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13.浄火
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瞼の中に湛えた涙は、行き場を失い頬を伝う。泣き疲れ、二つの瞳が渇きを覚えても、感傷は絶えず私の心身を蝕んだ。
幾度も過ちを繰り返し、果てに手に入れた孤独を噛み締めた。何かに縋るように形見のロザリオを手のひらの中に収め、瞼を閉じ、夢想の世界への逃避を願う。しかし、今宵は眠れぬ夜だった。罪を意識する『意識』を手放す為に、頭の中に祈りの言葉を木霊させた。
懺悔でもあり、贖罪でもあるこの儀式を絶え間なく続けていると、果てしない夜を終わらせる為の微睡みがようやく訪れてくれた。
✦
見知った病室であったが、見知らぬ病室でもあった。姿形は現実の物と変わらないが、本質が異なっている事を直感できた。窓辺から外を見ると、明らかな変化が窺える。病室から見える筈の町並みは深い暗黒に覆われ、常闇の中に群青色の花々が咲き乱れていた。
この眠りの中でのみ現れる世界の事を、私は『夢境』と名付けた。
夢境における最大の変化は、ロザリオが回転式拳銃に姿を変えた事だった。理由は不明だが、この銃の効用を私は感覚的に理解できた。自身の魂――生命力、精神力の他に、自我や思考や理性といった人間としてあり得る要素――を他者に分け与える能力がこの銃には備わっている。
ロザリオの変貌は、私が天国へ昇る為に天使が残してくれた最期の御業なのだと、私は独りでに悟った。この回心によって、夢境の病室は私の第三の故郷となった。
生まれ変わった私は一切の逡巡も無く銃の引き金を引き、甘美な自己犠牲を堪能した。弾丸を放つ事で、心身に降りかかる減退と苦痛も、乗り越えるべき試練として快く享受した。
四名の隣人の魂を救済した頃、夢境で始めて明確に意識を持つ人と出会った。その人の名前は『白瀬陽波』と言った。細身で背が高く、物憂げな面立ちと明るいオレンジ色の髪が印象的な少女だった。
それまでの孤独が反動となったのか、私は陽波との出会いに感激し、彼女と友人になる事を強く欲した。その為に、陰湿な本性を押し殺し、陽気で心優しい人格の仮面を被った。かつて私の兄だった人の姿を真似たおかげか、策略は想像以上に上手くいった。陽波は直ぐに私に心を許し、懐くようになった。彼女からの好意は得も言われぬ親近感と征服感を私に抱かせ、自ら心に取り付けていた後悔と反省の桎梏は、容易に外れてしまった。
陽波の気を引く為に私は役者となり、恐怖に打ち勝たんとする勇士や、慈悲深き聖者、秘密を孕む隠者の姿を演じた。かいあって、間もなく陽波は私への依存を始めた。卑屈で臆病で猜疑心の強い彼女が唯一、私という存在にのめり込んでいく過程に、私は強い快感を抱いていた。他者を手中で弄ぶ行為に罪悪を感じる事もあったが、精神的優位とそれに伴う種々の副作用は、手放し難い悦楽を私にもたらした。
しかし、私の浅はかな欲望は陽波の母との邂逅によって、跡形もなく消え去った。陽波の母――白瀬岬さんを初めて見た時、天使の面影を垣間見た気がした。その時の私は雷に打たれたような気分になり、しばらく放心するほどに感動していた。
岬さんの姿を見てからというもの、私の邪な意思は浄化され、彼女とその娘である陽波を救わなければならないという決意へと昇華していた。そして私は、夢境における本来の目的を思い出し、再び天国への到達を目指すようになった。
神聖な昇天に向かう意志は、純然たる殉教者への正道へと私を導いた。歩みを進める次第に、私は自己犠牲の陶酔に対し不感となり、天国という報酬を忘れ、功利や損得に依らない義務として、崇高なる神勅として、二人の親子を救おうとしていた。
そして遂に、信仰を示す時が来た。
夢境のとある病室、私は最期に救済するべき隣人の元にいた。かの人の意識は檻の中に囚われている。その檻は羽ばたく者から空を奪う鳥籠の形をしていた。
私はこれまでに施してきた奉仕の中でも、最も入念な儀式を執り行った。記憶にある限りの聖句を幾度も唱え、長い時間を費やしながら瞑想に耽る。そうして、心中に微かに漂う凡俗な願望や思念を消し去り、全く純真な信心を取り戻そうとした。
