セカイのみるナツ

西野尻尾

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第3章 そして夏が終わる

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第3章  そして夏が終わる


開けっ放しの窓から風が入ってきた。
ほのかな熱を孕んだ風が、おれの部屋の空気を清めていく。
真っ白な天井、真っ白な壁、真っ白な床、そして真っ白なベッド。
ベッドと窓以外には何もない。それがおれの部屋。
眠りから覚めたおれは、忌々しげに腕で目を覆った。
「またか……」
心が満たされていた。
とても温かくて、全身が安らぎに包まれている。
でも、おれにはそれが憎かった。甘んじる気はまるでなかった。
ベッドから起き上がって、窓に歩み寄る。
18階から眺める世界の光景は、本当に美しい。
夏の日差し。その日差しを受けて煌めく透明に澄んだ川。山の稜線。
そしてこの塔を囲む、色とりどりの無数の花。
綺麗だと思う。
もし天国というものがあるのなら、きっとこういうところなのだと思う。
だけど、おれにはわかる。
これは虚構だ。つまりは幻だ。絵空事だ。
こんな虚飾に満ちた世界なんか、好きになれるはずがない。
「クソ……」
これ以上窓の外を直視できず、ベッドに身を投げた。ぼふっ、と柔らかい布団が沈む。
まだ眠気は残っている。このまま目を閉じれば、もう少しだけこの世界から離れることができる。
でも、同じことだ。
起きていようが寝ていようが、変わることはない。
夢幻病に冒されてしまっていた。
とても幸せな夢を見るようになった。
それは甘美な幸せ。それは偽物の幸せ。
唯一の救いは、夢の内容をまったく覚えていないこと。起きたときにはさっぱり忘れていて、思い出そうとしてもまったく叶わない。
だから依存することはないし、現実に見切りをつけることもない。
それでもやはり、目を覚ましたときの幸福感は耐え難いものだった。


部屋から出た先は、半径5メートルほどの筒状のロビーになっている。
1階から最上階まで吹き抜けになっていて、中央に螺旋階段があるだけ。その周りはなにもない。
各階にひとつずつ部屋があり、階段とドアに橋がかかっている。
おれは階段を上って、最上階である19階の部屋に入った。
おれの部屋と同じ真っ白な部屋。
ベッドと窓があるだけの、質素で、だけどどこか優しげな部屋。
「すぅぅ……すぅぅ……」
ひどくゆったりとした寝息がわずかに空気を揺らしている。
唯一の共存者である、ナツという名前の少女。
部屋と同化しているかのように白いワンピースに、腰まで届く長い髪。
おれはベッドに歩み寄って、彼女の寝顔を眺めた。
おれと同年齢、つまりは19歳らしいけど、このあどけない寝顔を見る限りでは15歳程度にしか見えない。
目鼻立ちの整った容姿をしていて、美と優しさを兼ね揃えたような、見る者の目を引き寄せる柔かな印象を受ける。
自然と頬が緩む。ナツを見ているだけで、不思議と心が穏やかになっていく。
おれは彼女の額に手を添えた。
温かい。ナツのぬくもりが手のひらを介して伝わってくる。
「ん……」
ぴくっとナツの瞼が動いた。
一定のリズムを刻んでいた寝息が止まる。
やがてゆっくりと、ナツの瞳が開かれていく。
「ショウ……」
今にも消え入りそうな、弱々しい声音。
おれは微笑んだままおはよう、と言った。
「まだ眠いか?」
続いてそう訊ねると、ナツは何も答えずに瞼を下ろしていった。
それが返事だ。
「そうか。じゃあまた後で来るな」
再びナツの胸が上下し始める。
おれは惜しむ気持ちを抑えて手を離し、踵を返して部屋から出た。


おれがここに連れてこられたのは、感覚的には4年ほど前だった。
こう言ってしまうと、前後のどちらも理解に苦しむかもしれないけれど。
まず、連れてこられた、というのは本当だ。ただ、誰かに案内されたわけじゃない。
あの日、完全栄養補給食品も飽和維持水分食も尽きて2ヶ月近く水しか口にしていなかったおれは、ついに立ち上がることができなくなった。
それまでは学校跡や軍の基地跡、シェルターや福祉施設跡の倉庫からいただいていたのだけど、そのときはまったく見つけられず、さすがに諦めかけていた。
そうして訪れたのは餓え。
動けなくなって、死を覚悟した。そして受け入れるつもりだった。
だって人が死ぬのは、何も珍しいことじゃないから。
滅びゆく世界で、人類も滅んでいく。何も不思議なことじゃなかった。
ただ。
意識が遠のき、視界も閉ざされ、いよいよ命の灯火が消えようとしたとき。
おれの心の奥底で、小さな、とても小さな感情が芽生えた。
怒りだった。
憎き世界に対する、静かな怒り。
それをおれは、死ぬ間際に自覚した。
未練だった。『世界の中核』を壊し、世界を再生させるという使命をやり遂げることができずに死んでいくことが、ただひたすらに腹立だしかった。
だけどおれはどうすることもできず、怒りに苛まれながら目を閉じるしかなかった。
そうしておれは、19年の生涯に幕を下ろした――はずだった。
なぜかまた目を覚ましたのだ。
この塔の18階、今でも使い続けているあの部屋で。
最初は死後の世界かと思った。
ひとつ上の階にいるナツのことも、その整った容姿から天使を連想した。
けれども、窓から外の風景を見たとき、おれは直感した。
ここはまだ現実だ、と。おれはまだ生きている、と。
なぜなら窓から見える風景は、すべて幻で、本当はもう終わっていると、直感したから。
直感なんてものほど根拠薄弱なものはないかもしれない。
けれど確信はあった。
外の世界は既に終わっている。
だから人類ももう滅んでいる。
この塔と、おれと、そしてナツだけが生き残っている。
そうすると、自然に疑問が湧き出てくる。
どうしておれは、この塔に連れてこられたのだろう。
どうしてこの塔だけが、滅ばずに残っているのだろう。
それともうひとつ。
ここの時間の流れは止まっている。おれもナツも、19歳の体から成長してない。だから『感覚的に』と表現になる。もし時間が流れていれば、きっとそれくらいは経っているのだと思う。
それでもここは、時間が流れていないのだ。外の太陽は動いているし、夜も来る。けれど、そんなものはまやかしでしかない。
だからおれたちは腹が減らない。のども渇かない。
夜になったら眠くなるのは、おれもナツも夢幻病の発症者だから。
そして時間が止まっていることを裏付けるように、季節はずっと変わらなかった。いや、変わらないと言ったら語弊がある。
繰り返すのだ。季節が始まって、そして次の季節へ移ろうとして、また同じ季節が始まる。
おれがここに来て、同じ季節を迎えたのは今日ので16回目。
これが最後の疑問だ。
どうしてここは、ずっと夏を繰り返しているのだろう。


