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第二十一章 疑念   高倉有隆・2019年5月21日

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 高倉は自宅で、最近笠木の仕事帰りが遅い事を気にしていた。

 笠木は仕事を辞めると言ったが、退職日までまだ一週間以上ある。仕事の引継ぎの為に、律儀に有給消化をしない笠木を心配した。

 高倉は自宅の自室でL字型のデスクを前にチェアに座っていた。窓を背にしたこのチェアに座っていると、部屋の中が見渡せる。今高倉の瞳には五畳程の部屋が映っている。

 高倉の座っているデスクの横にはシングルサイズのベッドが置いてあり、扉の開いた先の2DKのダイニングの真ん中にはこたつを囲むように座椅子が二つ置いてある。隣の部屋は笠木の部屋だ。

 高倉は自室の壁に掛けた時計に目をやった。今は二十一時半だ。高倉は今日webミーティングが終わった後、仕事を終え職場用のノートパソコンをシャットダウンし、もう一つの自分のノートパソコンを開いていた。笠木の職場は十九時が定時なので、毎日迎えに行こうかスマートフォンのチャットで連絡はしているのだが、今日も残業で帰りが遅くなるからいいと断られていた。

 高倉は笠木が線路から落とされた一件から、可能であれば毎日車で送迎をしようと思っていたのだが、朝は高倉の仕事があるので送れず、帰りは笠木に断られていた。朝は早起きすれば送れるのだが、それも笠木からは「職場に早く着き過ぎてしまう」と断られていた。

 高倉はスマートフォンを操作し、笠木のスマートフォンに以前から入れていたゴーストアプリを開いた。このアプリは笠木のスマートフォンの中に一見入っていないように常駐しており、GPSで居場所を特定したり、笠木のスマートフォンのチャットの履歴や着信相手の履歴を見る事が出来る。

 高倉は以前事情がありこのゴーストアプリを入れていたのだが、もう用済みなので削除しようと思っていた。だが笠木の行動が気になり、なかなか削除出来ずにいた。高倉はまだストーカーまがいの事をしている自分が嫌になった。

 笠木は人と距離を置く事が苦手な人間だった。過去数人の恋人の連絡先も最近まで残っていた事を知っていた。高倉はそれが気に入らなかった。なので、その過去の恋人達や、友人から笠木が孤立するようにした。笠木が人に依存しがちな性格をしている事は知っていた。家庭環境の影響だろうか。

 高倉は久しぶりに開いたゴーストアプリのGPSで笠木の居場所を検索した。高倉は動作の重いGPSの画面を黙って見ていたのだが、笠木の居場所が特定出来ると目を疑った。そこは笠木の勤めている工場ではなかった。

 高倉は自身のスマートフォンのマップとブラウザを開き、笠木の今居る位置を検索した。そこはすすきのの雑居ビルだが、中には風俗店、ゲイバーが入っていた。

 高倉は意味が分からなかった。何故この時間に笠木はこんな場所に居るのだろうか。笠木が風俗店に入るようには見えなかった。まさかゲイバーに居るのだろうか。何故自分にその事を言わないのだろうかと高倉は疑問に思った。

 高倉は考えたくない事が脳裏に過った。

 自分は笠木に捨てられるのではないか。

 高倉は笠木を迎えに行くべきか悩んだが、そもそも迎えに行ったら笠木のスマートフォンにゴーストアプリを入れている事が露呈してしまうかもしれない。

 高倉は呼吸が苦しくなった。

 高倉は両親を亡くしていた。双子の弟も自殺をした。高倉は改めて自分の境遇を呪った。高倉は弟の起こした事件の被害者遺族への慰謝料の関係や事件の影響で親戚には縁を切られているし、友人は皆無だった。高倉には今、笠木しか居なかった。

 人に依存しているのはむしろ自分ではないかと高倉は思い、一瞬自分に対して嫌悪感が芽生えた。演技で弱ったふりは出来るが笠木に本当に依存をしているつもりはなかった。

 高倉は笠木のゴーストアプリを再度開いて、笠木のチャット画面を確認した。すると、笠木のチャットの一番上には高倉の知らない人間とのやり取りが表示されていた。その人間は“岡本”という名前で登録してあった。高倉は一瞬迷ったが、恐る恐るその岡本と笠木のチャット画面を開いた。高倉は目を見張った。

