セカイのみるナツ

西野尻尾

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第2章 夏の終わり

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第2章  夏の終わり


第三次世界大戦はあっという間に終わった。開戦してから数日も続かなかった。
どこの国も、降伏するよりも早く滅んだからだ。
強大な核兵器が大地に多数の巨大な爪痕を刻み、あらゆる文明や技術が消失し、世界中の人々が絶望の渦に巻き込まれた。
世界は愚かな人類から『希望』をまるごと剥奪し、手の届かないところへ隠した。
まるで大地が雪で覆われていくように、絶望が世界を埋め尽くそうとしていた。
けれども、そんな人類に対して、突如として逃げ道が現れた。
夢幻病だ。
自由に『夢』の世界へ足を運べるようになった。
人が望む映像を視せ、人が望む快感を『夢』の中で与えるという。
誰もが歓喜した。ただ眠るだけで、絶望から逃れることができるのだ、と。
ただし、睡眠は永遠に続くわけじゃない。
お腹が減れば自然と目は覚めるし、尿意を催しても同じ。
しかもこの夢幻病は、夢から覚めればその内容は忘れるという。だからこそ、誰もが『目を覚ます』という生理的現象に嫌悪感を抱くことになった。
ならば、と人は躊躇なく行動する。
有り金すべてをはたいて光の届かない地下に冷凍睡眠装置を設け、加えて尋常ではない量の睡眠薬を大量に摂取する。
明らかに致死量を超えているというのに、人々に迷いはなかった。
それでは自殺と同じじゃないか。夢幻病があってもなくても変わらないじゃないか。
でも、人々は言う。
死ぬのではない。『夢』の世界へ移住するだけだ。
こんな廃れた世界を旅立ち、我々は新たな世界で、新たな生活を始めるのだ、と。
そうして人々、主に大人たちは、生活の場を『夢』の中に移した。
誰も世界を復興させようとは思わなかった。
政治や仕事から完全に関心を無くし、大人のいなくなった世界は徐々に規律や秩序が瓦解していった。
でも、きっと仕方がなかった。世界大戦直後のため、大人は疲弊しきっていた。
咎める人はいなかった。みんなが『夢』の世界に引っ越したから。
そうして人類は、世界からたちまち姿を消していった。



「ま、そんな世界をおれは救うんだけどね」
かあさんから教わった現状に至るまでの経緯を脳内で再生させながら、おれは木々が生い茂る山道を登っていた。
山登りなんて面倒なことをしている理由はひとつ。なんとなく、人の気配がした。
まぁ、いたとしても十中八九眠ってる人なんだろうけど。
動いてる人間なんてもう何年も見ていない。そのためか、人の気配に敏感になっていた。
人を見つけることに時間も労力も惜しまない。
元々人は身を寄せ合う生物だということを、知識としては知っているけれど。
かあさん以外の人とまともに話したことのないおれにとってはわからない理だった、
「にしても、暑いな……」
夏の日差しが木漏れ日となっておれに降りかかる。肌の表面から無数の汗が滲み出ていた。
山中ということもあってセミの鳴き声が半端じゃない。
まるで山全体が蠢いてるようだった。
「あーもう」
おれは木の間を縫うように歩いてるわけだけど、さっきからリュックが枝やら雑草やらに引っかかって何かとうっとうしい。
それにこのリュックは子供用。13歳になったおれの肩には小さすぎて、締めつけられて痛くて不愉快だ。
だけどこの中には完全栄養補給食品や飽和維持水分食が入っているから置いていくわけにもいかない。つまりは我慢するしかない。
そうして山を登り始めてから数時間が経過した、昼と夕方の境目くらい。
小さな納屋を見つけた。物置のように質素でボロボロな、まるで何世紀も前に造られたような木造の納屋だった。
人の気配は、ある。
おれは木でできた引き戸に歩み寄り、ゆっくりとスライドさせた。
「っ!」
心臓が鷲掴みにされたように思えた。
生活臭が感じられたからだ。何年も放置された廃屋のものとは明らかに違う。
鼓動がバクバクと跳ね上がっているのを感じながら、おれは努めて冷静に屋内を見回した。
掃除や手入れがされているわけではないようで、ほこりやすすが窓から入ってくる日差しに照らされて宙を躍っているのがわかる。
それでも積もってはいないことから、人が定期的にここを出入りしているのだろう。
視線を止めるような目ぼしいものはふたつ。
腰の高さくらいの棚に納められているふたつの瓶。
そして狭い面積の3分の1は占めているであろう、2段ベッド。
そのベッドの下段で、人が横になっていた。顔は見えないけど、おそらくは大人の女性。
肩が微動だにしておらず、また寝息も聞こえない。だから当然、起きる様子がまったくない。
おれが物心ついたときから幾度も見た光景だ。特に驚きはしない。
それよりもおれが気にしたのは上段の方。
不躾だとは思いながらも勝手にベッドに歩み寄って、梯子に足をかけて上段を覗いた。
誰もいない。だけど、シーツとタオルケットは無造作にしわを作っている。
確信した。ここには誰かが住んでいる。
胸が高鳴る。動悸がうるさいくらいに激しくなる。
ひとまずは納屋を出て、周囲をぐるりと見渡した。
視界に入るのは木々。頭上にはトゲトゲしい真夏の太陽。
おれは息を大きく吸って、ゆっくりと吐く。
「さて、探すか」
ここで帰ってくるのを待っている、なんて退屈なことはしたくなかった。
自分の足で、おれ以外の人を見つけたかった。
「もし見つけられたら、なにを話そうかな」
会話をするのもずいぶんと久しぶりだ。
最後に言葉を交わしたのは……もう4年も前になるのか。
そのときの相手は言うまでもなく、かあさんだった。


木々に草。花に虫。鳥に蝶。
『世界の中核』を探し続けて色々なところを旅してきたものの、ここまで自然が残っているのは初めてだった。
元々この国は緑が豊かだったらしいけれど、今ではそのほとんどが喪失したとかあさんから聞いていたから、まさかこんな場所があるなんて思わなかった。
核が墜とされた場所では、大地の表面にあるものは燃え、吹き飛び、土壌には放射能という猛毒が注がれた。そのせいで作物も食べられなくなったとか。
でも、この山は違う。
主要都市からずいぶんと離れてるし、そういう被害には遭わなかったみたいだ。
だからあんなボロボロな納屋も無事だったんだろう。
「…………」
それにしても、なんだろう。
ものすごく暑くて、セミの鳴き声がうるさいのに。
寒気というか、恐怖感を覚えている。
これが自然というやつなのか?
自然という大いなる力は、こんなにも震え上がってしまうものなのか……?
不可解な薄気味悪さを感じながら、おれは足を動かし続けた。