ナツの部屋を出て、おれは螺旋階段を下りていた。
18階を通過して、やがて17階にたどり着く。
「…………」
16階に降りるべく、おれは右足を1段目に動かした。
が、おれの足が階段に踏み入ることはなかった。
宙で止まったのだ。まるで透明の壁――床?――があるようで、何度やってもこれ以上下りることができなかった。
確かに階段は続いている。ずっと下まで螺旋を描いている。
だけど、なぜか進むことができない。
この塔に来た当初は1階まで行くことができた。ただ出口がなかったから、塔の外に出ることはできなかった。
外に出たい、と思ったとことがある。それはあくまで興味本位で、塔の暮らしに不満があったわけではないけれど。
各階の部屋にある窓から出ようとしてもダメだった。風は入ってくるのに、おれを通すことはなかった。
それからひとつ夏が過ぎていくごとに、どんどん下に行けなくなっていった。2回目の夏を迎えれば2階までしか行けなくなって、3回目の夏を迎えれば3階までしか行けなくなった。
そして今、おれが下りられるのは17階までだった。
なぜかはわからない。原因を考えようとも思わない。
ただ、なんとなくの見当はついている。
ここ以外の世界は終わっている。
おれとナツ以外の人類は滅んでいる。
だからきっと、この塔も終わるのだ。
だからきっと、おれとナツもやがて消えるのだ。
その瞬間が訪れまで残された『夏』はおそらく、あと3回。


