婚約破棄された紋章官家の令嬢は、王太子妃候補の紋章が偽物だと知っている

シラクサ

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第五章 サン=クレール家の空白

 夕刻の町は、昼の顔を少しだけ崩していた。

 店先の布は巻かれかけ、通りを急ぐ人々の歩幅には、昼間の用事ではなく家へ戻る気配がある。
 西に傾いた光は、建物の壁を金にするのでなく、古びた傷の縁だけを細く照らした。
 王宮から紋章院へ、紋章院からまた家へ――そのあいだに、セルウィリアの胸の内では、いくつもの線が引かれ、引かれた線の下から別の古い線が浮き上がってきていた。

 ヴァルモン家へ戻ると、屋敷の空気は朝と変わっていた。

 静かであることに違いはない。
 けれど、その静けさの質が違う。
 朝のそれは、昨夜の破談が家の壁へようやく染み込み始めたばかりの、まだ湿り気のある静けさだった。
 今はもっと乾いている。
 誰もが何かを知り、しかしそれをどの顔で扱えばよいか決めかねている時の静けさである。

 ヴェーラは馬車から降りるなり、セルウィリアの方を見もせずに言った。

「お部屋へお戻りになる前に、お茶を一杯だけ」

「今は要らないわ」

「要るのです」

 老女はきっぱりと言う。
「必要のない時にこそ飲んでおくものが、この世にはございます」

 セルウィリアはそれに抗わなかった。
 疲れていたからではない。抗ったところで、今のヴェーラには通じぬと知っていたからである。
 老女の頑なさは、しばしば無礼で、しばしば正しかった。

 居間ではなく、彼女の私室に盆が運ばれた。
 薄い赤茶と、小さく切った菓子が二片。ヴェーラはそれを置いても、すぐには部屋を出なかった。
 窓の留め具を見、燭台の蝋を直し、何事でもないふうに室内を一巡する。

「まだ明るいのに、ずいぶん用心深いのね」

 セルウィリアが言うと、ヴェーラは鼻で笑った。

「明るいうちの方が、人は平気な顔で入り込みます」

 言われてみれば、そうかもしれなかった。
 夜の警戒は誰の目にも見える。
 だが昼間の出入りは、書付一枚、使いの一言、顔なじみの足音ひとつであっさり通る。
 今日一日で、それを嫌というほど見せられたばかりである。

 セルウィリアは椅子へ腰を下ろした。
 茶器に手を伸ばし、けれどまだ口はつけなかった。
 頭の中で、紋章院の机の並びと、ドミトリの顔と、アレクセイの書庫の匂いとが、同じところを回っていた。

「お嬢様」

 ヴェーラが、窓際に立ったまま言った。
「今夜あたり、もう一度呼ばれるかもしれませんね」

「アレクセイ殿下に?」

「ええ。殿下か、あるいは向こうの記録の方から」

 セルウィリアはようやく茶を口に含んだ。
 ぬるくはなっていない。ちょうどいい温度である。
 ヴェーラは、こういうところだけは妙に正確だ。

「どうしてそう思うの」

「今日、家譜局長の顔色が悪くなっておりましたでしょう」

「それは見たわ」

「見たなら結構。ああいう男は、自分一人では物を決めません。帰った先で、誰かに報せます。報せた相手が驚けば驚くほど、今夜のうちに何かが動きます」

 セルウィリアは黙っていた。
 ヴェーラの言うことは、およそ外れない。
 外れないからこそ、時々腹立たしい。

「お嬢様のお顔は」

 老女が続ける。
「そういう話を聞いても、あまり青くなりませんね」

「青くなるべき?」

「普通は」

「普通でいたくないのかもしれないわ」

 それは半ば冗談のつもりだったが、口にしたあとで思いのほか正確だと感じた。
 昨夜までは、自分が普通の令嬢ではないことを、どこか後ろめたく思っていた。
 場を明るくせず、愛嬌にも乏しく、記録や順序や紋章の細部ばかり見てしまう。
 だが今日一日で、その“普通ではなさ”が、誰かにとって都合の悪いものであり、同時に自分にしか出来ぬことでもあると知ってしまった。