納屋を離れてから10分ほど歩いたところに滝を見つけた。
幅はおよそ3メートル、高さは20メートルほどのそこそこの規模で、その水流はそれなりに激しい。水しぶきが霧のように滝の表面を覆っている。
でも滝つぼの水面は磨き上げたガラスのように澄んでいて、川の底がはっきりと見えた。
空気もずいぶんと冷えていて、ここだけがかなり涼しい。
周辺は上流ならではの光景なのか、ごつごつした大きな石が目立つ。
ただ、それ以上に目立つものがあった。
「思ったよりもあっさり見つかったな……」
巨大な石――いや、岩と表現してもいいだろう。滝から少し離れた岩の上に、おれと同い年くらいの少女が仰向けで眠っていた。
ちゃんと胸は上下している。とりあえず死体ではないようだった。
少女に歩み寄る。岩はおれの胸くらいの背丈だった。
そして手を伸ばせば届く距離まで詰め寄ったとき、不意に少女の目が開いた。
ゆっくりとおれに目が向けられる。
「…………」
さて、4年ぶりの会話だ。うまく話せるだろうか。
高揚している気分を抑えつけ、なるべく爽やかな口調で声をかけた。
「昼寝の邪魔してごめん」
「……だれ?」
「おれはショウ。ちょっと訳あって旅してるんだ」
「…………」
「あのさ、近くに納屋があってさ、人が住んでるようだったから捜してたんだ」
「…………」
寝起きだからか、それとも不審に思っているのか。少女は表情を変えず、なかなか反応を示さない。
とそこで、「くぁあ~」とおれの目もはばからずに大きなあくびをした。
なんというか、おれのことなんて全然興味がないのだろうか。
「まさか見つけられるとは思ってなかったけどな。ああいや、見つける気ではいたんだよ? ただこんな広い山だからさ、うん」
「…………」
「う……」
まずい、クールたるおれとしたことが動揺し始めている。
落ちつけ、落ち着くんだ、おれ。
相手が反応しないのなら、こっちから仕向ければいい。
「えっと、なんでここで寝てたんだ?」
そう訊ねると、意外にも少女は即答してくれた。
「わたしの場所だから」
ずいぶんと落ち着いた声音。
声量は小さいのだけど、弱々しいわけじゃない。
なんというか、大人びている印象を受ける。
「それはなにか、自分だけの特等席的な意味なのか?」
その問いには無反応だった。
少女は眠そうに目をこすって、ゆっくりと上体を起こす。
寝起きだからか、その瞳は緩んでいる。髪は肩にぎりぎり届く程度。服装は夏にふさわしい白のワンピース。
やがて少女は視線を滝に移して、
「わたしの場所」
どこか想いを馳せるように、そう繰り返した。
どういう意味だろう。まさかこの辺りの地主というわけじゃないだろうし。
まぁそれはともかく、初対面ということもあってまだ場の空気がぎこちない。
ちょっと和ませてみよう。
「あ、じゃあ勝手に踏み込んじゃまずかったか?」
冗談混じりに言ってみる。
「うん」
「…………」
見事に空気を凍り付かせてくれた。さらに気まずくなる。
クールたれ、おれ。ここで慌てちゃいけない。
「はは、厳しいな」
愛想笑いを浮かべる。
クールというのは、必ずしも無愛想というわけじゃない。
何事にも動じず、不測の事態にも冷静にいなす人のことを指すのだ。
「だったらすぐにここから立ち去るからさ、ひとつだけ質問させて欲しい」
「…………」
少女は滝から目を離さない。けれど拒否されたわけじゃないから、質問をするだけしてみる。
「世界の中核についてなにか知らないか?」
「…………」
これにも無反応か。
『世界の中核』なんて、おそらくはほとんどの人が聞いたこともない伝説的なものだと思っていたから、何かしらの反応はあると思ったんだけど……。
おれが思ってるよりも知られているのだろうか。
いやでも、この少女も浮き世離れしてるみたいだし、一概には決めつけられないよな。
もうちょっと粘ってみよう。
「あのさ、そもそも『世界の中核』って聞いたことあるか?」
「ふぁわぁ~」
あくびかよ……。
どうしよう、クールたるおれでもさすがに不安になってきた。
警戒されてる上での無視ならまだしも、おれの存在にほとんど関心を示さないのはちょっとヘコむぞ。
「身勝手だとは思うけどさ、頷くか首を振るかくらいはしてくれないか?」
でも、4年ぶりに生きてる人と出会えたんだ。この機会を逃すわけにはいかない。
こうなったら実力行使だ。誠心誠意を込めてお願いしてみる。
「頼む!」
腰を直角に折って頭を下げた。
恥だとは思わない。このチャンスを捨てる奴の方がよっぽど恥だ。
するとおれの気持ちが通じたのか、少女は視線を滝からおれに移した。
「……どうするの?」
眠そうに緩んだ瞳で訊ねてくる。
「どうするって、なにが?」
「あなたが」
「なにを」
「出られないよ」
「出られない?」
「そう」
「どこから」
「ここから」
「……なんだって?」
まったく意味がわからない。そもそもおれの質問にも答えてない。
もしかしてこいつ、ちょっとヘンな奴なのだろうか。いや、邪推するのは失礼か。
おれは愛想笑いを浮かべて、言葉の意味を探る。
「えっと、どういう意味だろう?」
「なまえは?」
「え?」
「なまえ」
「おれの名前?」
「うん」
最初に名乗っただろうが、とはもちろん言わない。
「ショウだよ。ちなみに13歳」
すると少女は何やら考え込む。おれの名前を反芻しているようだった。
やがておれに視線を戻して、
「ナツ」
「……あ、それが君の名前?」
「そう」
いきなり名乗ってきた。
「そうか、ナツって名前なのか」
「うん」
「いい名前だな。覚えやすいし」
「ショウも」
「そうだな。どっちも覚えやすいな」
「うん」
「…………」
「…………」
「……………………」
「……………………」
「……………………………………………………………………………………………………」
「……………………………………………………………………………………………………」
な、なんかよくわからない沈黙が流れたぞ! これはおれが悪いのかっ!? と、とにかく何か喋らないと。
んんっ、と咳払いをして、キリっと自分の顔を凛とさせた。
「かわいいよな、ナツって」
どうだっ、これで何か反応せざるを得ないだろう!
「かっこいい」
「ん?」
「ショウも」
「えっ!?」
心臓が跳ねた気がした。
「はは。そ、そんなことないだろ……」
愛想笑いが引きつってると自分でもわかる。
おかしい、クールたるおれとしたことが。
とそこで、不意に少女がクスクスと笑い出した。
今のやりとりのどこに笑える要素があったのか、皆目見当もつかないおれはユーモアが欠如しているのだろうか。
「あのさ」
「うん」
笑顔で返事をするナツと名乗った少女。
緩んだ瞳をさらに緩めた。どうやら瞳が緩んでるのは生まれ持ったものらしい。
というか、いきなり態度が変わったな。いいことだけど。
「さっきのさ、おれはもうここから出られないって、結局どういう意味だったんだ?」
「そのまま」
「だから、もうちょっと詳しく教えてくれないか?」
するとナツは、またクスクスといたずらっぽく笑った。やがて顔を上げる。
「わたしの場所」
「わたしの場所、がなんなの?」
「出られなくなるの」
「……………………」
それはほんとに淀みのない声音だったけど、やっぱりわからなかった。
おれはなんて返せばいいかわからず、しばらく口ごもってしまう。
「歩いてみて」
「なに?」
「歩くの」
さっきから思っていたけど、こいつって主語をつけないからものすごく会話が面倒だな。
「歩くって、どこを?」
「どこでも」
「……どこでもいい、ってことか?」
「そう」
「目的もなく?」
「うん」
「闇雲に?」
「うん」
「遭難したらどうすんの」
「しない」
「可能性はあるだろ」
「ない」
「根拠は?」
「わたしの場所だから」
……ふりだしか。自然とため息が出る。
するとおれが観念したと捉えたのか、ナツは子どものように無邪気な笑みを浮かべて、
「いってらっしゃい」
そう言った。
おれはどう言い返そうかしばらく逡巡してみたけど、
「…………いってきます」
なんかもう、この言葉以外に何も思い浮かばなかった。


ジージージージー、ジージージージー。
セミがやけにうるさい。
夏は好きだし、暑いのは平気なんだけど。
このうるささは尋常じゃない。
ジージージージー、ジージージージー。
まるで耳元で鳴かれているようだった。寝てるときに蚊が耳元を飛ぶときがあるけど、あれの比じゃない。その何倍もの音量。
ただ、蚊の羽音よりも低周波なのが救いだった。これがあの高周波だったら、真面目に気が狂うんじゃないかと思う。
ジージージージー、ジージージージー。
あぁでも、やっぱうるさいな。
おれはナツに言われたとおり、とにかく適当に山の中を歩いていた。
とは言っても太陽の位置はちゃんと確認してるし、だいたいの距離感を維持しながら歩いているから遭難することはないだろう。さすがに夜になったらまずいけど。
でも、物心ついたときから旅をしてきたんだ、こういったスキルは自然と身についている。
ジージージージー、ジージージージー。
それにしても、これはさすがにありえない。おかしすぎる。
確かに周りは木だし、セミなんて無数にいるとは思う。
だけど、まるでセミの音がおれを追ってきているようだった。
歩いても歩いても、一定の音量、一定のリズムでおれの鼓膜を刺激している。
ジージージージー、ジージージージー。
ありえない、ありえない。
どうして音が遠ざからない。
何度も耳元を手で振り払った。何度も顔の周りを目で追った。
でもセミはいない。
でもセミはいない。
ジージージージー、ジージージージー。
「く……っ」
うめき声が自然とこぼれる。
さすがにまずい、吐き気を催してきた。
耳の器官は脳に極めて近いだけあって、とても敏感だという。
だから身体に影響を及ぼしやすい。耳に強烈な衝撃を受けて鼓膜が破れたとき、人によってはショック死するほどだ。
ジージージージー、ジージージージー。
「うぅ」
視界がぐにゃりと歪んだ。今度は目眩。
これは……ちょっとまずいな。
このまま歩き続ければ深刻なダメージを負う可能性がある。
仕方がない。少し休憩を挟もう。
おれは近くの木の幹に背中を預けて、そのまま腰を下ろした。
瞬間、

ジィィィィィィィィィィィイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ

「なっ!?」
まるでセミがおれという存在をまるごと呑み込んで――


――気づくと、おれは大きな岩にもたれかかっていた。
目がぐるぐる回っている。耳に入ってくる音も妙に淀んでいる。
簡単に言えば、かなり体調が悪い状態だった。
いやでも、それはまだ無視できる問題だった。
「なんで……」
こっちの方がずっと気にかかる。
「言ったとおり」
頭上からクスクスと少女の笑い声が降ってくる。
見上げるまでもない、ナツだ。きっとナツの座っている大岩に、おれはもたれかかっているのだろう。
おれはわけがわからず、頭上の少女にどう声をかければいいかすらわからない。
「…………」
待てよ、今こそクールたるおれの真価が問われるときじゃないのか……?
今回の件はちょっと……いやわりと……いやものすごく特異なケースだけど、焦ったり混乱したりしても解決するはずがない。
そう、まずは落ち着くことが重要なのだ。
落ち着け。落ち着くんだ、おれ。
心を静めて、とりあえずは呼吸を整えるべく深呼吸。
「すぅぅ……はぁぁ……。すぅぅ……はぁぁ……」
よし、落ち着いてきた。さすがだな、おれ。やればできるじゃないか。
じゃあ次にするべきこと。今の状況に至るまでの経緯を整理だ。
ええっと、おれはナツに促されるままに散歩――散策?――に出た。で、ありえないくらいにセミがうるさくて……って、そういえばもうセミの鳴き声はしないな。今更だけど。
まぁいいか。それで、意識が朦朧としてきたものだからちょっと休憩しようとして、座った。
その瞬間、鼓膜を通り越して脳に直接セミの鳴き声が響いたような気がして……
気がついたらここにいた、と。
うん、おかしい。ありえない。
なにがありえないかというと、何もかもがありえない。
じゃあその元凶は?
「ナツだな」
明白だった。
そうだ。そもそもはナツが「ここから出られない」宣言して、かつ「いってらっしゃい」とか言うからこんなことになったんだ。
というわけで、今からおれがすべき行動は決まった。
おれは立ち上がる。まだちょっと足に力が入りきらないけど、立てないほどじゃない。
目眩も耳鳴りもだいぶ落ち着いてきていた。
「ナツ」
大きな岩の上。おれの胸より少し上の高さに、ナツがいたずらっぽい笑みを浮かべて座っていた。
「どうなっている」
眠そうに緩んだ瞳を見据え、なるべく表情を引き締めて訊いた。
「おかえり」
けれどナツは、おれの問いを鮮やかに受け流してくれる。
「おかえり」
「…………」
悪いが遊びに付き合ってやる余裕はあまりない。
だからさっさとこいつが望んでいるであろう言葉を言ってやる。
「かわいいよ、ナツ」
「おかえり」
……………………はい、ごめんなさい。
「……ただいま」
「うん」
最初からこうすればよかった。
ともあれ、早速訊ねてみる。
「これはどうなってるんだよ」
「言った」
……あぁ、面倒くさ。
「なにを」
「迷わないって」
「そうだな」
「うん」
「おれ、ちゃんと帰って来られたもんな」
「言ったとおり」
「でもさ、なんだか不思議体験をしたぞ」
「ちゃんと言った」
「うん、確かに『ここから出られない』って言ってたな」
「言ったとおり」
勝ち誇ったように胸を張るナツ。
やべぇ、なぜか主導権を握られてしまっている。
というか、話の主旨がずれてないか? なんかこいつと話してると、気づかないうちにペースを掴まれる。
おれは急いで話を戻すことにした。
「で、結局あれは何なんだ?」
「ショウ」
「は?」
「それとセミ」
「おれとセミ?」
「そう」
依然クスクスといたずらっぽく笑うナツ。
「……おまえ、おれをからかってるだろ」
「からかってない」
「じゃあなんで笑ってるんだ」
「おもしろいから」
ため息をつきたくなる。
どうやら本当におれをからかってるわけではなさそうだった。
だからか、うんざりすることはあっても不思議と憎めない。
「わかった、これについては保留にしよう」
こんなやりとりじゃ埒が明かない。
もうすぐ日も暮れる。
「それじゃあさ、どうすればここから出られるんだ?」
謎は残ったままになってしまうけれど、ひとまずは今の状況を打破することにした。
「むり」
「…………」
けれどナツは、笑みを絶やさずに答える。
「どうして」
「出会っちゃった」
「出会っちゃった?」
「ショウ」
「おれとナツが、か?」
「そう」
「おれとナツが出会ったから、もう出られないのか?」
「うん」
「いつ出られる」
「むり」
「……それって、一生?」
「うん」
「この滝周辺から?」
「うん」
「おまえは平気なのか?」
ナツは笑顔のまま首を振る。
「わたしも」
「……困らないのか?」
そこでようやく、ナツが笑みを消した。
考え込むように首を傾げ、眠そうに緩んだ瞳を滝に移す。
「わからない」
轟々と流れ落ちる水流を眺めながら、ナツはぽつりと呟いた
「わからないって……家があるだろう?」
言って、直後に失言だったと気づく。
すぐに訂正しようと思ったけど、ナツの方が早かった。
「もういない」
ない、ではなく、いない。
ナツは表情を変えなかったけど、わずかに憂いを帯びているような気がした。
ここに来る前に見つけた納屋。ナツがあそこを住居にしているのは間違いないようだった。
食料も二段ベッドもあった。
ただ、そのベッドの下段。そこにいたのは、夢幻病に冒された人の成れの果て。
これまでの旅で何度も見てきたものだった。
あの人がナツの家族なのか、血の繋がっていない他人なのかはわからないけれど。
少なくともナツは、同居人を失っていたのだ。
それはおそらく、比較的最近の話だと思う。あの遺体から異臭はしなかった。
とは言ったものの、おれにはどうしようもない話だ。
慰めるくらいのことはできても、いつまでもこいつ一緒にいるわけじゃない。
おれは世界の中核を見つけなければいけないのだ。こんなところでくすぶってる暇はない。
「とりあえずは、脱出を当面の目的とするしかないか……」
滝から離れられないという、超がつくほど意味不明な状況。
クールたるおれだからこそ混乱は免れているものの、これはほんとにありえない。
「くぅう~」
それから、たったいま大きなあくびをかましているナツ。
容姿はそこそこ整ってるけど、かなり浮き世離れしている。
何よりも会話が面倒くさい。まずはこれを何とかして欲しいものだ。
まぁでも、悪い奴ってわけでもないし、それに、4年ぶりに会話を交わせる相手だ。
できれば手を取り合ってこの状況を打破したいものだな、うん。

無理だった。
手を取り合う、つまりは協力するためにはコミュニケーションが必要不可欠なのだ。
そのもっともポピュラーな方法が会話。お互いに言語を持つ生物なのだから、これを活用しない手はない。
だけど……
「うん」
「そう」
「わたし」
「わからない」
「たぶん」
「ショウ」
「むり」
「ちがう」
「おもしろい」
「セミ」
「まだ」
「へいき」
「ふぅ」
「ふわぁあ~」
こんな、すべて5文字以内に収まるような単語のオンパレードでまともにコミュニケーションを図れるわけがない。最後の方に至っては言葉ですらない。
会話というより、一問一答と言っても何ら差し支えないんじゃないか。
だからといって、無愛想というわけでもなければ無表情というわけでもないんだけどね。
出会った当初に比べればだいぶ笑ってくれるようになったし、なにより返事をしてくれるようになった。
おれは諦めずに質問を繰り返し、ナツのことを少しだけ聞き出すことに成功。
年齢はおれと一緒で、幼い頃からずっと独りで飄々と生きていたらしい。まぁどんなに幼くても、完全栄養補給食品さえあればとりあえずは生きていけるしな。
でもそんなある日、壮年の夫婦に「戦争で死んだ娘に似ている」という理由で拾われてこの山に住み始めた。夫婦はこんな世界でもそれなりに前向きに生きていたらしく、祖父が使っていたあの納屋でひっそりと暮らしていくつもりだったらしい。
けれど男の方が唐突に不幸な死に直面してしまい、その妻は絶望し、夢幻病に冒された、と。まだほんの、半月前ほどの話らしい。
以来、ナツは再び独りでの生活を強いられたところで――おれと出会った。
これだけのことを聞き出した頃には、辺りは暗くなっていた。
おれはリュックからふたつの瓶を取り出して、1粒ずつナツに分け与えてやる。
「ありがとう」
感謝の言葉はちゃんと心得ていたらしく、無邪気な笑顔を浮かべて受け取った。
あっという間に食事の時間を終えると、ナツはかなり眠そうに目をこすっていた。
今は夏だから日の入りが遅いとはいえ、いくらなんでも早くないか、と訊ねたら、今日はお昼寝の時間が少なかった、という返答だった。
確かにおれは昼寝中のナツを起こしてしまったけど、13歳という年齢を考えたら寝すぎじゃないのか?
「……おやすみ…………」
そんなことを考えているうちに、ナツはいつの間にか昼寝していた大きな岩の上で横になって寝息を立て始めていた。
しばらく呆気にとられていたおれは、リュックからタオルを取り出してナツの腹部にかけてやる。季節を考えれば風邪を引くことないだろうけど、まぁ念のため。
すやすやと寝顔を披露するナツ。
……なんというか、とても同い年とは思えないほどにあどけなかった。
そんなナツを見ていたらおれまで眠くなってきた。
せっかく訪れた睡魔だ、さっさと寝てしまおう。今日は色々あって疲れた。意味がわからない体験もしたし。
おれはなんとなくナツから少し距離を置いて横になる。
すると無意識的に彼女の言葉が断片的に脳内で再生された。
『出られないよ』
『ショウ』
『それとセミ』
『出会っちゃったから』
おそらくは今の状況を打破するために必要な数少ないキーワードだ。
かいつまむと、おれとナツが『出会ってしまった』がために、もうこの場所から『出られない』、と。で、その重要なファクターになっているのが『おれ』と『セミ』。
…………さっぱりわかんね。
もういいや、今日は寝よう。
また明日。


