あやかし帝都の婚姻譚 〜浄癒の花嫁が祓魔の軍人に溺愛されるまで〜

鳴猫ツミキ

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―― 第四章 ―― 反枕の夢

【052】踏み絵

 桜子は目を覚ました時、己が嘗て血を抜かれていた際と同じように頭上で手首を拘束されていることに気がついた。酷く痛むが、肌にそれほどの痛みは無い。ぴちゃりぴちゃりと水音がする。緩慢に視線を周囲に向けると、正面には大勢の聖職者の姿があった。修道士、修道女。黒い服、ただ、十字架をさげているのではなく、逆十字を下げていた。

「……」

 瞼が重い。なにか、風邪薬を飲んだ後のような。あまり与えられたことがないから、逆によく覚えていた。なんらかの薬の気配。そう考えて、紅茶の中になんらかの薬が入っていたのではないかと思いついた。だとすれば、入れたのは薫子だ。薫子もまた飲んでいたから、きっと最初からカップに入れてあったか塗ってあったのだろう。

 向かって左手には、黒い片翼の羽の像がある。その正面に、尋子が跪いていた。両手をギュッと合わせて、修道女の服を着て。傍らには瓶がある。彼女の肩に優しく触れている者がいる。桜子は思わず声を出した。

「斑目先生……」
「ん? ああ、気付いたのか。まだ、先生と呼んでくれるんだね」
「尋子さんに危害を加えないで下さい」
「彼女は望んでここにいるんだけどな? 心外だな」
「望んで……?」
「そう。だよね? 尋子?」

 斑目の言葉に、虚ろだった尋子の目が、急に恍惚としたものへと変化した。

「そうです! 私! 私! 桜子さんを醜くするんです!」

 それを聞いて、桜子は一気に覚醒した。愕然とする。青ざめて、冷や汗が浮かんできた。その時、隣から歩いてくる気配がした。桜子は思う。きっと、礼人は来てくれる。礼人が話していた死ぬ夢というのは、これのことだと確信した。礼人ならば、その未来を変えてくれるはずだ。だが――礼人の隣にいたいのは、自分のほうだ。だから、自分の手で、できるかぎりのことをし、ここから脱出するべきだ。そうである以上、なるべく多くの情報を集めるべきだと考える。しかしちらりとその音がする隣を見て……桜子は呆気にとられて、それまでの考えが吹き飛んだ。

「お姉様……」

 そこには黒い修道女の服を着た、紅子の姿があった。紅子は、聖職者らしくない真っ赤な紅を塗った肉厚の唇の両端を持ち上げて、哄笑した。

「久しぶりね、桜子」
「な、んで……」
「なんで? そんなの決まっているわ」

 それから紅子が般若のような形相に変わった。

「あんたのせいで、どれだけ、どれだけ、どれだけ私が苦しんだと思っているのよ。今だってそうよ。あなたが浄癒なんていう聖なる力を持っているばっかりに、私はこの黒薔薇修道会の真の一員にはなれないの!」
「黒薔薇修道会……」
「あなたを殺し、あなたを踏み絵とし、私は真の一員となるのよ! 私が新しい聖母となるの! アリアの末裔に相応しいのは、わ・た・し! そして祈るの。あやかしが統べる新たなる世界で」

 それを聞いて唖然とした桜子は、近づいてくる紅子の手に、銀色の短剣が握られているのを見た。逆隣からは、震えながら立ち上がった尋子が、蓋を開けた瓶を持って歩み寄ってくる。命の危機、身の危険が迫っている。けれど。

 ――冷静にならなければ。死んだら……礼人様に会えなくなる。

 強くそう考える。それに。

 ――死んでしまったら、尋子さんを救えない。

 こうも考える。

 ――紅子お姉様も助けられない。

 苦しいことばかりだったないか、今までの人生。それでも、どんなに辛くても生きてきた。泣いたのは、少しだけだ。なのに、こんなところでくじけているわけにはいかない。それも、今は礼人がそばにいてくれるのに。一人ではないのだから。だから、礼人が己を助けてくれたように、自分だって大切な友達や、嫌なことは色々されたけれど、家族を助けたい。

 頭上を見る。幸い、手首を縛っているのは、鉄製の金具というわけではない。布紐だ。かなりきついが、緩めることが出来るかもしれない。礼人が来るまで。それまで。それまで耐えれば良い。きっときてくれるから。

 その時、尋子の瓶から硫酸の液体が飛んだ。それが、桜子の単衣を焼き、肌に触れる。

「っく」

 痛みと言うより熱が走った。だが、それを桜子は苦しいとは思わなかった。手首の布にも確かに硫酸が飛び散ったのを見たからだ。偶然の幸運にたよるほかないけれど、それでも。手首を激しく動かして、紐を緩める努力をする。ぴちゃり、また、ぴちゃり。硫酸が飛ぶ。震えながら尋子が歩くせいだ。その様子を、紅子はただ喜んでいる様子で歩いてくる。しかし、布紐も少しは溶けている。

「知っている? 聖なる銀は、吸血鬼をも殺すのよ。だから、浄癒の血を持つあなたのことだって殺せるはずなのよ」

 それを聞き、ならば、斑目先生への対抗策として、礼人に報告しなければと考えながら、唇を噛む。強い意思が滲む瞳で、桜子は両側をそれぞれ見る。けれど。次第にその視界が歪む。怖くないはずがなかった。それでも、泣きたくなくて、必死で桜子は涙を堪えたのだった。

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