 扉が叩かれたのは、その時だった。

 ヴェーラが先に動いた。
 わずか二歩で扉の脇へ寄り、声だけ外へ投げる。

「どちら様」

「旦那様より伝言です」

 若い従者の声だった。
「王宮より使いの方が見えております。第二王子殿下付の方で、セルウィリア様へ」

 ヴェーラは扉を細く開け、従者の顔だけを確かめると、そこでようやく中へ通した。

 使いの男は朝の侍従と同じではなかった。
 年かさで、物腰に無駄がない。
 彼は深く一礼した後、封書を差し出した。

「ベルヴィール殿下より、至急のご返書にございます」

 封はまだ新しかった。
 セルウィリアはそれを受け取り、蝋を割った。

 文は簡潔だった。

 ――家譜局より追加の記録が届いた。
 ――もし可能なら、今夜のうちにもう一度来てほしい。
 ――事情が変わった。あなたの目が必要だ。

 最後の行だけ、筆が少し強い。
 昨夜の書状より、余分な飾りがさらに削がれている。急いでいるのだと分かる字だった。

 セルウィリアが読み終えるのを待って、使いの男が言った。
「馬車を表へ」

「今から参ります」

 そう答えると、男は再び一礼して下がった。

 部屋に残ると、ヴェーラが片眉だけを上げた。

「事情が変わった、でございますか」

「ええ」

「結構。こちらも靴を履き替えるだけで済みます」

「あなた、最初から行く気だったでしょう」

「当然でございます」

 老女は平然としていた。
「お嬢様だけを夜の王宮へやれるほど、私はお人好しではありませんので」

 支度に時間はかからなかった。
 昼の衣を大きく変える必要はない。
 ただ、夜の冷えに備えて、肩へ薄い濃紺のケープを一枚重ねる。
 ヴェーラは自分の外套を羽織りながら、セルウィリアの髪の乱れを指先で整えた。

「崩れていないわ」

「ええ。ですから、崩れていないように見せるのでございます」

 老女の言葉は、いつも少し意地が悪い。
 だが、整えるべきところを整えてくれる。

 王宮へ向かう馬車の中で、町はもう昼の顔を畳み始めていた。
 店々の窓に火が入り、往来を行く人の影が長く伸びる。
 夕刻は、人の暮らしがそれぞれの家へ戻ろうとする時間だ。
 そんな時間に逆らって王宮へ向かうのは、何かがすでに日常の道筋から外れている証だった。

「お嬢様」

 ヴェーラが言った。

「何」

「今夜は、紙の方だけを見るおつもりで」

「それ以外を見る余裕があるかしら」

「ございますよ。そういう時ほど」

 セルウィリアは窓の外を見たまま、小さく息を吐いた。
「アレクセイ殿下の顔色でも見ろというの」

「顔色ではございません」

 ヴェーラは即座に訂正した。
「焦り方でございます」

 その言い方があまりにヴェーラらしく、セルウィリアは思わず目を伏せた。
 老女は、恋だの好意だのという甘い言葉で人を測らない。
 けれど、そのくせ人の揺れ方は誰よりよく見ている。

「あなたは、殿下をどう見ているの」

 ふと訊くと、ヴェーラはしばらく答えなかった。
 やがて、馬車が石を一つ越えたあとで、ようやく口を開いた。

「ご自分が何を拾っているか、まだ半分しか気づいておられない方でございますね」

「それは褒めているの」

「半分は」

 残りの半分は何なのか、セルウィリアは敢えて問わなかった。

 王宮へ着く頃には、空の青はかなり深くなっていた。
 昼と夜のあいだには、ほんの短い灰色の時間がある。その時間にだけ、石造りの建物は水に濡れたように見える。
 王宮の尖塔も、衛兵の槍も、窓辺の欄干も、すべてが少しだけ輪郭を曖昧にしながら、しかしその大きさだけは変えぬまま、夕暮れに沈みかけていた。