 “嫌がらせに限界を感じる事はありますね”笠木は書いていた。
 “俺で良ければ話を聞くよ”岡本という男は返信していた。
 “少し一人になりたい時があるんです”笠木は返信していた。
 “今日もすすきのに行くんですか?”笠木は岡本の返信を待たず、岡本にチャットを送っていた。
 “行く予定だよ。来るなら待ってるよ”岡本は返信していた。

 高倉はスマートフォンの画面を思わず閉じた。

 デスクの上にスマートフォンを置き、胸に手を当てて深呼吸をした。

 高倉は、笠木が自分の元を離れた時を想像し、一人になった自分を想像して過呼吸気味になった。

 高倉は深呼吸をしながら、恐る恐る再度スマートフォンを手に取ると、ゴーストアプリを開き笠木の着信履歴を確認した。

 着信履歴にも岡本という名前があるのを確認して、高倉は鳥肌が立つのを感じた。着信履歴を閉じ笠木のSNSの画面を開いた。SNSはあまり見たくなかったのだが、笠木の書き込みの更新履歴を確認した。最終更新履歴は三月の笠木の誕生日だった。そこに岡本健司という名前の人間が、おめでとうとコメントをしているのが目に入った。

 高倉はその岡本のSNSのプロフィール画面に移動した。岡本のプロフィールのアイコンは犬の写真で、他に何も書き込みをしていないようだった。

 この岡本という男とはいつから関係があるのだろうか。高倉はしばらく笠木のゴーストアプリを見ていなかったので分からなかった。このゴーストアプリはデモンストレーションタイプなので、ただ見る事は出来るが送信ボタン等は押せないシステムになっている。

 高倉は絶望ししばらく何も出来ず座ったまま硬直したが、自身のノートパソコンのスリープモードを解除し、SNSを検索してトップページを開いた。先程ゴーストアプリ越しに見たSNSだ。

 高倉はスマートフォンを片手に持ち、ゴーストアプリから笠木のSNSの設定画面を表示して笠木の登録連絡先を見た。連絡先にはスマートフォンの電話番号とメールアドレスが登録されていた。パスワードは分からない。

 高倉はノートパソコンで開いたSNSのログインフォームのID入力欄に、ゴーストアプリ越しに見た笠木のメールアドレスを試しに入力した。パスワード欄には「souya0314」と入力し、ログインした。パスワードが違うかもしれないと一瞬思ったが、当たっていた。高倉は、笠木が単純なパスワードしか設定していない事を知っていた。スマートフォンのパスワードもしばらく「0314」の四桁の数字だという事も知っていた。スマートフォンの画面に付いた指紋の位置で分かった。多分他のアプリ等のパスワードも同じなのだろうなと高倉はため息を吐いた。

 高倉はノートパソコンで笠木のアカウント越しに、岡本のページを改めて見た。高倉は岡本を笠木から離したかった。だが岡本の悪口を書こうとしてもまだ何の情報もないので虐げる事は出来ない。

 高倉はSNS上で岡本をブロックし、SNS上での関係を絶たせた。後はスマートフォンのチャットと着信履歴だが、今日笠木が帰宅してシャワーにでも入っている間に笠木のスマートフォンを開き、岡本のチャットをブロックし着信拒否設定をすればいいと思った。

 高倉は再度岡本のSNSプロフィール画面に戻ると、岡本のアイコンの写真を保存した。この写真を利用し岡本の偽アカウントを作成しようと思ったのだ。岡本とそっくりのアカウントを作成し、そこから笠木に「もう連絡しないで」と連絡を入れようと思った。

 高倉は安心したが居間の時計に目をやり、今頃笠木は岡本とバーで飲んでいるのだろうかと想像した。高倉はふと、また過呼吸気味になってきている自分に気付いた。

 高倉は複雑性PTSDだった。精神科から処方された薬を飲もうとデスクの一番下の引き出しを開けたが、何故自分ばかりこのような目に遭わなければならないのかと苛立ちを感じ、手を引き出しから離した。月に一度精神科で処方を受けている。以前はカウンセリングにも通っていたが、殆ど意味がなかったので高倉は通う事を止めた。

 ふと右腕が熱く感じた。

 これは過呼吸になった際によくある事だ。

 高倉は大切な人間を失う事がトリガーとなり、自身が過呼吸を起こす事を知っていた。

 高倉は着ていた長袖のワイシャツを捲って右腕の古傷を見た。昔の傷なので目立たないが、四つ丸い火傷の痕が目に入った。

 高倉は弟を虐待していた母親の前に出て仲裁に入り、代わりに殴られた場面を思い出した。

「やめて」高倉は先程からしてきた頭痛を和らげる為に頭を押さえ、呟いていた。「もうやめてくれ」

 高倉はチェアに座った状態でデスクに肘をつけ、頭を押さえて目を閉じた。過呼吸が収まらず、深く息を吸っては一旦呼吸を止めて息を吐く動作を繰り返した。薬を飲めばいいのは理解しているが、薬に依存する自分ももう嫌だった。