19階に来ていた。
部屋のドアを開くと、ベッドの上の少女が目を開いて天井を眺めていた。
「起きたか」
おれが歩み寄ると、ナツはゆっくりとこちらに顔を向けた。
そしてにっこりと、哀愁さえ漂わせるような微笑みを浮かべる。
「ショウ」
眠そうに緩んだ瞳に、おれは吸い込まれそうな錯覚を覚えながら頷いた。
「今日はどうだ? 夢の内容、覚えてるか?」
「うん、またあの男の子が出てきた」
「お、じゃあまた話してくれよ」
おれはベッドに腰かけた。
ナツは、おれを含んだ通常の夢幻病の発症者と違って、眠っているときの夢をたまに覚えていることがある。しかもその夢は繋がっていて、ひとりの男の子の生涯を追っているような内容らしかった。
それはナツが特異なのか、この塔が何らかの影響を及ぼしているのかはわからない。
ただ、おれにとっては喜ばしいことだった。時間が流れることもなく、特にすべきことのない毎日を送るのはやはり退屈と感じることが稀にあった。
だからナツとの会話は本当に楽しい時間であったし、ナツがその夢を視るたびに会話のネタができるのは嬉しかった。
「今日はね、あの男の子のおかあさんが亡くなっちゃったの」
「えっ!?」
「でもね、男の子は気丈に受け止めてみせたみたいなの。この世界で人が死ぬのは珍しいことじゃない、って。たぶん、そんな感じだと思う」
こんな曖昧な言い方をするのは、夢の中では音声が聞こえないかららしい。
ただ視えるだけで、男の子や他の人が話している声までは聞こえないとか。
まぁでも、話のネタになるのは変わらない。
「ほう。ガキのくせに現実をわかってたんだな。なかなかクールじゃないか」
ふふ、とナツが笑う。
「ショウって、ほんとにクールって言葉が好きだよね」
「もちろん。一般的に男が目指すのは熱血かクールのどちらかだろうけど、おれはクールの方が魅力的だと確信しているからな」
「どうして?」
「不測の事態もさらりと対処し、感情に流されることなく我を貫く――うん、実に格好いい」
羨望の意を込めて力強くそう言うと、ナツはまた楽しそうに笑って話を続けた。
「それでね、男の子はその日のうちにひとりの女の子と出会うの」
「女の子?」
「そう。同い年の女の子」
「同い年って……男の子にとって初めてじゃないか、同年齢の子と出会うのは?」
今までナツが話してくれたものによると、その男の子は父親が夢幻病を発症して以来、何かを探し求めてずっと母親と旅をしているというものだった。
その『何か』が何なのかはナツにもわからないようだった。会話が聞こえないから仕方のないことだけど。
「うん。その男の子もね、初めて同い年の子に出会えて喜んでるみたいだった」
「そりゃそうだろうな。しかも女の子なら尚更なろう」
もっともなことを言ったつもりだった。
けれどナツは、どことなく悲しそうに目を伏せて、言った。
「でもね、その女の子は幻なの」
「……なに?」
「あ、たぶんだよ? 言い切っちゃったけど、ほんとかどうかはわからないの」
少し慌てたように言い繕うナツ。
おれはすかさず訊ねた。
「でもナツはそう感じたんだろ?」
「そうなんだけど……」
「じゃあ、そうなんじゃないか? 所詮は夢の話なんだし、無理に真実を追求しても無意味だしな」
本音だった。
おれからすれば、話のネタにさえなればよかったことだし、その内容に不明瞭な部分があってもいちいち突っ込むつもりはない。
「見たこと、感じたことをあるがままに受け止める……これ、クールたる男の鉄則ね」
胸を張ってそう言うと、ナツはちょっと戸惑ったように苦笑して、
「えっと……うん、そうだよ……ね?」
「なぜ疑問形?」
「あ、ごめん。その、わたしはクールでも男でもないけど……うん、そうだよね」
「うん、そうなんだよ」
おれは迷わずに頷いて、「それで、女の子が幻で――なに?」と話の続きを促した。
ナツはいまいち理解できていないようだったけれど、続きを話してくれた。
「あのね、その幻の女の子は雪だるまが好きで、浜辺の砂で雪だるまを作ろうとしてた」
「砂で? 雪で作ればいいじゃないか」
「あ、ごめん、言い忘れてた。このときね、季節は夏だったの」
「へぇ。雪だるまが好きってのはいいけど、それを夏に、しかも砂で作ろうとするなんてチャレンジャーだな」
まぁ、要はちょっとアホな子ってことなんだろうけど。
ナツはそうだね、と苦笑いを浮かべながら話を続けた。
「それでね、男の子は女の子を手伝うことにしたみたい」
「……ちょっと待って。そういやさ、なんでその女の子が砂で雪だるまを作ろうとしてたってわかったんだ? 会話は聞こえないんだろ?」
ふと思ったことを訊ねると、ナツ自身も「あれ?」と小首を傾げた。
「そういえばそうだね。なんでわかったんだろう?」
「もしかしてアレか? 乙女心は乙女にしかわからないという」
「そ、そうなのかな。よくわからないけど」
「ま、それについてはいいか。でもさ、どうして女の子を手伝おうとしたんだろうね」
「それもわからないけど……たぶん、好きになっちゃったとか?」
えへへ、といたずらっぽく笑いながら言う。
そんな表情を見せられたら、おれがナツを好きになっちまいそうだよ。
「そんな表情を見せられたら、おれがナツを好きになっちまいそうだよ」
「え……えぇっ!?」
急にナツが奇声のような悲鳴を上げた。同時に頬が真っ赤に染まっていく。
「ん? どうした?」
「どうしたって、ショウがいきなり変なこと言うからだよっ」
「変なこと?」
そんな記憶はない。
けれどナツは本気で怒っている――いや、照れている?――ようだしなぁ。
「もしかして、またおれの悪い癖が出てた?」
「出てたっ」
ナツが唇を尖らせる。
またやっちまったか……。
おれの悪い癖。それは思ったことをそのまま言葉にしてしまうという、まるで正直者を極めたようなものだった。
「えーっと……ってことは、なんだ、またナツのことをかわいいとか言ってたか?」
「ううんっ。今日はもっと変なこと言ってたっ」
「別に変なことじゃないだろ」
「変だよっ」
うーん、何十回と繰り返したやりとりだけど、今回はいつも以上にプンプンしてるな。
「じゃあなんて言ったんだ?」
「知らないよっ」
「そっか。まぁでも、褒め言葉のようだったからいいだろ?」
「よくないよっ」
「なんだ、嬉しくないのか?」
「う、嬉しくないっ」
どもった。ってことは嬉しかったんだな。
だったら問題ない。この話はもう終わらせよう。
「まぁいいや。――ほら、じゃあ話の続きをしてくれ。男の子が女の子を手伝うことにしたってところだったな」
「え……?」
するとナツは少しだけ寂しそうな顔になった。おれに何か言おうとして、けれど何も言わず、さっきまでより少しトーンを落として話を再開した。
「えっとね、次の日になったら、一気に20人くらいの子供が増えたの」
20人!? と驚きの声を上げそうになって、でもすぐに納得した。
「それも幻なんだな?」
うん、とナツは頷いた。
「それでね、みんなでたくさんの雪だる……あれ、砂だから雪だるまって言わないかな?」
「別にそんな細かいこと気にしなくていいだろ」
「で、でも」
「じゃあ便宜上砂だるまって呼ぶことにしよう。……ところで、さっきから思ってたんだけどさ、なんか話の進み具合悪くねぇ?」
ナツも同じことを思っていたのか、ばつが悪そうに笑った。
「じゃあ砂だるまね。えっと、砂だるまをみんなで作り始めたの」
「でも、そんなものがそう簡単に作れるわけないよな」
「うん。最初はぜんぜんうまくいかなくて、男の子は悔しそうにしてた」
「最初は、ってことは後々うまくいったんだな」
そうなの、とナツは嬉々として続けた。
「水で塗り固めていくって方法をとってたんだけど、それじゃぜんぜん固まらなかった。そしたらね、工場跡からオイルを持ってきて、それを代わりに使い始めたの」
その光景を思い浮かべているのか、ナツはやや興奮気味に話していた。
そんな彼女を見ていると、おれも釣られるようにテンションが上がってくる。
「なかなか機転が利くじゃないか。クールな大人になる素質が十分にある」
「うん。それでね、ついにいくつかの雪……砂だるまを完成させたんだ」
「おう、それで?」
「それで――」
とそこで、不意にナツが口をつぐんだ。
目を伏せて、何やら言いにくそうに呻いている。
「どうした?」
「ん……あのね」
やがて言葉を絞り出すように、ナツは話を紡いだ。
「その完成した砂だるまの個数分、子供たちも消えたの……」
言いながら、ナツは悲しそうに目を伏せた。
「……それで?」
「それでも男の子と女の子たちは砂だるまを作っていって、その度にどんどん減っていって……。それで夏が終わろうとしたとき、ついにふたりだけになっちゃったの」
感情移入しているのか、ナツはまるで当事者のように声を落としていった。
唇を震わせ、幾度も生唾を飲んでいる。
おれは少し躊躇いながらも、「それで?」と続きを促した。
「ふたりだけになっても、男の子と女の子は砂だるまを作り続けたの」
ナツが視線を窓に向けた。
虚飾に満ちた世界を眺めながら、唇を動かし続ける。
「それでね、いよいよ完成しようかというとき、男の子が泣き出したの。でも、手を止めることはなかった。泣きながら手を動かし続けたの」
そこで言葉を一旦切って、か細い声で続けた。
「それで、砂だるまが完成したと同時に、その女の子も消えちゃった……」
「…………」
その結末は、途中からなんとなく予想できていた。
だけど当然、疑問が残る。
「どうして、だろうな」
するとナツは視線をおれに戻した。
その表情は悲しそうに笑っている。
「その女の子ね、男の子が生み出した幻だったんだよ」
「……他の子どもたちもか?」
たぶん、とナツは頷く。
「さっきさ、男の子はおかあさんの死を受け入れたって言ったじゃない?」
「うん」
「でもね、やっぱり、悲しかったんじゃないかな。冷静に受け止めて、珍しくないことだと受け入れて……だけど、それでもやっぱり、9歳なんだよ? 当たり前のことだなんて、そんな簡単に受け入れられるわけないよ」
「まぁ、そうかもな……」
「そうだよ。いくら気丈に振る舞っても、心のどこかでは寂しかったんだよ」
今にも泣きそうな声音だった。
いくら夢の中とはいえ、ナツはその男の子をずっと見守ってきたようなものなのだ、同情するのは無理のないことなのかもしれない。
「……それで、その男の子はどうしたんだ?」
「わからない……。女の子が消えちゃって、その場で泣き崩れちゃって、そこで夢が終わったの」
「そうか……。話を聞く限りでは、その男の子は女の子が消えることを予測してたみたいだな。だから最後のひとつを作ってるときに泣いてたんだろう」
「うん、わたしもそう思う……」
「でもさ、なんで消えるとわかっていて、砂だるま作りを続けたんだろうな」
「わからないよ。そもそも女の子が消えた理由が砂だるまにあるとは限らないし」
「あ、そうか」
仮に最後の1体を作らなくても女の子は消えていたのかもしれない。だから最後の思い出のために作ったというなら、男の子の行動には得心が行く。
でもそうすると、新しい疑問が思い浮かぶ。
「だったら、どうして女の子は消えたんだ? 男の子が生み出した幻なら、その子が女の子の存在を願い続ける限り、消える理由なんかないだろうに」
「夏だよ」
「えっ?」
予想だにしていなかったナツの即答に、思わず声を上げてしまった。
そのナツは神妙な面持ちをしていて、いつもの彼女とは異なる雰囲気を醸し出していた。
「そういや、夏が終わろうとしてたときだったな、女の子が消えたのは」
「うん。だから、夏が関係してるのは間違いないと思うんだ」
「じゃあ、どう関係してるんだ?」
抱いて当然の疑問をぶつけた。
けれどナツは、表情を曖昧な笑顔にするだけだった。
つまりわからない、と。そりゃそうか。おれにだってわからない。
おれは深く息を吐いて、どこか重くなった空気を変えるべく明るい口調で口を開いた。
「なかなか面白い話だった。結末はちょっと悲しいものだったけどさ、なんというか、引き込まれるような話だった」
おれの意図を汲み取ってくれたのだろう、ナツも淀みのない笑みを浮かべた。
「そうだよね。今までの夢はただおかあさんと旅をしてるだけだったけど、物語が動き出した瞬間、って感じだった」
「そうだな。母親が亡くなったのを喜ぶのは不謹慎だけど、まぁ夢の中の話だしな」
うんうん、と頷くナツ。
そうしておれは、ナツが眠くなるまで会話を続けた。
ナツは1日中眠っているようなもので、起きているのはせいぜい1時間ほどだった。
だからおれは、こうして話していられる時間を大切にしていた。
どうしてそんなに眠っているのか、いつからここにいるのか、そもそもいったい何者なのか。
そういった疑問は当然抱いたし、直接ぶつけたこともある。
けれど彼女の答えはこうだった。
『それはショウも知っていること』、『それもショウならわかっているはず』、『それこそショウにしかわからないことだよ』。
はぐらかせた、というわけじゃない。自分で気づけ、ということだ。
でも、いくら考えてもわからないことだった。感覚的には4年近く考えていたけれども、未だにその答えは見つかっていない。
まぁでも、歳はとらないし、時間は永遠にあるものだと思っていたからそこまで深く考えたわけじゃなかった。
……だけど。
時間は永遠にあるわけじゃなかった。
ひとつの夏が過ぎる度に、塔の下から徐々に終わりが近づいてきているのだ。
これについてナツに話してみたけど、ナツは悲しそうに笑うだけだった。
焦った。この塔も、ナツとの関係も、いずれは終わりが来るのだ。
だから早く見つけなければいけない。それで終わりを食い止められるのかはわからないけれど、それくらいのことしかできることはなかった。
「それにしても、ナツってかわいいよな」
「な、なに急にっ」
「なんとなく思ったからさ」
「なんとなく思っただけで言葉にしないでよっ」
「どうしてだ? 言葉にしなきゃ相手に伝わらないだろ? せっかくの褒め言葉なんだし」
「……っ! じ、じゃあショウだってかっこいい!」
「うっ!?」
「ほらっ、自分だって照れてるじゃないっ」
「う、うるさいっ。女に繊細でデリケートな男心がわかってたまるかっ」
「ショウだって乙女心を察してよっ。それに繊細もデリケートも同じ意味だよっ」
……でも、今くらいはいいよな。
1日のうちで、たった1時間しかない至福の瞬間なんだ。
この時間がなければ、狂ってもおかしくないくらいに精神が参っていたかもしれない。
時間が流れず、腹も減らず、けれど終わりは確実に近づいてきていて……。
極めつけには夢幻病にも冒されてしまった。
だから今だけは、な。
今のおれにとっては、唯一の生きがいともとれるこの瞬間に、甘んじていたい。
ナツと過ごす日々に陶酔していたい。
そして愚かなおれは、こんなことを願ってしまうのだ。
どうか、終わりなんか来ませんように、と。
そう、叶うはずのない願いを。