精神を可能な限り洗い流し、磨き上げ、その清潔の有り様が頂点に達したと感じられた時、私は右手に銃を掴んだ。そして、磔刑に処される聖人の如き力強さで歩を進め、檻の前に直立した。隣人は檻の中で、穏やかに寝息を立てている。
「初めまして」
自ずと声を掛けていた。理由は分からない。銃口を鉄檻の頂点へ向ける。
「白瀬岬さん」
隣人の名を呼んだ。聞こえる筈もないのに。指先を引き金に掛ける。
「どうか……陽波を幸せにしてあげて下さい」
パンッ。
軽やかな破裂音。薄く漂う硝煙の匂い。そして、私の内にある大切な何かが消失を始めた。
事は済んだ。帰るべき場所に帰ろう。元いた病室へ、第三の故郷へ。私は、私が喪われていく感覚を噛み締めながら、脚を動かした。
私の精神の殆どは汚れた悪しき物――歪んだ猜疑、浅はかな偽善、傲慢な支配欲――の世界だった。時折、美しい善良の物――天国、至上の幸福、無償の奉仕――が立ち現れ、既存の世界を洗い流そうとする。
二つの世界の間には、両者が衝突し、混ざり合う干渉点があった。そこは恐らく、私の存在を確定する要素の多くが収斂し、滞留する場所だった。そこでは美醜も善悪も明確な形を保てない。そこは人間の世界であり、思想の世界であり、私そのものだった。私が助けてきた隣人達も、私の二つの家族も、私の友人とその母親も、そこにあった。
安息の故郷に帰り着くと、私はベッドの上に身を横たえ瞼を閉じる。微睡みの中、内なる二つの世界は凪に包まれ、互いの領域を固定していく。二つの世界の干渉によって存在を許されたもう一つの世界は、徐々に霧散を始める。
私の人間と思想と私自身が消えていく。私の内に存在する、私を取り巻く人々が消えていく。
全てを覚悟していたつもりだったが、私は何故か泣いていた。しかし、その理由を考える力が私には無かった。私の精神は周囲から這い上がってきた何かによって、既に衰弱している。それは恐らく、価値も意味も存在も持たない虚無であった。
世界との一切の繋がりが絶たれたこの状態が、これこそが天国なのだろうか。きっとそうに違いない。
私の意識は、永劫に続く深淵へと手引された。
✦
気付けば、私は長い廊下に横たわっていた。頭が割れそうになるほど痛む。苦痛に悶ながら、かろうじて立ち上がり、果ての見えない廊下の先へと視線を移した。霞のような少女の姿が遠くに見えた。廊下の奥にひしめく闇の中へ、走り去ろうとしている。
「花月、待って!」
反射的に名前を呼んだが、その名前の持ち主が誰の物なのか分からなくなっていた。その名は、私を示すのか、今視界から消えた少女の物なのか、それとも別の……。
「私は花月?」
試しにその名を自分に当て嵌めてみたが、言いようのない違和感を覚えた。しかし、私が花月でないなら、花月とは誰の事なのだ。そして、私は何者なのだ。
「私は誰?」
呟くと、酷い頭痛と動悸に襲われ、大量のイメージが頭の中を駆け巡った。無数の記憶の針が脳髄に突き刺さり、私の人格を変革しようとしている。自己の存在が、曖昧な夢の世界に侵犯されている感覚を抱いた。
私は、私を保つ為に、身に付けている物から自身の正体を探った。上着のポケットに手を入れると、何か硬い物が指先に触れる。それを取り出そうとしたが、自己を失う恐怖と焦燥のせいで、手のひらから落としてしまった。転がり落ちた物は金色の光を放ちながら、床を滑っていく。私は慌てて落とした物に駆け寄り、それを拾い上げた。
それは黄金色をしたペンダントだった。楕円形のチャームには、太陽と波の模様が刻印されている。刻印を指でなぞってみると、不意にチャームが開いた。
中には一枚の小さな写真が入っている。笑顔を向ける二人の若い夫婦、その間に少し不貞腐れた表情をする少女が立っていた。この写真がどんな風に撮られたのか、私は知っている。
とある家族が旅行をする話。旅先で夫の友人が写真館を営んでいると聞いて、家族はそこで写真を撮ってもらう事にした。娘は早く遊園地に行きたかったので、機嫌が悪くなった。写真を撮る時もしかめっ面を続けていた。けれど、出来上がった写真を見ると、娘は写真をとても気に入り、喜びの声を上げた。その姿を見た妻は写真をロケットに入れて、娘に渡した。
