夜明けの夢想者

四方山八方

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5.挫折

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 母の病室の前に着いた。先程の部屋では悍ましい気配が外部に漏れていたが、母の病室にはそれが一切感じられない。それでも、悪夢のような経験をしたばかりだったので、私は扉を開けるのを躊躇った。

「大丈夫」

 カヅキの手が肩にそっと置かれた。励ましを受けた私は大きな一呼吸を済ませた後、扉に手を掛けた。

 扉の先にあったのは、純白の布に覆われた不思議な部屋だった。部屋の中心にあるベッドから柔らかそうな白布が、壁や天井、そして窓の外に向かって無作法に伸びている。ベッドの上には見慣れた母の姿があり、穏やかに寝息を立てていた。しかし、その周囲には鳥籠形の大きな檻が置かれ、母を囚人のように世界から隔絶していた。

「カヅキ……どうすればいい?」

 隣に立つカヅキは、母の姿を眺めながら呆けていた。まるで時が止まったように身動ぎの一つも見せなかった。もう一度名前を呼ぶと、少し遅れて彼女は私の問いに答えた。

「……ああ、多分、なんとかなると思う。でも、弾丸は最後の一発だから、慎重に使った方が良いかもしれない」

 カヅキにしては曖昧な物言いだったが、私の中では彼女に対する信頼が完全に出来上がっている。身勝手ながら私は、カヅキは必ず私の母を救ってくれるという確信的な予想を抱いていた。

「取り敢えず、一週間は様子を見たい」
「分かった。あなたを信じてる」

 私は、恐らくはカヅキにしか向けられないような屈託の無い笑みを浮かべた。
 
「うん。私に任せてよ」

 カヅキは不安を振り払うような明るい声で応えてくれた。

 母の病室を後にした私達は、夢境から醒める事にした。私はその方法を知らなかったが、カヅキは夢境からの覚醒を何度か経験していると言う。

「陽波が眠ってしまった場所に行く必要があるんだ」

 カヅキのその言葉に従い、私達は病院の待合室に向かった。そして、私が眠りこけていた待合室の椅子を探し出し、もう一度そこに腰掛ける。カヅキは椅子に座る私の前で片膝を突くと、「始めるよ」と呟いた。私は慌てて「待って」と声を荒げ、彼女を制止した。

「現実に戻ったら、カヅキに会いに行ってもいい?」

 私の問いを聞いたカヅキの表情が僅かに暗くなった。

「……良いけれど、がっかりするかも」
「それはどうして?」
「それは……説明するより、私に会いに来れば分かるよ」

 先程の顔色の変化や意味深な言葉が、この時の私にはあまり気掛かりにはならなかった。カヅキに直接会えるという事実に浮かれていたからだろう。私達はカヅキがいる病室の番号や、顔合わせの為の具体的な日程について話し合い、約束を交わした。話が纏まると、カヅキは現実に戻る方法について説明を始めた。

「手形を握って」
「うん」

 私はロケットペンダントを右の手のひらで柔らかく包んだ。

「目を閉じて、手の中にある手形を意識しながら、心の中で祈るんだ」
「祈る?」
「現実へ戻りたいって思えば良い。あれが食べたいとか、ここに行きたいとか、現実でしかできない事を願うと成功しやすいよ」
「分かった」

 言われた通り、私は目を閉じて、ロケットの硬い感触を強く意識する。そして、『カヅキに会いたい』と心の中で呟いた。


 ✦


 気付けば、ざわざわと騒がしい待合室に私は居た。看護師や患者や見舞い客があちこちを練り歩いている。現実に帰ってきた。カヅキは隣にいない。寂しさに堪えた私は、カヅキとの出会いを思い出して余韻に浸ろうとしたが、受付の方から自分の名前を呼ぶ声がしてきたので、あえなく椅子から立ち上がった。歩きながら時計を見たが、夢境に入る前と殆ど時刻は変わらない。現実と夢境では時間の感覚がだいぶ異なる。

 受付を済ませてから、母の病室へ向かった。途中、何処か見覚えのある部屋があったので思わず足を止めた。部屋の様子が気になって聞き耳を立てていると、母親らしき女性が涙混じりに謝罪する声が聞こえてきた。女性は彼女の子供に謝っているようだった。何かに対して「気付けなかった」と、女性が泣きながら話している。扉越しのくぐもった声では、会話の詳細は分からない。

 ふと顔を上げると、廊下を歩く看護師に怪訝な視線を送られている事に気付いた。私は慌ててその場から離れ、部屋の中の物事が順調に進んでくれる事をひたすらに祈った。

 母の居る病室に着く。扉を開けても、夢境で見た白布が溢れる部屋は無かった。私は母の眠るベッドの傍に椅子を置くと、先程体験した奇妙な出来事について囁くように話す。無論反応は無いが、そのおかげで私は夢境の事を母にだけは話す事ができた。

 けれど、今はカヅキがいる。私の言葉を信じてくれる人がいる。もし母が目覚めたら、カヅキの事を紹介しよう。そんな幸福な未来図を想像して、私は少しだけ泣いた。


 ✦


 翌日、約束していた時間に合わせて、カヅキの見舞いに行った。カヅキの方から話を通してくれたのか、受付はすんなりと終わった。

 病室に向かう途中で、カヅキと何を話したらいいか考えた。彼女の趣味や好きな物を聞いてみたい。彼女が退院したら何処かに遊びに誘ってみようか。偏屈な私にしては普通の思考を浮かべていると思い、独りでに苦笑する。