ベッドに仰向けで寝転がり、真っ白な天井をじっと見つめている。
この塔に来て以来、やることもないおれは考えることが多くなった。
どうしておれは、夢幻病に冒されてしまったのだろう。
夢幻病は絶望することで発症する。かあさんが死んで、それからずっと独りで生きてきたけれど、寂しいと思ったことはないし、世界に絶望したことなんてなかった。
だから疑問なのだ。どうしておれが、夢幻病を発症したのか。
とは言っても、考えられる要因は少ない。
この塔に来る直前に倒れたとき、おれは未練が残ったことを認識した。
嫌いな世界で、自分の使命を遂げることなく死んでいくことに怒りを覚えた。
そのときに絶望したのかもしれない。
戦争であちこちに穴が空いて、夢幻病が蔓延して、人類が滅んでいく世界。
そんな世界と、自分の不甲斐ない運命に対する怒り、それと未練。絶望するためのパーツは確かに揃っていると思う。
でも、ナツの夢に出てきた男の子の話を聞いて、なるほどそれもあると頷けるものもあった。
本当は、単純に寂しがっていたのかもしれない。
かあさんが死んで、その後は誰とも関わることなく、およそ10年独りで生きてきた。
それが悲しくて、寂しくて、心の奥底で嘆いていたのかもしれない。
そう思ったことはないつもりでいた。だけど、深層心理までは自分でもわからない。
……どうなんだろう。
おれはいったい、何に絶望したのだろう。

それからもナツは、たまに夢に出てくる男の子の話をしてくれた。
あの砂だるまの件以来、男の子は独りで『何か』を探す旅を再開したらしい。
ただ、その男の子は例の女の子のことを忘れているようだったという。
あれほど衝撃的なことがあったというのにどうして忘れたのか、おれは当然のように訊ねた。
けれどナツでも「そこまではわからない」とのことで、おれは首を傾げるばかりだった。
まぁでも、悲しみを引きずるよりはマシなのかな、と最終的に落ち着けて、男の子の探し物を陰ながら応援するような会話を交わした。
以来、その男の子は特に大きな出来事に出くわすこともなく日々を過ごしていったという。
そうして、おれとナツの偽りの時は流れていって。
またひとつ、夏が終わった。



1階から最上階まで吹き抜けになっているロビー。
部屋から出たおれは、いつものように19階に上るべく中央の螺旋階段に向かった。
「…………」
とそこで、何とはなしに下りの階段に足を踏み入れてみた。
が、1段目に足が着くことはない。宙で止まる。
「……ま、例のごとく、だな」
改めて19階への階段を上る。
ナツの部屋に向かいながら、心の中で呟いた。
おれたちに残された『夏』は、あと2回。

ナツはまだ眠っていた。
やはりすることのないおれは、ナツの寝顔をぼーっと眺めることにした。
彼女の無防備な寝顔を眺めていると、雨上がりの青空のように頭が澄んでいく。
今は何も考えたくなかった。
近づいてくる『終わり』から目を背けたかった。
もう自分の部屋で寝ることも叶わない。
もしあの部屋で寝ているときに夏が終わったら、おれはどうなってしまうのだろう。
消えるのだろうか。それは死ぬということなのだろうか。
嫌だ、と思った。消えたくない、と思った。
いや、ちがう。
消えちゃいけない、そう思った。おれはまだ、何かやらなければいけないことがある。
唐突に、しかし漠然とそう思った。
なぜだろう。ナツの寝顔を眺めていたからだろうか。
ナツについての謎は未だに何ひとつ明かされていない。
ほんとに、彼女は何者なのか。これはすごく気になっているし、本人にも訊ねてみたけれど、おれが望んでいるような返答はもらえない。
だけど、絶対に突き止めなければいけない気がする。
ナツのことを、何も知らないまま終わりを迎えるのは、絶対に許されない気がする。
だからこそ、ナツは自ら答えを教えず、「ショウはわかっているはず」というような返答をするのだ。
手がかりは何もない。でも、答えを見つけるのは不可能とも思っていない。
ともあれ、このまま素直に終わりを受け入れるつもりはない。
……って、おれとしたことが、ここでも未練がましいことを考えてしまってるな。
なんかもう、ほんとに救い難い奴だよ、おれは。