 今度は正門ではなく、側の小門から通された。
 アレクセイの指図だろう。目立たぬ経路を選んだのだ。
 侍従の案内で渡る廊下は昼より暗く、壁の燭台に火が移され始めている。
 人の気配はあるのに、皆どこか急ぎ足で、余計なものを見ぬように歩いていた。

 書庫の扉の前へ来ると、侍従が小さく会釈した。
「殿下がお待ちです」

 扉が開く。
 昼に見たのと同じ部屋が、灯りの色ひとつで別の表情をしていた。

 窓の外は既に翳っている。
 机上には燭台が二つ増え、火の色が紙を黄にしていた。
 昼は整って見えた棚の影が、今は少し深い。人の考えごとは、夜の方が家具に似合うのかもしれぬと、セルウィリアは一瞬だけ思った。

 アレクセイは机の向こうではなく、窓際に立っていた。
 彼は振り向くと、まずセルウィリアを見、その後でヴェーラを見る。
 その一拍の順が、今はもう彼らのあいだで自然になりつつあった。

「お呼び立てして申し訳ありません」

「いいえ」

 セルウィリアは一礼した。
「何か」

「届きました」

 アレクセイはそう言って、机の上の薄い綴りを手に取った。
 その顔には、昼よりはっきりした緊張があった。だが取り乱してはいない。
 ただ、考える速さに身体が追いついている時の、あの硬さだった。

「家譜局の残りの補修控えです」

 セルウィリアは机へ近づいた。
 アレクセイが差し出した綴りは、古い控え帳の一部らしく、角が少し摩耗している。
 頁を繰ると、補紙、綴り直し、墨の褪色補修、虫損補い、といった細かな記録が年ごとに並んでいた。
 その多くは取るに足らぬ。
 だが、途中の一箇所で彼女の指が止まる。

「……これ」

 そこには短くこうある。
 第三棚南側、女系枝附録、継承線補記に伴う補紙挿入。
 日付は三年前、あの閲覧の二日後。
 補修担当――マルタ・エルネ。

 セルウィリアは、頁の端を静かに押さえた。

「補紙」

 ヴェーラが言う。
「抜いたのではなく、足したのですね」

「ええ」

 セルウィリアは答えた。
「最初からそうだと思っていました。完全に消すより、足して繋いだ方が、後では自然に見える」

 アレクセイは机の上に別の紙を広げた。
 それは侍従が先に抜いておいたらしい写しで、マルタの最後の勤務記録だった。
 病により退職、とだけある。だが退職日は、補紙挿入の五日後だ。

「早いですね」

 セルウィリアが言うと、アレクセイは頷いた。

「病にしては」

「口を閉ざすには、ちょうどよい名目でございます」

 ヴェーラが低く言った。

 セルウィリアは補修控えへ視線を戻した。
 補紙挿入。
 たったそれだけの記録だ。
 だが、その一行で、空白の質が変わる。

 婚姻は最初から存在したのではない。
 存在するように、後から家譜の枝が継がれたのだ。

「ですから」

 彼女はゆっくりと言った。
「三年前の時点で、既にサン=クレール家を王家婚姻の射程へ入れる意図があった。少なくとも、その可能性を作ろうとした者がいる」

「ええ」

 アレクセイは答えた。
「問題は誰が、です」

 灯りが一つ、小さく鳴った。
 部屋の中は暖かいはずなのに、セルウィリアの指先には少しだけ冷えが戻ってきた。

「マルタ・エルネは、どこに」

「まだ探しています」

 アレクセイは短く答えた。
「ただ、家譜局長の顔からすると、簡単には見つからない。見つからないようにされているかもしれません」

 セルウィリアは考えた。
 マルタ。細い字。綴じ糸の扱いの上手な女。
 思い出そうとすると、却って輪郭が曖昧になる。
 こういう時、記憶だけを責めても意味はない。記憶は鍵であって扉ではない。