真夏の夜に野宿したというのに、まったく寝汗をかかなかったのは滝のおかげだろう。
マイナスイオンでも出ているのか、むしろ寝起きは清々しいものだった。
おれは滝壺で顔を洗って、ナツの眠っている大岩に近づく。
「……やっぱかわいいな」
これでもお互いに13歳だ、もう少し警戒してもいいんじゃないか? いくらなんでも無防備すぎる気もする。まぁクールたるおれがそんな野獣じみた真似事はしないけどさ。
それに今日こそ、このふざけた事態をなんとかしなきゃならない。
おれは朝食を摂り、リュックを背負って出発した。

ジージージージー、ジージージージー。
耳元でセミの鳴き声が響いている。
全身から暑さとは別の汗が噴き出ていた。
呼吸も自然と乱れてくる。
ジージージージー、ジージージージー。
クソ、やはりおかしい。
昨日とまったく同じセミの鳴き声だ。
セミは種類によって鳴く時間帯が異なる。
そこまで詳しいわけじゃないけど、早朝も午後も鳴くセミなんていなかったと思う。
ジージージージー、ジージージージー。
歩き始めてどれだけ経っただろうか。
昨日は10分も保たずにリタイアしてしまったからな、今日はもっと進まなきゃいけない。
今日は体力満タンだ。いけるところまでいってやろう。
ジージージージー、ジージージージー。
まだいける。現時点では大きな体調の変化は見られない。
ナツは言った。ここから出られない、と。
だけどおれはちゃんと歩いている。
景色は変わっているし、ナツのいる滝から徐々に離れていっている実感はある。
ジージージージー、ジージージージー。
おれが倒れることであの場所に戻されてしまうのであれば、このまま一直線に山を下ればいい。
大丈夫、まだまだいける。
これでも根無し草の流浪人だ、歩くことはちっとも苦じゃない。
ジージージージー、ジージージージー。
「な……っ」
急に視界が歪みだした。
その直後に胃液が逆流してくるのがわかる。
バカな、体力はまだ余裕があったはずだ。
どうして、いきなりこんな……。
ジージージージー、ジージージージー。
まずい、足からどんどん力が抜けていく。
膝が震えだした。吐き気もどんどん酷くなっていく。
立っていられなくなる。
歩は完全に停止していた。
ジージージージー、ジージージージー。
セミの鳴き声。一定の音量、一定のリズム。
足が動かない。ただただ震えているだけ。
何も考えられない。頭が真っ白になりつつある。
ジージージージー、ジージージージー。
暑い。
汗が止まらない。
視界が定まらない。
何も見えない。なにも聞こえない。
唯一おれの脳が認識しているもの。
それはセミの鳴き声。
そして、

ジィィィィィィィィィィィイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ

昨日と同じ感覚。
おれの全神経がセミの鳴き声に支配されて――


――気づいたときには、大きな岩にもたれかかっていた。
自分でも視線がさまよっているとわかる。
内蔵を強く握られている気さえした。
「クソ……」
悪態だってつきたくなる。
今日はもっといけると思ったのに、不意に目眩や吐き気が襲ってきた。
もしかしたらおれは、ひとつ勘違いをしていたのかもしれない。
体力的にきつくなって、休憩した時点で戻されると思っていたけれど。
本当は、距離や時間が絡んでいる可能性がでてきた。
だとしたら、おれにはどうしようもないじゃないか……。
こんな手がかりも何もない状態で、いったいどうやって脱出しろと言うのか。
「ん……」
とそこで、頭上から小さな声が降ってきた。
続いて衣擦れの音。
そうだ、まだこいつがいた。あまりにも会話が面倒だから聞き出すことをちょっとないがしろにしていたけど、こうなったら気合いと根性で情報を絞り出すしかない。
おれは妙に重たい体を持ち上げる。岩の上で上体を起こして目をこすっているナツに声をかけた。
「ナツ、おまえに訊きたいことがあるんだ」
ナツは手を目元から離すと、緩んだ瞳をおれに向けた。
「ここから出られない、っていう話についてなんだけど」
今のおれは切羽詰まっているような顔をしていたのかもしれない。
ナツはにっこりと微笑んで、おれをたしなめるかのように言った。
「おはよう」
「…………」
そうだよね。こいつが人の気持ちを汲むはずないよね。
おれは自分の愚かさを呪いつつ、愛想笑いを浮かべておはよう、と返した。
ナツとは昨日出会ったばかりだけど、こいつとの会話のコツは既に掴んでいる。
クールであるためには学習能力も高くなくてはいけないのだ。
というわけで、ナツとの会話のコツその1。
「いいてんき」
「そうだな、最高の真夏日だ」
「さいこう」
「おう」
ナツの言葉は真正面から受け止める。
はぐらかしたり、強引に話題を変えようとしたりしても無意味だ。
だからこうして、辛抱強く話を合わせる必要がある。
ナツとの会話のコツその2。
「ショウ?」
「ん、何だ?」
「タオル」
「……あぁ、腹を冷やさないようにと思ってな」
「うれしい」
「どういたしまして」
「ショウは?」
「今度はなんだ?」
「ひえなかった?」
「腹が、か?」
「そう」
「おれは全然問題ないぞ」
主語をつけないがためにまったく理解できない問いには何度でも問い返す。
そうでもしなきゃ質問の意味自体がわからないからな。幸いなことに、ナツはこっちがどれだけ問い返そうと嫌な顔ひとつしない。
面倒くさすぎておれが嫌な顔になりそうだけど。
ナツとの会話のコツその3。
「ところでさ、ナツ? おまえに訊きたいことが――」
「すいた」
「……すいた?」
「おなか」
「腹が減ったのか」
「そう」
「じゃあ分けてやるから降りてこい」
「うん」
功を焦らず、ひたすら我慢すること。これはコツというか総括かもしれないけど。
振り返ってみて、改めて思う。
こいつの相手、なんかもうほんとに面倒くせぇ……。
「ちょうだい」
機嫌良さそうに岩から降りて、無邪気に顔を綻ばせて手を差し出してくるナツ。
おれは苦笑しながら瓶を取り出し、中身をナツに渡してやった。
「ありがとう」
お礼の言葉をちゃんと口にして、ひょいっと口に含む。
飲み込むと、すぐに満腹感が体を巡っていったようだった。満足そうにお腹をさする。
……まぁでも、やっぱり憎めない奴だよなぁ。
「かわいいな、ナツ」
口に出す。
するとナツは、
「ショウも」
なんてことを言う。
「…………」
「あかくなった」
クスクスといたずらっぽく笑うナツ。
セオリーに則れば「なにが」と訊くところだけど、おれはあえて従わなかった。