「今日も男の子の夢だったよっ」
「おっ、今日はどんなのだったんだ?」
やがてナツが目を覚ました。
どれくらい待っていたかはわからないけど、おそらく2、3時間は経ったと思う。
それでも、退屈だとは微塵も思わなかった。
「あのね、また大きく物語が動いた感じだった!」
緩んだ瞳を爛々と輝かせるナツ。
自然とおれの気分も高揚していく。
「へぇ。あの砂だるまのやつ以来じゃないか?」
「うんっ。……でもね、今日はちょっとすごかったの」
「すごかった?」
ナツの表情が少しだけ曇った。
いや、険しくなった、という表現の方がしっくりくる。
「あのね、またあの女の子が出てきたの」
「砂だるまのときの?」
「うん」
「でも、その子は消えたんじゃなかったのか?」
そう訊くと、ナツは「そうなんだよねぇ」と首を捻った。
「背も髪もちょっと伸びてたし、その消えたときよりも成長してたみたいなんだけど、わたしにはすぐわかったの。その子が、あのときの子だって」
「わかったって、なんで?」
「うーん……」
「……まぁいいよ、その辺は。夢の話なんだし」
夢なんてものほど曖昧なものはない。
初っ端から話が停滞するのも嫌だったし、おれはさっさと話に入ってもらうことにした。
「それで、男の子は女の子との再会を喜んだのか?」
「それがね、男の子は女の子のことに気づいてないようだったの」
「えっ」
「なんかね、久しぶりに生きた人に会えて喜んではいたようなんだけど、再会っていう雰囲気じゃなかった」
ナツの声音もどこか沈んでいる。
きっとナツも、どこかもどかしい気持ちだったのだろう。
「どこでふたりは会ったんだ?」
「山の中だった。そこにわりと大きな滝があって、女の子がそこで昼寝してたところを男の子が見つけたの。あ、ちなみにまた夏だった」
そこまで言って、またもや「あれ?」とナツは首を傾げた?
「見つけた、とは違うかもしれない。その……呼び寄せ、た?」
歯切れが悪く、しかも内容もさっぱりわからない。
きっとおれは怪訝な目をしていたのだろう、ナツは慌てて言い繕ってきた。
「えっと、あのね、なんかね……今日のはほんとに、ちょっとすごかったんだ」
「頼むから正しい日本語で話してくれな?」
「う、うんっ。なんとかしずに話してみるっ」
こいつ、なんだか混乱してないか? 日本語がかなり怪しくなっている。
おれは助け舟を出すことにした。
「ナツ、焦らなくていいからゆっくり話してくれ。ひとつずつちゃんと整理するんだ。じゃないとお互いの間に齟齬がきたす」
そうは言ってみたが、ナツは落ち着く様子はない。
今もなお、どう話すべきか必死に考えているよう。
「あ、じゃあさ、こうしよう」
「え?」
「ナツが話してる間、おれは1回も突っ込まないことにするよ。で、ナツが一通り話し終えたら気になったことを訊くようにする。いちいち話を止めたらナツも頭がこんがらがってくるだろうしさ」
うん、我ながらナイスアイディア。
ナツにとっても納得できる提案だったようで、「それでいこう」と同意してくれた。
そしてふぅ、と一息ついて、改めて話し始める。
「えっと、今回の男の子ね、なんかセミになってたの」
「意味わかんねぇっ!?」
「うわっ、いきなり約束破らないでよっ」
「それは謝る! でも突っ込まずにはいられなかったっ!」
セミになってた? 男の子が?
そんなことを聞かされて「ヘぇ、そうなんだー」ってスルーできるわけがない。
「やっぱさっきのなし。ひとつずつ突っ込んでいくことにする。じゃないとおれが話についていけない」
「ん、それなら仕方ないけど……」
少し不満が残っている様子のナツだったけど、ここはおれの意見を尊重させてもらう。
「で、セミになってた、って? 羽でも生やして鳴いていたのか?」
ナツは「んー」と少しだけ言葉を選んで
「羽は生えてないけど、たぶん鳴いてた」
「…………あの、冗談のつもりだったんだけど」
わかってるよ、とナツはクスクス笑った。
「もちろん、ほんとに男の子が鳴いてたわけじゃないと思う。わたしは音を聞くことができない代わりに、なんとなく感じることができるの」
「それで、男の子が鳴いてたって感じたのか?」
「うん。鳴いてたっていうより、女の子を呼び寄せてる感じだった。それがなんだか、セミを彷彿させたんだよ」
「それで『セミになってた』って表現したのか……」
「そういうこと」
えへへ、と頭をかきながら苦笑した。
にしても、セミ、ね。
「セミって、原則的にはオスしか鳴かないんだよな?」
「うん。メスを呼び寄せるためにね。例外もあるけど、基本的にメスは鳴かない」
「それで、呼び寄せてたってのは?」
「あのね、男の子は滝から離れようとすると、無意識的に女の子を呼び寄せてたの」
「……ナツ」
「なに?」
「さっぱりわからん」
「あうっ」
ずばっと言ってやったらナツが怯んだ。
『男の子は滝から離れようとすると、無意識的に女の子を呼び寄せてた』
さて、どこから突っ込もうか。
「まず、日本語として正しく使っているか?」
「え? えっと……なんて言ったっけ、わたし?」
「『男の子は滝から離れようとすると、無意識的に女の子を呼び寄せてた』」
ナツの言葉を再生してやると、ナツは一字一句頭の中で確認して、
「うん、間違ってないと思う」
言い切った。
ちくしょう、だとしたら突っ込みどころが多すぎるぞ。
「男の子は滝から離れようとした、ってことは、自分の意志で離れたんだな?」
「そうみたい」
「自分で離れておきながら、自分で女の子を呼び寄せてたのか?」
「無意識ではあるけど、そうなるね」
「……なんか矛盾してねぇ?」
ナツに問いつめても無意味だとはわかっている。
が、さすがに男の子のしていることはよくわからない。
「矛盾はしてるけど、でも男の子の気持ちを考えればわかるよ」
「なに……?」
思わぬナツの言葉。
「同じ男の子なのにわからないの?」
しかも追い打ちまでかけてきやがった。
勝ち誇ったナツの表情がちょっと憎たらしい。
しかし、クールたるおれはこれくらいで揺らいだりはしない。
落ち着け。落ち着け、おれ。
やがて心が静まっていくのがわかる。
それを確認して、おれは冷静に言葉を発した。
「どうか教えてください」
「低姿勢になっちゃうの!?」
「もうさ、そんなところまで頭が回らないんだ。既にパンク寸前だし」
セミになってたとか、無意識に呼び寄せるとか、話が複雑すぎだ。
「というわけで教えてくれ。結局、男の子はどういう気持ちだったんだ?」
潔く教えを乞う。
するとナツは気分を良くしたのか、「仕方ないなぁ、もう」と前置きして、
「あのね、男の子は女の子に恋をしたんだよ」
と言った。ものすごく嬉しそうに。
「…………それで?」
「それでって、それだけだよ?」
「男の子が恋をしたの? 女の子に?」
「うん」
「そうすると、なんで行動に矛盾が?」
えっ、とナツが声を上げた。
驚きと哀れみを半分ずつ込めた眼差しをおれに向ける。
「ほんとにわからないの?」
「いや、わからないこともないんだけどさ」
男の子が女の子に恋をした。だからやっていることに矛盾が生じる。
こう考えると、確かに辻妻は合うけれど……。
「なんか、ただのアホな子みたいだな」
「そんなこと言っちゃダメ!」
思ったことをそのまま口にすると、ナツはわりと強めに咎めてきた。
けれどおれは続けた。
「だってさ、自分から離れておきながら、やっぱり離れたくないから呼び寄せてる、ってことだろ? これってただのわがままじゃないのか?」
「だからそういうこと言わないの! 思春期の子はみんなそんなもんだよっ」
「そう、なのか?」
「そうだよっ」
語気には怒りが含まれている気さえした。
まるで自らも経験があるように言い切るな。
というか、おれにそう信じてくれと言ってるようにも聞こえる。
ただ、おれにはちょっと理解し難いことなので触れないことにした。
「まぁそういうことにしておくか。でも無意識ってことは、女の子に恋してるってことは自覚してなかったのかな?」
「そうだと思う。だから何度も同じことを繰り返しちゃったんじゃないかな」
「何度も繰り返した?」
「うん。滝から離れようとして、でも自分で呼び寄せちゃうから離れられなくて……その繰り返し」
「ちょっと待ってくれ。そもそも呼び寄せるってどういうことなんだ?」
あまり気にかけていなかったけど、呼び寄せるって物理的に不可能だよな。
するとナツはまたもや「えっ」ときょとんとした。
「呼び寄せるは呼び寄せるだよ」
何気なく言いやがる。
「あのな、呼び寄せるって、物理的に不可能だろ?」
「物理的……?」
ナツが眉をひそめた。
「あっ!」
そんなナツを見て、おれは重大なことを思い出した。
そうだった。おれは一番忘れてはいけない大前提を失念してしまっていた。
「ショウ、女の子は幻なんだよ?」
「そうだったよな……」
自分の愚かさにうんざりする。
そうだよ、幻に物理的法則なんか適用されるはずがない。
「つまり、男の子は無意識的に幻の女の子を呼び寄せてたんだな」
「そう。ただね、女の子は滝のそばから離れられなかったようなの」
「どうして」
「たぶんだけど……ほら、滝って色々な伝説があるじゃない? 人の想いを反映させるとか、天女が舞い降りてくるとか」
「……そうなの?」
初めて知った。
「うん。そういうのもあって、女の子は滝から離れられなかった。だから男の子が女の子を呼び寄せようとすると、その滝まで一緒に呼び寄せちゃったんだと思う」
「なんかスケールがすごいな……。いや待て、滝は幻じゃないだろっ。どうやって滝まで呼び寄せるんだよっ」
「そうだよね。不思議だよねぇ」
いやいや、そんな無邪気な笑みを浮かべられてもな……。
幻ならともかく、滝まで呼び寄せるとか……。
…………んー。
「ま、夢の話だしな」
「そういうことっ」
これいいな。どんな謎も『夢だから』で済んじまう。
逃げてるみたいでちょっと悔しいけど。
「それで結局、男の子はどうなったんだ? あと女の子も」
ずいぶんと話が止まっていた気がする。
おれはようやく話を進められることにわずかな達成感を覚えていた。
だけど、
「あ、えっとね……」
ナツは言いにくそうに目を伏せた。
さっきまでの達成感が一瞬にして吹き飛ぶ。
これだけでもう、砂だるまのときのように悲しい結末を迎えたことが窺えたからだ。
「また消えちゃったのか、女の子?」
少しでも言いやすいようにと思って話を振ったのだが、ナツは顔をしかめながら首を振るだけだった。
「……もしかして、その無限ループから抜け出せずに一生を終えたとか?」
想像するだけで恐ろしい結末だぞ、これは。
しかしナツは「ううん」と否定してくれた。おれは軽く胸をなで下ろす。
「女の子に運んでもらったの」
「ん?」
「どうやっても山から出られない男の子はね、絶望する一歩手前まで追い詰められちゃったの。それこそ夢幻病に冒されてもおかしくないくらいに」
ナツは沈痛した面持ちで言葉を紡ぐ。
「それを見兼ねた女の子が、男の子の持っていた劇薬を眠っている間に飲ませて仮死状態にしたの。それで男の子はもう、呼び寄せることはできない。その間に、女の子は男の子を山の外に運んだ」
「……それで?」
「山の外で息を吹き返した男の子は、女の子のことを覚えていなかったの。だって、あれだけ脱出しようとしてもできなかったのに、起きたら外にいるでしょう? だからたぶん、それまでの出来事を夢かなにかと思い込んだんじゃないかな」
おれは言葉を失っていた。
それはある意味、最悪な結末じゃないのか……?
「つまりその男の子は、女の子の自己犠牲によって助けられたのに、それらを全部『夢』と片づけて女の子のことを忘れ去った、と?」
「ちがうよっ」
ナツが激しく首を振った。腰まで届く長い髪が躍る。
「女の子はね、きっと男の子のことが邪魔だったんだよ」
ナツは笑っていた。
「はぁ?」
泣きそうな顔で、必死に笑っていた。
「だって男の子のせいで、自分は何度も引き寄せられてたんだよ? それが好きな相手ならともかく、そうでもないならうっとうしいだけだよ。だからそれを終わらせたくて、劇薬まで使って男の子を追い返したんだ」
まるで自分のことのようにまくし立てるナツは、見ているこっちまで心苦しくなるくらいに痛々しい表情をしていた。
それは精一杯に悪者ぶろうとする顔。
嘘すらまともにつけない正直者が、自分を必死に悪く見せようとする、滑稽なくらいに哀れな顔。
そんなナツにおれは、
「……そうか」
と言うしかなかった。
「そうだよ」
不自然に口端を吊り上げる。
いったいどうして、そこまで男の子を庇い立てするのか。
それに思考を巡らそうと思ったけれど、
「最低だよね、その女の子。男の子がほんとにかわいそうだよ!」
なんて、ぜんぜんキャラにそぐわないことを口走るナツを見て、考えるのをやめた。
「まぁ、男のおれに乙女心はわからないから、ナツの方が察しはつきやすいだろうな」
「うんうんっ」
何回も首肯するナツ。
依然として泣きそうなのを堪えているようだった。これについて突っ込むつもりはない。
ただ、おれは言いたいことは口にするキャラだ。今回だって例外じゃない。
おれはナツを見据えた。
「でもおれは男だから、その男の子の気持ちはだいたいわかる」
「え……?」
「男からしたら、その女の子は最高だ。惚れるのも無理はない」