 高倉は実家の部屋に居る自分を思い出した。
 ここは実家の、弟と一緒に暮らしていた子供部屋だと脳が錯覚を起こしていた。まるでタイムスリップをしたようだ。

 感覚がここは実家で、自分は十代の子供で、母親に虐待されている場面だと脳が錯覚を起こしていた。

「あんたたちさえ居なければ」母親はよく高倉達兄弟に言っていた。「あんたたちさえ生まなければ」母親は美しいその顔を歪めて叫んだ。酒に酔っているようで、煙草を吸いながら弟を蹴った。高倉は倒れた弟を庇い、代わりに腹を蹴られ殴られた。

「そこを退け」母親は怒鳴ったが、高倉は弟を守ろうと退かなかった。

 高倉は床に座っている弟を守るように覆いかぶさると、母親は吸っていた煙草を高倉の腕に近付けてきた。高倉は逃げようとしたが、半袖を着ていた細い腕を母親に捕まれた。高倉は当栄養失調気味で、瘦細った体は力がなく母親に抵抗出来なかった。母親は高倉の腕に煙草を押し付けようと近付けた。

「お母さん、やめて!」高倉は叫んでいた。

 熱気が腕に近付いた。それが腕に触れ、激痛が走った。熱い。腕が熱い。

 高倉は吐き気がし、思わず床に吐いてしまった。高倉は母親にまた腹を蹴られたのを感じた。何度か蹴られ、倒れて目の前が真っ暗になったが、気が付いたら泣いている母親が横で自分の腕に包帯を巻き、保冷剤を当てて冷やしているのが目に入った。弟が横で心配そうに自分を見ていた。

「お母さん、ごめんなさい」高倉は母親に謝っていた。「僕が言う事を聞かないから、ごめんなさい」高倉は必死で謝った。謝らなければまた殴られ、煙草を押し付けられると思ったからだった。

 父親が仕事から帰って来て、居間で高倉の腕に巻かれた包帯を見たが、高倉の怪我を父親は見て見ぬふりをした。

 ある日父親が出張に行っている間に、母親は知らない男を家へ招き、寝室で嫌な声を出していた。それが複数回続き、高倉は弟と共に布団の中に籠って手で耳を塞いでいた。

 その男は高倉達兄弟の部屋の窓から見えた。高倉達兄弟の部屋の窓は玄関の上にあるので、毎回男が来る度に家の前に車を停めて降りてくる姿が目に入った。

 男の顔は思い出せなかった。

 それが続いたある日、一階の居間で口論をしている声が聞こえた。両親は口論を普段からよくしているのだが、この日は特に酷く、弟が怯えていたので高倉は弟を慰めた。しばらくすると口論が止んだのか静かになった。高倉は弟に部屋に居るように伝え、一人で恐る恐る一階の居間に向かった。居間の扉を開けると、母親が床に倒れている姿が目に入った。

「お母さん?」高倉は母親を心配して母親の元へ駆け寄った。母親は目を見開いたまま、動かなかった。

 高倉はふと、居間の隣の客室に何かが揺れている気がした。高倉はその揺れている何かを見た。天井から何かがぶら下がって揺れていて、下に椅子が倒れていた。

 高倉は頭を押さえたままふと目を開けると、今いる部屋を見渡した。

 ここがどこか一瞬分からなかった。だが部屋の向こう側のダイニングの壁に掛けられているコルクボードが見えた。コルクボードに飾られているイラストを見て、イラストを描いた笠木の存在を思い出した。

 この部屋は、今高倉が笠木と同居をしているマンションの部屋だ。

 高倉は今いる自分の場所、状況を思い出そうと努力した。

 まだ実家にいて母親に怯えている感情が完全に抜けなかったが、もう自分の周りには父親も母親も弟もいない事を思い出し、深呼吸をした。

 高倉は、中途半端に開けたままのデスクの一番下の引き出しに手を伸ばした。引き出しの中から精神科で処方された薬を取り出し、デスクの上に置いた。高倉はこの薬を飲み続ける事が嫌だった。飲まなければまた過呼吸を起こしフラッシュバックに苦しむ事は分かっていたが、この薬は依存性がある事を知っていたし、徐々に薬を飲まないようにしたかった。