気を取り直すのに数分かかった。
おれは本来の目的だった質問をナツにしてみた。
「結局のところ、おれたちはどうやったらここから出られるんだ?」
依然としてクスクス笑っているナツは答える。
「むり」
「……無理って」
「言った」
「まぁそうだけど」
「いっしょう」
「一生、ね……」
「ちゃんと言った」
「そうだよな。おまえは昨日からそう言ってたな……」
「うん」
まったく淀むことなく断言するものだから、ほんとに信じてしまいたくなる。
でも、それでは困る。おれには世界の中核を壊すという使命があるのだ。
いつまでも立ち往生しているわけにはいかない。
「なにか……そう、なにか手段はあるだろう? 出口のない迷宮ってわけじゃあるまいし」
すがるようなおれの口調に、ナツは笑みを消して小首を傾げた。
とそこで、おれはバカなことを訊いたと後悔する。
クールたるおれとしたことが、静かに熱くなってしまっていた。
ナツが「むり」と断言している以上、こんなことを訊いても無駄だ。
落ち着け、おれ。
ナツが知らないだけで、本当は方法があるかもしれない。
ナツが知らないのならば、おれが見つければいいだけだ。
「悪い、さっきの質問は忘れてくれ」
脱出する方法を探るには、まずこんな状況に陥った要因を知らなければならない。
「あのさ、昨日ナツは、おれとナツが出会ったせいでこうなった、って言ったよな? これはどうしてなんだ?」
ただ、ほとんど単語しか話さないナツにまとめて訊いても効果は薄い。
だからひとつずつ紐解いていくことにする。
「呼ぶから」
よし、この作戦は使えるみたいだ。
「呼ぶ?」
「ショウ」
「……おれ?」
クールたれ、おれ。ゆっくり考えるんだ。
えっと、今のはナツがおれを呼ぶ、ということだろう。
だからおれがここから離れても、またこの滝に戻ってきてしまう、ということか。
そうすると、なんでおれを呼ぶのかがわからない。
「なんで呼ぶんだ?」
そう訊ねると、ナツはよくわからないといった様子で首を傾げた。
なんだ、意味が通じてないのか?
「だから、どうして呼ぶ必要があるんだ? なにか意味があるんだろ?」
するとようやく通じたのか、ナツはなぜか微笑んで、
「セミ」
そう答えた。
……これはまったく予想していなかった答えだ。
まさかここでセミが出てくるとは。
「セミ、が何なんだ?」
「なきごえ」
「鳴き声、が何なんだ?」
「呼ぶの」
「どうして」
「そういうものだから」
「……え?」
「くぁあ~」
「ここであくびかよっ!?」
……と、いかんいかん。
クールたれ。クールたれ、おれ。
「ねむい」
「ち、ちょっと待ってくれないか?」
「ねむい」
「もう少しだけ我慢してくれよ、な?」
「ねる」
おれの懇願はナツの胸に届くことはなく、すたすたと例の大岩に向かう。
そういえばこいつ、昼寝するんだっけか……。
やがてナツは大岩の上で横になり、静かに寝息を立て始めた。
「はぁ……」
ため息をつく。でも、収穫はあった。
現時点ではここから出る手段はない。
ここから離れても戻ってしまうのは、ナツが呼んでいるから。
それはセミ――鳴き声?――が関係している。理由は『そういうものだから』。
これらが新しくわかったこと。
「んー」
ひとつだけ気にかかる。
それは『そういうものだから』という、ナツにとっては珍しく曖昧な言い方。
そういうもの。
そういうものか……。
ダメだ、さっぱりわからない。
結局、解決に直接結びつくような手がかりは得られなかったな。
ま、仕方ないか。のんびりはしてられないけど、焦るのはもっとよくない。
とりあえず、ナツが起きるまでもう一度挑戦してみよう。

ジージージージー、ジージージージー。
同じ失敗を繰り返すのは能なしだ。
おれは思い切った行動に出てみた。
「すぅ……すぅ……」
そう、眠っているナツを背負って連れ出してみたのだ。
おれのリュックはナツの背中に背負わせている。
ジージージージー、ジージージージー。
ナツがおれを呼んでいるのだとしたら、一緒に行動すればいいだけのはずだ。
そうすれば、おれを呼び寄せるもなにも、一緒にいるのだから呼びようがない。
きっとこれが打開策にちがいない。
おれは密かに勝ち誇った気分でいた。
ジージージージー、ジージージージー。
……でも、なんだろう。
これじゃ簡単すぎる気がする。
それにこれくらいの方法で抜け出せるのならば、きっとナツだって気づくのではないか?
ナツは「むり」と断言していた。
それはこの方法も含めて、と思えてならない。
ジージージージー、ジージージージー。
いやいや、理屈の上ではこれでいいはずなんだ。
ナツがおれを呼び寄せる。
でも一緒にいれば、呼び寄せようがない。
だからこれで正解のはずなんだ。
ジージージージー、ジージージージー。
とそこで、不意にナツの言葉が思い浮かぶ。
『わたしの場所』
それはあの滝周辺を指す。
初めに聞いたときは軽く聞き流してしまったけれど。
もし、それには何か意味があるのだとしたら……?
ジージージージー、ジージージージー。
「うっ……」
来やがった……。
視界が急に歪みだした。
同時に平衡感覚まで失われ、おれはまっすぐ歩けなくなる。
おかしい。視界が歪むのは毎度のことだけど、平衡感覚まで狂うのは初めてだ。
いやそれよりも……
ジージージージー、ジージージージー。
どうやら、ナツを連れ出すのも不正解だったようだ。
ちくしょう、いったいどうしたらいいんだ。
「すぅ……すぅ……」
「だいたいおまえ、寝てるくせにどうやって呼んでんだよ……」
背中のナツに愚痴ってみた。当然、意識的に呼んでるわけじゃないことはわかっているけど。
「……ん?」
ジージージージー、ジージージージー。
「ぐ……っ」
ダメだ、膝が折れる。
でも、まだだ。もう少しだけ考えさせてくれ。
何かを掴めそうだ。決定的な手がかりのようなものを。
「すぅ……すぅ……」
こいつが無意識的におれを呼んでるのだとする。
無意識なのだから、寝ていてもそれは可能なのだろう。
ならば、

ジィィィィィィィィィィィイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ

こいつの意識を完全に閉ざしてやれば。
つまり、ナツの命そのものを消してやれば――


――気づくと、おれは例のごとく大岩に背を預けていた。
……いや、今回はちがう。背中越しに熱が伝わってくる。
当然だ、ナツを背負っているのだから。
おれはナツの背中からリュックを外して、その身を地面に寝かせてやった。
こいつ、ぜんぜん起きなかったな……。別にいいけど。
「さて」
おれも地面に尻を落ち着けて、右腕をグー、パーさせる。
何回かそれを繰り返し、やがてグーで固定。
そして、
「ぐぶっ!?」
自分の頬を思いっきりぶん殴った。
「痛ぅ……」
うわ、口の中に血の味が……。
もうちょっと加減してもよかっただろうか。
いやでも、むしろ足りないと思わなきゃいけない。
「…………」
自分がマゾヒストだとは思っていない。
これは制裁だ。自分に対する、な。
ここに戻ってくる直前、おれはとんでもないことを考えてしまった。
あんなこと、できるはずがない。
いくらこの世界の人類が滅びつつあるとはいえ、他人の命を奪っていい理由にはならない。
だいたい、おれにナツを殺せるはずがない。
たとえそれしか方法がないとしても、おれは絶対にそんなことはしない。
「……そういえば」
リュックを見やる。
おれ自身も1回も使ったことないけど、アレなら……
「がっ!?」
もう一発自分にかました。
あんな危険なもの、ナツに使っていいはずがない。
これも却下だ。許されるはずがない。
「はぁぁ……」
盛大にため息をついてしまった。なんだか憂鬱になってきた。
「頭を冷やしにもう一回行ってみるか……」
まだ足取りは覚束ないけれど、それも含めて自分への戒めということにしておく。
おれはリュックを背負って、その場所から離れた。


ジィィィィィィィィィィィイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ


で、当然のように戻ってくると、
「おかえり」
ナツが昼寝から目を覚ましていた。
おれは若干の後ろめたさを感じながら愛想笑いを浮かべる。
「ただいま」
するとナツは不思議そうに首を傾げた。
「どうしたの?」
「なにがだ?」
「つかれてる」
「えっ」
驚いた。まさかナツに気遣われるとは。
厳密に言えば疲れていたわけじゃないけれど、そんなことを話すつもりは毛頭ない。
「大丈夫だよ」
正直、嬉しかった。
かあさんもおれを気遣ってくれることはいっぱいあったけれど、それはなんというか、親子だから当然のようなものだと思っていた。
だからこそ、他人であり、同年齢であるナツに気遣ってもらうのは特別な感慨があった。
つくづく思う。
4年ぶりの話し相手がナツでよかった、と。
「それじゃ、またおれの質問に答えてもらおうか」
しみじみタイムはこれくらいにしておく。
おれはずっと気にかかっていたことを訊ねた。
「あのさ、ここから出られないのは、なんか『セミ』が絡んでるんだよな?」
「うん」
「だったらさ、秋まで待ったらいいんじゃないか?」
セミというのは、羽化した夏のうちに寿命を迎えるものだ。秋になっても多少は生き残っているだろうけど、それも時間の問題。
だからセミがいなくなってしまえば、何かしらの変化があるのでは、とおれは考えたのだ。
けれどナツは、クスクスといたずらっぽく笑みを浮かべ、
「むり」
即答した。
あっけらかんと否定され、おれは不本意ながらも少し心が揺れてしまう。
「どうして」
ナツは表情を変えない。
「おわらない」
「……何が」
わかっていながら、おれは訊ねる。
だけどナツは、おれの心中を察するはずがない。
「なつ」
「……………………」
なぜだかわからない。
なぜだかわからないけれど。
おれは絶句し、何も言い返すことができなかった。


夜。おれたちはそれぞれ眠りにつこうとしていた。
でもおれは、妙な焦燥感を覚えるようになった。文字通り、焦っている。
『おわらない』
そんなはずがない。
『なつ』
そんなはずが、ない。
夏が終わらないなんてありえない。
だけど、あいつの言葉には奇妙な力がある。
あいつが言うと、本当にその通りになってしまいそうな気がする。
それはナツが、まったく淀まずに断言するからかもしれない。
言葉こそ短いものの、いや、短いからこそ力強さを感じる。
あるいは、今までナツが言ったことはすべて的中していたからかもしれない。
ここから出られない、むり、言ったとおり……。これらのことはほんとにその通りだった。
こういった前例があるから、夏が終わらない、なんて戯言も真に受けてしまう。
ありえない。ありえない。
夏が終わらないってことは、セミも死ぬことはない。生き続ける。
ということは、おれたちが一生ここから出られない、というのも現実味を……
「クソっ」
ダメだ。睡魔なんてまるで来やしない。
昨日とは正反対だ。熟睡しているナツがうらやましく思う。
もしこのまま脱出できなければ、おれとナツはどうなってしまうのだろう。
完全栄養補給食品も飽和維持水分食もまだまだある。当分は大丈夫だ。
でも、いつかは尽きる。そしたらあとは死を待つだけだ。
滝壺の水だけで、果たしてどれだけ生きられるだろう。
「……ああもう」
眠れない夜は嫌いだ。余計なことを考えてしまうから。
そして余計に眠れなくなる負の連鎖に陥るのだ。
今夜はもう眠れないと気づいたおれは、リュックも背負わずに滝から離れた。
とにかく山を下りるのだ。まずはそれしかない。
夜の森に入るなど自殺行為だ。それはわかっている。
でも今のおれにとって、それは大した問題じゃなかった。
眠れない夜を悶々と過ごすのは時間の浪費だ。
ならば、少しでも可能性の輪を広げておく方がよっぽど建設的だろう。
「ダメだな、おれ……」
良く言えば行動派ともとれるけど、単に冷静さを欠いているだけだ。
結局おれは、クールに徹しきることができないんだな。


ジージージージー、ジージージージー。
夜中ならば、と淡い期待を抱いていた。
でもそれは、やっぱり泡沫の願望でしかなかった。
セミが鳴いている。こんな夜中に。
ありえない。夜中に鳴くセミなんか聞いたことがない。
ジージージージー、ジージージージー。
道なんかまったく見えない。
足下もろくに見えない。まだ1回も転んでないのは、長年の旅で身につけた野生的な第6感が働いているからかもしれない。
ちなみに、これを俗に思い上がりと言う。
ジージージージー、ジージージージー。
ともあれ、これでひとつの可能性は消えた。
夜もダメ、と。
時間帯は関係ない。これだけでも収穫と考えなきゃ。
これから訪れるであろう、目眩や耳鳴りは代償と考えるべきか。
ジージージージー、ジージージージー。
あぁ、来たよ。
視界が歪む。聴覚も淀む。
頭が痛い。膝が震える。
でも事前に来るということがわかっていれば、精神的にもだいぶ楽になるものだな。

ジィィィィィィィィィィィイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ

――さぁ、次の可能性を試そう。


ジージージージー、ジージージージー。
全力で走ってみた。
『ナツの場所』に戻されるトリガーが距離だとしたら、今までより早く戻されるはずだ。
ジージージージー、ジージージージー。
ただこれ、ひとつ大きな問題があった。
山というのは、基本的に登りよりも下りの方が難しいと言われている。
足にかかる負担も増えるし、前傾姿勢になるので転倒の危険性も増大する。
ジージージージー、ジージージージー。
走って、こけそうになって、踏ん張ってなんとか耐える。
走って、こけそうになって、踏ん張ってなんとか耐える。
走って、こけそうになって、踏ん張っ――
「痛っ!」
と本日1回目の転倒を喫したところで、
ジージージージー、ジージージージー。
来た。迎えだ。
全身を苦痛が包む。
これにもそのうち慣れてしまうのだろうか。
その方がいい気もするし、ダメな気もする。
ともあれ、どうやら距離は関係ないらしい。
やはり時間だろうか。

ジィィィィィィィィィィィイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ

――さぁ、次の可能性を試そう。


ジージージージー、ジージージージー。
セミの鳴き声が聞こえ始めたと同時に、その場に座ってみた。
前回で距離は関係ないことは証明できた。
だから時間がトリガーとなっているのならば、ここで一歩も動かずとも戻されるはず。
ジージージージー、ジージージージー。
しかしながら当然、これにも弊害のようなものはある。
それはじっと座っているだけでは、時間の流れが遅く感じるというものだ。
これでは歩いているときと正確に比較するのが難しい。
ジージージージー、ジージージージー。
ひたすら待ち続ける。
次第に足が疲れてくる。
尻まで痛くなってくる。痔になってしまいそうだ。
それでも動くわけにはいかない。
ジージージージー、ジージージージー。
迎えだ。
よし、これでひとつの事実を突き止めた。
『ナツの場所』に戻るトリガーは時間になっている。
一歩も動かなかろうが、全力で走ろうが、一定の時間が経過すれば戻るらしい。
解決への直接的なヒントになるかはわからないけれど、心の中に留めておこう。

ジィィィィィィィィィィィイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ

――さぁ、次の可能性を試そう。


ジージージージー、ジージージージー。
セミを調べてみることにした。
どんな種類で、どれだけの数がいるのか。
これだけ鳴き声が響いているんだ、きっとすぐに見つかるだろう。
ジージージージー、ジージージージー。
「…………」
ありえない要素、ひとつ追加。
いない。1匹たりとも見つからない。
木の幹、根元、枝葉……。
暗くてよく見えないとはいえ、そこら中から鳴き声が聞こえるというのに。
ジージージージー、ジージージージー。
いない。いない。
何十本もの木々を見て回っても、セミらしき姿はない。
とは言っても、おれがこれくらいで焦ることはない。
ありえないことに対して、徐々に耐性がついてきたのだろうか。
さすが、クールなおれだ。
ジージージージー、ジージージージー。
あらゆる苦痛がおれを襲う。
おれはふらふらと地面に崩れた。
タイムオーバー。
とそこで、空が白み始めていることに気がついた。
もうすぐ夜明けか。時間が経つのが早い。
さて、と。

ジィィィィィィィィィィィイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ

――さぁ、次の可能性を試そう。


ジージージージー、ジージージージー。
限界までに力を込めて耳を押さえてみた。
もしかしたら幻聴かもしれない、そう思ったから。
今までやってそうで、何気にやってなかったことだ。
これで聞こえなくなれば、おれの耳は正常ということ。
ジージージージー、ジージージージー。
ありえない要素、さらに追加。
耳が潰れるくらいに力を入れているのに、鳴き声の音量がまるで変わらない。
これはいったいどういうことだろうか。
幻聴……ということにしていいのだろうか。
ジージージージー、ジージージージー。
辺りにセミはいなかった。
それなのに、耳を押さえても鳴き声は聞こえ続ける。
これらのことを結びつけると、何が浮かび上がってくる?
「…………」
さっぱりわかんねぇ。
ジージージージー、ジージージージー。
タイムアップ。
苦痛にはだいぶ慣れてきた。
ただ、体力的にきつくなってきている。
眠気がないとはいえ、不眠不休はさすがに体に悪いらしい。
だけどまぁ、休憩する気は毛頭ないんだけどね。

ジィィィィィィィィィィィイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ

――さぁ、次の可能性を試そう。


ジージージージー、ジージージージー。
ふと思ったことがある。
今回はシンキングタイムといこう。
身体の休憩も兼ねられるから一石二鳥ということだ。
うむ、実にクールっぽい。
ジージージージー、ジージージージー。
どれだけ滝から離れようと、時間が経てばあそこに戻される。
だけど時間までもが戻るわけじゃない。
現に、朝が少しずつ近づいてきている。
ジージージージー、ジージージージー。
つまり、時間軸ごと戻されているわけではないということだ。
あくまで『おれ』という個体のみが、所定の座標位置に転移されている。
いわゆるタイムスリップというやつをしているわけではない。
ジージージージー、ジージージージー。
「…………」
ここから導かれる手がかりはなさそうだな。
このシンキングタイムは休憩ということにしておこう。
休憩する気は毛頭ない、とか思ったのはどこのどいつだよ。
クールたる人間として最低だな、まったく。

ジィィィィィィィィィィィイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ

――さぁ、次の可能性を試そう。


ジージージージー、ジージージージー。
木登りをしてみることにした。
バカだなんて言ってくれるな、ちゃんと考えがあってのことだ。
まぁ木の上から風景を眺めようという、とても単純な考えだけどね。
ジージージージー、ジージージージー。
「うっ」
しまった、右手人差し指の爪が剥がれてしまった。
「おぉぉ……かなり痛ぇ……」
我慢できる程度はあるけど、血がどばどば出てくるのは精神的にきつい。
でも休むわけにはいかない。
おれは爪が剥がれた指をかばいながら木登りを再開する。
ジージージージー、ジージージージー。
「ふぅ」
リュックを背負ってないため、わりと早く登りきることができた。
周囲では青々とした葉が生い茂っている。
「すぅぅ……はぁぁ……」
自分を落ち着かせるための深呼吸。
ジージージージー、ジージージージー。
迎えが来た。おれはもう一度深呼吸をする。
そしてタイミングを見計らい、
「てやぁっ!」
意を決して飛び降りた。
『ナツの場所』に戻されるとき、おれは常に地に足をつけていた。
だから宙に浮いていればどうなるのか、を知りたかったのだ。

ジィィィィィィィィィィィイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ

――あぁ、やっぱりダメか。


ジージージージー、ジージージージー。
まずい、いよいよ体力が限界な気がする。
足がふらふらするし、頭も何やらぼーっとしている。
まるで何日も寝てないような気分だ。
ジージージージー、ジージージージー。
単純に体を動かしすぎか。
それとも、連続で『不思議体験』を繰り返したのがまずかったのか。
どっちが正解かはわからないけど、今朝はこれで最後にしておこうと思う。
ジージージージー、ジージージージー。
でも……やっぱり悔しい。
これだけ何回も繰り返したというのに、決定的な手がかりはなにも見つけられなかった。
一定の時間が経過したら戻される。
耳を塞いでも聞こえ続けるセミの鳴き声。
まったく、この世界は物理的法則まで失くしたというのか。
ジージージージー、ジージージージー。
タイムアップ。
体力が尽きたからか、おれの意識が遠のいていくのがわかる。
やっぱり、あの方法しかないのだろうか……。
脱出するためには仕方のないことなのか。
……ダメだ、疲れすぎてこんなことまで考えてしまっている。
最低だな、おれ。

ジィィィィィィィィィィィイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ


――だけどもう、やむを得ないのだろうか……。



「ショウ」
…………ん?
「ショウ」
ナツの声だ。
「ショウ」
自分の名を連呼され、おれは目を閉じていたことに気がついた。どうやら戻ってきたと同時に眠ってしまったらしい。
自分が思っていたよりも体に負担をかかっていたのかな。
「おは――って、うおっ」
目を開けると、ナツが心配そうにおれの顔を覗き込んでいた。鼻先が触れそうなほどの至近距離。
おれは反射的に頭を後方に引っ込めて、
「ぐぁっ!?」
岩に後頭部を打ちつける。
「痛ぅ……」
これは地味に痛い。きっと今のおれは涙目になっているだろう。
「だいじょうぶ?」
諸悪の原因はおまえだ、とはもちろん言わない。
こいつに悪気はなかったんだ、咎めるつもりはさらさらない。
大丈夫だよ、と後頭部をさすりながら言って、改めて朝のあいさつをする。
「おはよう」
するとナツは嬉しそうに頬を緩めて、
「おはよう」
と返してきた。
本当に無邪気な奴だ。こんなやりとりでも心が洗われていく気がする。
「そういや、なんでおれを起こした? 腹でも減ったか?」
「うん」
「そうか、ちょっと待ってろ」
おれは放置していたリュックを手に持ち、中からふたつの瓶を取り出す。
そしていつものように一粒ずつ渡そうとしたところで、
「どうしたの?」
ナツの笑顔が消えた。
その理由を探るべくナツの視線を追うと、おれはすぐに納得する。
右手の人差し指の先が赤黒く染まっていた。
応急処置で絆創膏を貼っておいたのだけど、滲み出た血が固まってしまったらしい。
「大丈夫だよ、もう止血してるみたいだし」
心配するほどのことじゃない。痛みも我慢できる程度だ。
おれは口調を優しくしてナツを安心させてやろうとする。
でもナツは眉をひそめたまま、やや上目遣い気味に訊ねてきた。
「いたい?」
初めてみるその仕草に、おれは不覚にもかわいいと思ってしまった。
「かわいいな」
だから言った。
「いたい?」
……やっぱスルーか。
おれは苦笑しながら首を振る。
「痛くない。爪が剥がれただけだ」
「つめ?」
「そう。でも爪くらいまた生える」
生える、という表現が正しいかはわからないけど。
「ち」
「は?」
「ち」
「…………あぁ、血ね。さっきも言ったけど、もう止まってるから大丈夫だって」
思ったよりも粘ってくるな。そんな大したケガでもないのに。
いや、そりゃあ心配してくれるのは嬉しいよ。だけどこんな上目遣いで訊ねられたら、なんだか妙に心苦しさを覚えてしまう。
「かして」
「なに?」
とそこで、ナツがいきなりおれの右手を掴んできた。
おれは慌てて右手に持っていた2粒を左手に移す。
「だから大丈夫だって。絆創膏だって貼ってあるだろ?」
そう言ってみるけど、ナツは真剣な眼差しで人差し指を睨みつけている。
するといきなり絆創膏を剥がし始めた。
「おい、せっかく貼ったのになんで剥がすんだよっ」
というか、ためらいもなく剥がすものだからかなり痛いんだけど。声を出さないように歯を食いしばる。ナツは指先に集中しているから気づかないのは救いだった。
やがて絆創膏が剥がされる。
自分のものとはいえ、爪のない指先を見るのは気分のいいものじゃない。
「で、剥がしてどうすんの」
ナツは黙って凝視していた。顔も何やらしかめている。
すると徐々に顔を近づけてきた。ナツの息が指先にかかって妙にくすぐったい。
そんなことを考えていると、
「…………はむ」
「ぬぉおおおおっ!?」
く、くわえやがったっ!?
突然のことに情けなく素っ頓狂な声を出してしまう。
「はむ?」
「はむ? じゃねぇよっ!」
おれはナツの口から指を引き抜いて、服の襟で唾液を拭う。
「おまえ、なに考えてんだよ……!」
恨めしく言い咎めると、なぜかナツはにっこりと微笑んで、
「しょうどく」
なんてことを言い出した。
何世紀前の迷信だ……。確かに唾液は殺菌作用があるけど、それ以上に口の中は雑菌が多いからむしろ逆効果ってことを知らないのか。
でもナツは善意でやってくれたんだろうなぁ。
「なおった?」
自分の行動が善だったと信じて疑わないナツ。なんかもう、ものすごく満面の笑みを浮かべてらっしゃる。
……ダメだ、毒を抜かれた。もう咎める気になれない。
おれは嘆息したい衝動をぐっと堪え、無理矢理笑顔を作る。
「ありがとう。ナツのおかげでもう痛くないよ」
とても同い年に向けた言葉とは思えないな。幼い子どもを相手にしている気分だ。
「よかった」
そう言って、ナツは両手を差し出してきた。
「ちょうだい」
「……はいよ」
左手に持っていた朝食を渡してやる。
「ありがとう」
「ん、どういたしまして」
つくづく思う。
かわいい奴だよ、ほんとに。
無邪気で、健気で、いつも眠そうで、浮き世離れしていて。
いつの間にか、と言っても過言じゃない。出会ってまだ3日目だ。
おれは自分でも驚くくらいに、ナツのことを愛おしく思うようになっていた。
とは言っても、恋とはちょっと違う気がする。
かあさんと死に別れて、それからずっと独りで生きてきた。
だから多少は、ナツと通じるものは感じられる。
それはただの感傷かもしれないし、傷の舐め合いかもしれない。
でも、それが悪いとは微塵も思わない。
ナツとの会話はすごく面倒くさいし、ぜんぜん融通の利かない奴ではあるけれど。
そういったものも含めて、おれはナツとのやりとりを楽しんでいた。
それが毎日続けば、いったいどれほどの幸福感に浸れるのだろう。
こんな廃れきった世界でも、常に前向きに生きていけるかもしれない。
現実に絶望して、夢幻病に冒される人が満ちた、滅びゆく世界でも。
ナツとならきっと、希望を持ったまま生きていけるのではないだろうか。
だから、一生ふたりでいるのも悪くないと思う。
おれには『世界の中核』を壊すという使命があるけれど、必ずしもひとりで遂行しなきゃいけないわけじゃない。
まずはここを抜け出して、その上でナツさえよければ、きっとふたりで旅をしてもいいはずだ。
もしここから脱出できたら、一緒に旅をしないか、と訊ねてみようか。
「ふぅ」
「満腹か?」
「うん」
「そうか、それはよかった」
「よかった」
でも、おれは訊けない。
断られるのが恐いから、というわけじゃない。
むしろ逆。頷かれるのが恐いんだ。
だって、もしオーケーをもらってしまったら、おれはこれからの行動を起こせなくなってしまう。迷いが生まれてしまう。
だから訊かない。
訊きたくても、訊けない。
だって、
「……………………」