「もう一つございます」

 アレクセイが別の紙を出した。

「何を」

「補紙の紙質比較です」

 セルウィリアは目を上げた。
 彼は少しだけ言いにくそうな顔をしたが、その目の底にはいつもの、妙な律儀さがあった。

「正直に申し上げると、これは私一人では確信が持てませんでした。紙の厚みや漉き目の違いは、見れば分かるのですが……」

「紙をいじるのはお好きでも、見分けるのは別」

 ヴェーラが言うと、アレクセイは真面目に頷いた。
「お恥ずかしいことに」

 そのやりとりのあまりの自然さに、セルウィリアは危うく笑いそうになった。
 夜の重い話の最中でも、この人は時折、奇妙なところで妙に正直である。

 彼女は差し出された二枚の紙を受け取った。
 一つは古い附録紙の断片。
 もう一つは、補紙に使われたと見られる別断片。

 指先で触れる。
 少しだけ繊維の立ち方が違う。
 色も、古びているように見せてはいるが、日焼け方が浅い。
 さらに、透かしてみれば漉きの癖が異なる。

「違います」

 セルウィリアはすぐに言った。
「補紙は後年のものです。しかも、家譜局の通常紙ではありません」

「どこの」

「儀礼局の控紙に近い」

 アレクセイの顔が一段冷えた。
「やはり、局をまたいでいる」

「ええ。家譜局だけでは足りない。儀礼局と繋がっている誰かが居る」

 ヴェーラが窓の外を見たまま呟く。
「ずいぶんと手の込んだ恋でございますね」

 セルウィリアは首を振った。
「恋というより、席です」

「ええ」

 老女はすぐに言い直した。
「その方がずっと質が悪うございます」

 しばらく沈黙が落ちた。
 外はもうすっかり夕闇に沈み、窓には室内の火だけが映っていた。
 王宮のどこか遠くで、女官たちの足音が小さく連なってゆく。
 誰かの食卓が整えられ、誰かの湯浴みが始まり、誰かの机ではまだ紙が広げられている。そういうありふれた夜の中で、ここだけが別の熱を持っていた。

「兄君へは」

 セルウィリアが問うと、アレクセイは少しだけ首を振った。

「まだです」

「なぜ」

「今この段階で申し上げても、兄上は“サン=クレール家に手違いがあった”で済ませるでしょう」

「婚約は止まりませんか」

「むしろ急ぐかもしれません」

 それはセルウィリアにも分かった。
 ミハイルは、制度に支えられることは当然と思っているが、制度そのものを敬ってはいない。
 誤りが見つかれば直すのではなく、直した顔を整えて進もうとするだろう。

「ですから」

 アレクセイは続けた。
「今必要なのは、家の誤りではなく、系統そのものが不成立だと示せるものです」

「婚姻承認の欠落だけでは足りない」

「ええ。向こうはきっと、別の書付を“見つける”」

 セルウィリアは頷いた。
 その手は向こうも使うに違いない。
 無いものを在るように見せる。
 紙の世界でそれをするには、もう一枚の紙を足すのが一番早い。

「でしたら、先に見つけるべきは」

「その婚姻が成立し得なかった理由です」

 アレクセイは言った。
「破談なのか、死なのか、承認拒否なのか。何であれ、別の場所に痕があります」

 セルウィリアの胸の内で、ひとつ古い頁がめくられる気がした。
 ラズロウ伯家の次男。
 サン=クレール家先代の妹。
 そして、彼女は病没したという噂が、たしか一時だけ流れた。
 だが、噂は記録ではない。
 ただ、噂が流れるにはいつも元になる何かがある。