急にしゃくり上げだしたナツを、おれは頭を撫でてやることしかできなかった。
どう言葉をかけていいのかわからず、結局は何も言ってやれなかったのが少し悔しい。
やがて疲れたのか、ナツはそのまま眠ってしまった。
こうなるともう、明日が来るまで起きることはない。
おれは部屋を出て、ドアを閉めて、そしてその場に尻を落ち着けた。
18階にはもう戻れない。今日はまだ大丈夫だろうけど、念のため。
「…………ふぅ」
深く息を吐いて、今日のナツのことを思い起こす。
はっきり言ってしまえば、今日のナツは変だった。
言動がおかしいというか、理に適ってないというか……。
最初に男の子の夢を視たと言ったとき、ナツは「物語が動いた!」と嬉しそうにしていた。
そう、嬉しそうにしていたのだ。
なのに最後の方。
『最低だよね、その女の子』
泣きそうな顔で、それでも精一杯に悪者ぶって、そんなことを言ったのだ。
だけど、
『男からしたら、その女の子は最高だ。惚れるのも無理はない』
おれがそう言うと、ナツは堰を切ったように泣き崩れた。
……………………。
さて、この前後の落差はなんだろう。
明らかにおかしい。不審を抱くなと言われる方が無理な話だ。
……ただ。
自惚れているわけじゃないけど、少し考えればわかると思う。
たぶん、そこまで難しいことじゃない。
でもナツはきっと、おれがこの件について考えることは望まないだろう。
それに、ナツが眠ってる間に考えるのは卑怯な気もする。
本人のいないところで陰口を叩くのと一緒だ、そんな低俗な真似はしたくない。
「はぁ……」
胸が締めつけられるようだった。息苦しささえ覚える。
ちくしょう……。
なんだかおれまで泣きたくなってきた。