これからナツには、死んでもらうのだから。


「なぁ、ナツ」
そう呼びかけて、おれはリュックから親指サイズの小さな瓶を取り出した。
中に入っているのは、無臭の黒い錠剤。
「なに?」
眠そうに緩んだ瞳をおれに向けるナツ。
おれは錠剤を一粒だけつまんで、ナツの目を見据えた。
今のおれは、いったいどんな顔をしているだろう。
怯えているかもしれない。
泣きそうな顔をしているかもしれない。
あるいは、無表情かもしれない。
「これをよく見てくれ」
おれは錠剤をつまんだ手をナツの目の前に持っていく。
ナツはしげしげとそれを眺めて、「なにこれ?」と訊ねるべく口を開いた。
瞬間、
「むぐっ――」
ナツの口の中に手を突っ込んだ。
錠剤を舌の上に置いて、手を引っ込めると同時にナツの口を押さえる。
「んんっ! んんんんっ!」
苦しそうにナツが悶える。
顔を激しく動かす。おれの手を振りほどこうとする。
でもおれは離さない。絶対に離さない。
空いていた左手も右手に被せ、両手でナツの口を塞ぐ。
「んんっ……、ん…………」
やがてナツは為す術もなく錠剤を飲み込んだ。
あの黒い錠剤が、ナツの体内へと潜り込んでいく。
おれは手を離した。
ナツは膝を折り、苦しそうに咳き込む。
「なに……?」
緩んだ瞳に涙を浮かべて、不安そうな顔で訊ねてきた。
本当のことを言うつもりはない。
怯えさせるくらいなら、黙っておいてやった方が優しさだろうから。
「おやつだよ」
「うそ……」
「信じないのか?」
「うん……」
「そうか、残念だ」
効果はすぐに現れ始めた。
ナツの身体が小刻みに震えだす。
「さむい……」
今は夏だ。寒いはずがない。
けれどもナツは、両手で自分の体を抱こうとする。
「さむいよ……」
繰り返す。
おれは何も言わない。何もしない。
ただじっと、恐怖と寒さに震えるナツを見つめる。
「ショウ……」
すがるような眼差し。
親をなくした子犬を連想した。
「ショ、ウ……」
おれの名を呼ぶ唇も、怯える顔も、どんどん血の気を失っていく。
そんなナツを見ていられなくて、おれは瞼を下ろした。
「ナツ」
闇の中で、静かに口を開く。
「ごめんな」
どさっ、と足元で音がした。
おれは目を開けて、その場にしゃがみ込む。
うつ伏せで地に伏している少女の首にそっと手を伸ばす。
脈はない。
続いてナツを仰向けにして、わずかに開いた口元に手を添える。
呼吸も止まっている。
間違いない。
今のナツは、死体だ。
「さて」
おれは自分のリュックをナツに背負わせて、続けてそのナツを背負った。
「急ごう」
おれは走り始める。
タイムリミットは、1時間。


かつてこれが開発されたとき、大きな物議を醸したらしい。
一時的に人の生体機能を凍結させる、言わば仮死状態にするための劇薬。
元々は戦争の前線で戦う兵士が敵を欺くために開発されたらしいのだけど、その用途はあらゆる分野に広まっていったとか。
例えば医療に、例えば犯罪に、例えば宗教に。
……とまぁ、その辺の話はさておいておく。
おれがナツに飲ませたのはまさにこいつだ。まだかあさんが生きていた頃、食料を求めて軍の基地に侵入したときに偶然見つけたものだった。
使うことがあるかどうかは不明だったけど、まさか自分以外の人に飲ませるとは思いもしなかった。人生はわからないものだ、とたかだか13歳にして思う。
「待ってろよ、ナツ……!」
ともあれ、ナツには本当にひどいことをしたと思っている。
仮死状態とはいえ、一時的に死んでいるのだ。
本人にとっては、その瞬間はきっと想像以上に恐ろしいのだろう。
許されることじゃない。おれは人殺しと同義のことをした。
そう、おれはナツを殺した。
自らの手で、愛おしく思う相手を殺した。
絶対に許されない。絶対に許されない。
だからこそ、おれは必ず抜け出す義務がある。
ナツを仮死状態にしたのは、すべてはそのためなのだから。
「聞こえない……なにも聞こえない……っ!」
おれはとにかく走り続ける。もちろん、転ばないように最大限の注意も払っている。
ナツはおれを呼んでいるのだという。
たとえそれが無意識だとしても、呼んでいるのには変わらないんだ。
だから完全に意識を閉ざした。これでもう、ナツがおれを呼ぶのは不可能なんだ。
「クソっ……、ちくしょう……!」
もしも、の話だ。
たとえ仮死状態でも、ナツがおれを呼んでいることだってあるかもしれない。
それでもナツは死んでいる。
だから、絶対にその想いがこっちの世界に反映されるはずがない。
「なんで、だよ……っ」
それなのに。
それなのに、どうして。
どうして――

「どうしてセミの鳴き声が聞こえるんだぁぁぁぁぁぁああああああああああああああ!」

ジージージージー、ジージージージー。
ジージージージー、ジージージージー。

「ナツは死んでるんだぞっ、この世から消えてるんだぞっ!」

ジージージージー、ジージージージー。
ジージージージー、ジージージージー。

「死んでる奴が鳴けるわけねぇだろ! 呼べるわけがねぇだろっ!」

ジージージージー、ジージージージー。
ジージージージー、ジージージージー。

「ちく、しょう……っ。これでもダメなのか、ここまでしても抜けられないのか」
セミが鳴く。セミが鳴く。
いつものように。
一定の音量で。一定のリズムで。
「どうすりゃいいんだ……」
耳元で鳴る。おれについてくる。
おれを恨むように。おれを憎むように。
おれを、呪うように。
「おれにどうしろと言うんだぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああああ!」
不意に、ナツのあの言葉を思い出す。
その言葉がまるで呪詛のように、おれの頭に巻きつき始める。
心臓が跳ね上がる。精神がぐちゃぐちゃに掻きまわされる。
痛い。苦しい。辛い。寒い。暗い。重い。気持ち悪い。
助けてくれ、と願った。
許してくれ、とも祈った。
どうか。
どうか。
「どうか……」
死体と化したナツの感触を背で感じながら、やはりあの言葉が、脳裏をかすめた。

ナツの言っていたこと。
それは――

ジィィィィィィィィィィィイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ


――夏は終わらない。


 
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