夜明けの夢想者

四方山八方

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14.黎明

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 カンテラの炎は、幻象を焼き払う事はできなかったが、敵意を退ける事はできた。炎に怯える異形の天使は私への攻撃を諦め、沈黙し、その双翼で自分の体を覆うだけの存在になった。私はカンテラの力に得心しながら、先へ進む。

 廊下の奥へ進むに連れ、目に映る景色は酸鼻を極める物へと変化していった。足元を流れる汚水の水面には、無数の傷に塗れた手足の片割れが浮かんでいる。壁際に埋め込まれた天使はその数を増やし、終いには壁と天井の殆どが蠢く奇怪な四肢と翼の群れに覆われる事となった。カンテラのおかげで、彼らから危害を被る心配が無かった事が、唯一の救いと言えるだろう。

 この悍ましい光景を見て、私はやるせない気持ちになった。これはまさしく花月の心象風景なのだと、彼女の記憶を体感した私には理解できた。早く彼女に会いたかった。会って話をしたかった。その為には、この道をひたすらに進むしかない。

 罪悪と悔悟の象徴を眺めながら歩き続けていると、上り階段に辿り着いた。新たな道の様相はこれまでと異なり、床も壁も天井も黒い染みに覆われている。階段を上り切った先には、白い扉が佇んでいた。花月の病室の扉。よく見知った扉だった。

 慣れた手つきで扉を開けた。白を基調にしている筈の病室は、そこら中が黒く変色していた。部屋の中央には、誰かが横たわっている。

 花月。

 周囲の漆黒の中で、彼女の薄白い肌は対照的に映った。花月の肉体の殆どは周囲の暗闇と混じり合い、輪郭が曖昧になっている。

 私は静かに花月の元へ近付いた。私を外敵と見なしたのか、闇はより一層暗く深まり、私の視界は黒一色に染まった。闇に抗うようにカンテラの炎が激しく盛り、暖かな光が道のりを照らしてくれた。

「助けに来たよ、花月」

 花月の側に立った私はそう告げた。彼女の胸元には底知れぬほどに深い闇の淵が開いていた。その淵の中には何の気配も感じなかった。それは彼女の存在を完全に消し去る為の虚無だった。恐らく、今の花月には私の声を受け取る感覚や意識、呼吸や血液の循環といった生命活動の一片すら残されていない。そしてもう間もなく、花月の心身は虚無の闇に溶けてしまうだろう。

 どれほどの思いで彼女が闇に呑まれる選択をしたのか、私はその一端を知っている。その意思を決して無下にしたくはなかったが、彼女が破滅的な願望を叶えてしまう前に、伝えきれていない私の声を聞いて欲しかった。あわよくば、私の声によって彼女を救ってあげたい。彼女が私を救ってくれたように。

 これは私の傲慢だ。私の行為は、彼女の傷跡を一層増やしてしまうかもしれない。更なる絶望を与えてしまうかもしれない。それでも、心の揺らぎの中にある微かな希望を私は信じたかった。私と花月の間にある繋がりの強さを信じたかった。

 ――陽波。

 私の決意がより明確な形を持った時、カンテラの炎の中から、母の声が聞こえた気がした。声に導かれるように、横たわる花月の上にカンテラを掲げた。すると、独りでにガラスケースの扉が開き、小さな火種を吐き出した。今にも消えてしまいそうな微かな炎が、花月の胸元に開いた淵の底へと落ちていく。私はその現象に特別な何かを見出し、自ずと呟いていた。

「夜明けが来る」

 一言の後、深淵の奥底から赤い光が吹き出し、花月を覆っていた闇を瞬きと共に打ち消した。光は立て続けに部屋を覆う闇を消し去り、病室を元の姿に戻していく。

 窓越しに火種から生じた物とは異なる色彩の光が見えた。

 朝日だ。青白かった花月の表情が朝焼けによって赤みを帯びる。目を凝らすと、静かに寝息を立てているのが分かった。生気を取り戻した彼女の姿を見て、私は安堵の溜め息を吐いた。