1日が経った。
でもおれはずっとうずくまっていた。ナツの部屋の前で。
1歩たりとも動かなかった。動く気になれなかった。
だから当然、ナツの部屋にも入らなかった。
あれだけ楽しみにしていたナツとの会話ですら、今では自ら放棄していた。
ナツはおれを待っているだろうか。そう思うと、ひどく胸が痛んだ。
それでもおれは、ナツと顔を合わせられないでいた。
きっかけは昨日だ。だけど考えちゃいけない。
それにこれは、あくまできっかけ。根本的な理由は他にある。これは実に簡単だ。
おれが弱いから。おれが情けないから。おれが不甲斐ないから。
これがすべてだ。だからおれは、いつまで経ってもここでうずくまっているのだ。



驚くほどにあっという間だった。
またひとつ、『夏』が過ぎてしまった。
おれたちに残された夏は、ついに最後となった。
「……………………」
それでも。
それでもおれは、まだ動けない。
最後の夏だというのに、ナツと顔を合わせる気になれない。
どうかしている。
本当におれは、どうかしている。

時は流れていく。
偽りの時が、無情にも流れていく。
どんどん日が過ぎていく。
世界の終末がもう、すぐそこまで来ている。
「く……っ」
目が覚める度に襲ってくる、まがいものの幸福感。夢幻病の症状。
もう嫌だ。こんなにも辛いのに、安らぎなんて欲しくない。
あと何日だろう。
あと何日で、世界は終わるのだろう。

夢幻病の症状がなくなった。同時に直感した。
世界が、終わる。
「……………………」
おれはいつまで、自分のことを必死に守っているのだろう。
あんなにもナツは優しいのに。
あんなにもナツは温かいのに。
いったいおれは、いつまで彼女に甘えるのだろう。
いったいおれは、いつまで彼女を苦しめるのだろう。
世界が終わろうとしている。
おれもナツも、余すことなく滅ぼうとしている。
もう、時間がない。
『最後』というのは、始まったときにはすごく遠くに感じる。
しかしながら、訪れてしまえば本当にあっけない。
受け入れるしかないのだ。
おれはもう、大丈夫だから。
「ナツ!」
久しぶりに、ナツの部屋に踏み込んだ。


ナツはおれを咎めなかった。
ずっと放っていたおれを、ただ笑って、迎え入れてくれた。
「ありがとう、来てくれて」
その声は最後に聞いたものよりも、ずっとずっと弱々しくて。
おれは込み上げてくる感情をぐっと抑えて、努めて優しい口調で訊ねた。
「ナツ、あれから夢は視たか?」
「…………」
ナツは答えなかった。でも、それは大した問題じゃない。
おれは言葉を続けた。
「おれは視たぞ。例の男の子の夢だ」
「え……?」
本当はもう、ずっとわかっていたことだった。
本当はもう、ずっと前に気づいていたことだった。
「その男の子な、山で女の子と別れて以降、19歳までずっと独りで旅してたんだよ」
「…………」
「やがて食い物が尽きて、水だけで2ヶ月近く生きてきたけど、ついに動けなくなった」
ナツは何も言わない。
ただじっと、眠そうに緩んだ瞳をおれに向けている。
「そのまま男の子は死んだと思った。でも、とある塔の中で目を覚ましたんだ。まだ生きていた。そこで例の女の子と、2度目の再会を果たすんだ。……けれど男の子は、夢幻病を発症していた」
そう、発症していた。
していた、のだ。
塔に来てから発症したわけじゃない。
「ショウ……」
ナツは泣きそうな顔をしていた。
いやもしかしたら、まだ涙を流していないだけで、既に泣いているのかもしれない。
今ならわかる。
ナツがどうして、そんな顔をしているのか。
「男の子は最初から夢幻病を発症していたんだ。生まれたときからもう、夢幻病に冒されていた」
そうすると、新たな謎が生まれてしまう。
夢幻病は絶望したら発症するもの。生まれ持つような病じゃない。
だけど、おれにはわかっている。ただ、今はそれについて話す必要はない。
だってナツにとっては、そんなものをわかりきっていることのはずだから。
「だからさ、その男の子は忘れているんだ。夢幻病は夢の内容を忘れる」
おれは、頬が濡れるのを感じながら、言葉を継いだ。
「だから、久しぶりに女の子を見ても……過去に会ったことのある女の子を覚えていなかったんだ」
あまりにも情けない。
気づこうと思えば気づけたはずなのに。
その男の子は、迫り来る世界の終わりに、延いては女の子との別れに怯えるあまり、気づかないようにしていたのだ。
不格好過ぎて、涙が止まらない。
「さらにみっともないことにな、そんな不甲斐なさ過ぎる男の子は、女の子に気を遣わせてしまったんだ。あなたは悪くない、わたしが悪いんだ、と」
「もういいよ……」
「そこまでしてもらって、やっと男の子は真実と向き合うようになったんだ。気づこうとし始めたんだ。それまで逃げ続けていたくせにな」
「もういいってば」
弱々しく、けれど力の込められた声音。
ナツは悲しそうに笑って、もういいよ、とゆっくり首を振る。
「その男の子のこと、そんなに悪く言わないであげて。その子もきっと、すごく反省してると思うから。女の子にだってちゃんと伝わってるよ」
そんな優しい言葉に、おれは泣き崩れそうになる。
許されるのならば、泣き喚きたかった。大声で泣き叫んで、いっそのこと爆発させたかった。
けれど、そんな時間はない。
ナツもそれがわかっているから、必死に泣くのを堪えているのだ。
だからこそおれは、それに応えなきゃいけない。
こんなところで泣いてる場合じゃないんだ。
「でさ、男の子は気づくんだ」
そう、泣いてる場合じゃない。
たかがこんなことで、泣いてなんかいられない。
「その子が歩んできた人生そのものが、『夢』だということに」
そう言うと、ナツは優しく微笑んだ。
気づけたんだね、と微笑んでくれた。
「ショウ」
呼ばれて、おれは目元を腕で拭った。
ナツに視線を向ける。眠そうに緩んで、そして潤んでいる瞳を見据える。
「これが『夢』というのはどういうことか、ちゃんとわかってるんだよね」
おれは頷く。
「この世界も、女の子も……そして男の子自身も、幻だということだ」
ナツが笑う。
悲しそうに、笑う。
「じゃあ、これにも気づいてるよね」
ナツはそう前置きして、静かに言葉を紡いだ。
「その男の子は、正確に言えば男の子じゃない。あ、『実は女の子』って意味じゃないからね」
わかってるよ、とおれは苦笑する。
「男の子は、男の子じゃない」
そうだ。
そうなのだ。
おれは、ショウじゃない。
ショウじゃないんだ。
おれは……