幸せな思い出がいつまでも色褪せないように……。
夫の名前は白瀬航、妻は岬。娘は、白瀬陽波という。
「私は……白瀬陽波」
途端に涙が流れた。遠い過去に置き去りにされていた美しい記憶の断片が、存在の仕方を失いかけていた私を再び呼び起こしてくれた。私は、私に繋がる全ての人々に感謝した。私と人々を繋げてくれたこの世界に感謝した。
涙を拭い、顔を上げた。もう自分を見失ったりはしない。私は、私の足で立ち上がり、前に進み、彼女の元へ向かおう。私は固い決意と共に暗闇の中へ踏み入った。
永遠を感じさせるほどの長さを持っていた廊下は、私の侵入を察知したように、その様相を歪に変えていく。廊下の先から腐臭を放つ泥水が流れ始め、私の足元を濡らす。天井と壁はいつの間にか不気味な赤色に染まっていた。しかし、私の心に恐怖は無かった。一歩ずつ確かに足を進めていく。
右手の壁に何かが鎖で縛り付けられているのに気付いた。それは赤黒い粘り気のある体液を全身に滴らせ、人形に翼の生えた、天使の姿をしていた。しかし、顔は無惨にも潰されていて、その正体は窺えない。異形の天使は壁際で身悶えながら、死を願う悪辣な呪詛を唱えていた。その言葉の内には、花月を執拗に苛み、私の進路を阻む意図が含まれていた。
この異形もまた、夢境の中でしか見る事のできない病の原因――幻象と花月が呼んでいた物の一部なのだろう。
私は未だ幻象を打ち消す術を持ち合わせていない。しかし、目の前にある怪物の形をしたそれは、鎖で身動きを封じられているにも関わらず、私に向かって長い腕を伸ばしてくる。これ以上近付けば、鋭い爪を備えた指先に切り裂かれてしまうかもしれない。それでも私はロケットを握り締め、祈りながら足を前に出した。そうしなければいけなかった。
異形の天使の側を通り掛かると、私の皮膚を貫く為に鋭い爪が向かってきた。途端、手元から火花のような光が瞬き、思わず目を閉じた。怪物の歪な悲鳴が反響する中、恐る恐る瞼を開ける。いつの間にか、私の手には古風な様相のカンテラが携えられている。そして、手中にあった手形のロケットは何処かに消えていた。
「これが私の力……」
球状のガラスケースの中でゆらゆらと燃える炎を見つめながら、私は独りでに呟いた。
幾度も過ちを繰り返し、果てに手に入れた孤独を噛み締めた。何かに縋るように形見のロザリオを手のひらの中に収め、瞼を閉じ、夢想の世界への逃避を願う。しかし、今宵は眠れぬ夜だった。罪を意識する『意識』を手放す為に、頭の中に祈りの言葉を木霊させた。
懺悔でもあり、贖罪でもあるこの儀式を絶え間なく続けていると、果てしない夜を終わらせる為の微睡みがようやく訪れてくれた。
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見知った病室であったが、見知らぬ病室でもあった。姿形は現実の物と変わらないが、本質が異なっている事を直感できた。窓辺から外を見ると、明らかな変化が窺える。病室から見える筈の町並みは深い暗黒に覆われ、常闇の中に群青色の花々が咲き乱れていた。
この眠りの中でのみ現れる世界の事を、私は『夢境』と名付けた。
夢境における最大の変化は、ロザリオが回転式拳銃に姿を変えた事だった。理由は不明だが、この銃の効用を私は感覚的に理解できた。自身の魂――生命力、精神力の他に、自我や思考や理性といった人間としてあり得る要素――を他者に分け与える能力がこの銃には備わっている。
ロザリオの変貌は、私が天国へ昇る為に天使が残してくれた最期の御業なのだと、私は独りでに悟った。この回心によって、夢境の病室は私の第三の故郷となった。
生まれ変わった私は一切の逡巡も無く銃の引き金を引き、甘美な自己犠牲を堪能した。弾丸を放つ事で、心身に降りかかる減退と苦痛も、乗り越えるべき試練として快く享受した。
四名の隣人の魂を救済した頃、夢境で始めて明確に意識を持つ人と出会った。その人の名前は『白瀬陽波』と言った。細身で背が高く、物憂げな面立ちと明るいオレンジ色の髪が印象的な少女だった。