 世界が夢から目覚め始めている。今は元いた場所に戻るべきだ。彼女とは、もう一つの世界で話をしよう。


 ✦


 現実の病室に戻る。先程、夢境で見た朗らかな母の姿はそこに無かった。今は深い眠りの中にいる。また別の機会に母の病状について説明を受ける事になるだろう。私はナースコールのボタンを押した後、素早く病室を抜け出した。

 あまりに色々な事が起こったせいか、酷く疲れていた。その日は家に直帰すると、泥のように眠った。

 数日後、樹さんから花月の容態が安定したと話を聞いた。私は早速、彼女の元へ向かう事にした。花月の病室の前に立つ度、私は言い知れぬ不安や緊張を抱いていたが、この日は妙に心が落ち着いていて、自然な状態だった。

 病室に入った途端、ベッドの上にいる花月と目が合った。今までと比較すると、血色はかなり良くなっていたが、私の顔を見る表情は酷く険しい。私は「おはよう」と軽く挨拶を済ませると、何食わぬ顔で見舞いの花を花瓶に挿した。その間、花月は一言も声を発さなかった。

 花を飾り終えると、私はベッドの傍らに置かれた椅子に座って、花月と向き合った。花月は眉間に深い皺を作りながら、怒りに満ちた視線を向けてくる。ここまであからさまに不機嫌な顔をする彼女を見るのは初めてだった。険悪さを曝け出す花月の事を気にも留めず、私はいつもの調子で話し掛けた。

「花月、具合は良くなったみたいだね」
「そんな事はどうでもいい。陽波……何をしたの?」

 鋭い剣幕で花月は問う。

「あなたを助けた」
「どうやって?」
「母さんに手伝って貰ったんだ」
「それで? 何を犠牲にしたの?」
「母さんがまた眠りに就いた」

 私の返答を聞いた花月は、勢い良くベッドの上から身を乗り出した。逆上して血眼になった顔を、私の顔へ寄せてくる。

「どうしてそんな事をしたの! 岬さんが目を覚ませば、陽波は幸せになれたのに! 私だって、天国に行く事ができた!」
「それは違う」
 
 声を荒らげる花月とは対照的に、私は落ち着いた口調で言った。

「私の幸せには花月が必要だから」
「私がどんな人間かも知らない癖に、必要だなんて言わないで!」
「知ってるよ。夢境で花月の記憶を感じたから」

 花月の怒りの表情に、悲痛と恥辱が混じる。

「それなら、陽波の幸せの中に私の存在が不要な事はよく分かるでしょう? 私は昔からずっと他人を傷付けてきた。それが私の本性だから。陽波の事だって、心の渇きを満たす為に利用していただけで、あなたを本心から求めた事なんて一度も無い」
「私と一緒に居た理由がなんであれ、花月のおかげで私は立ち上がれたんだ」

 花月は鼻で笑った。

「そんなのはただの偶然だよ。私と出会わなくても、立ち上がる機会なんて何処かにあった」
「そう、偶然なんだよ、あなたに会えた事は。でも、私を助けてくれる人と一生会えない事だってあったかもしれない。考え方を変えれば、それもきっと偶然なんだ」

 花月の鋭い剣幕は既に消えていた。彼女は力無く項垂れて、シーツの上に現れた己の影を無心に見つめている。

「私は贖罪の機会をふいにしながら、何度も罪を繰り返してきた。もう、取り返しがつかないほどに。……私は呪われるべき罪人で、救われるにはこの命で償わないといけないんだ。私は誰かと一緒にいる資格なんて無い。この世界から消えた方がいい存在なんだよ。それなのに、陽波はどうして私の事を肯定するの? どうして私を助けたの?」