「聖堂」

 彼女はふいに言った。

「何でしょう」

「婚姻承認前の祝祷記録です。正式承認が無くても、婚姻前の祝祷だけは地元聖堂に残ることがある。もしそれすら無ければ、婚姻話自体が途中で潰れた証になります」

 アレクセイの目が少しだけ見開かれた。
「どこの聖堂です」

「サン=クレール家の領地近く、北街道沿いの古い聖堂です。先代当主の妹は、婚約期のあいだ一時そこへ滞在したはず」

「確かですか」

「……確かなはずです。子供の頃に父の手控えで見ました」

 その言い方に自分でも少し苛立った。
 確か、のはず。
 記録に触れていない以上、今の自分にはそう言うしかない。
 だが、それでも感触は強かった。

 アレクセイはそれを責めなかった。
「十分です」

「ですが遠いわ」

「距離の問題ではありません。今夜すぐ行く話ではない」

 そう言ってから、彼は少しだけ視線を外した。
「ただ、人を出すなら私の名で」

 セルウィリアはそこで、昼にヴェーラが言った言葉を思い出した。
 この人は、自分が何を拾っているか、まだ半分しか気づいていないのかもしれない。
 けれど少なくとも、拾ったものを手放す気はないらしい。

「殿下」

 彼女は言った。
「これ以上、私のために目立つ必要はございません」

「あなたのためだけではありません」

 アレクセイはすぐに返した。
「王家婚姻の正統性に関わる」

「それはそうでしょうけれど」

「それに」

 彼はそこで、少しだけ言葉を切った。
 普段なら、そのまま理屈へ戻るところなのに、今は何かを選びかねている顔だった。

「それに?」

 セルウィリアが問うと、アレクセイは諦めたように息をつき、けれど目は逸らさずに言った。

「あなたが、昨日からずっと、正しい順にしか物を言っていないからです」

 セルウィリアは一瞬、意味が取れなかった。

「……何を仰っているの」

「私はそういう人を、雑に扱いたくありません」

 あまりに真っ直ぐで、飾りがなかった。
 甘さもない。
 けれど、そのぶんだけ変に胸へ入る。

 ヴェーラがゆっくりと息を吐いた。
「殿下は、ほんとうに妙なところでまっすぐでいらっしゃいますね」

「悪いことでしょうか」

「ましではございます」

 老女の返事に、アレクセイは僅かに口もとを緩めた。
 そして、そのままセルウィリアへ向き直る。

「ですから、以後は私の名で動いてください」

 声の調子が、そこで少しだけ変わった。
 やわらかさは消えていない。
 けれど、それを支える骨が一段強くなった。

「書庫への出入りも、照会も、必要なら王宮内の席も、私が通します。そうでなければ、あなたは毎回“昨夜婚約を破られた娘”として扱われる」

 セルウィリアは何も言えなかった。
 それは昼にも彼が口にした理屈の延長ではある。
 だが今の言い方には、理屈以上のものがあった。
 彼はもう単に便利だから囲うのではない。
 誰かに勝手な意味を与えられる場所から、自分の手で引き離そうとしている。

 アレクセイは机の端へ手を置いたまま続けた。

「あなたは、私の庇護下にあると考えてください」

 灯りが、そこでひどく近く感じられた。

 庇護。
 その言葉は、セルウィリアの生でこれまで幾度となく耳にしてきた。
 父の庇護、家の庇護、婚約者の庇護。どれも、聞こえは穏やかで、実際には“黙ってその内にいろ”という意味に近かった。

 だが今、目の前の男が口にしたそれは、少し違って聞こえた。
 囲うためではなく、立たせるための言葉だった。

「……殿下」

 ようやくそれだけ言うと、アレクセイは少しだけ困ったように目を細めた。
「ええ。言い方が大仰なのは承知しています」

「そうではなくて」

 セルウィリアはそこで言葉を探した。
 感謝と戸惑いと、少しの恐れが、胸の内でうまく分かれない。

「そこまでしていただく理由が、私にはまだ」

「あります」

 アレクセイは静かに遮った。
「少なくとも、私には」

 その言い方に、これ以上問い返すのは野暮に思われた。
 彼自身も、おそらくまだ半分しか分かっていないのだろう。
 何に対してそこまでしようとしているのか。
 けれど、分からぬままでも動いてしまうところが、この人の変なところなのだとセルウィリアは思った。