それまでの孤独が反動となったのか、私は陽波との出会いに感激し、彼女と友人になる事を強く欲した。その為に、陰湿な本性を押し殺し、陽気で心優しい人格の仮面を被った。かつて私の兄だった人の姿を真似たおかげか、策略は想像以上に上手くいった。陽波は直ぐに私に心を許し、懐くようになった。彼女からの好意は得も言われぬ親近感と征服感を私に抱かせ、自ら心に取り付けていた後悔と反省の桎梏は、容易に外れてしまった。
陽波の気を引く為に私は役者となり、恐怖に打ち勝たんとする勇士や、慈悲深き聖者、秘密を孕む隠者の姿を演じた。かいあって、間もなく陽波は私への依存を始めた。卑屈で臆病で猜疑心の強い彼女が唯一、私という存在にのめり込んでいく過程に、私は強い快感を抱いていた。他者を手中で弄ぶ行為に罪悪を感じる事もあったが、精神的優位とそれに伴う種々の副作用は、手放し難い悦楽を私にもたらした。
しかし、私の浅はかな欲望は陽波の母との邂逅によって、跡形もなく消え去った。陽波の母――白瀬岬さんを初めて見た時、天使の面影を垣間見た気がした。その時の私は雷に打たれたような気分になり、しばらく放心するほどに感動していた。
岬さんの姿を見てからというもの、私の邪な意思は浄化され、彼女とその娘である陽波を救わなければならないという決意へと昇華していた。そして私は、夢境における本来の目的を思い出し、再び天国への到達を目指すようになった。
神聖な昇天に向かう意志は、純然たる殉教者への正道へと私を導いた。歩みを進める次第に、私は自己犠牲の陶酔に対し不感となり、天国という報酬を忘れ、功利や損得に依らない義務として、崇高なる神勅として、二人の親子を救おうとしていた。
そして遂に、信仰を示す時が来た。
夢境のとある病室、私は最期に救済するべき隣人の元にいた。かの人の意識は檻の中に囚われている。その檻は羽ばたく者から空を奪う鳥籠の形をしていた。
私はこれまでに施してきた奉仕の中でも、最も入念な儀式を執り行った。記憶にある限りの聖句を幾度も唱え、長い時間を費やしながら瞑想に耽る。そうして、心中に微かに漂う凡俗な願望や思念を消し去り、全く純真な信心を取り戻そうとした。
精神を可能な限り洗い流し、磨き上げ、その清潔の有り様が頂点に達したと感じられた時、私は右手に銃を掴んだ。そして、磔刑に処される聖人の如き力強さで歩を進め、檻の前に直立した。隣人は檻の中で、穏やかに寝息を立てている。
「初めまして」
自ずと声を掛けていた。理由は分からない。銃口を鉄檻の頂点へ向ける。
「白瀬岬さん」
隣人の名を呼んだ。聞こえる筈もないのに。指先を引き金に掛ける。
「どうか……陽波を幸せにしてあげて下さい」
パンッ。
軽やかな破裂音。薄く漂う硝煙の匂い。そして、私の内にある大切な何かが消失を始めた。
事は済んだ。帰るべき場所に帰ろう。元いた病室へ、第三の故郷へ。私は、私が喪われていく感覚を噛み締めながら、脚を動かした。
私の精神の殆どは汚れた悪しき物――歪んだ猜疑、浅はかな偽善、傲慢な支配欲――の世界だった。時折、美しい善良の物――天国、至上の幸福、無償の奉仕――が立ち現れ、既存の世界を洗い流そうとする。
二つの世界の間には、両者が衝突し、混ざり合う干渉点があった。そこは恐らく、私の存在を確定する要素の多くが収斂し、滞留する場所だった。そこでは美醜も善悪も明確な形を保てない。そこは人間の世界であり、思想の世界であり、私そのものだった。私が助けてきた隣人達も、私の二つの家族も、私の友人とその母親も、そこにあった。
安息の故郷に帰り着くと、私はベッドの上に身を横たえ瞼を閉じる。微睡みの中、内なる二つの世界は凪に包まれ、互いの領域を固定していく。二つの世界の干渉によって存在を許されたもう一つの世界は、徐々に霧散を始める。
私の人間と思想と私自身が消えていく。私の内に存在する、私を取り巻く人々が消えていく。
全てを覚悟していたつもりだったが、私は何故か泣いていた。しかし、その理由を考える力が私には無かった。私の精神は周囲から這い上がってきた何かによって、既に衰弱している。それは恐らく、価値も意味も存在も持たない虚無であった。
