夜明けの夢想者

四方山八方

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6.誓願

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 病院に行くか迷っていた。正確には病院で夢境に入るか迷っていた。

 昨日の花月との面会は、私にとってあまりに後ろめたい経験となり、彼女との再会を思う気持ちは最早めっきりと失われている。しかし、このまま彼女と会わないというのは、絶対にあってはならない。それは決して母の治療という私的な利益が理由なのではなく、花月の尊厳を守る為である。そうしなければ、私は人として在り得ない。

 その日は登校日だったが、授業の内容は殆ど記憶に無かった。気付けば、いつの間にか放課後のチャイムが鳴っている。決断までの猶予は確かにあった筈だが、瞬く間に時は過ぎ去ってしまった。

 結局、私は自身を鼓舞しながら、なんとか病院に辿り着き、いつものように母の病室へ向かう事にした。意識の無い母に向けて「私に勇気を下さい」と微かな声で呟くと、ロケットペンダントを右手でしっかりと握り締めた。

 数十分後、私は眠りに就き、嗅ぎ慣れた潮風の香りに目を覚ました。窓辺には月明かりが差し込み、病室には至る所に白い布が溢れている。そして、以前と変わらず母の眠るベッドの周囲は頑丈な檻に覆われていた。

「いってきます、母さん」

 私は母に挨拶をしてから病室を出た。返事が返ってこない事を理解していても、声を掛けずにはいられない。私は自身が放つ言葉の中に、言葉の機能とは異なる、母との繋がりを保つ力があると信じているのかもしれない。

 花月の病室へ早足で向かう。しかし、彼女の病室の扉は無数の太い鎖に覆われていて、簡単に開けられるような状態では無かった。何かを封じ込めてあるように見えた。気掛かりだったが、今の私にはどうする事もできない。渋々、病室を離れて屋上に向かってみる。初めて花月に出会った場所なら、きっと何かある。自分でも浅はかとしか思えない、そんな直感に従って私は脚を動かしていた。

 私の勘は中々鋭いのか、屋上に着くと人影を見つけた。長い黒髪を靡かせながら、柵の前で景色を眺めている。花月だ。彼女はまだ私の存在には気付いていない。

 声を掛けるか迷っていると、さっき開け放った扉が音を立てて閉まった。それに合わせて、花月は私の方へ振り返る。こんな事が前にもあったなと、私は苦笑いを浮かべた。

「陽波」

 花月は元気に私の元へ駆け寄ってくる。人懐っこい笑顔が眩しかった。最初に会った時とは違う服装で、オーバーサイズのデニムシャツをゆったりと着こなしている。帽子もキャスケットからキャップに変わっていて、初めて会った時よりかなりカジュアルな印象を受けた。私が物珍しそうに花月の格好を眺めていると、彼女は嬉しそうに言った。

「夢境って、眠る時に思い浮かべた服装で入れるんだよ」
「へえ、だから今日は服装が違うんだ」
「陽波も、今日は変わった服を着てるけど」

 悪戯っぽく笑う花月に言われ、自分の格好を見返した。私も以前と違って高校の制服を着ている。白いシャツに水色のスカート。ネクタイもスカートと同じ水色である。可愛らしいデザインだが、私に似合うとは思えない。

「似合わないでしょ」

 つい内心で思っている事を口にしていた。花月は眉を顰めて言い返す。

「そんな事無い、可愛いよ。髪色にも良く似合ってるし。陽波は謙遜し過ぎだね」
「そう? ありがとう……」

 こうも真っ直ぐに褒められると、嬉しさよりも照れ臭さが勝る。花月の称賛の声を浴びると、より一層彼女に惹かれていくついでに、あまり好きではなかったこの制服の事も気に入り始めてしまう。

「今度、私の学校の制服も見せてあげる。陽波のとこと違って、地味だけど」
「うん、楽しみにしてる」

 そして話が途切れ、束の間の沈黙が訪れる。私はこの静寂が謝罪を切り出す絶好の機会に思えた。

「花月」

 名前を呼ぶと、青みを帯びた瞳が私の姿を捉えた。

「どうしたの? 陽波」
「昨日はごめん。……私、あなたの事を考えてるつもりだったのに、本当は自分の事しか考えてなかった」

 花月は面食らった顔をして、軽い溜め息を吐いた。

「昨日の事はもういいよ。気にしないで」
「気にしないなんて無理だよ。私は結局花月に頼ってばかりで、私の足で立ててない。夢境でも現実でも、それは変わらない。今もこうしてあなたに弱音を吐いて、何かを期待してる。でも、それ以外にどうすればいいのか私には分からない……」

 私の中の問題が、私の存在を責め立てる。花月のおかげで矯正されかけた人格が再び屈折していく。平然と己の弱さを吐露してしまう自分が憎い。昨日の失態を取り返す為に彼女に会いに来た筈が、恥ずかしげもなく同じ行為を繰り返している。果たして私は何がしたいのだろうか。それすらよく分からなくなってきた。

 何かを変えられる気がした。しかし、結局は卑屈な私に元通り。自分が嫌いな私。自分を理解できない私。他人を拒む私。だけど、他人に縋る私。あまりの傲慢さに反吐が出そうだ。