 ヴェーラがゆっくりと立ち上がった。
「では、お嬢様」

「何」

「今夜は、もう十分でございましょう」

 老女はアレクセイへ一礼して続ける。
「殿下も、これ以上お嬢様を座らせておくと、明日の目の下が悪うございます」

「それは困りますね」

 アレクセイが真面目に言うので、セルウィリアはつい視線を逸らした。
 可笑しいのではない。
 ただ、この重たい一日とこの重たい話の中で、時折こういう言い方を挟まれると、胸の張りつめたところが少しだけずれる。

「明日」

 彼は言った。
「朝一番で、北街道の聖堂へ人を出します。返りがあるまで、あなたはここへは来ないでください」

「来るなと」

「ええ。今夜のうちに向こうも動くかもしれない。あなたが出入りすると目立ちます」

 セルウィリアは頷いた。
「分かりました」

「ただし、何か届いたらすぐ知らせます」

 その言葉を聞いて、彼女は初めて、今日一日で積もった疲れをきちんと自覚した。
 紙を読み、父と対し、ドミトリの顔を見、王宮へ戻り、また記録の上に手を伸ばした。
 気力が尽きたわけではないが、疲労がようやく体に追いついてきたらしい。

 書庫を出る前、セルウィリアは一礼した。
「本日は、ありがとうございました」

 アレクセイは軽く首を振った。
「礼は、空白の先が埋まってから」

「では、その時に」

「ええ」

 そう答える声は低かったが、どこか安堵の色を含んでいた。

 廊下へ出ると、夜はすっかり王宮のものになっていた。
 窓の外は深く、燭台の火だけが石壁に小さな島を作っている。
 セルウィリアはヴェーラと並んで歩いた。
 しばらく二人とも黙っていたが、階段へ差しかかったところで、老女がぽつりと言う。

「お嬢様」

「何」

「庇護下、だそうで」

 セルウィリアは少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
「聞いていたのね」

「耳が遠ければ、今ごろ墓の中でございます」

「まったく」

「悪い響きではございませんでした」

 セルウィリアは階段の先を見下ろした。
 夜の下り階段は、昼よりも長く感じる。
 けれど足取りは、不思議と重くなかった。

「……そうね」

 と彼女は言った。

 何が悪くなかったのか、自分でもまだうまく言えない。
 庇護という語そのものか。
 それを口にした人の調子か。
 あるいは、今夜初めて、その言葉に自分を小さくされる気配がなかったことか。

 王宮の外気は冷えていた。
 馬車へ乗り込むと、ヴェーラが外套の襟を直してくる。

「お嬢様」

「何よ、さっきから」

「次に呼ばれるまでに、少しはお休みになりなさいませ」

「命令?」

「懇願でございます」

 セルウィリアはそれに返事をせず、窓の外を見た。
 王宮の高い窓のどこかに、まだアレクセイはいるのだろうか。
 机に向かい、書類を整え、遠い聖堂へ人を出す段取りをつけているのだろうか。
 その姿を目にしているわけでもないのに、妙にありありと想像できた。

 馬車は動き出した。
 夜の町は昼より音が少ない。
 少ないぶん、車輪の音も、馬の吐く息も、胸の内でほどけぬ考えごとも、よく聞こえる。

 サン=クレール家の空白は、もう空白ではなくなりつつあった。
 そこには人の手があり、時があり、誰かの意図があった。
 そしてその先に、自分の婚約破棄も、父の沈黙も、ドミトリの足取りも、一本の暗い線でつながっている。

 けれど不思議なことに、セルウィリアはもはや、その暗さに呑まれる気がしなかった。
 見えぬままでは怖いものも、形を持つと、少なくとも辿ることは出来る。

 膝の上で指を組みながら、彼女は目を閉じた。
 今夜は、眠れるかもしれない。
 眠れぬとしても、それは昨夜のように捨てられた痛みのためではない。
 明日、どんな記録が返って来るのかを待つための、不自由な静けさのせいだろう。

 それならまだ、耐えられると思った。
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