世界との一切の繋がりが絶たれたこの状態が、これこそが天国なのだろうか。きっとそうに違いない。
私の意識は、永劫に続く深淵へと手引された。
✦
気付けば、私は長い廊下に横たわっていた。頭が割れそうになるほど痛む。苦痛に悶ながら、かろうじて立ち上がり、果ての見えない廊下の先へと視線を移した。霞のような少女の姿が遠くに見えた。廊下の奥にひしめく闇の中へ、走り去ろうとしている。
「花月、待って!」
反射的に名前を呼んだが、その名前の持ち主が誰の物なのか分からなくなっていた。その名は、私を示すのか、今視界から消えた少女の物なのか、それとも別の……。
「私は花月?」
試しにその名を自分に当て嵌めてみたが、言いようのない違和感を覚えた。しかし、私が花月でないなら、花月とは誰の事なのだ。そして、私は何者なのだ。
「私は誰?」
呟くと、酷い頭痛と動悸に襲われ、大量のイメージが頭の中を駆け巡った。無数の記憶の針が脳髄に突き刺さり、私の人格を変革しようとしている。自己の存在が、曖昧な夢の世界に侵犯されている感覚を抱いた。
私は、私を保つ為に、身に付けている物から自身の正体を探った。上着のポケットに手を入れると、何か硬い物が指先に触れる。それを取り出そうとしたが、自己を失う恐怖と焦燥のせいで、手のひらから落としてしまった。転がり落ちた物は金色の光を放ちながら、床を滑っていく。私は慌てて落とした物に駆け寄り、それを拾い上げた。
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中には一枚の小さな写真が入っている。笑顔を向ける二人の若い夫婦、その間に少し不貞腐れた表情をする少女が立っていた。この写真がどんな風に撮られたのか、私は知っている。
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幸せな思い出がいつまでも色褪せないように……。
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「私は……白瀬陽波」
途端に涙が流れた。遠い過去に置き去りにされていた美しい記憶の断片が、存在の仕方を失いかけていた私を再び呼び起こしてくれた。私は、私に繋がる全ての人々に感謝した。私と人々を繋げてくれたこの世界に感謝した。
涙を拭い、顔を上げた。もう自分を見失ったりはしない。私は、私の足で立ち上がり、前に進み、彼女の元へ向かおう。私は固い決意と共に暗闇の中へ踏み入った。
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右手の壁に何かが鎖で縛り付けられているのに気付いた。それは赤黒い粘り気のある体液を全身に滴らせ、人形に翼の生えた、天使の姿をしていた。しかし、顔は無惨にも潰されていて、その正体は窺えない。異形の天使は壁際で身悶えながら、死を願う悪辣な呪詛を唱えていた。その言葉の内には、花月を執拗に苛み、私の進路を阻む意図が含まれていた。
この異形もまた、夢境の中でしか見る事のできない病の原因――幻象と花月が呼んでいた物の一部なのだろう。
私は未だ幻象を打ち消す術を持ち合わせていない。しかし、目の前にある怪物の形をしたそれは、鎖で身動きを封じられているにも関わらず、私に向かって長い腕を伸ばしてくる。これ以上近付けば、鋭い爪を備えた指先に切り裂かれてしまうかもしれない。それでも私はロケットを握り締め、祈りながら足を前に出した。そうしなければいけなかった。
異形の天使の側を通り掛かると、私の皮膚を貫く為に鋭い爪が向かってきた。途端、手元から火花のような光が瞬き、思わず目を閉じた。怪物の歪な悲鳴が反響する中、恐る恐る瞼を開ける。いつの間にか、私の手には古風な様相のカンテラが携えられている。そして、手中にあった手形のロケットは何処かに消えていた。
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