『おれ』は――

「それから、男の子は秋や冬も……四季を渡り歩いてきたように思い込んでるけど、それは『あなた』の記憶。男の子自身は、夏しか繰り返してない」
付け加えてくるナツ。
おれは頷くことで認めた。
「『あなた』はショウを媒体にして、19年間この世界を生きてきた。だから9歳の頃から、考え方や言動が妙に大人っぽかった」
「その通りだ」
……だけど。
そうすると、こんな疑問だって出てくる。
おれは意地が悪いと自覚しつつも問いかけてみた。
「じゃあさ、女の子の正体はなんだろうな。男の子が生み出した幻でしかないのに、この世界の真意を知っているなんて」
ナツは笑う。クスクスといたずらっぽく。
「さぁ、なんでだろうね」
とぼけやがった。
お互いに笑う。幸福で身を包み込ませながら、笑い合う。
……だけど、さすがに心の底から笑うことはできなかった。
「そういやさ、男の子のおかあさんが亡くなったとき、『世界の中核を壊しなさい』みたいなこと言ってただろ? ナツは話してくれなかったけどさ」
「あ、ばれちゃった?」
無邪気に相好を崩すナツに「ばればれだ」と言ってやった。
「あれはさ、たぶんだけど、男の子の密かな願望のようなものだったんだろうな。いつまでも夢に浸っていちゃダメだと、心の奥底ではそんな想いを秘めていたんだ」
ナツの表情が曇る。無邪気な笑みに、悲しみが帯びる。
「つまり、夢から覚めるための、唯一の鍵を用意していたんだ」
もし、夢から覚めずに世界の消失を迎えれば、きっと……。
「それじゃあ、その鍵……ううん、『世界の中核』はもう見つけたんだ?」
頷く。
ずっと探し続けていたもの。ショウではなく、『おれ』の探し物。
「見つけたよ」
やっと、見つけた。
そして理解もした。
それが、何を意味するかを。
そこでナツが、不意に満面の笑みを浮かべた。
明らかに作り物だとわかる、下手くそな笑顔。
「じゃあさ、早く壊しなよ……」

「『世界の中核』である――わたしを、さ」

そんなナツを見て、
「ナツ……」
また、涙が溢れてきた。
できるはずがない。

たとえこれで世界が再生されるのだとしても。
ナツのいない世界なんか嫌だ。
ナツのいない世界なんか、嫌だ。
そんな世界を選ぶくらいなら、おれは――。

「ナツっ」

仰向けになっていたナツの上体を起こして。
そのまま、おもむろに抱きしめた。
「泣かないで……」
ナツがおれの背に腕を伸ばす。
「泣かないでよ……」
耳元で綴られる涙声が、一層おれを悲しくさせた。
抱きしめる。
強く、強く抱きしめる。
愛おしかった。
ナツのことが、たまらなく愛おしかった。
ずっと一緒にいたい。
離れたくなんかない。
ふたりで、ふたりだけの永遠の夏を過ごしていたかった。
そして今更ながらに、今までナツに会いに来なかったことを猛烈に後悔する。
もっと早く真実と向き合ってさえいれば。
もっと自分が強ければ。
本当なら、ナツとの時間を長く過ごせたはずなのに。
おれが弱かったから。
おれが臆病だったから。
おれが、あまりにも情けなかったから……!
「っ」
意識が揺らいだ気がした。
おれは直感する。

もう、『夏』が終わる――

嫌だ。
終わって欲しくない。
覚悟はできていたはずなのに。
もう、背を向けるつもりはなかったのに。
「忘れたく、ない……!」
この世界は夢だ。
そして『おれ』は、『現実』でも夢幻病に冒されている。
夢幻病の発症者は、見た夢を……
「ねぇ」
不意にナツに呼ばれる。
「ごめんね、夢幻病なんて作り出しちゃって」
「…………」
「ごめんね。いくらここが嘘の世界でも、夢幻病さえなければもっと――」
「言うな」
わかっている。
でも、ナツが謝るのは筋違いだ。
「元々の諸悪の根元は戦争だ。あれさえなければ……」
人類にさえ手に負えないような核兵器を、プライドだの威信だのくだらないものを大儀に掲げたせいで、大地は取り返しのつかない傷を負った。
その傷を元に戻そうとして、『中核』は深い眠りについた。
だけど、『中核』が眠りについたために、世界に綻びが生じた。
現実と夢を分かつための境界が曖昧になってしまった。
これが夢幻病の正体。
そして夢幻病は、『夢』であるこの世界にもしっかりと受け継がれていた。
けれど、世界はもうダメだった。
ナツがどれだけ眠ろうと、もはや再生できる域をとうに越えていた。
それをナツは、勝手に責任を感じている。
確かにここではナツが『中核』だけど、ナツが謝るのは筋違いだ。
「ごめんね……ごめんねぇ……!」
それでもナツは謝る。
何も悪くないのに。
ナツは何も悪くないのに。
「わたしさえなんとかしていれば、『あなた』はずっとここにいられたのに……!」
いったいこいつは、どれだけ自分を卑下すれば気が済むのだろう。
そんなことを言われて、黙っていられるわけがなかった。
ナツから身を離す。
ナツの顔を、改めて見つめる。
泣いていた。
幾筋もの涙が頬を伝った跡があった。
――得体の知れない衝動が、おれの脳内を駆け巡った。
「ナツ」
おれはそう呼びかけながら、
「な――っ!?」

応えようとしたナツの唇に、自分の唇を重ねた。

おれは目を閉じる。
恥ずかしいからだとか、マナーだとか、そういうつもりじゃない。
少しでも多く、ナツのことを感じていたかった。
少しでも多く、おれのことを感じてもらいたかった。
ナツはどんな表情をしているのだろう。
怯えていないだろうか。
嫌がっていないだろうか。
でも、そんな不安はすぐに消える。
ナツの方からも唇を押しつけてきてくれた。
おれも応える。
強く、強く応える。
互いの存在を確認するように。
おれもナツも、確かにここにいることを証明するように。
そして、互いの想いを吹き込むように。

……………………永遠を、見つけた気がした。

永遠が何かを、悟ったような気がした。
それはひとつの事柄が、終わることなく一生続いていくものではなくて。
誰かの想いだとか、誰かと過ごした記憶だとか……そういった形のない思い出のようなものを、自分の体に取り込むということ。
思い出は忘れもするし、徐々に薄れていくかもしれない。
思い出そうとしても、なかなか思い浮かんでこないかもしれない。
だけど、絶対に消えない。
たとえ思い出せなくても、心のどこかには残っていて。
それがその人の一部となって、共に生きていくんだ。
――それが、『永遠』ではないのだろうか。
だから。
だから……
「っ」
また意識が揺らいだ。
さっきのものの比じゃない。
本当に、もう終わる。
世界が、人類が、終わりを迎える。
強く抱きしめる。
離さないように。
忘れないように。
大丈夫、おれは『永遠』を見つけたのだから。
だから、もう、大丈夫。

あぁ、長かった『夏』が終わる。
未練がない、と言えば嘘になる。
でも、おれは大丈夫だから。
きっと大丈夫だから。
ただ……
戦争であちこちに穴が空いて、夢幻病が蔓延して、人類が滅んでいく世界。
世界のことが憎かった。大嫌いだった。
それは戦争を引き起こした愚かな人類への怒りでもあり、こんな運命を強いた、存在するかもわからない神への怒りでもあるように思えた。
これらのせいで、おれとナツは離れ離れになってしまうのに。
これらのせいで、おれとナツは辛い思いをしなければいけないのに。
……それなのに。
まさに終わりを迎えようとしている、この瞬間にきて。
おれは気がついてしまった。
なんだかんだ言っても、やっぱりおれは、この世界を愛していた。
何度もおれの好きな『夏』を繰り返して。
こうして最後に、愛するナツと終わりを迎えることができて。
戦争で傷ついて、夢幻病が発生して、人類が滅びようとも。

おれは、この世界のことを、愛していた。



そうして、最後の『夏』が、終わった――
 
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