 気付けば、カヅキが居る病室に着いていた。扉の側のネームプレートには『三森花月』と書かれている。

 花月という名前を目にして、昨日の夢境の景色を思い浮かべた。揺れる青い花、夜空を漂う満月。私は夢境の様相が自分の名前を象っている事を安直過ぎると考えていた。しかし、花月と同様の方法で無意識の世界を構築しているのなら、それは純粋さの現れなのかもしれない。

 都合の良い発想かもしれないが、私の中の捻れた部分が花月によって正されていく実感は確かに存在した。たった一つの出会いでここまで心が前向きになれるとは思わなかった。もしかしたら、花月は私に救いをもたらす天使なのかもしれない。ふと妙に耽美な発想をしている事に気付き、恥ずかしさで薄笑いが溢れる。私は気を取り直す為に深呼吸をした後、静かに扉を開けた。

 病室の中は、医療機器の発する雑音がやけに目立っていた。無機質な電子音を延々と垂れ流している機械の側に、大きめのベッドが置いてある。ベッドの上には一人の少女。私はその少女が花月であると、直ぐに判別する事ができなかった。

 彼女の鼻には呼吸器が取り付けられていて、患者服の裾から伸びた無数の管は傍らの機械に繋げられている。手足は痩せ細り、顔色も悪い。長い黒髪は枯れ草のように乾いて乱れていた。体のあちこちに傷跡があり、喉元にある傷は特に生々しく見える。夢境で見た活発な姿を、今の彼女に当てはめる事は到底できなかった。

「陽波?」

 私の存在に気付いたのか、花月は消え入りそうな声で私の名前を呼んだ。あまりに微かな声にも関わらず、私は不意を突かれたように驚いてしまい、束の間声を発する事ができなかった。

「……こんにちは、花月」

 一驚してからのぎごちない挨拶は、不躾としか言いようがなかった。眼光を失いつつある花月の視線が、私の胸を強く締め付ける。

「夢境で見た通り、陽波は背が高くて綺麗な人だね。オレンジの髪も素敵だよ」
「あ、ありがとう。花月は、その……」

 私は言葉が紡げずに絶句してしまった。自分自身を殴りつけたくなる程の非礼な言動だった。花月は声を失っている私から視線を逸し、ベッドの側にある機械を無気力に見つめている。

「事故があって、体がおかしくなっちゃたんだ。それから容態も悪くなるばかりでさ」
「……そう、だったんだ」

 沈黙。私は未だに彼女に伝えるべき言葉が分からない。励ましか、慰めか。安っぽい同情から生まれた言葉では、彼女の尊厳に傷を付けるだけだと思った。沈黙は続く。居た堪れなさで身を焼かれている気分になった。

「驚かせてごめん。この状況を話すのに抵抗があったんだ」
「えっと……」
「やっぱり、がっかりしたよね」
「ち、違う。そんな事は――」
「いいよ、陽波」

 私の言葉を遮る花月の言葉。微かな笑みを浮かべる彼女の顔が私の方へ向いた。

「こんなに話したのは久し振りだから、少し疲れちゃったな」

 花月は狼狽える私を見兼ねたのか、面会を切り上げる布石を置いてくれた。苦境に立たされている気分だった私は、彼女の気遣いに平然と乗りかかってしまう。

「……なら、私はそろそろ行くね」

 そう言い捨ててから、冷淡な私はそそくさと扉へ向かった。私が扉に手を触れた瞬間、「陽波」と背後から名前を呼ばれ、おずおずと振り返る。

「明日の午後、また夢境で会おうよ」
「……うん」

 力無い生返事をしてから、私は花月の居る病室を後にした。

 いつもは看護師達が駆け回っている筈の病院の廊下だったが、何故か人の気配が少ない。他者を感じさせない静寂の空間は、先程行われた面会に対する悔悟を助長させた。激しい運動をした訳でもないのに、私の体は酷く疲れていて、しばらく歩いた先に見つけた長椅子に、思わず座り込んでしまった。咄嗟に項垂れた私は、鈍い光沢を帯びたリノリウムの床をじっと見つめながら、己を蔑む作業を始める。

 何が会いに行きたいだ! 何が好きな物を聞きたいだ! 何が遊びに誘うだ!

 私は自分の一方的な欲求を叶える事ばかりを頭に浮かべ、花月の病状を微塵も想像しなかった。のみならず、花月の姿を見た私はひたすら戸惑うだけで、結局は彼女の助け舟に縋り、逃げるように病室を抜け出した。

 自己憐憫の沼から這い上がった気でいたが、やはり私は花月に助けられていただけであり、私自身に大した変化は無かったのだ。相変わらず、私は他人の力で立っている。どうすれば、私の人格は自立できるのだろうか。

 分からない。

 疑問という重りが詰まった頭が、床に向かって項垂れる。未だ静かな廊下の空気に倣い、私は声を押し殺しながら泣いていた。
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