「陽波」

 花月の力強く優しい声が、耳に障る。彼女の声を聞いていると、甘えてしまいたくなる。やめて欲しいのに、花月は話し続ける。

「陽波はどうしたいの? 本心を聞かせて」
「独りで立てるようになりたい」
「それは自立するという事?」
「そう、自分自身の力で他人と対等に並び立てるようになりたい。私は今、あなたの手を借りて立っているから」

 私が漏らした本音を聞いた途端、花月は驚いたように目を丸くした。そして、口元に手を当てながら、物思いに耽り始める。私には彼女の意図が全く読めなかった。

「陽波の願いは叶うよ。今すぐにではないけど、遠い未来でもない。うん、陽波ならきっと大丈夫」

 花月の言葉には、確信が宿っているように聞こえた。彼女への信頼は確かだが、私はその言葉を素直に受け入れて良いか分からなかった。何か違和感を覚える。それが何なのか花月に聞かなければ。

「――それにしても」

 追及を始める前に、花月は話の流れを変えようとする。その流れに私はうまく抗えない。

「陽波はどんな高校生活を過ごしているの?」

 しかも、私にとって全く好ましくない話題が始まってしまった。

「……話すほどの事は無いよ」
「そんな事言われると、逆に期待しちゃうじゃん。うーん、そうだなあ、友達はどれ位いる?」
「…………」
「あっーと、ごめん。この話はもういいや」

 その後も趣味やら好物やら、他愛の無い話をするばかりで、私の違和感を解消できるような話題は上がらなかった。それでも花月との親睦は以前より深まり、私と彼女の間にまた一つ繋がりが生まれた気がする。私は温かい心地で花月にその日の別れを告げ、夢境を後にした。

「また明日、陽波」
「うん、また明日」

 勢い良く手を振る花月に対して、私は控えめに手を振り返した。


 ✦


 花月に本心を語った日から、私は毎日病院で夢境に入り、彼女と話し合った。夢境で花月と会う傍ら、私はもう一度現実で彼女に会おうと考えていた。今度は前回のような醜態を晒しはしない。決意を固めると花屋に行き、夢境に咲いているような青色の花を買った。それから私は花月のいる病室に直行した。

 その途上、花月の病室から一人の男性が現れ、青い花を抱える私と鉢合わせになる。男性は少し驚いた顔で私の顔を見つめていた。花月の病室から現れたこの男性は、一体何者なのだろう。中肉で背は高い。整髪料でしっかりとまとめ上げた髪から生真面目な印象を受ける。薄く刻まれた皺を見るに、年齢は四十代後半だろうか。花月の父親というのが妥当に思える。

「あの、こんにちは」

 好奇心に駆られて、思わず挨拶をしていた。

「こんにちは。ええと、あなたは……」

 男性は柔らかく落ち着いた声で挨拶を返すと、私の正体を推測するような素振りを見せた。

「花月さんの友達です。白瀬陽波と言います」
「ああ、そうでしたか。私は三森いつき、花月の父親です。いつも娘がお世話になっております」

 そう言って、樹さんは丁寧にお辞儀をした。自分の娘と同い年である私に対して、彼はあまりに謙った態度で接してきた。樹さんの恭しさに面食らって、私は狼狽えるばかりになる。

「あ、いえ、私は花月さんと最近知り合ったばかりで……。それに、どちらかというと、私の方がお世話になっているというか……」
「そうなのですか? ……しかし、態々あの子の為に見舞いに来て頂いているのですから、お世話になっていると言っても過言ではありません。これからも何卒、花月の事を宜しくお願いします」

 樹さんは先程よりも深く頭を下げた。命の恩人に対するような謙虚な態度を前にして、私はあたふたするくらいしかできなかった。

「……では、私はこれで失礼したいと思います」
「あ、待って下さい」

 この場から立ち去ろうとする樹さんに、私は制止の声を投げた。聞いてみたい事があったからだ。

 今までの花月との会話の中で思っていた事がある。花月は家族の事をあまり口にしたがらない。誰にでも込み入った事情があると思って、彼女の家族について、あまり聞かないようにしていたが、全く気にならないと言えば嘘になるだろう。花月はどんな家族がいて、どんな風に過ごしているのか。それを実の家族から聞いてみたいが、話すのを嫌がっている本人の許可は、決して降りていない。

「いえ、やっぱり何でもないです。引き留めてしまってすみません」

 私は罪悪感に負け、結局家族について尋ねる事はできなかった。本人がいない所でこそこそとやり取りをするよりは、やはり花月の口から直接事情を聞いた方が良いだろう。

「いえ、お気になさらず」

 樹さんは今度こそ私の前から消えようとしたが、背中を向ける直前、何処か躊躇いがちに口を開いた。

「……花月から話は聞いているかもしれませんが、あの子は今とても辛い状況にあります。どうか娘の事を励ましてあげて下さい」

 私が返事をする前に、樹さんは既に脚を動かし始めていた。遠のいていく彼の背中は、酷く疲れているように見えた。
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