 高倉はとりあえず薬をデスクの上に置いたが、深呼吸をするとこの薬ではなく頭痛薬を飲もうと思い、デスクの引き出しから常用している頭痛薬を取り出した。その頭痛薬を持ち、ダイニングの横にあるキッチンに向かった。水切り籠に置いていたコップに水道水を入れると、高倉は頭痛薬を飲んだ。

 高倉は俯いて深呼吸をした。コップをシンクに置き、自室に戻った。壁に掛けてあった時計に視線を移した。もう二十二時を超えたが、笠木はまだ帰って来ない。

 高倉はデスクの上に置いたスマートフォンを見た。笠木から連絡は入っていなかった。

 高倉は無性に苛立ちを感じた。自分はこんなに辛いのに、このような心理状況を作った笠木が許せなかった。

 高倉は悩んだが、デスクのチェアにまた座ると、自身のノートパソコンのスリープモードを解除した。先程のSNSを開いたままだった事に気付いた。SNSをログアウトすると、とある大型掲示板を開いた。その掲示板は高倉や笠木の悪口の書かれている掲示板の一つだった。

 高倉はキーボードに手を伸ばした。怒りで混乱していた。

 “笠木がゲイになったのは母親が原因です。淫乱の母親が原因ですね。笠木は歪んだ性癖の持ち主です。関わるとろくな事がないですよ”

 高倉はまるで自身の育った環境を重ねるように書き込みをした。

 高倉は笠木を傷つける自分が嫌になったが、笠木が自分以外の誰かと付き合う事はもっと嫌だった。

 高倉は笠木をより自分に依存させる為に、掲示板に悪口を書き込んだ。

 以前は笠木のSNSの裏アカウントを勝手に作成し、ゴーストアプリで仕入れた笠木の個人情報を元に、職場や友人関係から笠木が孤立するように誘導した。そのお陰か、高倉が証拠隠滅罪で起訴されても、刑務所に万が一入っても手紙をくれると笠木は言ってくれた。自分から離れないでくれた。

 高倉は笠木を一生大切にしようと思った。笠木が自分を裏切らなければ。

 他人を依存させるには人間関係から切り離す事が最適だと高倉は知っていた。高倉はその裏アカウントはもう削除していた。

 高倉は弟を失ってから笠木に自殺願望があると言っていたが、あれは嘘だった。

 PTSDに悩まされてはいるが自殺願望などはない。殺人鬼の弟を失って安堵している自分さえ居る。

 毎週月曜日の夕方にカウンセリングに通っている事も嘘だ。高倉は、笠木が自分を心配しさらに離れないでいてくれる事を願った。また、経済的にも人間関係的にも笠木は自分が居ないと困る状況を作りたかった。

 高倉はデスクの横に置いた煙草とライターに手を伸ばし、灰皿を手前に引き寄せた。普段煙草を吸う際はベランダに出るかキッチンの換気口の下で吸う為に移動をしているのだが、今は苛立ちが収まらずデスクのチェアに座ったまま煙草を吸った。

 パソコンのモニターに視線を落とすと、掲示板に何人かが書き込みをしていた。

 “その歪んだ性癖の持ち主と付き合っている高倉はもっと歪んでいる”誰かが書き込みをしていた。

 高倉は苛立ちを感じ、煙草を咥えたままキーボードに手を伸ばし、書き込んだ。

 “高倉が不憫ですね”

 高倉は、笠木の育った環境は以前聞いていたので知っていた。笠木がもっと孤立すればいいと高倉は思った。味方は自分だけでいい。岡本という男が邪魔だと高倉は思った。

 “お前は高倉に同情しているのか?あの殺人鬼兄弟と笠木はこの世から消えればいいと思うよ”誰かがか書き込みをしてきた。

 高倉は煙草をふかすと、辻井に最後会った時を思い出した。

「お前等兄弟なんて生まれて来なければよかったんだ、か」高倉は煙草を右手に持ち独り言を呟くと、急に面白くなり、笑いが止まらなくなった自分が居る事に気付いた。「何も知らない癖に。ふざけるな」

 高倉はまだ煙の出ている煙草を、灰皿には押し付けず灰皿の隅に置き、自然と火が消えるのを黙って見ていた。灰皿の中の吸殻はしばらく捨てていなかったので溜まっていた。
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