 私は直ぐにその問いには答えない。

「花月」

 代わりに彼女の名前を呼んだ。呼び掛けに応じて、花月は私と視線を交わす。

 彼女との繋がりを確かめなければならない。彼女を救う為に。

 私という存在から、心と体を通じて生み出される真の言葉には、計り知れないほどの力が備わっている。多くの人はきっと、それに気付いていながら、余分な感情や意思を雑音として加え、世界に対する誤った認識によって体を塞ぎ、純粋な言葉を発する事ができなくなっている。

 しかし今、私の心は澄み切っており、この体があらゆる世界に開かれている事実を、正しく認められていた。あとは淵底に淀む彼女を、私の側へ引き上げるだけだ。

「あなたを愛しているから」

 私は今まで生きてきた中で最も強い力を持った言葉を口にした。それから、永遠のような沈黙が続いていく。

 花月は見開いた目から静かに涙を流していた。

 一つの言葉に余りにも多くの気力と体力を使った私はしばらく声も発せずにいた。それは花月も同様で、彼女は深々と泣き続けるばかりだった。二人の間に再び言葉が交わされるまでには、長い時間が必要だった。

「陽波」

 沈黙を破ったのは花月の方だった。涙で腫れた眼で私をじっと見つめている。

「頼みたい事があるんだ」
「……私にできることなら」

 深く繋がれた二つの心身に、損得など存在しない。私は依頼の内容も聞かずに頷いていた。


 ✦


 病室に三森夫妻がやってきた。私は二人に会釈をすると、速やかにベッドから離れ、病室の端の方へ、花月の視界に入る場所へと移動する。夫妻は用意された椅子に座り、花月と向かい合った。

 これから行われるのは再生の儀式だ。私は今、儀式の見届け人としてここにいる。花月が息を吸う音が静かな病室に響く。それが儀式を始める合図だった。

「二人に伝えたい事があります」

 粛々とした花月の声が辺りを包む。三森夫妻は固唾を飲んで、次の言葉を待っていた。

「私は……何度も二人に迷惑を掛けて、大切な物を失う原因を作りました。それは到底赦されない事だと思います。罪を贖う方法を探してきましたが、私の心の弱さのせいで、全てを反故にしてしまいました。だから、私は……」

 花月の声が途切れる。本当に伝えたい言葉を口に出す勇気が湧かないのだろう。花月の潤んだ瞳が、夫妻の背後に立つ私の姿を捉える。そんな彼女に向かって、私は優しく微笑みかけた。大丈夫。花月は意志を表明するように小さく頷いた。

「私は自分を変えたいと思います。贖罪の機会を得る為に強くなりたいと思います。でも、一人きりだと、また道を間違えるかもしれません。だから、二人の力を貸して下さい。……こんな事を言う資格は私には無いかもしれないけれど、私を、私をもう一度、家族として迎えてくれませんか?」

 切なる懇願を耳にした夫妻は、空かさず立ち上がり、花月の体を力強く抱擁した。

「花月、お前を家族と思わなかった事なんて、一度だって無い」
「あなたはいつだって私達の娘よ」

 花月は涙に咽びながら、両親の体を抱き返した。

「ありがとう、父さん、母さん」

 再生の儀式を見届けた私は、静かに病室から立ち去った。


 ✦


 病院のエントランスで父と鉢合わせた。

「父さん? どうしたの?」
「ああ、陽波か。仕事が半休になったから、母さんを見舞いに来ていたんだ」

 微笑する父を見て、不意に幼い頃の記憶が呼び起こされた。市立病院の近くにこじんまりとしたケーキ屋がある。祝い事があると、そこでよくケーキを買った。家族の中で一番ケーキを気に入っていたのは父だった。一見すると堅物に見える父だが、案外甘い物には目が無いのだ。

「帰りにケーキでも食べない?」
「もしかして、あそこのケーキ屋か? 珍しいな、何か良い事でもあったのか?」
「うん、ちょっとね」

 何気ない思い出を誰かと共有している事実が、妙に嬉しく感じられる。私はそんな細やかで美しい繋がりに、光溢れる前途を垣間見た。
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