考えていたし、桜子もここで暮らしていた頃、それは同じだった。桜子が血を抜かれていたのは、逆側にある木の戸の向こうの、内部だけが先進的な研究室だった。そちらもまた半地下ではあったが――この、暗い、暗い、座敷牢とは趣が異なる。
古より浄癒の力を持つ、黒薔薇の刻印がある者が生まれてきた天羽家には、それを隠すこともあれば、殺すこともあったが、生かしておく場合、座敷牢に繋いでおくという処置がとられていた。それが、この蔵の下、隠し床の下の座敷牢である。完全に日の光は入らず、廁代わりは木の穴と壺。首をくくらぬようにと、両手首には鉄の輪が嵌められ、汚れた着物は月に一度も着替えさせてもらえればいい方だった。常人でも精神が蝕まれるような環境における私宅監置の場。今、そこに桜子の姉、紅子はいる。それは彼女が突飛な言動をするからではない。桜子を害した者の一人として、同時に黒薔薇修道会の者に密通していた疑惑があるからとして、監視下におかれているからだ。
とはいえ、軍部は鬼ではない。
江戸の頃とは異なり、紅子のもとには使用人が通い、日に一度は体を清め、着替えをさせ、食事だって満足に取らせている。蔵にはあやかし対策部隊の式神が見張ってこそいるが、それは過去の一連の事件があったのだから、仕方ないと言える。
だがその境遇に、紅子は当然満足しない。
「早く出しなさいよ!」
「おやめください!」
世話に来た女中の髪を、紅子が引っ張る。殴る蹴る。着物が乱れ、足が覗く。その足の裏で、女中を強く蹴りつける。事態に気付いた式神が、母屋の外にいる軍人に報せ、その軍人が止めに入ると、キッと紅子は睨んだ。
「全部桜子が悪いのよ、あの気持ちの悪い妹が」
女中と軍人が顔を見合わせる。
いつもはこの後、ひとしきり紅子が罵詈雑言を放つのを、二人は落ち着くまで見ている。加害者がわであるからこそ、証言を引き出さねばならず、殺すわけにもいかなければ、話し始めたら言葉を無視するわけにもいかないがゆえだ。
だが、今日は違った。
「そうだねぇ、紅子嬢は何も悪くないのに」
微苦笑するような優しげな、柔らかな声がした。青年の声だ。
硬直した軍人と女中が、直後それぞれ昏倒した。床に倒れた二人の衣擦れの音。
紅子は目を丸くする。倒れている二人を見てから、ゆっくりと顔を上げると、そこには黒い外套を着て、首元で紐リボンで結んだ、暗い金色の髪をした青年が立っていた。麗しいかんばせだ。
「僕は今は斑目と名乗っているよ。紅子嬢、きみを助けに来たんだ」
斑目はそう言って、シルクハットを手に取ると、優雅に一礼した。
そして笑うと、牙が覗く。
「僕とともにおいで? きみは、聖母の末裔なのだから」
「……聖、母?」
「そうさ。誰よりも気高く清廉なアリアの末裔さ。皆が、きみにひれ伏すことこそが正しい姿だ。僕はずっと、修道会で守護するべきアリアの末裔を探していた。そう、それは、きみのことさ」
紅子は恍惚とした表情を浮かべた。己が守られるべき貴人の末裔らしいと耳にした瞬間、彼女の中の自尊心が膨れ上がる。
「みな、きみの妹を聖女だと誤解しているらしい。偽聖女だというのに」
「偽聖女……」
「紅子嬢、きみこそが真の聖女だ。さあ、僕が守るよ、急ごう」
パチンと斑目が手を鳴らすと、紅子の手首の拘束が取れた。
紅子が立ち上がると、黒い外套で抱き込むようにして、斑目が紅子を抱きしめる。紅子が暴れたせいで乱れた髪に口づけると、紅子に見えない角度で目を眇める。飲まなくても、漂う精気で血の味の見当は付く。はずれだなと、内心で思っていた。浄癒の力は、確かにアリアの特性だ。だがそれが出るのは、宣教師の血が先祖返りの血が濃く出た者のみだと、斑目は黒薔薇修道会が研究した結果を見たことがある。吸血鬼からすれば、癒やしの力になど興味は無い、それは己も持つ力に酷似している。欲しいのは、甘美な血液だ。
「少し飛ぶよ、掴まって」
紅子をお姫様を抱くように抱き上げて、斑目は外に出た。そこには朽ちてボロボロになった元は式神だった紙が散乱している。堂々と玄関を出れば、軍人が数名倒れていた。斑目はふわりと地を蹴り飛んで、夜の空を進む。
その夜は雲のせいか星灯りもなく、とても暗く寒い夜だった。
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